近江八幡市 – Wikipedia

近江八幡市(おうみはちまんし)は、滋賀県中部、琵琶湖東岸(湖東)に位置する市。近江商人や安土城で知られる。 近江八幡市は、豊臣秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展した。いわゆる近江商人の発祥の地である。 近世の風情がよく残る新町通り、永原町通り、八幡堀沿いの町並みおよび日牟禮八幡宮境内地は「近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、時代劇の撮影場所としてもよく使われる。ウィリアム・メレル・ヴォーリズが住み、多くの近代建築作品を遺した地としても知られている。 2005年9月1日には水郷地域160ヘクタールが景観法に基づく「景観計画区域」に指定された。これは同法の適用第1号である。さらに2006年1月26日には「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定された。 地名の由来[編集] 「近江八幡」を冠する神社があるとしばしば誤解を受けるが、地名のもととなった神社名は「日牟禮八幡宮」である。 市名に旧国名の「近江」を冠しているのは、市制施行時に福岡県八幡市(やはたし)が存在したためである。しかし福岡県八幡市は1963年に合併し、北九州市の一部となり消滅した。その後、1977年に京都府八幡市(やわたし)が誕生したが、この時点では既に福岡県八幡市は消滅していたため、同名回避は行われなかった。このため、先に市制を敷いた側が冠称を付けるというねじれ現象が生じた。また近江八幡駅は市制施行前の1919年に八幡駅から近江八幡駅に改称しているが、これも福岡県の八幡駅との同名回避によるものである。 沖島(定期航空機より) 連絡船より見る沖島 位置[編集] 近江八幡市は滋賀県の中央部、琵琶湖東岸に位置する。市域は全般に平坦地で、鈴鹿山系に源を発する諸河川により形成された湖東平野の一角をしめる。 地形[編集] 山地[編集] 小高い山が平野に浮かぶように点在する。 主な山 雪野山 瓶割山 八幡山(鶴翼山) 岡山 長命寺山

Continue reading

大政委任論 – Wikipedia

大政委任論(たいせいいにんろん)は、江戸幕府が国内支配の正当化のために主張した理論で、将軍は天皇より大政(国政)を委任されてその職任として日本国を統治している、とするものである。 江戸時代初期の禁中並公家諸法度(第1条)よりその萌芽は見られるとする橋本政宣の説[1]もあるが、それを理論化したのは14歳で将軍に就いた徳川家斉を補佐する老中・松平定信であったとされている。定信は天明8年(1788年)8月、家斉に対して「御心得之箇条」(『有所不為斎雑録』第三集所収)の中で「六十余州は禁廷より御預り」したものであるから「将軍と被為成天下を御治被遊候は、御職分に御座候」と説き、若い将軍に武家の棟梁としての自覚を促すとともに、将軍は朝廷から預かった日本六十余州を統治することがその職任であり、その職任を果たすことが朝廷に対する最大の崇敬であるとした。 定信は、当時台頭しつつあった尊王論を牽制するために、天皇(朝廷)自身が大政を将軍(幕府)に委任したものであるから、一度委任した以上は天皇といえども将軍の職任である大政には口出しすることは許されないという姿勢を示したものであり、さらに武家も公家も同じ天皇の国家である日本に住む「王臣」であるという論法から、将軍すなわち幕府は武家や庶民に対する処分と同様に公家に対しても処分の権限を持つと唱え、尊号一件に際して公家の処罰を強行した。 もっとも、「大政委任」の考えは定信のような要人や学者の間で唱えられることはあっても、江戸幕府として正式に認めたものではなかった。公式の朝幕関係の場でこの大政委任論が確認されたのは、文久3年(1863年)3月7日に京都御所に参内した将軍・徳川家茂が孝明天皇に対して、直接政務委任の勅命への謝辞を述べた時であったとされている。ただし、孝明天皇は家茂の義兄で、かつ江戸幕府との関係を重視する立場(佐幕主義)であったため、この時点では直ちに影響を与えるものは無かった[2]。 しかし裏を返せば、幕府の権限は全て本来は天皇が有していたものであり、幕府はそれを委任されたものに過ぎないという論理も成立してしまい、天皇が幕府の上位に立つものと解する余地を与えることになった。さらに、本来朝廷が担っていた国家統治に対する責任を幕府が全面的に引き受けることを意味することになり、19世紀に入って国内における経済・社会問題や外国船の来航など内外の問題が深刻化すると、幕府がその政治的責任を問われることとなった。 やがて、黒船来航以後に深刻化した国内の混乱を収拾しきれなくなった末、将軍徳川慶喜による大政委任の返上、すなわち大政奉還の宣言によって幕府政治は終焉に向かうこととなった。 ^ 橋本政宣「禁中并公家中諸法度の性格」『近世公家社会の研究』(吉川弘文館、2002年) ISBN 4-642-03378-5 P590-594 ^ 山口和夫「近世の朝廷・幕府体制と天皇・院・摂家」(初出:大津透 編『史学会シンポジウム叢書 王権を考える-前近代日本の天皇と権力-』(山川出版社、2006年)/所収:山口『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-03480-7) 2017年、P264・272 関連項目[編集]

Continue reading

フランネル – Wikipedia

フランネルで出来たシャツ。通称「ネルシャツ」。 フランネル(小絨[1]、細絨[2]、英: flannel)は、柔らかく軽い毛織物のこと。略してネルともいう。衣類、シーツと寝巻きに一般的に用いられる。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に織る平織りや2-3本おきに交互に織られる綾織りがある。無地だけでなく、様々な模様が施される[3]。フランネルは当初カーディングが施されたウールまたはウーステッド糸から作られたが、現在ではウールと綿、ウールと合成繊維から作られることもある。イギリスのフランネルは平織りで毛羽が軽く、一方ドイツでは綾織りで毛羽が多い。柔軟で弾力性・保温性に優れスーツ、シャツなどに用いられる[4]。 フラノ(flannelを耳で聞いた発音からの派生語)はフランネルの一種で厚手でしっかりとした生地である。フラノは毛羽が施されておりスーツ、スカート、ズボンなどのアウター用素材として用いられる。一見するとフェルトのような風合いがあり、軽くかつ保温性に優れるので冬に多用される。「フラノブーツ」としてブーツの素材に使われることもある。柄は霜降り、縞模様の織り柄が主に使われるが、無地や織り柄のような模様を後染めすることもある。無地のフラノを指して「色フラノ」と呼んだりする[5]。またフランネルの略称として用いられることもある[4]。 フランネレット[編集] フランネレット(Flannelette、後述のコットン・フランネルと同様に「綿ネル」の訳語が充てられる)は毛羽だった綿がフランネルの風合いに似た薄くて軽量な平織物である。一般に緯糸は経糸より荒い。フランネルのような風合いは、緯糸を毛羽立たせることで作られる。フランネレットは毛羽が長いもの、短いものの両方あり片側、両側どちらも毛羽立たされる。色は無地または模様がつけられる[6]。 フランネレットという用語は1880年代前半に使われ始めたようである。1900年代には、それが下着、ナイトウェア、ドレス、ガウンとシャツのようなものの非常に広範囲に使われ、そして現在も使われ続けている。極めて廉価で、何度洗濯しても縮まらず、その経済性故にイギリスではフランネレットは20世紀前半、主に下級階層に用いられた。しかし、その薄っぺらな生地は非常に火が燃え移りやすく、そのためフランネレットの流行に伴い多数の焼死者を出した[7]。その後フランネレットは1912年、ウィリアム・ヘンリー・パーキンによって酸化スズを用いた製法で耐炎性を持つよう改良され、”Non-flam”(偽りのない)という名称で特許を取得した[8][9]。現在、フランネレットはヨーロッパとアメリカ合衆国で生産される。 北アメリカではフランネレットのことをフランネルと呼んでいて、そこではフランネレットという用語は使われない。しかしイギリス国内ではフランネルの名でフランネレットを売ることは違法である。 ウィンシエット(Winceyette)は両面が毛羽立った軽量の綿織物である[10]。名前は一般的な英単語で、両面に毛羽のある織物を意味する”wincey”からである[10]。スコットランドの用語ではリンジー・ウールジー(linsey-woolsey)がそれにあたる。 コットン・フランネル[編集] コットン・フランネル(Cotton flannelまたはCanton flannel)は綿ネルとも呼ばれ、片面だけ毛羽立ちされた丈夫な綿の織物である。 日本には「紀州ネル」と通称された綿ネルがあった[11]。明治初期に洋式軍制を取り入れた紀州藩は、軍装品の必要から、軍服の下着用としてフランネルを真似た綿ネルの製造を始めた[12]。同藩では以前から、弱く撚った太い綿糸である紋羽糸で紡織して、起毛加工して道中着、股引、胴着、頭巾、襟巻、足袋、帯芯などに用いる「紋羽(もんぱ)」と呼ばれる木綿織物が紀州特産として、当時の防寒用繊維素材として生産されており、この在来技術を改良して「毛出し木綿」とよばれる綿ネルを考案、和歌山県の殖産興業品として生産された[12]。丈夫で軽く保温性があることから「紀州ネル」と呼ばれ全国に知られたが、その後衰退し、現在ではほとんど作られていない[12]。明治19年には、伊予木綿で知られた愛媛の主力企業「興業舎」の矢野七三郎が和歌山で紀州ネルの技術を学び、今治市で「伊予ネル」の製造を始めた[13]。 フランネル、フランネレット、コットン・フランネルはいずれも綾織り、平織りの両方で織ることができる。織り目は片面あるいは両面が毛羽立っていることから毛羽によってしばしば覆い隠される。織りの後、フランネルは一度毛羽立たされる。その後漂白されて染められるか、適切な処置が施されて、そして二度目の毛羽立ち作業が行われる。 フランネルという語の起源ははっきりしない。しかし、フランネルに類似した織物が中世のウェールズまで遡ることができるために、ウェールズ起源説が提唱された。それは16世紀という早い時期に既に広く知られていた。”flanelle“という言葉が17世紀後半にフランスで用いられた。そしてドイツでは”Flanell“が18世紀前半に使われた[14]。 フランネルそのものは17世紀から作り始められた。そして、徐々にウェールズの旧い平織物から取って代わっていった。そしてその一部は綿織物、またはフリースとなった。それらはウェールズ地方特有の織物製品となった。19世紀にはフランネルはモンゴメリーシアカウンティ(現ポーイス)のニュータウン[15]、ヘイ・オン・ワイ[16] 、スラニドロース[17]、特にこういった町で作られることが多かった。その生産の拡大はカーディング工場の広がりと密接に関係している。これらのウェールズの毛織りの布地のマーケティングは、主にシュローズベリーの服地商人によって支配された[18]。 当初フランネルは純粋な短繊維のウールでできていたが、20世紀に入り絹や綿との混合素材が普通に見られるようになった[14]。 大衆文化としてのフランネル[編集]

Continue reading

ジンスハイム自動車・技術博物館 – Wikipedia

ジンスハイム自動車・技術博物館(英:Sinsheim Auto & Technik Museum, 独:Auto- und Technikmuseum Sinsheim)は、ドイツ連邦共和国のバーデン=ヴュルテンベルク州、ジンスハイム市にある技術博物館[1]。日本語では”ジンスハイム自動車・技術博物館”の他、”ジンスハイム自動車技術博物館“、”ジンスハイム交通技術博物館“などの表記も見られる。 ジンスハイム自動車・技術博物館は1981年に開設された技術博物館(交通博物館)で、「ジンスハイム自動車・技術博物館協会」によって運営されている。1991年には分館としてシュパイアー技術博物館がラインラント=プファルツ州のシュパイアー市に開設された。 2004年の時点で約3000点の展示品を所蔵し、屋内・屋外合わせて50,000m2の展示スペースを有する。自動車技術博物館という名称ではあるが航空機や戦車、装甲戦闘車両のコレクションも充実している。超音速旅客機として知られるコンコルド、ソ連版コンコルド(コンコルドスキー)と呼ばれたツポレフ Tu-144が2機並んで地上数10メートルの高さに展示されており、中に入って見学することが可能で、来場者に人気を博している。また、IMAX3Dシアターが併設されている。入場者数は年間約100万人以上で、ヨーロッパで最も大きな私有博物館の一つである[2]。 また、基本的に年中無休である[2]。 展示内容[編集] この節の加筆が望まれています。 ウォークイン・エキシビション[編集] コンコルドは2003年にエールフランス社から寄贈されたもので、2001年から展示されているツポレフ Tu-144と並んで展示されている[3]。この2機が一緒に展示されているのは世界でもジンスハイム自動車技術博物館のみである。いずれの機体も中に入って見学出来る。 この他、内部を見学できる航空機としては、ユンカース Ju-52、カナディア

Continue reading

ロマン・フェイユ – Wikipedia

ロマン・フェイユRomain Feillu 個人情報 本名 Romain Feilluロマン・フェイユ(ロメン・フェイユ) 生年月日 (1984-04-16) 1984年4月16日(37歳) 国籍 フランス 身長 173cm 体重 62kg チーム情報 所属 ヴァカンソレイユ・DCM 分野 ロードレース

Continue reading

怪人スワンプ・シング 影のヒーロー – Wikipedia

『怪人スワンプ・シング/影のヒーロー』(かいじんスワンプ・シング かげのヒーロー、Swamp Thing)は、1982年のホラー映画。配給はインディペンデント映画会社のエンバシー・ピクチャーズ(英語版)。監督・脚本はウェス・クレイヴン。一人の科学者が実験中の事故で怪人スワンプシングと化す物語である。 DCコミックスからリリースされたコミックス『スワンプシング』(作:レン・ヴァイン(英語版)とバーニー・ライトソン(英語版)の実写版である。 あらすじ[編集] ルイジアナの沼地にて、アレック・ホランド博士は植物と動物の融合についての研究で成功していたが、ライバルであるアントン・アルケイン博士率いる準軍事組織に研究所を襲われて肉親のリンダを殺され、アレック自身も瀕死の重傷を負った。だが、アレックは火だるまになる前に研究していた血清を浴びて生き延びており、アリスを守るためにもスワンプシングとしてアーケインに立ち向かっていく。 キャスト[編集] 撮影はサウスカロライナ州 チャールストンと、同州ジョンズ・アイランド(英語版)を中心に行われた。 評論家のジョン・ケネス・ミュア(英語版)は、この映画には他のクレイヴンの作品とは異なる点が多々あるとした。 この作品でクレイヴンは、自分もアクションやスタントやスター俳優を扱って映画を作ることができることを大手ハリウッドスタジオに対して示そうとして[2]、家族と社会の問題に焦点を当ててきた作風を抑えて純粋なエンタテインメントを作ろうとした[3] 。 それでもなお、『鮮血の美学』(1972年)や『サランドラ』(1977年)などでキャラクターたちと風景に深い関連性を持たせたように、この映画からもクレイヴンが毎回用いるテーマとイメージが表れているとも評した[4]。 アメリカでのDVD発売時のトラブル[編集] 2000年8月にアメリカ合衆国でメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(以下、MGM)がこの映画のDVDをリリースした。その際、MGMはDVDにアメリカの劇場公開版(91分)ではなく、PG指定では不適切なヌードシーンが含まれたインターナショナル版(93分)を誤って収録してしまった。2002年5月、ダラス在住の女性がレンタルビデオ店ブロックバスターでこのDVDを借り、子供と一緒に見てしまったことが報じられた[5]。MGMはリコールに踏み切り、2005年8月に劇場公開版を収録したDVDをリリースした[6]。 外部リンク[編集]

Continue reading

ゴードン・コンウェル神学校 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ゴードン・コンウェル神学校” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年3月) ゴードン・コンウェル神学校(ゴードン・コンウェルしんがっこう、英語: Gordon-Conwell Theological Seminary)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ハミルトンにある超教派の神学校[1]。ノースカロライナ州のシャーロットにも分校がある。 目次 1 歴史 2 学長 3 卒業生

Continue reading

ジョルゲ・イヴァノフ – Wikipedia

北マケドニアの政治家 ジョルゲ・イヴァノフ Ѓорге Иванов ジョルゲ・イヴァノフ 生年月日 (1960-05-02) 1960年5月2日(61歳) 出生地 北マケドニア ヴァレンドヴォ 出身校 スコピエ大学 所属政党 無所属 配偶者 マーヤ・イヴァノヴァ 第4代マケドニア共和国大統領 在任期間 2009年5月12日

Continue reading

ホーム・オン・ザ・レンジ にぎやか農場を救え! – Wikipedia

『ホーム・オン・ザ・レンジ にぎやか農場を救え!』(にぎやかのうじょうをすくえ!、原題:Home on the Range)は、ディズニー映画長編アニメーション第44作である。アメリカでは2004年4月2日に公開。日本は劇場未公開で、後にDVDが発売された。アメリカ本国では、ディズニー長編アニメーション映画としては、最後のVHS版発売作品となった。 ストーリー[編集] 登場キャラクター[編集] マギー 茶色の雌牛。がさつで毒舌ながら、仲間を放っておけない性格。 ミセス・キャロウェイ 黒い雌牛。楽園農場のリーダー。 グレイス 黄色の雌牛。マイペース。 バック カンフーの腕を持つ馬。お調子者でマギー達をからかうが、のちに仲間として受け入れる。 アラメダ・スリム 本作のディズニー・ヴィランズ。牛泥棒。かつては農場の雇い主だったが、他の雇い主達に自分の才能を認められなかった。 ウィリーズ スリムの甥っ子達。陽気で毒舌な性格で、よく叔父に怒られてを焼かせている。 ラッキー・ジャック

Continue reading

イード・アル=アドハー – Wikipedia

中国でイード・アル=アドハー イード・アル=アドハー(アラビア語: عيد الأضحى‎ ʿīd al-ʾaḍḥā、Eid ul-Adha)はイスラム教で定められた宗教的な祝日。イブラーヒーム(アブラハム)が進んで息子のイスマーイール(イシュマエル)をアッラーフへの犠牲として捧げようとした事[1]を世界的に記念する日。ムスリムの巡礼月の10日に行われるイード(祝祭)である、イード・アル=フィトルと同様に、イード・アル=アドハーは短い説教をともなう祈祷(フトゥバ)から始まる。イード・アル=フィトルより長期間にわたるため、大イードなどとも呼ばれる。また、日本では犠牲祭と意訳される。 イード・アル=アドハーはヒジュラ暦の12月10日から4日間にわたって行なわれる。この日は世界中のムスリムによるサウジアラビアのメッカへの毎年恒例の巡礼においてアラファト山を降りる日の翌日にあたり、すなわちハッジの最終日である。また、巡礼に参加しているムスリムはもちろん、巡礼に参加していないムスリムも経済的能力があれば動物を(羊の場合は1人分、ラクダおよび牛の場合は最大7人まで)贄として捧げ、この日を祝う。 イード・アル=アドハーは、イスラム世界で広く使われる別名も持っている。以下に例を挙げる。 イード・アル・アドハーに由来する語 クルバン(アラビア語でقربان Qurbān=犠牲)に由来する語 その他の地域 タバスキ・・・セネガル、ニジェール、モロッコ、ベナンなど西・中央アフリカ諸国。 イード・アル・カビール(アラビア語:عيد الكبير `Īd al-Kabīr大祭) アラブ文化圏・・・イエメン、シリア、北アフリカ諸国、マグレブ フランス語・・・マグレブからの移民の影響。

Continue reading