Month: January 2018

ポルシェ・908 – Wikipedia

ポルシェ・908(Porsche 908 )は1968年の国際自動車連盟 (FIA) のスポーツカー世界選手権規定改正に合わせてポルシェが製作したプロトタイプレーシングカーである。 1968年からFIAのレギュレーションが大幅に変更され、排気量3リットルまでのグループ6「スポーツプロトタイプ」と5リットルまでのグループ4「スポーツ」で争われることとなり、それまでフォードやフェラーリの大排気量車に対して不利な戦いを強いられて来たポルシェにとって総合優勝への道が開けた。そこでフェルディナント・ピエヒ率いるポルシェ技術部門は新たに2,997ccの水平対向8気筒エンジンを開発し、前モデル907の車体をベースとした908を開発した。 1968年途中にクーペモデルとしてデビューし、翌1969年にはスパイダーボディに改装され、ポルシェのメイクスチャンピオン初制覇の原動力となった。水平対向12気筒エンジンを搭載する917に主役の座を譲った後も、プライベーターの戦力として1980年代まで走り続けた。 バリエーション[編集] 908LHの可変フラップ 908[編集] 新開発のエンジンは2,997cc強制空冷式DOHC2バルブ水平対向8気筒(908型)。ボッシュの機械式燃料噴射システムを採用し、350hp/8,400rpm、32.5kgm/6,600rpmを発生する。カムはギアとチェーンで駆動される。このエンジンは1967年のムジェログランプリで910に載せてテストした2リットルDOHC水平対向6気筒エンジン(916型)から出発しており、従来の、1962年フォーミュラ1エンジンをベースとしシャフトとベベルギアでカム駆動している771/1型水平対向8気筒エンジンとは全く別物であった。 クランクシャフトは9メインベアリングで、クランクピンが90度ずれた2プレーンタイプ(771/1型は180度位相のシングルプレーン)。排気管の取り回しを優先した設計だったが、2次慣性力の振動に起因するオルタネーターの故障に度々悩まされる結果になった。冷却ファンは771/1型ではエンジンの上に水平に置かれていたが、908型では垂直に配置され、クランクシャフト前端からベルト駆動された。 トランスミッションはトルク増加に対応して5速から6速に変更された。クラッチはエンジンとトランスミッションの間からトランスミッション最後尾へと移された(1960年代初頭のフェラーリや1966年のBRMF1に採用例がある)。 シャシは基本的に907の構造を引き継いでいるが、13番目の個体以降はフレームの材質が鋼管からアルミニウム合金へ変更され、20kg軽量化された。タイヤは初期は13インチで、1968年シーズン途中から15インチが投入された。 ボディも907と酷似しており、ノーズのオイルクーラーのエアインテークが識別ポイントだった(907は長方形、908は長円形)。15インチタイヤ装着のため前後フェンダーを広げた結果、907よりも空気抵抗係数が悪化した。テールには左右2枚のフラップを備え、左右それぞれが別個にリアサスペンションと連動して仰角が変化する。1968年に日産・R381も似たコンセプトの2分割リアウィング(エアロスタビライザー)を採用しているが、日産式は左右がクロスして連動する機構である。直線では35度を保ちダウンフォースを発生するが、旋回中に車体がロールすると外側では角度が減りダウンフォースが減少、内側では角度が増えダウンフォースが増加する。これは1968年後半、ワトキンズ・グレンで初めて採用された。ワークスドライバーのヴィック・エルフォードによれば高速コーナーでは効果があるが低速コーナーでは意味がないという。 サルト・サーキットやモンツァ・サーキットなどの高速コースでは空気抵抗の少ないロングテール仕様908LHで出走した。テールの左右に小さな垂直安定板があり、それらを橋渡しするプレートの左右に可変フラップが付いているのが特徴的である。 908/2[編集] 1969年に施行された規則変更により、最低重量やラゲッジスペース、スペアタイヤ、ウィンドスクリーンの最小寸法などが廃止もしくは緩和された。グループ6でも屋根なしボディが認められたため、ポルシェは908を軽量なスパイダーボディへと改良した。「908スパイダー」と表記されることも多い。 エンジンはトラブルを解消するためシングルプレーンにされ、トランスミッションも通常のクラッチを持つ5速仕様に戻された。シャシはクーペから変更がないが、リアオーバーハングを切り詰めてフレームを省略した。初期にはフレームにクラックが入りやすかったため、不活性ガスを封入しダッシュボードに圧力計を置いた。車重は660kgから630kgへと大幅減。空気抵抗は増加し最高速は280km/hであったが、機動性は高く中速サーキットでは無敵となった。 シーズン後半戦のニュルブルクリンクでは風洞実験で改良された新型ボディが登場した。このボディは前後フェンダーアーチ間の抑揚がなくなり、のっぺりした印象から”Flounder”(ヒラメ)というニックネームで呼ばれた。他にも操縦席のウィンドスクリーンがなくなり、エンジン上方の開口部が閉じられたという違いもあった。

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マルガレータ・フォン・シュタウフェン – Wikipedia

マルガレータ・フォン・シュタウフェン(Margaretha von Staufen, 1237年末 – 1270年8月8日)は、ホーエンシュタウフェン家出身のシチリア王女で、テューリンゲン方伯アルブレヒト2世(後にマイセン辺境伯)妃。 マルガレータは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世とその3番目の妃イザベラ・オブ・イングランドとの間の娘である。1242年にテューリンゲン方伯アルブレヒト2世と婚約し、マルガレータの持参金としてプライセンラント(英語版)(アルテンブルク、ツヴィッカウなど)が与えられた。結婚式は1254年から1256年の間に行われ、夫妻は最初エッカルツベルガのエッカルツブルク城に住み、その後ヴァルトブルク城に移り住んだ。 夫アルブレヒト2世がクニグンデ・フォン・アイゼンベルクを愛妾とすると、マルガレータは1270年6月24日にヴァルトブルクを去ったが、その際にマルガレータは息子フリードリヒ1世の頬を噛んだといわれ、このときよりフリードリヒは噛跡公(der Gebissene)と呼ばれるようになったという[2]。マルガレータは最初クライエンブルク(英語版)に向かったが、そこからクロイツベルク修道院(現フィリップスタール)に移り、後にフルダに向かった。 最終的にマルガレータはフランクフルト・アム・マインに移ってヴァイスフロイエン教会に住んだが、その後まもなくして死去した[3]。第二次世界大戦で破壊されたヴァイスフロイエン教会を1953年に取り壊す際に発掘が行われ、約70の墓が確認されたが、マルガレータの墓は発見できなかった。 ハインリヒ(1256年3月21日 – 1282年1月25日から7月23日の間) – プライセンラントの相続人、シレジアで行方不明となった。 フリードリヒ1世(1257年 – 1323年) – マイセン辺境伯、チューリンゲン方伯

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大和民族 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “大和民族” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年2月) 大和民族(やまとみんぞく)は、日本列島の住民の大半を占める民族である。ほとんどが日本語を母語とし、日本列島に居住する民族である。和人(わじん)とも呼ばれる。日本列島の住民のうち、古代の大和朝廷や中世の武家政権の施政下にあった人のみを大和民族とし、近世に幕藩体制下に組み込まれた奄美群島および琉球諸島の琉球諸語を話していた住民を琉球民族、北海道に住むアイヌ語を話していたアイヌ民族と分類する考え方もあり、これらを総合して民族的日本人を指す場合は日本民族と呼称する場合もある。 起源[編集] 大和民族は、縄文時代以前から日本列島に住んでいた人々のうち、弥生時代に大和(奈良盆地の南東部)を本拠地とする人々を中心に形成されたヤマト王権(大和朝廷)に属する民族の呼称である。ヤマト王権の勢力拡大に伴い、一地域名であった「大和」が日本を広く指す呼称となり、民族名ともなった。ただし、ヤマト王権の成立過程は現段階でも明らかになっておらず、謎も多い。 大和民族の形成当初は九州地方の隼人や、東北地方の蝦夷が異民族とされていた。しかし彼らは中世以前に大和民族と完全に同化している。琉球諸島の住民は中世に独自の王朝を築いた歴史を持ち、日清両属状態を解消して完全に日本に組み込まれたのが明治になってからであるため今でも文化的異質性が残っている。 呼称[編集] 中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、邪馬臺國の親魏倭王卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしている。なお、現存する三国志の版本では「邪馬壹國」と表記されているが、晩唐以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説である。現代人の著作の多くは、それぞれ「壱」「台」で代用しているので、本稿でも「邪馬台国」「やまとこく/やまたいこく」と表記する。古くは中国より「倭」と呼ばれ、大和民族も「倭人」と書いて「ワジン」と自称したり、また「倭」を「ヤマト」と訓じるなどしていたが、やがて「倭」の表記は廃れ、代わりに「大和」の表記が一般的となった。 生物学的考察[編集] 明治期における人類学的な区分では、坪井正五郎が先史時代の先住民であるコロボックル、アイヌ(及び樺太アイヌ)、琉球民族、朝鮮民族・台湾漢人、台湾原住民などを除いた集合を大和民族と主張していた。当時はそのほかに、日本人には上流階級に多い長州タイプ・庶民に多い薩摩タイプという人種的区分が存在するという指摘がエルヴィン・フォン・ベルツらからなされることもあった。戦前の国定地理教科書でも、大日本帝国を構成する民族として、「朝鮮人」「支那民族」「土人」「アイヌ」とともに「大和民族」が挙げられている[4]。 父系[編集] Y染色体ハプログループの拡散 大和民族に連なる東アジアのY染色体ハプログループと民族移動

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スリラー (ミュージック・ビデオ) – Wikipedia

『スリラー』(原題: Michael Jackson’s Thriller)はマイケル・ジャクソンの楽曲「スリラー」のために制作された1983年のミュージック・ビデオ。これはジョン・ランディスが監督し、ランディスとジャクソンが脚本を書いた。このミュージック・ビデオは多くのホラー映画をオマージュしており、ジャクソンが主演してゾンビの群れと共にダンスを披露している。オーラ・レイがジャクソンの恋人役として共演した。このミュージック・ビデオはジャクソンの6枚目のアルバム『スリラー』(1982年)の発売1周年の2日後、1983年12月2日にリリースされた。 ジャクソンはランディスの映画『狼男アメリカン』(1981年)を観た後、彼にコンタクトをとった。二人は前作のミュージック・ビデオよりもふんだんに予算を使ってショート・ムービーを作る構想を持った。そしてロサンゼルスのダウンタウンにあるパレス・シアターで撮影を行なった。またメイキング映画の『Making Michael Jackson’s Thriller』がテレビ局へ販売するために制作された。 このミュージック・ビデオは熱烈な待望のもと公開され、MTV で連日流された。アルバムの売り上げは倍増し、史上最も売れたアルバムとなり、ミュージック・ビデオ自体も VHS で100万本以上売れ、当時最も売れたビデオテープとなった。この『スリラー』は、ミュージック・ビデオというジャンルを真のアートへと進化させたこと、大衆娯楽における人種の壁を取り払ったこと、メイキング映画を一般的なものとしたことで意義があった。このヒットにより、ジャクソンは大衆文化において世界レベルで圧倒的な影響力を持つに至った[3]。 このミュージック・ビデオの多くの要素が大衆文化へ永きにわたる影響を及ぼしてきており、例えばゾンビ・ダンスや、ランディスの妻であるデボラ・ナドルマン(英語版)がデザインしたスリラー・ジャケットといったものが挙げられる。世界中のファンがそのゾンビ・ダンスを再現し、それは YouTube でもよく見られる。アメリカ議会図書館は『スリラー』を「史上最も有名なミュージック・ビデオ」としており、様々な出版物や読者投票で史上最も偉大なミュージック・ビデオとして挙げられている。2009年に『スリラー』は「文化的・歴史的・審美的」に重要な作品として、アメリカ国立フィルム登録簿に収録された初めてのミュージック・ビデオとなった。 あらすじ[編集] 舞台は1950年代。マイケルと若い女性(オーラ・レイ)の乗った車が、木の茂った一帯でガス欠になる。二人は森の中に歩み入り、マイケルは彼女に交際を申し込む。彼女はマイケルに抱きつき、マイケルは彼女の指に指輪をはめる。嬉し気な彼女。ところが、マイケルが自分は「他の男とは違う」のだと忠告すると、満月が姿を現わし、マイケルは叫び、うなり、彼女に向かって「あっちへ行け!」と吠える。マイケルは狼男へと姿を変え、彼女に襲いかかる。 実はこれは映画のワンシーンであり、マイケルとガールフレンドが映画館でそれを観ているのだと分かる。彼女は映画が怖くなり、席を立って外に出る。道すがら、マイケルは「スリラー」のフレーズを歌い踊りながら彼女をからかう。二人が墓地を通り過ぎると、ゾンビたちが墓穴から這い出して来る。二人はゾンビたちに取り囲まれ、マイケルもゾンビになってしまう。マイケルとゾンビの群れが曲に合わせて踊る。 マイケルとゾンビたちは彼女を空き家へと追い詰める。彼女は悲鳴と共に目を覚まし、それが只の悪夢だったと知る。マイケルは彼女を抱擁するが、カメラに向き直るとニヤリと笑い、その目が狼男のそれだと分かる。 資金調達[編集]

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山県昌景 – Wikipedia

山県 昌景/山縣 昌景(やまがた まさかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の武将。甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。後代には武田四天王の一人に数えられる。 武田家の譜代家老飯富虎昌の弟とされているが、甥であるとも言われている(詳細は後述)。 戦国時代の飯富氏の一族では武田信虎家臣・飯富道悦の子息とみられる「源四郎」が永正12年(1515年)10月17日に西郡の国人・大井信達との合戦で死去している[1]。この「源四郎」は山県昌景の仮名と一致するため、「源四郎」は虎昌・昌景の父親にあたると考えられている[1]。 『甲陽軍鑑』に拠れば、昌景ははじめ武田信玄の近習として仕え、続いて使番となる。『甲陽軍鑑』では晴信期の信濃侵攻における伊奈攻めにおいて初陣を果たし、神之峰城攻めで一番乗りの功名を立てたとし、天文21年(1552年)、信濃攻めの功績により騎馬150持の侍大将に抜擢される。その後も虎昌に勝るとも劣らない武者振りを発揮し、「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われたとしている。 確実な初見史料は弘治2年(1556年)8月2日で、昌景は飯富源四郎として水科修理亮に対し与えられた信濃善光寺との往来に関する諸役免許の朱印状奏者を務めている[2]。 永禄6年(1563年)、三郎兵衛尉を名乗る。その後も順調に戦功を挙げて、譜代家老衆に列せられて300騎持の大将となったという。 永禄7年(1564年)7月には飛騨国に侵入し、江馬氏、三木氏を降している(『江馬家後鑑錄』)。 永禄8年(1565年)10月には信玄の嫡男・武田義信と彼の傅役だった虎昌が謀反を起こし、同15日に虎昌は成敗されたという(義信事件、高野山成慶院『甲斐国過去帳』)。『甲陽軍鑑』によれば、昌景は血族である虎昌が関与している事を承知の上でこれを信玄に訴えたという逸話を記している。この功績により虎昌の赤備え部隊を引き継ぐとともに、飯富の姓から信玄の父・信虎の代に断絶していた山県(山縣)氏の名跡を与えられて山県昌景と名を改めたといわれ、永禄9年8月時点での改姓が確認される。昌景は原昌胤ともに武田家の政治職である「両職」を務めたとされているが、文書上からは確認されない。 その後も西上野侵攻における箕輪城攻略戦、駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)、甲相同盟の破綻後の相模後北条氏の戦いなどに参加したとされるが、文書上では主に信玄側近として諸役免許や参陣命令、寺社支配など武田氏朱印状奏者としての活動が確認されるほか、美濃国の遠山氏、陸奥国(会津)の蘆名氏、三河国徳川氏など遠方国衆や松尾小笠原氏、室賀氏、赤須氏などの信濃国衆や三枝氏、横田氏など甲斐武田家臣との取次を務めている。永禄12年(1569年)には駿河江尻城代に任じられた。 元亀2年(1571年)に武田氏は大規模な遠江・三河侵攻を行い、昌景は山家三方衆ら奥三河の国衆を服属させ、抵抗した菅沼定盈に対しては同年4月28日に居城・大野田城を押し潰し、定盈を退散させ、さらに吉田城を攻囲したとされるが、近年はこの元亀2年の侵攻は根拠となる文書群の年代比定が天正3年に下り、一連の経緯は長篠の戦いの前提である可能性が指摘されている[5]。 『当代記』によれば、元亀3年(1572年)10月、信玄が「西上作戦」を開始すると、秋山虎繁とともに別働隊を率いて信濃から三河に侵攻したという[6]。武田氏に従属した菅沼氏や奥平氏など奥三河国衆は山県の指揮下に組み込まれていたため、これらに先導させて三河東部の長篠城経由で浜松方面へ進軍する。三河八名郡の柿本城、更に越国して遠江の井平城も落とし南進し、浜松城を圧迫する下地作りを完了させた上で信玄本隊に合流した。同年12月22日には武田勢と三河の徳川家康との間で三方ヶ原の戦いが発生し、『甲陽軍鑑』では山県勢が崩れかかったところを武田勝頼が助けたとする逸話を記している[6]。 元亀4年(1573年)4月12日、信玄は信濃伊那郡駒場において死去する。『甲陽軍鑑』によれば、信玄は「わしの死を3年間秘せ。そして勝頼を補佐してくれ」、「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺命を託され、馬場信春とともに重鎮の筆頭として信玄の嫡子・武田勝頼を補佐することになった。しかし、勝頼との折り合いは悪く、疎まれたという。 勝頼の家督相続後、天正元年(1573年)8月21日には三河長篠城(愛知県新城市)への後詰の指揮を命じられている[6]。 明知年譜によると、天正2年(1574年)、武田勝頼の東美濃侵攻における明智城をめぐる戰いでは、救援に来た織田信長本隊3万人に対し山形は6000人の別働隊を任され、山岳地帯の地形を利用して撃退した。戦闘では退却する信長軍を追撃して4里退かせ、信長の周囲を固めた16騎のうち9騎が打ち取られて7騎が逃げ出すなど、一時は信長を瀬戸際まで追い詰める場面もあったという。 長篠の戦い[編集] 『甲陽軍鑑』『当代記』によれば、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは山県や内藤昌秀、馬場信春、原昌胤らが撤退を進言したが、勝頼と側近の長坂光堅(釣閑斎)・跡部勝資が決戦を主張し、勝頼は決戦を決断したという。 そして5月21日の設楽原決戦では、『甲陽軍鑑』や『長篠合戦図屏風』によれば内藤、原らと武田軍左翼の中核を担ったという[8]。『甲陽軍鑑』によれば、山県は300騎を率い、駿河の朝比奈氏、信濃の松尾小笠原氏、相木依田氏、大熊氏、三河の田峯菅沼氏、長篠菅沼氏、遠江の三浦氏、孕石氏らの国衆を相備にしていたという。

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突攻! メイドサンダー – Wikipedia

『突攻! メイドサンダー』(とっこうメイドサンダー)は、やぎさわ景一による日本のギャグ漫画作品。秋田書店の月刊漫画雑誌『チャンピオンRED』に、2006年5月号より2008年8月号まで連載された。単行本はチャンピオンREDコミックスより刊行。全3巻。 あらすじ[編集] 両親が海外赴任とその付き添いに行ったため、一人暮らしを始めた男子高校生、山田雅人。だがその初日の朝、電話で両親から雅人のためにメイドを頼んでいたことを明かされる。そして雅人の家にやってきたメイドは、なぜか木刀と晒の似合う金髪特攻服の女性、サンダー摩騎こと山田摩騎であった。 登場人物[編集] 山田 雅人(やまだ まさと) 主人公。両親によって派遣された摩騎に振り回されている。性格は風紀委員なだけあってか、堅物。学校での成績はいいが、テストの結果や成績が落ちると親からの小遣いも極端に減らされる。好物は蟹クリームコロッケ。 山田 摩騎(やまだ まき) 「サンダース家政婦派遣所」から雅人宅に派遣されたメイド。通称「サンダー摩騎」。風貌と性格はメイドというより、ヤンキーである。ただしメイドとしての実力は高く、何だかんだで雅人へのメイドとしての忠誠心は高い。メイドのことを冥怒と呼ぶ。さらしの上からでも分かるほどのグラマラスな体形であるが、本人はあまり自覚していないようで、ときに不用意な発言で美紀や香奈を傷つけている。雅人と同姓なのはただの偶然なのか、なにか理由があるのかは謎。大の酒豪だが、飲むと酒癖として男女かまわずキスしてしまうキス魔と化す。 小学生時代に紅緒の性根を叩きなおした実力を持ち、不良学生や街のゴロツキ、果ては他の冥怒も簡単に倒し、ティーガーの戦車さえ素手の一撃でバラバラにする、サンダース家政婦派遣所の冥怒の中でもトップクラスの戦闘力を持っているが、唯一阿利阿にだけは頭が上がらない。 風間 美紀(かざま みき) 元風紀委員長(作品途中で卒業)。雅人に片思いをしている。腹黒い一面がある。ゲーム好き。しかしながら家事については壊滅的な散らかし魔で協調性も皆無。 香奈が登場するまではこの作品一の貧乳体型だった。雅人が同居するグラマーな摩騎に誘惑されないかと気が気でない。 青葉

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大阪府立体育会館 – Wikipedia

大阪府立体育会館(おおさかふりつ たいいくかいかん)は、大阪府大阪市浪速区難波中三丁目にある体育館である。施設命名権契約により、2015年9月1日から愛称を「エディオンアリーナ大阪」としている(後述)。 1951年9月に大相撲大阪場所が催された仮設国技館の敷地を活用し、1952年に飛行機用格納庫の骨組みを使った鉄骨製の体育館として竣工した。1985年に施設の老朽化に伴う全面改築工事を実施し、1987年に現在の大阪府立体育会館が竣工し、施設名を「体育館」から「体育会館」に改めた。 主に大相撲の三月場所(春場所)をはじめ、プロボクシング、プロレスなどの格闘技、黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会、プレミアリーグ、Bリーグの試合会場として利用され、隣接する大阪市立浪速スポーツセンターとともにスポーツ拠点となっている。 2006年4月1日に南海電気鉄道が指定管理者に選ばれ、運営管理全般を子会社の南海ビルサービスが受託[1]、2021年4月1日からはシンコースポーツ・NTTグループに指定管理者が変更された[2]。 施設命名権[編集] 2008年に大阪府の橋下徹知事が、財政改革の一環で大阪府立体育会館の売却と廃止の方針を出した後に撤回して存続が決まったが[3]、存続条件として運営費削減などの改善措置が求められた。この一環として施設命名権の売却が検討され、大阪府吹田市に本社を置き、スポーツ用品の製造・販売を行うBB-SPORTS(現:ボディメーカー)が命名権を取得。2012年3月に、施設名が「BODYMAKERコロシアム」(ボディメーカーコロシアム)に変更された。契約期間は2015年3月までの3年間[4]で契約更新条項もあったが、契約満了時にBB-SPORTSとの契約を更新せず、4月1日に一旦元の正式名称に戻した。 2015年6月17日に大阪市北区に本社を置く家電量販店のエディオンと命名権契約を9月1日から3年間[5]結び、「エディオンアリーナ大阪」に変更すると発表した。当初は3年間の予定だったが、2018年4月13日付で5年間延長する契約を締結、2023年8月31日まで、この名称が継続される[6]。 大相撲、プロレス、ボクシング世界戦などが行われる第1競技場のほか、地下に第2競技場、その他に柔剣道場などがある。 プロレスや格闘技イベントで、固定席が3000席を超える第1競技場で興行実績があるのは、現存する団体では新日本プロレス、全日本プロレス、プロレスリング・ノア、DDTプロレスリング、大阪プロレス、DRAGON GATE、スターダム、WWE、RIZIN FIGHTING FEDERATION、K-1 WORLD GP JAPAN、RISEで、ほかの団体は面積は狭いが施設使用料が安い第2競技場を使用している(デスマッチも可能だが、国技館と同様、蛍光灯・ガラス・画鋲など破片等が飛散する凶器の使用は禁止)。ボクシング世界戦では2009年9月の名城信男対ウーゴ・カサレス戦のみ第2競技場で行われた。第2競技場は西日本新人王決勝戦も開かれている。 第1競技場 – フロア面積:3,010m2(70m×43m)、固定席:3,131席、移動席:3,000席 第2競技場

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サムニウム – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “サムニウム” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年6月) サムニウム(羅:Samnium)とは、古代ローマ時代においてイタリア半島のアペニン山脈南部の地域を指す。この地に居住する部族はサムニウム人(英:Samnites)と呼ばれていた。ラテン民族を統合したローマが南方へと進出してきた際にローマ人の敵として長らく対立、サムニウム戦争と呼ばれる戦争を通じてローマと戦うが、敗北しローマ人と同化した。 サムニウム人はオスク・ウンブリア語群に属し、紀元前600年頃から紀元前290年頃まで勢力を保持した。彼らの居住した範囲は、北はラティウム地方と接し、南はルカニア地方、西はカンパニア地方、東にはアプリア地方と面している険しい山岳地を中心とする地域であった。 彼らは多数の部族から構成され、その細かな部族の緩やかな連携を基とした連合組織を政体としていた。ほとんどの時代を、彼らは領土拡張の意思を持たない山岳部族として過ごしたが、ほんの短期間においてイタリアの東西の沿岸にまでまたがる地域を支配した時期もあった。ローマのような突出した権力体制を持たなかったが、中心的な都市としてローマの記録に残っているものに、ボワイアモム[1]、マルウェントゥム[2]の名が記されている。 しばしば王政ローマ、共和政ローマと争い、その中でも最大のものはサムニウム戦争と呼ばれ、長期間にわたってローマと抗争、「カウディウムの屈辱」に代表されるようにしばしばローマ側が劣勢に立たされ降伏することもあった。しかしながらローマとの和睦が成立した後では、同盟市戦争のような例外はあったものの、ローマとの融合が進み、古代ローマ人として同化していった。 剣闘士には「サムニウム闘士(Samnis)」と呼ばれるサムニウム人の武装を模した鎧を身につける者がいた。 サムニウム人の部族[編集] サムニウム人は主に4つの部族に分かれる。 なお上記の4部族に加えて、のちにもともとサムニウム人と親密であったフレンタニ族もサムニウム人の連合の中に入っていたとする説もある。 しかしながら、この部族を明確に分ける境界線は甚だ曖昧で、また著述される歴史記述もサムニウム人がローマ人と同化して久しい後世帝政ローマ時代のものがほとんどで、以上の4つの部族がサムニウム人としてひとくくりに解釈される例、あるいはサムニウム人とは別の部族であるとの記載される例もしばしば見られる。またこの部族内に属する集団がどの範囲までに及んでいたかの定義も曖昧で、明確には分からないことも多い。 ^ Bovaiamom、のちにラテン人によってボウィアヌム

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ドクターA7 – Wikipedia

ドクターA7とは、1998年に山佐から発売されたパチスロ機である。 ゲーム性[編集] 通常の5ラインに加えて上・中・上、下・中・下の2ラインが追加されている7ライン機である。このラインでも小役やリプレイ、ボーナスが普通に揃う。 0枚役のオレンジが揃うとドクターチェックの演出が起こる。ビッグウエーブのイカチェックと同様に12連LEDが1から光っていき、最終的に10以上に止まるとボーナス確定。12までいくとBIG確定。ビッグウエーブとの違いは7ライン機らしく追加ラインでオレンジが揃ってもチェックがスタートする。 もちろんリーチ目も充実している。ボーナス図柄の並びや左リールのオレンジをチェリーに見立てたチェリー付きハサミ目などある。また、この機種の特徴的なリーチ目として「中リール上段7」「中リール中段BAR」「中リール下段博士」の小役はずれでリーチ目となる。 7ラインの特性を生かし、ビッグボーナス確率は最低設定で1/202、最高設定で1/176となっている。同時発売のアストロライナー7より確率が良い。 ビッグボーナス中のジャックイン確率が1/10と低く、確率上4割弱程度でパンクが発生する。これは高いボーナス確率と表裏一体のデメリットであり、また、その性質上獲得枚数が安定しないことから賛否両論の元となる点といえる。 奇抜なゲーム性、不思議とインパクトがあるレギュラーボーナス中のBGMなど印象深い機種となったようで後続機種は作られていないものの、タイムクロスAやタイムパーク、サイバードラゴン、ネオプラネットXX、祭の達人 ウィンちゃんの夏祭りなどの機種にプレミアムキャラとして登場。また、タイムレスキュー、タイムクロス2ではタイム博士の敵役として登場している。 本機キャラクターを使用したA-Cタイプの『ドクターAC』も形式試験を通過していたが、こちらはお蔵入りとなった。 ボーナス確率・機械割[編集] 設定 BIG REG 機械割  1 1/202.3 1/606.8  94.3%  2

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Ar 240 (航空機) – Wikipedia

アラド Ar 240 (Arado Ar 240) は第二次世界大戦時にドイツで試作された、双発プロペラの戦闘機/偵察機である。 Bf 110の後継機として開発されたが、飛行安定性が極端に悪いことが原因で量産されることなく終わった。試作機の一部は実戦テストも兼ねて、偵察機として部隊で運用された。 1938年にドイツ航空省が提示したBf 110の後継機仕様に基づいてアラド社で開発されたのがAr 240で、試作1号機は1940年5月に初飛行した。 Ar 240はDB601Aエンジンを搭載した双発複座機で、ダクテッド・スピナーの採用、胴体後端に装備したダイブブレーキ、高翼面荷重による離着陸性能低下を補うダブルスロッテッド・フラップ、胴体上部後方に遠隔操作式の銃頭装備などの新機軸を盛り込んだ機体だった。試作2号機からはコクピットが機首に移され、7号機からはドイツ戦闘機としては初めて与圧キャビンを装備した。主車輪が不整地での運用を考慮してダブルタイヤになっていたのも特徴の一つだった。 しかしテストの結果は、速度性能は同じ仕様に基づいて開発されたMe210よりも優れていたが、飛行安定性が極端に悪くまた機体各部に不具合があり駆逐機としては失格と評価された。アラド社では胴体を延長するなど改修を進めたが、結局本機は戦闘機ではなく偵察・爆撃機として開発されることになり、試作3号から8号機まではこの仕様で製作された。これらの機体は試験的に東部戦線や北欧、イタリアで偵察任務に用いられたが、安定性の悪さは相変わらずだった上に故障も多く満足な活躍は出来なかった。その後、本機の高速性能を生かして再度戦闘機として開発することになった(先に採用されたMe210が欠陥機だったことも一因である)が、目だった性能向上も見られなかったことから1943年に開発中止となった。総生産機数は14機(12機、16機説もある)であった。 Ar 240が性能的に不満足な機体となったことから、アラド社ではAr 240の改修を進めながら、新たに発展型のAr 440の開発に着手した。Ar 440は基本構造はAr

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