森安なおや – Wikipedia

森安 なおや(もりやす なおや、1934年〈昭和9年〉11月9日 – 1999年〈平成11年〉5月19日[1])は、日本の漫画家。漢字表記は森安直哉。本名:森安直(ただし)。岡山県岡山市出身。

1950年代を中心に活動。漫画少年等の雑誌や貸本屋向けの書き下ろし単行本の仕事が多い。藤子不二雄の『まんが道』では、いささか奇妙な暮らし振りのトキワ荘住人として描かれているが、何故か憎めない人物だと漫画家仲間からは思われていた。森安の描く作品は寡作ではあったが、叙情に溢れた繊細なタッチは再評価されつつある。

国鉄職員[2]の四男として生まれたが、幼い頃に母親と死別し、継母に育てられた。1947年、旧制関西中学校(現・関西高等学校)入学。1950年、岡山県立岡山南高等学校商業科入学。同校在学中、「山陽新聞中学生版」に4コマが掲載されデビュー、その後連載される。1953年、高校卒業と共に上京し漫画家の田河水泡の内弟子となる。同期の弟子に山根赤鬼・山根青鬼・滝田ゆう・藤田道郎(NHK職員、ドラマ版まんが道のプロデューサー)・三好好三(後の鉄道研究家)らがいる。師匠の伝手もあり少年クラブにコマ漫画を掲載する。

独立後、池袋のアパートに住み、1954年に知人から寺田ヒロオを紹介され藤子不二雄・坂本三郎・永田竹丸等と共に『新漫画党』を結成。1956年2月、住み込みで働いていた牛乳店を解雇されたため、友人であった鈴木伸一の部屋に転がり込む形でトキワ荘に入居する。合作やカット、短編を『漫画少年』を中心に発表し、漫画少年廃刊後の1955年頃からはきんらん社・唱和漫画出版等の出版社が発行する貸本屋向けの書き下ろし単行本を数多く手がける。その後、複数の作者が掲載される貸本短編誌『星』『二十五時』等にも作品を掲載。私生活では「お金があったら、とりあえず食い物、それから遊び」[3]という生活スタイルだったため、鈴木伸一と折半する約束だった家賃もほとんど払わず、鈴木の蔵書や背広を勝手に売り払って自らの食費に充ててもいた[4]。また、出版社からの前借りや寺田ヒロオたちからの借金を踏み倒した他、貸本原稿の締切も全く守らず、雑誌の執筆依頼を丸投げしたりしたため雑誌編集者から見放され、更に貸本業界の壊滅もあり、1957年に逃げるようにトキワ荘から引越している。その際、寺田ヒロオにより新漫画党から除名処分を受けると共に、「今後一切、森安なおやとは付き合わない」との回状が回されている[5]。ただ、その後もトキワ荘には時折顔を出している。

トキワ荘退去以後はキャバレーの経理、食堂の皿洗い、大工見習い、家庭用品販売などの仕事を転々としながら単行本の執筆をこなすが生活は苦しく、1960年秋、貸本業界の衰退もあり漫画家を廃業し、新宿の新日本興業(現・東急レクリエーション)の「ミラノ座」キャバレー部門のマネージャーとして就職(なお、このキャバレーは、赤塚不二夫が自信喪失して漫画家を辞めようとした際、ボーイとして就職することを考えた先の店であった[6])。1961年に田河水泡の仲人で結婚。1967年、突然ミラノ座を辞めてしまう。家族には「部長にダマされた。もうすぐボーナス貰えるけど辞めてきた」とだけ話したという[7]

1970年1月に雑誌COMでの競作企画『トキワ荘物語』で10年ぶりに作品を発表。この頃には妻子と別居。建設会社勤務やクラブ経営、プレハブ関連会社の契約社員などの職を転々としながらも、その合間にはライフワークともいえる太平洋戦争時代の少年の成長をテーマにした長編『18才3ヶ月の雲』を20年掛けて執筆していたが、未完に終わった。1997年には、故郷岡山を舞台にした『烏城物語』が地元同級生有志の協力で出版される。これがきっかけで、日本漫画家協会関西支部長の推薦で同会に加入している。

晩年は『花のあとさき』と題する小説も書き始めていたが、1999年5月19日、東京都立川市の都営住宅大山団地で急性心不全のため死去。2日後、別居中の妻により遺体が発見された。享年64。

主な作品[編集]

  • 堀部安兵衛(少年クラブお正月増刊附録 読切) 昭和30年
  • らんたん祭り(きんらん社)昭和31年
  • すずらんの花咲けば(きんらん社)昭和31年
  • 赤い自転車(きんらん社)
  • 赤い自転車(なかよし附録)
  • 月夜の子守歌(きんらん社)昭和32年
  • マコちゃんとコロ(たのしい三年生 連載)昭和33年
  • こけし地蔵さん(きんらん社)
  • おさげ社長さん 全2巻(唱和漫画出版)昭和33年
  • 赤いナイフ(短編誌「錆びたナイフ」掲載 唱和漫画出版)昭和33年
  • 母星物語(短編誌「白鳥9」掲載 セントラル文庫)
  • 珠子の日記(短編誌「白鳥11」掲載 セントラル文庫)
  • こけし船頭さん(短編誌「白鳥13」掲載 セントラル文庫)
  • 黒いシグナル(短編誌「二十五時」連載 きんらん社)昭和34年
  • 赤い海(短編誌「眼」連載 きんらん社)
  • くれないの姉妹(短編誌「星」連載―全3回 きんらん社)昭和34年
  • 星の十字架(短編誌「星」掲載 きんらん社)
  • 心に三つの鐘がなる(短編誌「星」掲載 きんらん社)
  • 心の灯台(短編誌「星」掲載 きんらん社)
  • 赤いスキー靴(短編誌「星」掲載 きんらん社)
  • 星の瞳(短編誌「星」掲載 きんらん社)
  • 少女さくら(短編誌「星」連載―全4回 きんらん社)昭和35年
  • さざえの姉妹(短編誌「星」連載―全3回 きんらん社)昭和35年
  • 母滝娘滝(短編誌「星」掲載 きんらん社)
  • 赤いボート(短編誌「星」掲載 きんらん社)
  • みかんが河に流れるころ(短編誌「えくぼ」掲載)昭和35年
  • 水色のボートと共に(短編誌「天使①」掲載 エンゼル文庫)昭和35年
  • いそげジャイアンツ号(たのしい三年生 連載)昭和35年
  • カメラのお姐ちゃん(短編誌「お笑いクラブ③」掲載 ひばり書房)
  • トキワ荘青春物語(競作)蝸牛社
  • 小さな河の水映り
  • 烏城物語(初版:平成10年、限定2000部 第2版:平成24年 限定2000部 岡山芸術回廊出品作として再版)
  • 18才3ヶ月の雲 ※未完の100ページを越す長編。20章に分かれている。あたりだけの状態の下書き原稿も多いという。

エピソード[編集]

  • 漫画を描き始めた頃は「下書きをしてからペン入れ」という作法を知らず、いきなりペン入れをしていた。そのための修正のホワイトがかさ張り、ポロポロと落ちたという。
  • 藤子不二雄両人が悪戯で蝋製のピーナッツを与えたところ、美味そうに食べてしまった。ただし実際は当人も旨いとは思っておらず、その発言は森安が周囲を驚かせようとしてのことだったと言われている[8]
  • 同室の鈴木が鍵をかけて寝たため藤子不二雄の部屋に森安が来訪。夜中に森安が『苦しい!』と騒ぎ出したので話を聞くと『腹が減って苦しい!』と言い出して一晩中(近所のパン屋が開くまで)苦しんだ由[9]
  • 『まんが道』の中で、主要な作品発表の場であった『漫画少年』が廃刊になったことにショックを受け、突然「キャバキャバ」と哄笑する場面が印象的に描かれているが、この「キャバキャバ」は本来、当時のトキワ荘仲間で流行った造語(「やれやれ」「どうにもならない」という意味)として使われていた言葉である。他に「ピーマンバイ」など。
  • 1976年には田河水泡の喜寿を祝うパーティーに出席。同会には山根赤鬼・山根青鬼ら同期の弟子だけでなくかつてのトキワ荘の仲間も出席しており、田河を囲んで撮った記念写真には手塚治虫・藤子不二雄・石ノ森章太郎・赤塚不二夫・鈴木伸一等と一緒に写っているが、かつての仲間たちが固まっている中、森安だけは反対側に一人だけで写っていた。
  • 1981年のNHK特集『現代マンガ家立志伝』で、漫画家として大成したトキワ荘メンバーが、取り壊しが決定したトキワ荘で25年ぶりの「同荘会」を開くという内容の番組が放送されたが、出世した他のメンバーを差し置いて、転職を繰り返しながら漫画家として再起をかける森安の姿に、メンバーの中で最も長く放送時間が費やされた(事実上、同番組の主人公的な立場だった)。バーで番組スタッフから「今でもやれば負けない?」と聞かれると「25年のハンディは絶対取り返せないよ」と答えた。また「僕が本当に番外だから、僕が居るとコントラストで彼らの出世ぶりが目立つ訳ですよ」と笑いを交えて語っていた。また、森安が先述の長編『18才3ヶ月の雲』を、集英社の編集部へ持ち込みをするシーンがある。編集者は、長期にかけて執筆したのを評価しつつも、絵柄やコマ割りの古さについて指摘し、不採用にしていた。ただし、森安の友人の古書店主は、この番組自体がNHKによるやらせだったと証言し「ジャンプでは最初、採用の方向で動いていて、アシスタントをつける話もあったらしいんですが、NHKが『結局ダメでした』というオチにするため、『断ってくれ』って頼んだらしくて」と語っている[10]。この番組では森安が事実上の主役となっていたため、森安本人はギャラに期待していたが、NHKから渡されたのはテーブルクロス1枚だったという[11]。なお、森安はこの番組で自らの没落ぶりを晒したことで師匠の田河水泡の怒りを買い、田河から破門を言い渡されている。
  • 鈴木伸一や永田竹丸らは、森安の才能にいち早く気が付いていた。そして彼らいわく、森安は「おおらかさとせせこましさが同居した様な」「豪快ではあったが繊細な」人物だったという。仲間内では一見賑やかなムードメーカーであったが、その中で絶えず周囲の反応を窺っていたように見えたという。
  • 遅筆でかつ「気が乗れば描き、乗らなければ描かない」というスタイルであった。当時の講談社の編集者である丸山昭によると、困っているので情けと大きな才能を埋もれさせないことで何度仕事を依頼しても、森安は頑なに断り続けていた。しかし丸山が森安と顔を合わせるたび、森安は「すみませんすみません」と言って逃げ回っていたという。トキワ荘の面々の中では必ずしもマンガ家として出遅れていたわけではなかったが(赤塚や藤子も売れっ子になるまでは時間がかかった)、こうした執筆スタイルと、貸し本が活躍の場であることが響いて、業界に残ることができなかった。
  • 1970年代後半に週刊少年ジャンプに連載されたコンタロウのギャグ漫画『1・2のアッホ!!』には、森安をモデルにしたとされる「ヒロミちゃん」というペンネームの初老の漫画家が登場する作品がある[12]。また、同作の続編ともいうべき『新1・2のアッホ!!』(森安没後の2001年発表の読切作品)は先述の森安のエピソードをモチーフにしたストーリーになっており、彼に相当する漫画家として『アッホ!!』の主人公であるカントク(本名:金子一徹[13][14]、ペンネーム:キンタロウ[15])を配役に充てている。なお、森安がコンの少年期の憧れの漫画家のひとりであったかどうかは不明。
  • 森安には岡山時代にぞっこん惚れた女性がいた(但し片思い)。彼女が病気で入院したと聞くと東京から見舞いに岡山へ帰った事もある。その女性は今も健在で、年に一度は森安桜の下に仲間と集まり、森安の話題を肴に花見をやっているという。
  • 2013年以降、過去の短編をまとめた単行本が復刻されるなど再評価が進んでいる[16][17]

森安なおやを演じた人物[編集]

関連書籍[編集]

  1. ^ 『「トキワ荘」無頼派-漫画家・森安なおや伝』p.11
  2. ^ 『「トキワ荘」無頼派-漫画家・森安なおや伝』p.15
  3. ^ 『「トキワ荘」無頼派-漫画家・森安なおや伝』p.69
  4. ^ 『「トキワ荘」無頼派-漫画家・森安なおや伝』p.52-54
  5. ^ 『「トキワ荘」無頼派-漫画家・森安なおや伝』p.70-71
  6. ^ 『「トキワ荘」無頼派-漫画家・森安なおや伝』p.86
  7. ^ 『「トキワ荘」無頼派-漫画家・森安なおや伝』p.89
  8. ^ 『「トキワ荘」無頼派-漫画家・森安なおや伝』p.60
  9. ^ 『トキワ荘青春日記』藤子不二雄 光文社 p.150
  10. ^ 『「トキワ荘」無頼派-漫画家・森安なおや伝』p.106
  11. ^ 『「トキワ荘」無頼派-漫画家・森安なおや伝』p.109
  12. ^ 集英社刊ジャンプ・コミックス『1・2のアッホ!!』第9巻(1978年初版)に収録。
  13. ^ 『アッホ!!』の原型ともいうべきコンの赤塚賞受賞作『父帰る!』の主人公の復員兵がこの名前であり、同じ容姿のまま『アッホ!!』の主人公・カントクとして流用された(但し、オリジナル版『アッホ!!』ではカントクの本名については言及していない)。
  14. ^ 『父帰る!』では一徹の孫として、『アッホ!!』では主要キャラの波目の親友として「金子直哉」(『アッホ!!』においてはカントクとの血縁関係はない)という脇役キャラが登場するが、金子の名前が森安から拝借したかどうかは不明。
  15. ^ オリジナル版『アッホ!!』ではペンネームが同じ読みの自称「盲目の天才漫画家」が登場する(但し、こちらは「キン・タロウ」と「」が入る)。
  16. ^ “SUNDAY LIBRARY:松田友泉 評『森安なおや作品集1 いねっ子わらっ子』”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2013年6月11日). http://mainichi.jp/feature/news/20130611org00m040010000c.html 2015年5月27日閲覧。 
  17. ^ “森安なおやさん初期作、ファンが復刻 トキワ荘出身”. 朝日新聞DIGITAL (朝日新聞社). (2013年8月28日). http://www.asahi.com/culture/update/0825/TKY201308250255.html 2015年5月27日閲覧。