アンナ・エシポワ – Wikipedia

アンナ・ニコライェヴナ・エシポヴァ(ロシア語: А́нна Никола́евна Е́сипова, 英語: Anna Yesipova, 1851年2月12日 – 1914年8月18日)は、ロシア帝国のピアニスト・音楽教師。

ペテルブルク音楽院でテオドール・レシェティツキーに師事する。1871年にペテルブルクで初舞台を踏むと、とりわけ苦労を感じさせない超絶技巧と歌うような音色に対して、熱狂的な評価を受け、ピョートル・チャイコフスキーやフランツ・リストといった芸術家からも称賛された。その後、演奏旅行に赴き、まずはロシア国内を、次いで1875年にヨーロッパの諸都市を廻り、1876年にはアメリカ合衆国を訪れて称賛を浴びた。

アメリカではファニー・ブルームフィールドの演奏を聴いて、レシェティツキーに入門するように助言している。1880年に旧師レシェティツキーと結婚して、アネット・エシポフ=レシェティツキー(Annette Essipow-Leschetizky)と名乗るもやがて離婚した。2人の間に生まれた娘テレーゼ(Therese、1873-1956)は声楽家となった[1][2]

1885年にプロイセン宮廷ピアニストに任命され、激しい情熱と詩的な解釈とが美点として称賛された。

1893年から1908年までペテルブルク音楽院ピアノ科教授に就任して、レオニード・クロイツァーやトマス・ド・ハルトマン、イサベッラ・ヴェンゲーロヴァ、アレクサンドル・ボロフスキー、セルゲイ・プロコフィエフ、マリヤ・ユーディナ、レオ・オルンスタインらを養成した。

エシポワは、当時流行していた神智学協会とたびたび交流した。

ローマ字への転写例[編集]

  • 姓名ともそのままの転写
    • Anna Esipova
    • Anna Essipova
    • Anna Yesipova
    • Anna Jessipowa
  • 名前が西欧風で姓はロシア語式(女性語形)
  • 姓名とも西欧式(姓は女性変化しない)
    • Annette Essipoff
    • Annetta Essipoff
    • Annette von Essipow
  1. ^ <対談>クロイツァー教授と語る 属啓成著 雑誌「音楽」1948年8月
  2. ^ Leschetizky (Leschetitzky, Leschitizky, Leszetycki), Familie
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    Gilman, D. C.; Peck, H. T.; Colby, F. M., eds. (1905). New International Encyclopedia (英語) (1st ed.). New York: Dodd, Mead. |title=は必須です。 (説明)