本田親済 – Wikipedia
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本田 親済(親濟、ほんだ ちかなり、1864年7月13日(元治元年6月10日[1])- 1922年(大正11年)1月14日[1][2])は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。幼名・大吉[1][3]。
薩摩藩士・本田親雄の二男として生まれる[1][3][4][5]。1898年(明治31年)12月、親済と改名[3][4][5]。父の死去に伴い、1909年(明治42年)3月25日、男爵を襲爵した[1][3][4][5][6]。
札幌農学校、帝国大学法科大学を修了[2][5]。イギリスに留学して、1890年(明治23年)英国ニューポート大学を卒業[2]。
帰国後、食塩 (株) 社員、駅逓 (株) 社員、芝銀行取締役、鴻池銀行東京支店副長、宮内省式部官、逓信大臣秘書官代理などを務めた[2]。
1911年(明治44年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され[7][8]、公正会に所属して活動し死去するまで2期在任した[2][9]。
- 母 – 梅子(川井田藤助二女)[1]
- 先妻 – フク(川井田源太郎長女)[1]
- 後妻 – 伊万子(本田あふひ、坊城俊政六女)[1]
- 長男 – 不二麿(男爵)[1]
- 長女 – 小松(鳥居忠博夫人、離縁)[1]
- ^ a b c d e f g h i j 『平成新修旧華族家系大成 下巻』508頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 – 貴族院・参議院議員名鑑』83-84頁。
- ^ a b c d 『大日本華族大鑑』追加之部10頁。
- ^ a b c 『人事興信録 第6版』ほ30-31頁。
- ^ a b c d 『華族畫報 下』644頁。
- ^ 『官報』第7722号、明治42年3月26日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、21頁。
- ^ 『官報』第8423号、明治44年7月20日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、30頁。
参考文献[編集]
- 筒井住蓮編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 – 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 下巻』社団法人霞会館、1996年。
- 杉謙二編『華族畫報 下』吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。
日本の爵位 | ||
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先代: 本田親雄 |
男爵 本田(親雄)家第2代 1909年 – 1922年 |
次代: 本田不二麿 |
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