南条宜政 – Wikipedia

南条 宜政(なんじょう よしまさ[1])は、江戸時代初期の武将。伯耆の国人南条氏の一族で、南条(小鴨)元清の子。

伯耆の国人南条氏の一族で、熊本の加藤清正に6000石で仕えた南条元清(小鴨元清、南条元宅)の子。『寛政重修諸家譜』によれば元清の二男で、兄の「勘十郎」が病身のため肥後で閑居したことから、二男の宜政が家を継いだとある[1][注釈 1]

宜政は豊臣秀頼に仕え、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では豊臣方に属して大坂城に籠城した[1]。慶長20年(1615年)に豊臣方が敗北すると宜政も自害しようとしたが、徳川方の水野勝成隊が宜政の妻子を救い出して連れ去ったために、自らも城を脱して水野家に保護されたという[1]。これは宜政の妻(水野忠胤の娘)が勝成の姪であった関係による[1]

その後は肥後熊本藩加藤家に仕えたが[注釈 2]、寛永9年(1632年)に加藤忠広が改易されると、美作津山藩主森長継に仕えた[1]

『寛政重修諸家譜』には四男一女を載せる。

長男の宗晴(次郎右衛門)は、父を継いで津山藩主森長継に仕えた[1]。その孫の南条宗清が幕府に出仕して御家人となっている[1]

二男の貞政(伝兵衛、弥惣右衛門、空菴)は水野忠職(水野勝成・忠胤の甥)に仕えたが、のちに浪人となった[1]

娘は土井大炊頭(土井利勝)家臣・土井内蔵允[注釈 3]の妻となった[1]

三男の宗俊(源八、与兵衛)は、母(水野氏)が千姫に仕えていた縁から徳川家に召し出され、徳川綱重(甲府徳川家・甲府藩)付きの家臣となり、書院番頭まで上った[1]。宗俊の長男[注釈 4]の宗益が家を継ぎ、徳川家宣が将軍後継者として江戸城西の丸に入ると、西の丸小納戸を務めた[1]。南条家は以後600石の旗本として続いた[1]

四男の春仁は僧になった[1]

注釈[編集]

  1. ^ 幕末期の熊本藩(細川家)重臣宮村典太がまとめた『藻塩草』によれば、元宅(元清)が慶長19年(1614年)10月に病死した際、病身の嫡子「勘三郎」に代えて嫡孫の藤八郎(のちの南条元信)に跡目を譲るよう遺言したが、大坂にいた二男で庶子の作十郎(宜政)に立てる動きがあり、その結果宜政が跡式を継いだ[2]。南条家中でこれを不服とした派は、藤八郎を奉じて加藤家を退転し、小倉藩細川家に仕えたという[2]。なお南条元信は細川家(小倉藩→熊本藩)で3000石を食む重臣となり、藩主細川忠利の四男南条元知が元信の養子となって跡を継いだ[2]
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』は大坂の陣後に加藤清正・忠広に仕えたように記しているが、清正は大坂の陣以前の慶長16年(1611年)に没している。
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』では諱は記されていない。「土井内蔵允」は土井家重臣で、土井利勝の同母弟・土井内蔵允元政が土井家(古河藩)城代家老を務めている[3]
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』によれば宗俊には四男二女がある。宗俊の二男俊宜は水野姓を称して甲府徳川家に仕え、三男元鋪は土井大炊頭家(古河藩)に仕え、四男旗本立花家に養子に入り(立花種秀)、長女は旗本水野忠増(水野忠職の弟)の養女となった[1]

出典[編集]

参考文献[編集]