藤堂高紹 – Wikipedia

藤堂高紹

藤堂 高紹(とうどう たかつぐ、明治17年(1884年)7月27日 – 昭和18年(1943年)1月12日)は、伊勢国津藩の最後の藩主藤堂高潔の長男で、藤堂家宗家13代当主。従二位、伯爵。母は蜂須賀斉昌の養女・量子。子に藤堂高廷、藤堂高弘、良子(長女・岩倉具栄妻)、本子(次女・岩倉具実妻)、国子、千賀子(五女・朝香宮孚彦王妃)。

明治23年(1890年)1月、5歳の時、家督を相続し、伯爵となる。明治25年(1892年)10月、宮内大臣に対し、侯爵になることを願う。明治27年(1894年)1月、勝海舟を通じ、政府に対して侯爵になることを働きかける。いずれも失敗に終わる。

明治29年(1896年)7月、学習院初等学科を卒業。12歳で、英国のケンブリッジ大学に3年間留学する。明治40年(1907年)9月、13歳の時、密かにイギリスの実業家の未亡人エレナと結婚する。同年末に帰国し、宮中の式部官となる。明治41年(1908年)12月、北白川宮能久親王の第三王女武子女王(後に保科正昭と結婚)との婚礼を遂げようと準備している時、その事実が発覚し、婚約勅書を返上した。同年12月下旬、華族懲戒委員会が開かれ、藤堂家の華族礼遇停止を決定する。すべての資格と職位を失い、在野に放逐された。これまで婚儀の画策に携わった高官も解任になる。明治42年(1909年)6月下旬、24歳の時、礼遇停止が解除される。

その後、真田幸民の娘信子と結婚をし、娘は朝香宮家や岩倉家に嫁いでいる。朝香宮家に嫁いだ千賀子は、昭和25年(1950年)29歳の時に結核の快療を願ってカルメル会に入りカトリック信者となり、朝香宮家の家族全員も千賀子の病気平療を願ってクリスチャンになる。昭和27年(1952年)31歳で結核で亡くなる。

昭和13年(1938年)54歳の時、吉田弥邦とともに編著をした『伊日辞典』(伊日辞典刊行会 発売鳳鳴堂書店)が出版される。昭和18年(1943年)1月12日死去。墓所は東京都豊島区染井墓地。

  • 1914年(大正3年)2月20日 – 従四位[1]
  1. ^ 『官報』第468号「叙任及辞令」1914年2月21日。
日本の爵位
先代:
藤堂高潔
伯爵
(津)藤堂家第2代
1890年 – 1943年
次代:
藤堂高廷