Month: November 2018

テニール・ダッシュウッド – Wikipedia

テニール・ダッシュウッド(Tenille Averil Dashwood、1989年3月1日 – )はオーストラリアの女子プロレスラー。ビクトリア州メルボルン出身。 幼少期よりプロレスラーになる事を志し、2005年よりシドニーを拠点とする団体であるPWA(Professional Wrestling Alliance)にてバレンタイン(Valentine)のリングネームでトレーニングを開始。 2007年、プロレスラーとして自身を高める為にカナダへと渡り、アルバータ州カルガリーを拠点としてWCW、WWEなどのアメリカのメジャー団体で活躍したランス・ストームが主宰するストーム・レスリング・アカデミーに入門した。 ストーム・レスリング・アカデミー卒業後、2009年2月10日、オーストラリアへと凱旋帰国してSWA(Showtime Wrestling Alliance)にてテニール・タイラ(Tenille Tayla)のリングネームで出場し、ジェシー・マッケイと対戦するが敗戦した。 5月2日、アメリカの女子団体としてはメジャーに位置するSHIMMERにテニール(Tenille)のリングネームで参戦。レイナ・ヴォン・トッシュと組んでレキシー・ファイフ & マリア・ホサカのベテランタッグを相手にするも敗戦。同日にはアンバー・オニール、そして3日にはレインといった実力者に連敗するも、同3日のジェッタとの若手対決において勝利した。 同月22日、NWA加盟団体でブリティッシュコロンビア州を拠点とするECCW(Extreme Canadian Championship Wrestling)に本名名義で参戦。初参戦ながらECCW女子スーパーガールズ王座挑戦権試合に出場し、ニコル・マヒューズに勝利して挑戦権を獲得。29日にECCW女子スーパーガールズ王者であるベロニカ・バイスに挑戦するもベルトを奪取する至らなかった。8月1日、ECCW女子スーパーガールズ王座を賭けたトリプルスレットマッチにてベロニカ・バイス、ニコル・マヒューズと対戦して勝利し、ベルトを奪取した。この試合以降、ベロニカ・バイスとは因縁が生まれ、ベルトを巡って抗争を展開。

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小室瑛莉子 – Wikipedia

こむろ えりこ 小室 瑛莉子 プロフィール 出身地 日本 ・神奈川県 生年月日 (1999-03-02) 1999年3月2日(23歳) 血液型 A型 最終学歴 青山学院大学経営学部 勤務局 フジテレビジョン 部署 編成制作局アナウンス室 活動期間

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日本のカレー – Wikipedia

日本のカレー(にほんのカレー)は、カレーライス(ご飯の上にカレーをかけたもの)、カレーうどん(麺の上にカレーをかけたもの)、カレーパン(カレーの入ったパン)の3つの形で提供されるのが一般的であり、日本料理で最も一般的な料理の一つである。ごく一般的なカレーライスは、単にカレーと呼ぶことが多い[1]。 日本のカレーは、ソースと一緒に様々な野菜や肉を使って作られる。基本的な材料のうち野菜としては玉ねぎ、にんじん、じゃがいもが、肉としては牛肉、豚肉、鶏肉が挙げられ、これらの一般的な食材は根強い人気を誇る。カツカレーは、パン粉で揚げたカツレツ(通常は豚肉または鶏肉)に日本のカレーソースをかけたものである[2]。 カレーはインド料理が起源で、イギリス人によってインドから日本にもたらされた。大日本帝国海軍が脚気対策としてカレーを採り入れ、その伝統を引き継ぎ現在でも海上自衛隊の金曜日のメニューがカレーになっている[3]。 日本初のカレーライスレシピ。西洋料理通(1872年)、仮名垣魯文 カレーが日本に伝わったのは明治時代で、インド亜大陸が大英帝国の植民地支配下にあった時代である[4]。1870年代には日本でもカレーが食べられるようになり、日本人の食生活の食物となった[5]。カレーが日本人に人気が出始めたのは、20世紀初頭、日本の海軍や陸軍にカレーが採用されてからである[6]。日本陸海軍で好評を博した後、学校給食でも食べられるようになった。2000年代には、寿司や天ぷらよりもカレーの方が頻繁に食べられるようになった[7]。 インド亜大陸で出されるものと同様のカレーは、中村屋カレーとして知られている。ラース・ビハーリー・ボースが日本での亡命生活中に東京の中村ベーカリーでカレーの販売を始めたのがきっかけで日本に紹介された[8]。 ソースとライス[編集] カレーソースは、炊き上がったご飯の上にカレーソースをかけてカレーライスを作る[9]。カレーソースは、カレー粉、小麦粉、油などを炒めてルーを作り、煮込んだ肉や野菜に加えてとろみがつくまで煮込んだものである[10]。圧力調理も可能である。カレーソースにじゃがいもを加えることは、当時の米不足のため札幌農学校のウィリアム・スミス・クラークによって導入された[11]。 日本の家庭では、カレーソースといえば、カレー粉、小麦粉、油、各種調味料などが入ったブロックや粉状のインスタントカレールーを使って作るのが一般的である。準備がしやすく、インスタントカレーミックスの種類が豊富で手に入れやすいことから、カレーライスは他の日本料理に比べて非常に簡単に作れて、人気が高まっている。真空パックに入っており、熱湯で温めなおすことができる、あらかじめ作られたカレーがある。また、カレールーを一から作る人のために、「和風カレー」の味を出すために特別に配合されたカレー粉もある[12]。 ブロック状のカレールー インスタントカレールーは、1926年にハウス食品から粉末状で、1956年にエスビー食品からブロック状で販売された。2007年のインスタントカレールーの国内出荷額は827億円である[13] 2007年の家庭用シェアは、ハウス食品(59.0%)、エスビー食品(25.8%)、江崎グリコ(9.4%)がほぼ独占している[14][15]。カレーは、テレビゲームやアニメのキャラクターを使って、子供向けに販売されている[16]。 また、レトルト食品をお湯や電子レンジで加熱して作る真空パックのカレーソースも人気がある。2007年現在、カレーソースは真空包装食品の単一カテゴリーとしては国内最大で、売上の3割以上を占めている[17]。 おかずと付け合わせ[編集] カレーライスは通常、 福神漬けやらっきょうが添えられているのが一般的である[18]。 シンガポールの牛肉の千切りカレーライス カツカレー: カレーライスの上にカツが乗っているもの。 ドライカレー:

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宗教裁判官 (ベルリオーズ) – Wikipedia

序曲『宗教裁判官』(しゅうきょうさいばんかん、フランス語: Les francs-juges)作品3(H.23d)は、フランスの作曲家エクトル・ベルリオーズが1826年に作曲した管弦楽曲である。なお、本作はオペラ『宗教裁判官』の序曲であるが、オペラ自体は未完に終り、序曲のみが残された。本作は友人の指揮者ナルシス・ジラールに献呈された[1]。1828年5月26日にパリ音楽院ホールにおいて『ウェイヴァリー』など他の自作と共にブロックの指揮によって行われた[2]。 友人のアンベール・フェラン(Humbert Ferrand)と計画し、未完に終わったドラム・リリック『レオノール、あるいは最後の宗教裁判官』(Leonore, ou les derniers Francs-Juges)のためもの。劇の諸テーマを提示する序曲のみがベルリオーズによって公開された。『宗教裁判官』のために書かれた序曲以外の断片の一つは再利用されて、『幻想交響曲』に組み入れられて、固定楽想の導入と幾つかの変更も加えて《断頭台への行進》となった[3]。また、『葬送と勝利の大交響曲』の第2楽章「追悼」についても、本作の一部が転用されている[4]。また、シュザンヌ・ドゥマルケ(英語版)によれば、本作の第2主題は『フルート五重奏曲』の中のフルートに委ねられたメロディに他ならない。ベルリオーズに関する限り、創造されたものは何であれ、無駄なものは何もないと言う[5]。 曲の構成[編集] ベルリオーズの他の序曲同様、2部構成(緩やかな導入部と2つの主題を持つアレグロ)である。巧みに準備されたクレッシェンドで終わる極めてダイナミックな作品はグルックとウェーバーの影響が感じられる[6]。 まず、追放に処せられたレノール公を表す動機がアダージョ・ソステヌート、ヘ短調で木管と弦によってpp(ピアニッシモ)で始められ、その嘆きは次第に強まり、ff(フォルティシモ)に達すると、突然ppとなって弦は優しく遠く離れたものを想起する。だが、これを遮るものは3管のトロンボーンとオフィクレイドを加えた管楽器のユニゾンでの激しい動機である。音楽史上こうした管楽器の使い方は未だかつて前例のないことである。これはレノール公を迫害する宗教裁判官の恐ろしい力を示すものなのである。中間部では抑圧される側と宗教裁判官たちとの激しい戦いが暗示され、最後は目まぐるしい戦いの内に、迫害された側が勝利を得て、希望を見出す[7]。 演奏時間[編集] 約13分。 ^ 『作曲家別名曲解説ライブラリー19ベルリオーズ』P53 ^ 『作曲家別名曲解説ライブラリー19ベルリオーズ』P53 ^ 『ラルース世界音楽事典』P789

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ハンス・ニベル – Wikipedia

ヨハン・”ハンス”・ニベル(Johann “Hans” Nibel、1880年8月31日 – 1934年11月25日)は、ドイツの自動車技術者である。ベンツ社(ドイツ語版)、後にダイムラー・ベンツ社で技術者と取締役を務め、技術面と経営面の両方の分野で活躍した[W 1]。 車両開発の分野では、名車とされる車を多く残している人物だが、速度記録車のブリッツェン・ベンツ(1909年)、大型高級リムジンの「グロッサー・メルセデス」ことメルセデス・ベンツ・770/770K(W07。1930年)、小型車のメルセデス・ベンツ・170(W15。1931年)、グランプリカーのメルセデス・ベンツ・W25(1934年)は特に有名である[W 1]。 父がオーストリア=ハンガリー帝国メーレン地方のオレシャウ(後のチェコ共和国モラヴィア地方のオルシャニ(英語版))で製紙工場の所長をしていたことから、ニベルは同地で生を受けた[W 1]。 父親の仕事の影響で子供の頃から工業技術に興味を持ち、学校に通うようになると、数学、物理学、絵画で非常に優れた成績を収めた[W 1]。長じて、ニベルはミュンヘン工科大学へと進み、工学の学位を得て卒業した[W 1]。 ベンツ社[編集] さまざまな機械工場に勤めて専門的な技能を学んだ後、1904年3月1日にベンツ社(Benz & Cie.)に入社して、設計者として働き始めた[W 1]。 ニベルの最初の仕事はパルシファル(ドイツ語版)の改良だった[1]。ニベルはそれまでベンツ車で好んで使用されていた2気筒のエンジンを廃止させ、4気筒のエンジンを新たに設計した[1]。そうして、それまで18馬力だったエンジン出力は1904年中に80馬力にまで高まった[1]。 ニベルの出世は早く、入社してほどなくデザイン部門の副チーフとなり、1908年に28歳の若さで設計部門の責任者に昇進した[W

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ジガ・ヴェルトフ集団 – Wikipedia

ジガ・ヴェルトフ集団(英語:The Dziga Vertov Group、仏語:Groupe Dziga Vertov、1968年 – 1972年)は、かつて存在したフランスの映画作家集団である。ヌーヴェルヴァーグの中心人物であったジャン=リュック・ゴダールがいわゆる彼の「政治の時代」に、同グループの名のもとに匿名で政治的映画を集団的に製作、発表したことで知られる。 来歴・概要[編集] 1968年、ジャン=リュック・ゴダールとジャン=ピエール・ゴランを含む政治的にアクティヴな映画作家によって結成された。彼らの作品は、ブレヒト演劇の形式、マルクス主義イデオロギー、個人的著作性の欠如を主として定義されている。1920年代 – 1930年代のソビエトの映画作家ジガ・ヴェルトフから名をいただいたこの集団は、1972年の『ジェーンへの手紙』の完成直後に解散した[1]。 同集団は一般的に下記の9本の作品とともにクレジットされている[1]。 『勝利まで』は作品の主題に沿って完成することができず、最初の場面を撮ったわずかの後にパレスチナ解放機構のメンバーたちが殺されてしまった。ゴダールは、のちに1976年の彼の作品『ヒア&ゼア こことよそ』で既存の材料をつかった。同作でゴダールと彼のパートナー(アンヌ=マリー・ミエヴィル)は、『勝利まで』をつくるためのゴダール自身とゴランの方法を脱構築し、その方法とジガ・ヴェルトフ集団全体のマニフェストに対して、順番に異議を唱えていった[1]。 参加メンバー[編集] 監督・脚本[編集] ※「ジガ・ヴェルトフ集団」の名のもとに匿名で監督・脚本に参加した人物 ジャン=リュック・ゴダール 『あたりまえの映画』監督・脚本・撮影、『ブリティッシュ・サウンズ』監督・脚本、『プラウダ』監督・脚本・編集・語り、『東風』監督・脚本・編集、『イタリアにおける闘争』監督・脚本・編集、『勝利まで』監督・脚本、『ウラジミールとローザ』監督・脚本・撮影・編集・出演、『万事快調』監督・脚本、『ジェーンへの手紙』製作・監督・脚本・撮影・語り

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茨城県道6号水戸那珂湊線 – Wikipedia

茨城県道6号水戸那珂湊線(いばらきけんどう6ごう みと なかみなとせん)は、茨城県水戸市から同県ひたちなか市に至る県道(主要地方道)である。 水戸市のJR水戸駅北口前を起点に、国道51号と国道245号の一般国道2路線と重複して那珂川(湊大橋)を渡り、ひたちなか市(那珂湊地区)を結ぶ主要幹線道路。水戸市側にあたる路線の西半分は国道と重複し、ひたちなか市側の東半分は、ひたちなか市内で完結する単独区間となる。この単独区間は、ひたちなか市田中後で国道245号より分岐して那珂湊駅前を通り、太平洋岸沿に沿って北上し常陸那珂港ICで終点となる。ただし、ひたちなか市磯崎町の茨城県道265号磯崎港線交点から同市阿字ヶ浦町の茨城県道247号常陸海浜公園線交点までの区間は、県道の道路区域指定がなされていないため分断区間となっている。路線名の「那珂湊」は、「平成の大合併」以前のひたちなか市の旧自治体のひとつであった那珂湊市が由来である。 路線データ[編集] 1954年(昭和29年)1月に建設省(当時)で主要地方道を指定する告示が出されたのを受け、1954年(昭和29年)9月1日、茨城県で道路法(昭和27年6月10日法律第180号)第7条の規定に基き主要地方道を一次認定した23路線の内の一つで、起点を水戸市、終点を那珂湊市とする路線が県道水戸那珂湊線である。1995年(平成7年)に整理番号6となり現在に至る。 年表[編集] 1954年(昭和29年)9月1日:県道水戸那珂湊線(整理番号16)として路線認定[4]。 1960年(昭和35年)12月14日:水戸市柵町2丁目1級国道6号線分岐 – 那珂湊市平磯町が供用開始される[5]。 1970年(昭和45年) 3月5日:那珂湊市字国神前交差点(国道245号交点) – 湊本町が国道245号の新道として開通[6]。 12月24日 那珂湊市の国道245号交点から湊本町までの道路区域が、現在の現道ルートに変更される[7]。 国道245号および県道水戸那珂湊線ルート変更に伴い、県道那珂湊停車場線(那珂湊停車場 – 一般国道245号交点)を路線廃止[8]。

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インウッド (マンハッタン) – Wikipedia

この項目では、ニューヨーク市の地区について説明しています。ニューヨーク州ナッソー郡の地区については「 インウッド (ニューヨーク州)」をご覧ください。 インウッド (Inwood) は、ニューヨーク市マンハッタン区のマンハッタン島の最北端に位置する地区である。 インウッドの東端はハーレム川、西端はハドソン川、北端はスパイテン・ダイヴィル川およびハーレム川運河、そして南端はフォート・トライオン・パーク (en) /ダイクマン・ストリート (en) /フェアビュー・アベニュー (Fairview Avenue) である。南端の定義は、情報源によって変わり得る[1][2]。 注意する点として、インウッドは”マンハッタン島”で最北の地区であるが、”マンハッタン区”全体としてはさらに北にマーブル・ヒル (en) 地区がある。マーブル・ヒル地区はインウッドからすぐ北のハーレム川運河およびスパイテン・ダイヴィル川を越えた北米大陸本土の一部であるブロンクス区と隣接している。元々その地区はマンハッタン島の一部でインウッドと隣接していたが、1895年にハーレム川の付け替えによりマンハッタン島から切り離されることとなった。 この地区は三方を川に囲まれており、また多くのエリアを森林公園が占めている。その他の土地は、ゴミ処理場、発電所、病院、運動場、および住宅街として用いられている。ブロードウェイとフォート・ジョージ・ヒル (Fort George

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野辺地町立図書館 – Wikipedia

野辺地町民図書館(のへじちょうみんとしょかん)は、青森県上北郡野辺地町字野辺地にある公共図書館である。 1887年(明治20年) – ウルクジュウ(野坂久五郎)文庫として、本町に創設。 1908年(明治41年)8月14日 – 図書館創設を議決し、新町尋常小学校に付設。 1944年(昭和19年)5月 – 新町尋常小学校移転に伴い、野辺地実科高等女学校に移転したが、1971年(昭和46年)まで図書館は閉鎖。 1947年(昭和22年)7月 – 本町に公民館設立と同時に、公民館図書部として開館。 1965年(昭和40年)4月 – 城内に公民館図書部移転。 1971年(昭和46年)4月 – 閉鎖していた図書部と公民館図書部が合併。 1976年(昭和51年)5月

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茨田枚麻呂 – Wikipedia

茨田 枚麻呂(まんだ の ひらまろ、生年不明 – 天平勝宝7歳3月以前(755年4月頃))は、奈良時代中期の官人。名は枚万呂とも記される[1][2][3]。姓は宿禰。官位は外従五位下・東市正。 聖武朝の天平15年(743年)9月、令旨により、法花玄賛を写経所に写させている。この時、「中宮少進」と見える[4]。同16年(744年)7月、その宣により、盂蘭盆経を請経させ[5][6]、同年、私願により、最勝王経を写さしめた[7]。同17年正月、その宣により、丈六堂戸障子料の播磨紙を請わしめ[8]、同17年(745年)4月18日の解に中宮少進・正六位上として名前が現れている[9]。なお、『大日本古文書』の「中宮職」は「皇后宮職」の誤りではないか、と言われている[10]。 同17年の4月、詫多真玉・国君麻呂らとともに正六位上から外従五位下に昇叙したとある。彼の場合は茨田弓束や茨田枚野の場合と異なり、最初から宿禰姓であり、以下もそうである[11]。 同18年(746年)7月の近江国司解には同国介、外従五位下として署している[1][2][3][12] 孝謙朝の天平勝宝元年(749年)8月、大原麻呂の後任の美作守に就任[13] 同2年(750年)6月、その所願の心経を写させ[14][15]、7月心経1000巻、薬師経12巻を写書所において写さしめ[16]、同3年(751年)3月、その料筆墨を借用させた。ともに「茨田大夫」と記されている[17]。 同7歳(755年)3月、大灌頂経を写経所に貸しているが、この時は「故茨田大夫家」となっており、既に没していた可能性がある。 注記のないものは『続日本紀』による。 ^ a b 『寧楽遺文』下巻 – 745頁 ^

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