Month: March 2022

トールボーイ型 – Wikipedia

この項目では、スピーカーについて説明しています。自動車のボディスタイルについては「トールワゴン」をご覧ください。 トールボーイ型は、スピーカーシステムのエンクロージャー形状の一種。全高が高く底面積が小さいフロア型スピーカーシステムの通称。 トールボーイ型のスピーカーとは、背が高く、幅の狭いエンクロージャを持つスピーカーである。脚台があって床置き出来るものが多いので、その意味ではフロア型であるが、従来のフロア型がそれなりの幅と奥行きのある大きなものであるのに対して、箱よりは棒に近い外見を持つものをこう呼ぶ。 この型に近い外見を持つものは古くからあるが、流行するようになったのは2000年頃以降である。参考文献に示した成美堂の本では1995年のそれでは、この型に類するものはほとんど紹介されていないが、2000年のそれでは低価格帯より多くのシステムが紹介されており、2009年のそれでははっきりと一つのジャンルとして明示され、小型、大型と並んで紹介されている。 その効能[編集] AV(オーディオ・ビジュアル)時代になり、従来の大型フロア型や大型ブックシェルフ型に替わって、2000年代では主流となっている。幅や奥行きが小さい分、全高を高くして容積を稼いでおり、ウーファーも8~16センチ程度の比較的小口径のものが使われ、等価的に大口径に匹敵する特性を得るためにウーファーをダブル駆動あるいはクワッド駆動しているものもある。大型テレビとのマッチングもよく、インテリア性や設置性も優れ、小口径の割に低音域特性がよい。もう一つの特徴としては、設計上バイワイヤリング接続にも対応している。小型スピーカーではサイズの関係上、どうしてもシングルワイヤリング接続にならざるを得ず、高域部分と低域部分の信号が干渉し合うことになる。しかし、トールボーイ型では、高域部分と低域部分の信号をバイワイヤリング接続することによって、音声信号の分離出力が可能となるため、互いの信号が干渉しないクリアな音質が得られる。 しかし、縦長の形状のため、低音域の最低共振周波数付近で共鳴を起こしやすく、ブーミー[1]になりやすい欠点もある。 別の視点からは、小型スピーカーの進歩がトールボーイ型の流行の元となったという説もある。小型スピーカーは一般に大型のそれより劣る面が多いと思われがちであるが、たとえばその小ささはステレオ再生の上では大きな利点でもあり得る[2]。そのため近年の技術的な進歩によって、小型スピーカーでも優れたものが数多く出るようになった。しかし、以下のような点が問題となる。 一つは必然的にスピーカーをある程度の高さまで持ち上げなければならないこと、また良好な再生のためにはその周囲を大きく開ける必要があることである。つまり家具の上に(直接)置くような方法ではその性能を発揮することができず、開けた床の上にスピーカースタンドを置いて、その上に設置することが求められる。そのためにスピーカー本体は小型でも、高価なスタンドを要し、またその下や周囲がデッドスペースとなってしまう。もう一つは、低音再生のためにはやはりエンクロージャの体積が大きい方が有利であることである。この両者を解決する方法として、スタンドのあるべき空間までエンクロージャを延長してしまったのがトールボーイ型である。実際、優秀な小型スピーカを販売しているところは、その兄弟機としてそのまま下にエンクロージャを延長したようなトールボーイ型を販売しているところが多い。 ^ 特定の音程で相対的にレベルが高いためにその響きが長く残るため、低音部が強調されて明瞭さを失うこと。 ^ ステレオ再生における一つの理想として、点音源がある。 参考文献[編集] 『オーディオの世界 入門から夢の高級機まで』(白井義賢、成美堂出版、1995年) 『これから始めるオーディオの事典』(深見悦司編著、成美堂出版、2000年) 『いい音を楽しむオーディオの事典』(上田高志、成美堂出版、2009年) 『音楽がもっと楽しくなるオーディオ「粋道」入門』(石原俊、河出書房、2005年)

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観世四郎 – Wikipedia

観世 四郎(かんぜ しろう、生没年不詳)は、室町時代前期の猿楽師。四郎大夫。諱には諸説がある(後述)。観阿弥の息子、世阿弥の弟。兄率いる観世座に所属して、その補佐役として活動していたものと考えられている[1]。音阿弥の父として知られる。 四郎の活動については残っている記録も少なく、「殆ど見るべきものの無い」、平凡な役者であっただろうと推測する説もあるが[1]、近年では兄・世阿弥の率いる観世座の「脇之為手」[2]、いわば「准大夫」と言うべき立場の役者として、兄を支えて相当の活躍をしたものと見られている[3]。 また『風姿花伝』の一編である「花伝第七別紙口伝」の、1420年(応永25年)6月1日付の奥書には、「此別紙条々、先年弟四郎相伝スルト云ヘドモ、元次芸能感人タルニヨテ、是ヲ又伝所也。秘伝々々」とあり、四郎が応永25年以前に同書の相伝を受けていたことが解る[4]。この時四郎が贈られたものらしき世阿弥自筆と思われる写本が観世宗家に伝えられており、奥書が焼損しているものの、応永25年をそう遡らない、応永10年代後半頃に四郎へと相伝されたものと推測されている[5]。「家ノ大事、一代一人ノ相伝ナリ」[4]とされた伝書を与えられていることからも、四郎が十分な力量を持った役者であったことが推測される[3]。 その前半生については記録が残されていないが、1398年(応永3年)に息子・三郎元重(後の音阿弥)を、また後にその弟の弥三郎(蓮阿弥)をもうけている。1417年(応永22年)、摂津猿楽榎並座に代わり、醍醐寺清滝宮での猿楽を勤めている[6]のが、最も古い演能記録である[1]。 当初、世阿弥に子がなかったため、四郎の子・元重がその養子となった[3]。しかしその後、世阿弥には元雅・元能が生まれ、1422年(応永29年)頃、世阿弥は実子・元雅に座の棟梁たる大夫の地位を譲る。その後しばらくは元重・元雅らが、半独立的な活動をしながらも協力し合って座を運営するという体制が続いた[7]。この間、四郎は1428年(正長元年)5月12日に室町御所での宴席に参上し、謡をうたっている[8]。 1429年(正長2年)、足利義持が死去して、足利義教が後継者に選ばれる。義教は青蓮院門跡の当時から元重を寵愛しており、以後は元重を取り立てるとともに世阿弥父子に圧迫を加えた。四郎は子・元重を助けて活動したらしく[1]、1430年(永享2年)4月19日、新たに醍醐寺清滝宮の楽頭となった元重に従い醍醐寺に赴いて太刀を賜り、23日の元重の演能に際しても、臨席した義教からやはり太刀や衣を賜っている[9]。 その後1432年(永享4年)に元雅が没し、1433年(永享5年)には元重が観世大夫の地位を嗣いだ。1434年(永享6年)には兄・世阿弥が佐渡流罪となっている。永享2年以後の四郎についての記録は残されておらず、その没年などは不明。 音阿弥元重は義教の死後も当代随一の役者として活躍し、以後観世家の嫡流は彼の子孫によって受け継がれた。つまり四郎は、現在に至る観世宗家の直系の祖に当たる。また音阿弥の弟・弥三郎も大鼓の名人であり、音阿弥の第七子・小次郎信光の師として知られる。 音阿弥の子である小四郎は観世座の脇之為手として活躍した役者だが、その名を「四郎」「四郎左衛門」と改めており、いずれも祖父である四郎の名を襲名したものと考えられている[10]。その養子も同じく一連の「四郎」の名を継ぎ、脇之為手を勤めた[10]。幕府ではこの観世四郎(左衛門)家に対し、大夫に次ぐ待遇を与えている[10]。このように「四郎」の名が脇之為手の家の通り名となったことからも、四郎の存在が決して小さなものではなかったことが窺える[3]。また江戸時代にも、観世銕之丞家の当主・清宣が「四郎」を名乗っているが、これもやはり四郎に因んだものと思われる[11]。 史料には「観世四郎」「(世阿弥の)弟四郎」などとしか記されておらず、その諱は定かではない。福王流によるワキ方伝書『能脇侍所作鑑』は観世流ワキ方の祖として四郎を挙げ、その名を「服部四郎左衛門秦清信」と記すが、近世の説であり信憑性は薄い。江戸時代後期のものと言われる家系図が「四郎太夫元仲」とし[12]、後述のように小説などでも採用されているが、否定的見解が根強い[13]。一方、金春家伝来の能本に、世阿弥自筆のものとともに伝えられた、「久次」なる人物の手による応永34年2月15日奥書の能本「トモアキラ(知章)」があり、この筆者を四郎とする説がある[3]。 文芸作品における四郎[編集] 四郎を主人公として書かれた作品に、杉本苑子の小説『華の碑文』がある。四郎は兄・世阿弥にただならぬ思慕を抱きながら、能の大成を残酷なまでに追求する兄の生涯を見守る、作品の語り手として描写されている。作中では幼名を竹若、成人後は元仲と名乗っているが、前者は作者の創作、後者は上述の系図に拠る。 ^ a b c d 能楽源流考

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大野えり – Wikipedia

この項目では、ジャズ歌手の大野えりについて説明しています。声優については「大野エリ」をご覧ください。 この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “大野えり” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年9月) 大野 えり(おおの えり、本名:久墨えり、1955年1月23日 – )は、日本のジャズ歌手。愛知県名古屋市出身、東京都世田谷区在住。 名古屋の御園座出演者の常連宿・今は無き大野家旅館の長女として生まれる。同志社大学英文学科卒業。大学では軽音楽部に入り、在学中からライヴ活動を開始する。大学3年の時、山野BIG BAND コンテストで審査員特別賞を受賞。 1979年、日本コロムビアよりアルバム『Touch My

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戸長 – Wikipedia

この項目では、明治時代の行政事務責任者について説明しています。戸籍筆頭者については「戸主」を、宋代の納税の督促の労役については「職役」を、高麗における地方官については「戸長 (高麗)」をご覧ください。 戸長(こちょう)とは、明治時代前期に区・町・村に設置された行政事務の責任者のこと。 1871年5月23日(明治4年4月5日)に戸籍法[1]が制定された際に、7・8ヶ村を「区」と呼ばれる単位に編成して戸籍を区単位で管理することとした。各区にはその責任者として戸長・副戸長が置かれた。1872年5月15日(明治5年4月9日)に太政官布告によって、旧来の庄屋・名主などの村役人の呼称を廃止して戸長・副戸長と呼ぶこととなった[2]。だが、従来の「区」との関連付けが不十分であったために、同年11月10日(10月10日)に旧来の郡・町・村の行政区分を廃して大区小区制を導入、大区に区長、小区に戸長[3]・副戸長を設置することとして、戸長・副戸長は戸籍の管理のみならず、明治政府による行政政策の実施にあたるようになった。ただし、細かい規定は府県などに任されていたため、副戸長も「戸長」と呼ばれる場合が多く、選出方法もまちまちであった。 1878年(明治11年)の郡区町村編制法では、旧来の郡・町・村を復活させ、各町村(小規模町村では複数の町村単位)ごとに民選の戸長を選出することとし、戸長が行政事務を行うための戸長役場も設置されることになった。戸長はかつての庄屋・名主層などの名望家から選出される場合が多かった。また、その職掌は戸籍の管理と並んで、地券管理・国税徴税・義務教育・徴兵事務・布告布達の伝達・水利土木厚生等公共事業の施工などに及んだ。戸長は政府の地方官(旧来の代官)としての側面と旧来の村役人としての性格を並存させており、その矛盾は戸長が自由民権運動の指導者となる形で現れることになった。 1884年(明治17年)5月7日、政府は戸長制度の改革を行い、戸長を知事の任命による官選に切り替えて平均5町村500戸に戸長1名を置く制度に変更した[4]。これに伴って戸長役場も連合戸長役場に再編されるものもあった。これによって政府の国策に忠実な行政官を戸長に任命することが可能になったが、一方で戸長の給与を改善して既存の戸長を政府側に取り込む措置も図られた。1889年(明治22年)の市制・町村制の導入によって廃止された。 参考文献[編集]

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一飯教育 – Wikipedia

一飯教育(いっぱんきょういく)とは、茨城県にある住宅会社『株式会社ノーブルホーム』が、2007年3月より始めた社員教育活動。家を建ててもらった顧客宅へあえて手土産を持たずに箸と茶碗を持って顧客宅へ訪問し食事を御馳走になりながら「顧客の本音」を聴くことで、社員の業務の改善やモチベーションの向上に繋がっている。 2008年、一飯教育(いっぱんきょういく)は発案者である官谷 浩志によって商標登録された(【登録番号】第5113765号)。 2009年、グッドデザイン賞を受賞している(受賞番号09E16006)。 一飯教育ロゴマーク ことわざ「一宿一飯の恩」と、一般教育の「一般」を語呂合わせして名付けられ、顧客から“一飯の恩”を受けながら、感謝の気持ちやサービス精神、マナー、顧客心理を学ぶという意味がある。 住宅の建築に携わった担当者達が入居後の家にあえて手土産を持たずに訪問し、晩御飯をご馳走になりながら顧客に本音を語って頂く。手土産を持って行かない理由は、『手土産を持って行ってしまうと、その分だけ気を使った話をされるだけで「顧客の本音」をいただくことが出来ない』と考えたから[1]。 食事をご馳走になるという「分の悪い立場」を意図的に作ることで顧客が本音を話しやすい環境となる。ずっと言えないままだった“顧客の本音”を忌憚のない意見として聴き、そこから得られた“気付き”から仕事の改善テーマに役立てるという。 訪問後は、感想共有シートに伺った際に得た“気付き”を記入し全社員で共有している。 一飯教育のルールは以下の通り。 営業担当、現場監督、コーディネーターなど担当者が複数人で訪問する。 自分用の箸と茶碗を持参して伺う。 手土産は用意せず、手ぶらで訪問する。 手ぶらで訪問した代わりに、何らかのお礼をして帰ってくる。 出されたものは残さず食べる。 一飯教育の効果としては下記の事例が報告されている。[2] 一緒に食卓を囲むとお互いの距離が近づきそれを機に親しいお付き合いをするようになり、そこから紹介が生まれ受注に繋がった。 食卓を囲みながら「住宅の施工中の社員の対応」や「契約先として選んだ理由」などを聴くことで“気付き”が得られ、業務の改善テーマとして今後の仕事に役立て社員の成長に繋がった。 顧客から「お礼の言葉」もらい、仕事への自覚が強まったりモチベーションが向上する効果が出た。 本来は言いづらい「不満」が言いやすい環境となり、顧客側がストレスを溜め込まなくなった。

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固体酸素 – Wikipedia

固体酸素(こたいさんそ、solid oxygen)は、酸素の単体で、固体状態のもの。高圧条件下、または標準大気圧条件、54.36 K (−218.79 °C)以下の温度で生成する。固体酸素には様々な相が知られており、圧力や温度条件の変化によって互いに相転移する。 酸素分子は分子性磁性、結晶構造、電子構造および超電導などに関連するため興味を持たれている。また、酸素分子は磁気モーメントを持つ唯一の単純二原子分子である[1]。固体状態での酸素は特に興味深いことに、特殊な磁気秩序を示すスピン操作型結晶であると考えられている[2][1]。超高圧条件では固体酸素は絶縁状態から金属状態に変化し[3]、超低温条件では超伝導状態に変化する[4]。固体酸素の構造研究は1920年代に始まり、現在では6種の異なる結晶状態が認められている[1]。 固体酸素には全部で6種の異なる相が知られている[1][5]。様々な色を示す。 α相:薄青色 – 1 atmでは、−249.35 °C 以下で生成。単斜晶。 β相:淡青色から桃色 – 1 atmでは、-229.35 °C以下で生成。三方晶。室温、高圧条件で四酸素に変化。 γ相:淡青色 –

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薬局方 – Wikipedia

薬局方(やっきょくほう、オランダ語: Apotheek、ラテン語: Pharmacopoea)は、医薬品に関する品質規格書。医薬品や生薬が収載されているほか、試験法や純度の基準・剤型などが記されている。 国または地域ごとに制定されており、多くは公定書である[注 1]。日本においては、特に指定されていない限り、「日本薬局方」(略して「日局」「局方」)を指す。日本薬局方(英語: Japanese Pharmacopoeia, JP)、中国薬局方(中国語: 中国药典 (中国薬典)、英語: Pharmacopoeia of the People’s Republic of China, PPRC)、米国薬局方(英語: United States

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ヘイブンコー – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ヘイブンコー” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2008年11月) ヘイブンコー (HavenCo) はデータ・ヘイブンとして機能するホスティングサービスを提供した会社である。2000 年に設立され、シーランド公国で 2008 年まで運営された。シーランド公国は英国の南東、サフォークから約6マイル沖合にある第二次大戦時の防衛施設(ラフス・タワー)を領し「主権を持った公国」と自称している。 2000年8月22日、エセックスのリー・オン・シー出身のマイケル・ベイツ(シーランドのマイケル王子として知られる)は英国の休眠会社を買い取りヘイブンコーと改名した。英国貿易産業省の執行機関である企業設立関係局はこの会社に登録番号 04056934 を与えている。登録されたヘイブンコーの住所は「11 Kintyre House,

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美少女戦士セーラームーン セーラースターズ キャラクターソング – Wikipedia

『美少女戦士セーラームーン セーラースターズ キャラクターソング』(びしょうじょせんしセーラームーン セーラースターズ キャラクターソング)は、1996年から1997年まで放送されたテレビアニメシリーズ『美少女戦士セーラームーン セーラースターズ』より登場のセーラー戦士と新たなセーラー戦士のキャラクターソングシングル(8cm)。1996年10月19日〜1996年12月21日にコロムビアミュージックエンタテインメントからリリース。緒方恵美がキャラクターソングのイニシャル・Uの歌詞がキャラクターのイメージに合っていないとして変更を求めたが認められず、シングルが発売中止となる。同曲は美少女戦士セーラームーン メモリアルソングBOXに大木理紗が代わりに歌ったものが収録された。 リリース一覧[編集] セーラースターファイター[編集] プロローグ [1:39] 脚本・構成:田神悠/声の出演:星野光(新山志保) 使用BGM:「銀河一身分違いな片想い」~インストバージョン~(作・編曲:亀山耕一郎) ポエム [3:02] 脚本・構成:田神悠/ナレーション:星野光(新山志保) 使用BGM:「銀河一身分違いな片想い」~オルゴールバージョン~(作・編曲:亀山耕一郎) 銀河一身分違いな片想い [4:20] 作詞:武内直子 作曲:亀山耕一郎 編曲:亀山耕一郎 歌:星野光(新山志保)

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エンガチョ – Wikipedia

エンガチョは、日本における民俗風習のひとつ。主に児童の遊びとして取り入れられた風習で、ある種の穢れの感染を防ぐための特別な仕草である[1]。地方や時代によってその呼称は異なっており、エンガチョの他、エンガ、ビビンチョ、エンピ、バリヤーなど複数のバリエーションがある[1]。 エンガチョは不浄のものを防ぐために囃したてる子供による口遊びのひとつである。『大辞泉』で語源は不詳[2]とされているが、網野善彦によると、エンは穢や縁を表し、チョは擬音語のチョンが省略されたもので、意味としては「縁(穢)を(チョン)切る」を表すとしている。他に「因果の性(いんがのしょう)」の転訛とする説、「縁が千代切った」の略とする説などがある。口で「エンガチョ」と囃し、指先や身体で防御の印を結ぶことで不浄なものの感染を防ぐ事が可能となっている[1]。 日本の民俗風習に於ける「穢れを防ぐ行為」は古来よりあるとされ、13世紀ごろの『平治物語絵詞』には信西の生首を見ている人々が人差し指と中指を交差させている図が確認できる[1]。エンガチョはこうした古来より培われた鉤十字の魔除に起源を持ち、戦前ごろより頻繁に行われるようになった[1]。呼称は地方によって様々で、エンガチョ、ビビンチョなどと呼ばれた。時代を経るにつれ1960年代からテレビ放映されたウルトラマンや鉄人28号などの影響を受け、バリヤーなどと呼ばれるようにもなった[1]。映画「千と千尋の神隠し」でも使われる場面があった[3]。 エンガチョの形態[編集] エンガチョは「糞便を踏んでしまう」「トイレの便器に触れてしまう」など、誰かが不浄なものに触れた瞬間を第三者に目撃された段階が起点となる[1]。不浄なものを触れた者は、当該部位を別の第三者にこすり付ける事で穢れから解放されるが、第三者が「エンガチョ」と叫び、印を結ぶと防御することが出来る[1]。民俗学者京馬伸子が1990年『民俗』に発表した論文『子どもとケガレを考える – エンガチョを中心に』ではエンガチョの印に関して複数の形態を図説している[4]。基本的に触れられると移る、という理念の下に幼児の鬼ごっこなどに適用される。実に不思議なことに、誰が教えたか不明のまま幼児の間にいつの間にか流行して定着する現象が半世紀に渡って続いている。 両手を用いて人差し指と親指で輪を作って交差させる。 右手の人差し指と中指を交差させる。 右手の中指と薬指を交差させる。 親指を人差し指と中指の間に入れて握り拳を作る。 人差し指と親指で輪を作る。 両手の人差し指を繋ぎ、第三者に切り離して貰う。 こうした指の形態に加えて腕や脚を交差することで、エンガチョはより強い防御力を発揮することができる[1]。 西洋におけるエンガチョのジェスチャーの意味[編集] 片手の人差し指と中指を交差させる行為は、西洋においては、試験などに臨む者に対して「君の成功を祈る、頑張って」という意味で用いられる。元々は初期キリスト教において指の交差は十字架を意味し、「神はあなたと共にいる」という意味を表した。[5] 参考文献[編集] 常光徹『しぐさの民俗学 – 第六章

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