Month: December 2017

サスカッチ (ヴァンパイア) – Wikipedia

サスカッチ プロフィール 初出作品:ヴァンパイア The Night Warriors 出身地: カナダ 生年月日:1903年 誕生日は不明。 身長:166cm(幅208cm、足80cm) 体重:180kg 種族:ビッグフット キャッチコピー:   「雪の豪傑」(『V』『VH』) 「氷点下の力自慢」(『VS』『VH2』) サスカッチ (Sasquatch) は、カプコンの2D対戦型格闘ゲーム『ヴァンパイア』シリーズに登場する架空のキャラクター。 キャラクター設定[編集]

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朝鮮労働党第6期中央委員会 – Wikipedia

朝鮮労働党第6期中央委員会(ちょうせんろうどうとうだい6きちゅうおういいんかい、朝鮮語:조선로동당 제6차중앙위원회)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の執権政党・朝鮮労働党が1980年の第6回党大会で選出した中央委員会である。 目次 1 委員構成 1.1 1980年から2010年までの委員構成 1.1.1 政治局 1.1.2 書記局 1.1.3 軍事委員会 1.1.4 検閲委員会 1.1.5 中央検査委員会 1.1.6 中央委員 1.1.7

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オペレーションファクトリー – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “オペレーションファクトリー” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年7月) オペレーションファクトリーOperation Factory Inc. 種類 株式会社 市場情報 非上場 略称 オペレーションファクトリー 本社所在地 日本〒550-0014大阪市西区北堀江1-12-10

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浅香光代 – Wikipedia

浅香 光代(あさか みつよ、本名;北岡 昭子、1928年〈昭和3年〉2月20日[注 1] – 2020年〈令和2年〉12月13日[4])は、日本の剣劇女優。東京府東京市神田区(現:東京都千代田区神田)出身。血液型はB型。 愛称は「ミッチー」。内縁の夫はコメディアンの世志凡太。 10歳ぐらいの頃、浅香新八郎、森静子らの舞台劇団「新生国民座」に入団、森静子の森をとって芸名「小森昭子」をもらう[5]。1944年(昭和19年)、座長の浅香新八郎が急逝し新生国民座は解散する[6]。1945年(昭和20年)、阪東鶴蔵一座に入り「富士龍子」の芸名をもらう[7]。その後「浅香光代」と名乗り自分の一座を結成する[8][注 2]。 新劇団は以前からのプログラム演目に中堅看板役者達を引き継いだものの、知名度の無い劇団の人気は結団暫く低迷していたが、戦局悪化で曖昧な規制対象にされていた女剣劇の復活に携わると、たちまち人々の話題にのぼった。 浅香光代一座はやがて浅草や新宿などの芝居小屋で専属など長期興行を張る中堅人気劇団へ成長した。一座にはのちにてんぷくトリオで有名になる戸塚睦夫・三波伸介などが在籍しており[9]、その幕間には玉川良一らが客演していた。 1954年(昭和29年)、当時浅草で隆盛を極めていたストリップが公然猥褻罪で検挙されるようになると、それに代わる形で女剣劇が再注目され、昭和30年代に不二洋子、大江美智子、中野弘子らと共に女剣劇全盛時代の立役者となる[10]。 1958年(昭和33年)、最初の自叙伝である『女剣劇』(学風書院)を刊行。 1970年(昭和45年)に一座を解散[11]。以後は一女優として、劇の他にテレビのレポーターなどでも活躍した[12]。 1974年(昭和49年)2月から約1ヶ月アメリカを巡業[13]。同年、テレビ「モーニングジャンボ」(TBS)のリポーター、1977年(昭和52年)より「お昼のワイドショー」(日本テレビ)のレギュラーとなる[14]。 1979年(昭和54年)、「演劇舞踊浅香流」を創始[15]。 1987年(昭和62年)、第3回浅草芸能大賞を受賞[15]。 2006年(平成18年)、武蔵野学院大学日本総合研究所客員教授に就任。 2008年(平成20年)、文化庁長官賞を受賞。2009年(平成21年)、旭日双光章を受章[15]。

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三木汐莉 – Wikipedia

三木 汐莉(みき しおり、1991年12月25日 – )は、大阪府出身の元陸上競技選手。専門は短距離走と障害走。400mハードルの自己ベストは日本歴代9位の56秒92で、同種目の2011年神戸アジア選手権日本代表。400mハードルの元ジュニア日本記録保持者、4×400mリレーの元日本高校記録保持者でもある。 B型。四條畷市立田原中学校、東大阪大学敬愛高等学校、東大阪大学卒業。 中学生時代まで[編集] 陸上は中学から始める。小学生時代に友人と「中学に進学したら一緒に陸上部に入ろう」と約束したのがきっかけだった。中学時代は100mで大阪3-5番手の実力を持ち、近畿大会で3位に入った実績もあるが、全日本中学校選手権には出場できなかった[1]。 高校生時代[編集] 2007年、家から近くてトラック種目も強いなどの理由から東大阪大学敬愛高等学校に進学。ハードルは夏から始め、10月に日本ユース選手権の400mハードルで4位に入った。 2008年、7-8月のインターハイには100m・400m・400mハードル・4×100mリレー・4×400mリレーの5種目に出場すると、400mハードルを高校歴代6位タイ・高2歴代最高(ともに当時)の58秒79で優勝。アンカーを務めた4×400mリレーは3分41秒31の高校記録(当時)樹立と優勝に貢献し、大会2冠を達成して女子最優秀選手に選出された。10月には国民体育大会の400mでこの種目初の全国タイトルを獲得すると、ユースの選手ながら日本ジュニア選手権の400mハードルも制した。日本選手権リレーの4×400mリレーではアンカーを務め、3分41秒23の高校記録(当時)樹立に貢献した。 2009年、6月の日本選手権には100m・200m・400mハードルの3種目で初出場を果たした(結果は全て予選敗退)。7-8月のインターハイには200m・400m・400mハードル・4×100mリレー・4×400mリレーの5種目に出場すると、400mハードルはこの種目で女子選手初となる2連覇を達成[注 1]、アンカーを務めた4×400mリレーでも3分37秒86という驚異的な高校記録(当時)樹立と2連覇に貢献し[注 2]、2年連続となる大会2冠を達成した。10月には日本ジュニア選手権の400mハードルでも2連覇を達成し、2年連続で400mハードルの高校2冠を達成した。 大学生時代[編集] 2010年、4月に東大阪大学へ進学。6月に日本選手権の400mハードルで日本歴代7位・ジュニア日本記録(ともに当時)の57秒53をマークして4位。7月の世界ジュニア選手権で主要国際大会の日本代表と世界大会を初めて経験すると、3走を務めた4×400mリレーは他国の選手と接触してバトンを落とすミスが響き予選敗退に終わったが、400mハードルでは日本歴代6位・ジュニア日本記録(ともに当時)の57秒35をマークして銅メダルを獲得し[注 3]、世界ジュニア選手権の女子ハードル種目(100mハードル・400mハードル)で日本勢初のメダリストとなった。9月の日本インカレの400mハードルでは2位に終わり、大学1年目は大学の全国タイトルを獲得することはできなかったが、10月に日本ジュニア選手権の400mハードルで3連覇を達成した。 2011年、6月に日本選手権の400mハードルで56秒92の自己ベストをマークして初の表彰台となる3位。7月にはアジア選手権の400mハードルで初めてシニアの日本代表を経験して5位に入った。9月の日本インカレには5種目に出場し、アンカーを務めた4×400mリレーは優勝に貢献して大学の全国タイトルを初めて獲得したが、200mと400mハードルはそれぞれ2位に終わり、個人種目で大学の全国タイトル獲得を逃した。10月の日本選手権リレーは4×400mリレーでアンカーを務め、東大阪大学の初優勝に貢献するとともに、シニアの大会で初の全国タイトルを獲得した。 2012年、6月に日本選手権の400mハードルで2年連続の表彰台となる3位、日本学生個人選手権は200mで個人種目初となる大学の全国タイトルを獲得した。9月には日本インカレの400mハードルで初優勝を果たすと、アンカーを務めた4×400mリレーも2連覇に貢献して大会2冠を達成した。10月の国民体育大会は400mハードルで2位に入り、シニアの大会で個人種目の全国タイトル獲得まであと一歩に迫った。 2013年、9月に日本インカレの4×400mリレーで2位、10月に国民体育大会の400mハードルと日本選手権リレーの4×400mリレーでそれぞれ2位と、大学4年時はあと一歩のところで全国タイトルを獲得することはできなかった。

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マシーナ – Wikipedia

マシーナMachina 出身地 アメリカ合衆国アーカンソー州 リトルロック ジャンル オルタナティヴ・ロックオルタナティヴ・メタル[1] 活動期間 2005年〜現在 公式サイト Machina メンバー フィル・タイラー ジョン・ルコンプ サッド・エイブルズロッキー・グレイ 旧メンバー ジャスティン・カーダージャック・ワイズ マシーナ(Machina)はアメリカ合衆国アーカンソー州リトルロックのバンド。 バンド名には、ラテン語の“デウス・エクス・マキナ”から取られた「いかなる絶望的な状況においても、神の救いを借りて乗り越えることができる」という意味が込められている。 Machinaは一般的にマキナやマシナと読まれるが、このバンドはマシーナと発音する。 ギタリストのジョン・ルコンプが、フューチャー・リーダーズ・オブ・ザ・ワールドのボーカリスト、フィル・タイラーと共にリトルロックにて、2005年よりアコースティック・ユニットとして活動を開始。当初、彼らの関係は一時的なものであったが、やがて共作活動を始めることを互いに同意。影響を受けた音楽性の違いにも関わらず、信頼関係を結び、共に音楽活動を始める事となった。後にベーシストのサッド・エイブルズ、ドラマーのロッキー・グレイが加入し、4人編成となる。

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斑点米 – Wikipedia

斑点米(はんてんまい)は、米粒に茶褐色の斑点が残った米である。米の等級を決める農産物検査の規定では着色粒の中に分類される。主な原因は、水田周辺の雑草地などから飛来した斑点米カメムシ類が、稲の穂が出た後、籾からデンプンを吸い、その痕にカビが発生するためである。カメムシ斑点米ともいう。カメムシの体内にいる細菌・糸状菌が吸汁の傷口から米に感染して繁殖し、斑点状に変色する。被害が重ければ死米・しいなとなるが、斑点米になるのはむしろ被害が軽いものである。カビ毒などの生成はなく、混入程度も0.1〜0.7%程度と極僅かなので食味には影響しない、健康上も問題ないが、見た目が悪いため商品価値が下がる。対策は、農家段階では広い範囲での農薬散布による。精米段階では色彩選別機を用いて除去する。 他にカメムシを原因としない”クサビ米”もあるが、発生の原因はイネシンガレセンチュウ説、アザミウマ説、高温障害説などがあるものの詳細は明らかになっていない。 ここではもっぱらカメムシ斑点米について解説する。 カメムシの吸汁[編集] カメムシは口器が注射器の針のような細い管になっており、これを籾の中に差し込んで玄米からデンプンを吸う。出穂前は稲の茎からも養分を吸う。多数のカメムシが取りつきイネの育ちが悪くなる場合もあるが、この被害では斑点米は生じない。斑点米になるのは稲籾を吸われた場合である。籾を吸うカメムシは、差し込んだ口から唾液を出し、中の子実を溶かして吸い上げる。このとき、大型のカメムシは硬い籾殻のどの部分にも穴を開けられるが、口器が弱い小型のものは薄くなっている部分や隙間を狙う。 斑点米を作るカメムシは日本で65種知られているが、重要なものは10種余りで、気候による地域差と、時代による変化がある。東北地方に例をとると、1970年代にはオオトゲシラホシカメムシ、アカヒゲホソミドリカスミカメ、コバネヒョウタンナガカメムシの3種の被害が多かった。1980年代以降カスミカメムシ類の被害が増え、2000年代にはアカヒゲホソミドリカスミカメとアカスジカスミカメが最重要になった[1]。うちアカヒゲホソミドリカスミカメの被害は1970年代には北海道が中心だったが、1990年代から拡大し、東北地方北部と北陸に広がったものである[2]。 カメムシに吸汁された籾が、一様に斑点米になるわけではない。吸汁によって籾が重度の被害を受けると、死米となる。また、原因となるカビを体内にもっていないカメムシに吸われた場合、目に見えた違いがないので斑点米にはならない。カメムシによってカビを植え付けられ、そのカビが繁殖したものが斑点米になる。 斑点米カメムシ類は2000年に植物防疫法の『指定有害動植物』に指定されている。この指定により農水省は「斑点米カメムシ類の防除指導の徹底について」を通達し、全国の水田で薬剤防除が広く実施される切っ掛けとなった。 指定の根拠について、同省は2015年6月、山田太郎参議院議員の質問に対し「根拠となる文書は存在しません」と答えている。 着色粒と選別機[編集] 農林水産省は、水稲うるち玄米と水稲もち玄米の品位の等級を定めている。一等米は着色粒が全体の0.1%未満で、かつ、不良部分が全体の15%未満であることが求められる。二等米では着色米0.3%未満かつ不良20%未満、三等米は着色米0.7%未満かつ不良30%未満、それも満たせなければ規格外と分類される[3]。変色部分が0.1mmを超えると着色粒、未満なら被害粒に分類される[4]。 着色粒に対する基準が厳しいのは、見た目の悪さが市場価値を下げるためで、そのまま食べても健康上の問題はない。カメムシ被害は斑点米だけではなく、重度の被害で死米になったり、稲の生育不良を引き起こすこともあるが極稀である。だが現代の農家にとっての被害は、加害されて減収することよりも、わずかな混入で等級が下がることのほうが深刻である。 色彩選別機普及以前の米選機・自動選別計量機は、着色粒を取り除くことができなかった。着色粒はわずかな混入でも白米の中で目立ち、商品価値を低下させた。色彩選別機は、センサーカメラで着色粒を識別し、圧縮空気を使って一粒単位で弾き飛ばすことでこの問題を解決した。当初は高価でもっぱら精米工場に設置されてきたが、しだいに個々の農家にも手が届く価格になってきた。農家が消費者に米を直接販売しようとすると色彩選別機が選択肢に入ってくる。現在流通している米のほとんどは、元の等級にかかわらず、斑点米除去済みのものである[5]。 斑点米の対策[編集] カメムシの防除に現在もっとも有効とされているのは、農薬散布である。斑点米カメムシは稲で一年間を過ごすのではなく、周辺に生える他の草から飛来して被害を出すので、水田だけを対象にしては防除の効果は上がらない。付近の草むらまで含めた広い範囲の散布が必要になる。 カメムシだけに効き、他の昆虫に効かない殺虫剤はないので、広範囲の散布はその地域の昆虫全体に影響を及ぼす。農薬散布は日本でもミツバチの大量死の原因だと指摘されている[6]。殺虫効果が高く人体への影響が少ないとして1990年代から使用されているネオニコチノイド系農薬が特に悪影響を及ぼしているとする説もある。ミツバチ被害は、蜂蜜生産だけでなく、受粉を養蜂家に依頼する果樹園農家にも打撃を与える。そして、多種多様な昆虫とそれを食べる鳥類に及ぶ自然の生態系を攪乱する。農薬の禁止・制限を求める主張の中には、現行の米の等級基準が着色粒を重視しすぎていると問題視する声もある[5]。2004年に岩手県議会、2005年には秋田県議会が「農産物検査制度の見直しを求める意見書」を国に提出した[7]。 斑点米カメムシの一覧[編集] 『日本原色カメムシ図鑑』を基礎として作成した。注記がないものは同書による。 参考文献[編集]

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あなろぐ an@log – Wikipedia

『あなろぐ an@log』は、2006年10月7日から2011年3月5日まで岩手めんこいテレビで毎週土曜日に放送されていた生放送の生活情報番組。ハイビジョン制作。 番組タイトルはアナウンサーのログに由来する[1]。番組コンセプトは前身の『空飛ぶ三輪車』とほぼ同じで、岩手県内の衣食住やファッション、イベントなどの情報を中心に東京周辺の情報も伝える。店舗紹介VTRや特集コーナーなどを出演者のトークで紹介し、中継リポートを挟んだ構成となっている[2]。 2008年4月5日の放送からハイビジョンでの放送を開始し、司会陣を入れ替え、同社報道スタジオから放送を行う[3]などのリニューアルを行った。 前身番組の『空飛ぶ三輪車』同様、年に数回「スペシャル」として30分間延長し、インフォマーシャルを数本放送するほか、毎年12月31日には「大晦日スペシャル」と題して、3時間程度の特別番組を放送していた。 当初は2011年3月26日に最終回を迎える予定だったが、同年3月11日に発生した東日本大震災の影響で、3月12日以降の放送は報道特別番組に差し替えられ、同年3月5日の放送が実質的な最終回となった[4]。 放送時間[編集] 毎週土曜日 12:00 – 13:00(スペシャル版の場合は13:30まで拡大) 主なコーナー[編集] あな場 – 司会や同局アナウンサーが自ら出向いて飲食店を紹介する。 びゅうエクスプレス – 東京周辺の魅力を伝える。日曜に放送しているミニ番組をそのまま放送。 中継 –

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松聲堂 – Wikipedia

松聲堂(しょうせいどう)は、江戸時代後期から明治時代初期にかけて、甲斐国(山梨県)にあった郷学。当初の呼称は「西野手習所」。別称に「西野松聲堂」。 近世甲斐国における教育と西野村[編集] 甲斐国では近世初頭に甲府藩が成立し、藩主の甲府徳川家・柳沢氏は学問や和歌を嗜むなど好学の大名であったが、藩士を教育する藩校の設置は遅れた。 享保9年(1724年)に柳沢氏が転封となり甲斐一国が幕府直轄領化されると甲府町方は甲府勤番支配、在方は三分代官支配となった。寛政8年(1796年)には甲府城郭内に勤番士子弟の教育を行う江戸・昌平坂学問所の分校である徽典館(甲府学問所)が設置された。 一方、在方における教育は私塾や寺小屋が中心で、学識を有する在野の学者や文人、僧や神官、浪人などが庶民の教育を担っていた[1]。 郷学(ごうがく)は個人経営の私塾や寺子屋に対して藩や代官所、村などが設置し、村役人となる庶民の教育を担った教育機関で、郷校とも呼ばれる[2]。甲斐国では天保6年(1835年)に設立された松聲堂のほか、文政6年(1823年)に設立された八代郡市部村(笛吹市石和町市部)の由学館(石和教諭所)、嘉永4年(1851年)に設立された都留郡谷村(都留市谷村)の興譲館(谷村教諭所)がある。これらの郷学はそれぞれ石和代官所・谷村代官所に隣接してるが、西野村を管轄する市川代官所は八代郡市川大門村(市川三郷町市川大門)に所在し、西野村とは離れている。 松聲堂は甲斐国巨摩郡西郡筋に属する西野村(山梨県南アルプス市西野)に所在した。西野村は甲府盆地西部に位置し、南流する釜無川の右岸に立地する[3]。村の西側には南北に韮崎宿(韮崎市)と荊沢宿(南アルプス市荊沢)を繋ぐ駿信往還が通過する[4]。一帯は「原七郷」と称される乏水地帯で、水田よりも畑地が多かった[5]。1976年(昭和51年)に刊行された山梨県教育委員会編『山梨県教育百年史 明治編』において行われた寺子屋調査によれば、西郡筋の諸村では28件の寺子屋・私塾が分布していたという[6]。 松聲堂の設立[編集] 天保6年(1835年)2月に巨摩郡西野村の長百姓・幸蔵と佐次兵衛、同郡西花輪村(中央市西花輪)の長百姓・内藤清右衛門(景助)を中心とする有志により郷校設立が発起される[7]。西野村幸蔵は「油屋」の屋号を持ち商業に携わった人物で、天保年間には清右衛門とともに伊予国西条藩産の塩の移入を計画している[8]。 内藤清右衛門は『甲斐国志』編さんに携わった内藤清右衛門(禹昌、正輔、1751年 – 1831年)の子で、父の清右衛門は「藤屋西」の屋号を持ち商業に携わる一方で、花輪村に時習館を創設した。子の清右衛門も父とともに『甲斐国志』編さんに携わり、後に清右衛門を襲名して時習館の経営に携わった[9]。 天保6年2月に市川代官所に提出した願書では郷校設立の社会的意義を訴え、幸蔵が身元確かな人物であることを村役人や村人が保証し、手習所設置を求める幸蔵の意見に賛同する添書を出した[10]。さらに請書では手習所の建設・維持に関わる諸経費は各村の有志による募金で集め、建設予定地の小物成米は西野村が弁済することを明記した[7]。 設立資金は幸蔵と清右衛門が金20両、巨摩郡荊沢村(南アルプス市荊沢)の豪農・市川市右衛門が金10両を出資し、他の出資者とあわせて総額は140両と米4俵に及んだ[11]。さらに西野村では13箇条の連印状を作成し、西野村の曹洞宗寺院・宝珠院を仮校舎として開校された[11]。天保7年(1839年)4月には校舎が完成し、正式に開設する[11]。この頃には就学者も増加し、学校名を西野手習所から「松聲堂」と改める。 初代教授は松井渙斎(まつい かんさい、1806年 – 1854年)。渙斎は江戸出身の幕臣・儒学者で、甲府近郊の高室村(甲府市高室町)に居住し、西花輪村の私塾・時習館で教えた経歴を持つ。松井は徽典館学頭ほか、甲斐国内の多くの文人と交流している。現在の南アルプス市立白根東小学校には渙斎の肖像が所蔵されている。嘉永元年(1848年)に高齢により引退し、江戸へ戻る[11]。後任は宮浦東谷が務めた[11]。 宮浦東谷は武蔵国葛飾郡早生田村(東京都)出身。旧姓は「雨宮」、通称は庄左衛門、諱は義房、旧伊予国大洲藩士[11]。市川代官・小林藤之助の食客として市川大門村に滞在しており、明治4年(1871年)に死去[11]。宮浦の後任は学制発布まで徽典館の根岸好太郎が務めた[11]。

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