Month: March 2022

源内峠 – Wikipedia

源内峠(げんないとうげ)は滋賀県大津市に位置する峠である。 大津市上田上芝原町と同市瀬田南大萱町を結ぶ峠であり、標高は170 m(メートル)[1]。峠付近に製鉄所の遺構が発見されている。舗装がされていない峠で、現在では通行する人もほとんどいなくなったが、昭和初期までは地元の農業従事者が農作物や木材を担ぎながら通行したとされる[2]。地元住民らで組織される「源内峠遺跡復元委員会」によって、倒木や雑草の除去、道標の設置が行われている[2]。 源内峠遺跡[編集] 源内峠遺跡に復元された溶鉱炉 源内峠遺跡とは1977年(昭和52年)に発掘された白鳳期の製鉄炉の遺構である[1]。この遺跡は地元の小学生が地表の鉄滓を見つけたことをきっかけに発掘された[3]。4度の調査を経て、2001年(平成13年)に発掘調査報告書が取りまとめられている[3]。また、2006年(平成18年)には瀬田丘陵生産遺産群として国史跡に登録された[3]。 発掘調査では7世紀後半頃と推定される4基の製鉄炉が発見された[3]。いずれも長さ2.5 m、幅30 cm(センチメートル)前後、高さは1 mあまり[4]。25-50年間、継続的に稼働してきたのと推定される[4]。当時の製鉄炉としては国内最大規模である[3]。また、残っている鉄滓の量からも操業規模も大規模であったとみられる[3]。このことから、この製鉄炉は宮都の造営を支えてきたと評価される[4]。「源内峠遺跡復元委員会」によって2007年(平成19年)に復元されている[4]。 なお、源内峠遺跡から北東に約2.5 km(キロメートル)にある立命館大学びわこ・くさつキャンパスには同じく製鉄所の遺構である木瓜原(ぼけはら)遺跡がある[4]。 ^ a b 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 (1979-04-08). 角川日本地名大辞典 25滋賀県. 角川書店. p. 304 

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フェラーリ・モデューロ – Wikipedia

フェラーリ PF 512 S モデューロ(Ferrari Modulo)は1970年に発表されたフェラーリのコンセプトカー。デザインはピニンファリーナが担当し、実際のデザインは当時ピニンファリーナにチーフスタイリストとして在籍していたパオロ・マルティンが行った。「モデューロ」は宇宙船のパーツの意味の「モジュール」(module)のイタリア語。 1970年3月のジュネーヴ・モーターショーで発表された。 発表時は現在のカラーリングとは逆の黒をメインカラーに塗装されていたが、日本万国博覧会での公開までに白を基調としたカラーリングに変更された。 同時期にフェラーリのレース部門であるスクーデリア・フェラーリがカナディアン-アメリカン・チャレンジカップに参戦するために製作したフェラーリ・612をベースに、ピニンファリーナが手がけたクーペボディを搭載している。 最大の特徴はルーフがドアとして機能するキャノピースタイルを採用した点で、ドアは前方にスライドして開閉するという、未来的デザインとなっている。またルーフ後方には24個の丸穴が開けられ、この下に5リットルV型12気筒エンジンを搭載する。前照灯は点灯時に起き上がる構造になっている。 ジュネーヴで発表された後に、日本に持ち込まれ、万博のイタリア館に展示された。この時、後にピニンファリーナのデザイナーとなる奥山清行も万博でモデューロを見学したという[1]。日本万国博覧会で公開された際の説明には「未来の自動車 ピニンファリーナ1970 フェラーリ・シャシ512S」となっていたため、当時の自動車誌等は512S(レース用のグループ4カー)と説明されているものがほとんどだったが、実際にはCan-Am用に製作されるはずだった612Pの未完成シャーシを使用している[注釈 1]。現在の情報ではシャーシNo.0864の車体番号が確認されている。1980年代にはパイオニアのカーオーディオ「カロッツェリア」の広告に登場し、実際に走行していたが、エンジンは掛かっておらず坂道の下りを利用して撮影されていた。その後は所有者であるピニンファリーナに戻され、本社にて長く展示されてきたが、2014年にオークションにかけられ、アメリカ合衆国の映画監督のジェームズ・グリッケンハウスが落札し自宅に持ち帰った。 ^ 当時のフェラーリは512Sのホモロゲーション取得のため1970年1月までに25台完成させなければならず、最新鋭の512Sをショーカーに回す余裕はなかった。 参考文献[編集]

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中村タイチ – Wikipedia

中村 タイチ 出生名 中村 太知 生誕 (1974-07-12) 1974年7月12日(47歳) 出身地 日本 福井県 ジャンル J-POP 職業 音楽プロデューサーギタリスト編曲家作曲家 担当楽器 ギターベース レーベル bluesofa Records

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阿南郵便局 – Wikipedia

この項目では、徳島県阿南市にある郵便局について説明しています。他の郵便局については「阿南郵便局 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 阿南郵便局(あなんゆうびんきょく)は徳島県阿南市富岡町にある郵便局。民営化前の分類では集配普通郵便局であった。 住所:〒774-8799 徳島県阿南市富岡町滝の下4-2 出張所(局外ATM)[編集] すべて民営化に伴い、ゆうちょ銀行松山支店に移管されている。 フジグラン阿南出張所 ウィルアオキ阿南出張所(のちに閉店に伴い廃止、フジグラン阿南出張所として再開) 阿南市役所内出張所(のちに市役所本庁舎建て替えに伴い廃止) 1874年(明治7年)12月16日 – 富岡郵便取扱所として開設[1]。 1875年(明治8年)1月1日 – 富岡郵便局(五等)となる。 1878年(明治11年) – 為替取扱を開始。 1880年(明治13年)

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ヨーラム・グローバス – Wikipedia

ヨーラム・グローバスYoram Globus 生年月日 (1941-09-04) 1941年9月4日(80歳) 出生地 イギリス委任統治領パレスチナ、ティベリア(現・ イスラエル、ティベリア) 国籍 イスラエル 職業 映画プロデューサー ジャンル 映画 活動期間 1966年 – 配偶者 エドナ・レフ 不詳

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ザムザム – Wikipedia

ザムザムの泉(アラビア語: زمزم‎ Zamzam)とは、サウジアラビアにある聖地マッカ(メッカ)のマスジド・ハラームにある泉である。 古くからマッカの貴重な水源であり、イスラム社会においては聖なる泉とされている。ザムザムの泉から湧き出る水はザムザムの水と呼ばれ、イスラム教における聖水のようなものとして扱われている。巡礼に来たムスリムはウムラ の儀式が終わるとザムザムの水を飲むのが通例とされている。この水は販売目的での国外への持ち出しはサウジアラビアの法律によって禁止されているが、巡礼者が個人的に持ち帰る分には自由であり、巡礼者の代表的な土産物になっている。マッカの周囲にはザムザムの水を売る店が多数ある。一部の航空会社ではザムザムの水の機内持込に関して荷物の重量制限から一部除外するなど特別な規定を設けているところがある。 泉の発見まで[編集] 泉の発見は、ハジャルが息子イスマーイールのために水を探し求めているとき、イスマーイールの元を訪れた天使が翼で地面を叩くと、その場所から水があふれ出た伝承に由来する[注 1]。 イスラームの預言者ムハンマドの時代より十数代前に、メッカの構成員であったジュルフム族とクライシュ族の祖のひとつキナーナ族等との間で争いが生じ、ジュルフム族はマッカから追放される時にカアバから黒石を持ち出し、ザムザムの泉も埋めてイェメンへ去ってしまったという。その後泉は塞がれて所在が分からなくなってしまったが、アッラーからの夢告を受けた預言者ムハンマドの祖父アブド・アル=ムッタリブによって泉が再発見されたという。以後泉はアブド・アル=ムッタリブの一族が管理し、アブド・アル=ムッタリブによって泉の水はカアバを詣でる巡礼者に供されるようになったといわれる[1]。 土産物として売られているザムザムの水 泉の水はポンプで汲み上げられており、やや塩気のある味がする[2]。電動式のポンプで汲み上げられた水はマスジド・ハラームの噴水に利用されるほか、タワーフが行われる場所の近くで容器に詰められている[3]。 水に含まれる成分は、キングサウード大学の調査により、以下のように測定された[4]。 語源と研究史[編集] 「ザムザム Zamzam」という言葉は「水がふんだんに供給されるさま」を表現する音象徴語(オノマトペ)であり、類語の「マー・ズマーズィム mā’ zumāzim」は「枯れることのない水場」を表現する言葉である[5]。 ザムザムに関する研究を概観すると、アッバース朝期にそれまで説教師(qāṣṣ)が各地のモスクで語ってきたことがいったん書物にまとめられる[5]。たとえばイブン・ヒシャームが註釈したイブン・イスハークの預言者伝に載っているハガルとイシュマエルが登場するザムザムの起源神話がその一例である。時代は下り、ヤークートの地理書 Mu‘jam al-buldān

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ベレニケ3世 – Wikipedia

ベレニケ3世フィロパトル(希:Βερενίκη Γ’、ラテン文字表記:Berenice III Philopator)、別名クレオパトラ・ベレニケ(Cleopatra Berenice、紀元前120年 – 紀元前80年)は、古代エジプト、プトレマイオス朝のファラオ・女王(在位:紀元前101年 – 紀元前80年)。父はプトレマイオス9世。母はクレオパトラ5世セレネと言われる。プトレマイオス10世の姪・妻。その後、プトレマイオス11世の妻となる。 紀元前101年、プトレマイオス10世は母クレオパトラ3世を暗殺、兄プトレマイオス9世と和解し、兄の娘ベレニケ3世と結婚した。10世との子がプトレマイオス11世とされる。 紀元前88年に10世が死去すると、父プトレマイオス9世が復位したが、彼女が父と共に統治に当たったのかは不明確である(父と結婚して共同統治したとの説あり)。 紀元前81年、プトレマイオス9世が死去すると、ベレニケ3世は単独統治者となった。しかし翌年、ローマの支援を得たプトレマイオス11世が帰国し、ベレニケ3世と強引に結婚し即位した。結婚の19日後、彼女はプトレマイオス11世に暗殺されたが、彼もベレニケ殺害に怒ったアレクサンドリア市民の暴動で殺害された。これにより、プトレマイオス朝の直系は断絶した。 表 話 編 歴 プトレマイオス朝のファラオ プトレマイオス1世前305−前285 ベレニケ1世???−前285 プトレマイオス2世前285−前246

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突撃大隊 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “突撃大隊” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年2月) 突撃大隊(とつげきだいたい、独: Sturmbataillon)とは「特攻隊(Stoßtruppen)」などをはじめとする第一次世界大戦中において、硬直化していた塹壕戦を打破する目的で考案された部隊である。 突撃歩兵については、仏Andre Laffargue大尉による提言、伊Ciuseppe Bassi中佐によるアルディーティ隊の創設などがあるが、本項では主にドイツ突撃大隊を取り上げる。 ドイツ軍で公式的に突撃部隊が発足したのは、1915年3月「第18工兵大隊」長カルソー(Calsow)少佐によって編成された部隊である。この部隊は指揮官の名を取って「カルソー突撃隊(Sturmabteilung – Calsow)と呼ばれた。戦前から攻囲戦の訓練をしていたのは工兵であり、西部戦線の強力な塹壕を突破するにふさわしい新部隊、新戦術を創造する役目も工兵が中心となって行うこととなった。 塹壕を突破する歩兵にとって一番の悩みは敵側防機関銃だった。散開隊形で突撃を行っても、その驚異的な発射速度によって歩兵たちはバタバタと射すくめられていった。この問題を解決するためクルップ社で37ミリ軽砲が開発された。 突撃隊最初の任務はフランスでの前線守備だった。新兵器の37ミリ軽砲も前線へと持って行かれた。だが部隊はフランス軍の砲撃などによって大損害を被っている。37ミリ軽砲を使用するや否や、その発射光によって容易に場所を特定され、フランス砲兵の標的とされたからである。クルップ社の37ミリ軽砲は前線では全く役に立たなかった。 第一次世界大戦中、ドイツ帝国陸軍はそれまでの戦術に変わる特に塹壕戦における攻撃のため、17個の突撃大隊と2個の独立した突撃中隊からなる「突撃大隊

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マック・セネット – Wikipedia

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