Month: December 2018

国重正文 – Wikipedia

国重 正文(くにしげ まさぶみ、1840年11月30日(天保11年10月15日)- 1901年(明治34年)10月27日[1])は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚・教育者・神職。官選富山県知事。通称・徳次郎[2]、篤次郎[3]。漢詩・書に堪能で、半山と号した[4]。 目次 1 経歴 2 系譜 3 栄典・受章・受賞 4 松桜閣 5 脚注 6 参考文献 長門国阿武郡萩土原(現山口県萩市)で、長州藩大組士・国重三郎兵衛恒升の長男として生まれた。藩校・萩明倫館で学んだ。文久元年(1861年)家督を継ぎ浜崎代官に就任。さらに、当島代官、大組物頭御軍制総掛、山口明倫館頭人役を歴任した[3][4]。 明治維新の頃には桂小五郎と一緒に行動していた。幕府の追手より逃れる為に月形半平太と変名していた。京都の池田屋事件の時には新選組より逃れた一人である。蛤御門の変、戊辰戦争後、吉田県(現在の山口県下関北部)令になった[5]。 明治政府に出仕し、明治5年(1872年)京都府七等出仕に就任。以後、少参事、権参事、参事、大書記官などを歴任。1883年5月、富山県令に登用され、1886年7月、地方官官制改正に伴い同県知事となる。教育の充実に尽力[4]。1888年10月に内務省社寺局長に転じた[6]。1893年6月1日に依願免本官となり退官した[7]。

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渡邊文麿 – Wikipedia

渡邊 文麿(わたなべ ふみまろ、1934年3月11日[1] – 1990年3月7日)は、パーリ仏教研究者(Ph.D)である。 山口県小野田市に生まれる。高等学校を卒業後、龍谷大学文学部、龍谷大学大学院でパーリ仏教を学ぶ。1965年、カナダに留学し、トロント大学大学院に入学する。パーリ仏教研究者のA.K.WarderやH.Saddhatissaの指導を受け、1976年にPh.Dの学位を授与される。その後、近畿大学(言語学)の教授を経て、愛知学院大学文学部国際文化学科の教授となる。 また、1979年からPali Text Societyの日本代表を務め、海外の仏教研究者との交流にも力を注いだ。 1990年3月7日、胃ガンのため他界。 1934年 山口県小野田市に生まれる  1956年 龍谷大学文学部仏教学科卒業 1958年 龍谷大学大学院文学研究科パーリ仏教専攻修士課程修了 1961年 龍谷大学大学院文学研究科パーリ仏教専攻博士課程単位取得満期退学 1967年 カナダ・トロント大学大学院東アジア研究科パーリ仏教専攻修士課程修了

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竹俣当綱 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年12月) 竹俣 当綱(たけのまた まさつな)は、米沢藩上杉家の家臣。家格は侍組分領家。石高は1000石、一時的に300石減俸され700石。民政家で産業に明るかったため、莅戸善政らと共に上杉鷹山に抜擢され、明和、安永年間の藩政改革を主導した。 米沢藩の上士階級である侍組分領家の一つ竹俣氏当主の竹俣充綱の嫡子である竹俣本綱の子に生まれる。3歳の時に父本綱が死去したため、延享3年11月19日(1746年)に祖父の家督及び知行1000石を相続した。 上杉重定の信任を得て藩の実権を握っていた森利真と対立し、宝暦7年(1757年)に300石削減され、閉門となる。 宝暦9年(1759年)に藁科松伯が重定の侍医となるが、後に神保綱忠や莅戸善政らとともに藁科に師事する。宝暦10年(1760年)に藩の極度の財政破綻のために藩主上杉重定に幕府への米沢藩返上を進言した。 宝暦11年6月(1761年)に会談所奉行になり、同年8月3日江戸家老に昇進、翌年(1762年)には300石加増され、1000石に復する。 森一件[編集] 宝暦13年(1763年)に密かに江戸から米沢に下って、会談所「奉行詰めの間」に森を呼び出して殺害し、その一派を粛清するが、これを米沢藩では藩政改革のはじめとしている。殺害後に千坂、芋川、色部とともに重定に森殺害の事情と政治改革の意見を重定に報告する。このときの改革方針は中下級武士登用による身分格式の乱れ是正と古来のしきたりや永年勤続や年功序列の重視であった。また、森時代の商業資本家豪商との結合を絶つことや森が売却した京都藩邸の買戻しを行い、森政治を否定した。 奉行就任と改革[編集] 明和2年7月4日(1765年)に奉行に就任する。奉行に就任すると、米沢藩の古い融資先で融資代償として米沢藩の蝋専売を引き受けさせていたが、森による別の商人への乗り換えで関係の途絶えていた江戸の豪商である三谷三九郎との関係修復に乗り出し、これに成功する。 先に奉行となっていた千坂高敦や芋川正令とは反りが合わず、明和5年(1768年)には芋川が辞任している。このため、改革の主導権は竹俣と、治憲の側近であった莅戸や志賀、佐藤文四郎らが握った。竹俣は離散農民の還住や新田や用水の開発や国産品推奨、森時代に一度設立されて廃止された郡奉行職復活などの地方行政機構整備といった農村復興政策や極端な倹約政策をすすめるが、安永2年(1773年)に江戸家老須田満主や奉行の千坂や色部照長、侍頭の芋川延親らが当綱一派の免職を要求した七家騒動が起こる。この騒動で審理中は一時出仕停止となったが主君の治憲による千坂らへの厳罰でことなきを得る。 安永4年(1775年)に三谷より米沢藩の三谷への古い借金19000両の債権放棄と11000両を年5分の低利子で借用することを了承される。これにより植樹政策での苗木購入や植えつけに対する補助金などの費用を確保する。同年に漆・桑・楮(こうぞ)各百万本の植樹計画は、財源の回復と山間部の農村復興を目指したもので、当綱によって発表された。桑については養蚕推奨を目的としたものであり、養蚕推奨の理由として高畠藩を絹生産での成功を上げている。 失脚[編集] 改革の主導者であったが、専制的で取り巻きをかかえ、公私混同な振る舞いも多く、また側近政治や改革施策の中には森平右衛門時代の施策を踏襲したものもあった。このために反対派は当綱を森と同類であると見做していた。 安永9年(1780年)に辞職届けを出したものの、天明2年(1782年)に公費の私的流用の罪や藩祖上杉謙信の忌日に酒宴をしていたという不敬罪など11か条の不行跡を理由に隠居及び押込を命じられる。本来は重罪であったが、先年の勲功が評価され、嫡子の竹俣厚綱(友弥)の家督相続は許可され、知行の削減も行われなかった。かつての政敵である芋川家に3年間押込みとなり、その後7年間は自宅で囲い入れとなる。 これに加え、莅戸も隠居したことや天明の飢饉による財政窮乏の倍加への対策のために出した志賀裕親の意見による諸役場の統廃合などの殖産興業政策の廃止が行われ、改革は莅戸が復帰するまで一時中断した。蟄居中の天明6年(1786年)に「長夜の寝言」という財政再建策に関する上書を藩に提出する。 赦免後[編集] 寛政3年(1791年)には赦免されて、家老隠居に列する。なお、莅戸の現実主義的な手法に反対する神保綱忠は当綱復帰を望んだが、達成されることはなかった。また、神保綱忠と服部正相らによる商人苧の藩による掌握も竹俣の持論といわれるが、これも採用されなかった。

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津軽漆器 – Wikipedia

津軽漆器(つがるしっき)は、津軽地方で生産される伝統的漆器[1]。1873年(明治6年)以降、津軽塗(つがるぬり)と呼称される[1]。唐塗(からぬり)とも称される[2]。1975年、経済産業大臣指定伝統的工芸品に選ばれ、2017年には国の重要無形文化財に指定された。 江戸時代中期、弘前藩第四代藩主津軽信政が津軽の産業を育成するため、全国から多くの職人・技術者を弘前に招き、若狭国出身の塗師池田源兵衛を召し抱えたのが始まりとされる[1]。1676年 (延宝4年)頃には、既に弘前城内の一角に塗師の作業場があった[1]。弘前藩庁日記、または御国日記[3]の正徳5年(1715年)1月7日には「唐塗り」が、翌年7月12日には「霜降塗」・「利久唐塗」・「松葉いろいろ」・「唐塗」・「色紙塗」・「紋虫喰塗」の名前が挙げられており、独自の塗り方が多く考え出されたことがうかがえる。 弘前藩で発達した漆器は様々な調度品に用いられたが、1871年(明治4年)の廃藩置県以後は、津軽塗への藩による保護政策が失われ、津軽漆器は一時衰退する[1]。だが、藩に代わって県が助成を始めたこと、士族や商人による漆器の製造所や組合組織が結成されたことで、津軽の漆器産業は息を吹き返し、1873年(明治6年)に開催されたウィーン万国博覧会には、青森県が「津軽塗」の名前で漆器を出展して賞を受けている[1]。これ以降「津軽塗」という名前が一般的となる[1]。その後、大正時代まで津軽塗産業は大衆化を推し進めるが、1929年(昭和4年)の世界恐慌や第二次大戦中の経済統制によって、大きな打撃を受ける[1]。 1975年(昭和50年)経済産業大臣指定伝統工芸品に選定される[1]。 2017年、重要無形文化財に指定される[4]。 津軽塗の土台となる木地には青森県特産のヒバが使用される[2]。研磨と塗りを繰り返して下地がしっかりしたところで、津軽塗独特の「シカケ」と「サイシキ」が施され仕上げられる[2]。四十数回の工程と2カ月余の日数を費やして作られる馬鹿丁寧さのため、「津軽の馬鹿塗り」との異名を持つ[2]。 唐塗・七々子塗・錦塗・紋紗塗の4種類の技法を基本として[5]、仕掛け漆(絞漆)や種漆を用いる各種の研出変り塗が特徴である[4]。また、複数の技法を併用したり文様を描き加えたりすることによって、華やかな色彩や質感を活かした無数の表現が可能となる[4]。 ^ a b c d e f g h i “津軽塗について|津軽塗|青森県漆器協同組合連合会”. www.tsugarunuri.org.

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高知県立高知国際中学校・高等学校 – Wikipedia

高知県立高知国際中学校・高等学校(こうちけんりつ こうちこくさい ちゅうがっこう こうとうがっこう、英称:Kochi Kokusai Junior and Senior High School (KKHS))は、高知県高知市鴨部にある公立の中学校および高等学校[4]。 高知県立高知南中学校・高等学校と高知県立高知西高等学校を母体として、国際バカロレアのプログラムを用いる計画で、中学校は2018年(平成30年)4月に開校。高等学校は2021年(令和3年)4月に開校[5]。 多様な文化の理解と尊重の精神を通じて地域や国際社会の発展に貢献する、心豊かでたくましく生き抜く人材の育成[6] 1. 学ぶことを誇りに思い、形成されるアイデンティティを尊重する2. 基礎的な学力を身に付け、自由で創造的な思考力を涵養[注釈 2]する3. 自主と自立を礎(いしずえ)にした強い自己を確立する4. 信義と礼節を重んじ、公共と奉仕の精神を養う5. 社会の一員としての責任を果たし、郷土への愛着と誇りを育む

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恋せよカトリーヌ – Wikipedia

「恋せよカトリーヌ」は、2020年7月1日にビクターより発売された橋幸夫の182枚目[1]のシングルで、テリー伊藤の全面プロデュースによるデビュー60周年記念曲となっている。12cmシングルCD(VICL-37551)形式で発売された。 2020年は、1960年7月に「潮来笠」でデビューした橋にとっで60周年にあたる。 楽曲制作の経緯は、およそ15年前、橋が人づてにテリー伊藤が自分のファンであることを聞き、その後テリー伊藤の番組ゲストにも度々出演。橋はテリーの自由な発想に感銘を受け、一緒に今までに無い面白い事をやりたいと思い、60周年を機にそれが実現した。[2] 本楽曲を作詞・作曲及びプロデュースしたテリー伊藤は「今回幸運にも、橋さんの新曲の作詞作曲をさせていただくことになった。最初に思ったのは、『そうだ、橋幸夫は恋の伝道師なんだ!いくつになってもファンに恋する素晴らしさを伝える人なんだ!』そんな思いで『恋せよカトリーヌ』を作りました。」[3]としている。 一方橋は、「今回、僕は何も口を出さず、テリーさんにおまかせです。」「77歳の恋の歌って….照れるじゃないですか。だから最初は気恥ずかしさがあったが、徐々にこの歌の魅力を強く感じることができた…..60周年をテリーさんにお願いして良かった、と本当に思いますね。夢を感じますから」と述べている。[4]。 c/wの「この世のおまけ」は、作詞荒木とよひさ、作曲橋本人、編曲は矢田部正。荒木はこれまでも『面影渡り鳥』(VIDL-11015)『花火音頭』VICL-36196)『長州にて候』(VICL-37017)など、ビクター復帰後の橋に詩を提供しており、本作は5年振りの共演となる。『恋せよカトリーヌ』とは真逆に、「生きているのはこの世のおまけ」という印象的な歌詞で、事前に話しあい、77歳の等身大の橋をテーマにしている。[3]。『花火音頭』は橋の本人名義、『長州にて候』は勅使原煌のペンネームでやはり本人の作曲で、荒木の作品は橋本人が作曲するケースが多い。 「60周年ご挨拶」として橋幸夫からのメッセージが収録されている。 ミュージックビデオ「恋せよカトリーヌ」は、テリー伊藤が監督し、橋幸夫とアコーディオンで共演しているcobaが出演している。 恋せよカトリーヌ 作詞・作曲:テリー伊藤、編曲:萩田光雄 この世のおまけ 作詞:荒木とよひさ、作曲:橋幸夫、編曲:矢田部 正 「60周年ご挨拶」 メッセージ:橋幸夫 恋せよカトリーヌ(オリジナル・カラオケ) この世のおまけ(オリジナル・カラオケ) coba(アコーディオン) 収録アルバム[編集] アルバム未収録

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平田健正 – Wikipedia

平田 健正(ひらた たてまさ、1950年 – )は、日本の環境学者。専門は環境水理学。国立大学法人和歌山大学理事・副学長を経て、放送大学和歌山学習センター所長・特任教授を歴任した。 有害化学物質に汚染された水環境を修復する技術の開発と評価を研究しており、いくつかの水や土壌等の汚染問題に関する委員会のリーダーを務める。 学歴[編集] 1973年 大阪大学工学部土木工学科卒業 1975年 大阪大学大学院工学研究科土木工学専攻修了 1983年 大阪大学 工学博士 「内部重力波の基本特性と砕波機構に関する基礎的研究 」 職歴[編集] 1975年 大阪大学工学部土木工学科第2講座(水理学・河川工学)助手 ・文部教官 1980年 環境庁国立公害研究所水質土壌環境部水質環境計画研究室研究員 1986年 同 主任研究員 1994年 環境庁国立環境研究所地域環境研究グループ水改善手法研究チーム総合研究官 1995年 和歌山大学システム工学部 環境システム学科教授 1999年 和歌山大学評議員

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イヌタデ属 – Wikipedia

日本の農業百科事典のイラスト(1804) イヌタデ属(いぬたでぞく、Persicaria)は、ナデシコ目タデ科の1属である。 かつてイヌタデ属などはタデ属 (Polygonum s.l.) にまとめられていたが、Hedberg (1946) や続く研究者により、約8属に分割された[3][4][2]。なおこの分割により、小さくなった Polygonum (s.s.) は和名をミチヤナギ属と変える。 ほぼ全世界に生息する[1]。 花序は穂状または頭状。サナエタデ節とミズヒキ節は穂状、タニソバ節と sect. Echinocaulon は頭状である[5]。 系統と分類[編集] イヌタデ属はいくつかの節に分かれる。標準的な説では、sect. Persicaria(タデ), Tovara,

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不破彦麿 – Wikipedia

不破 彦麿(ふわ ひこまろ、1865年11月21日(慶応元年10月4日)[1] – 1919年(大正8年)9月2日[2])は、日本の農商務・内務官僚。官選佐賀県知事、山口県下関市長[3]。族籍は福岡県士族[3][4]。 目次 1 経歴 2 家族・親族 3 脚注 4 参考文献 筑前国福岡(現在の福岡県福岡市)荒戸町で、福岡藩士・不破国雄の長男として生まれる。1892年7月、帝国大学法科大学を卒業[1]。同月、農商務試補に任官し参事官室に配属された[5]。 以後、農商務参事官兼農商務大臣秘書官、同省特許局審判官、佐賀県事務官、兵庫県事務官・第一部長兼第三部長[6]、東京府事務官・内務部長[7]などを歴任[1]。 1911年10月、佐賀県知事に就任[1]。1914年6月9日、知事を休職[8]。1917年10月、下関市長に就任[9]。小学校の整備、市営火葬場の建設、下関駅-唐戸間臨港線の着工、竹崎魚菜市場の開場などに尽力。また1918年8月の米価大暴騰時に、困窮者のため朝鮮米を買付けて安価で販売を行った[10]。1919年9月、在任中に死去した。 家族・親族[編集] 不破家 山口県下関市上田中町[3]、福岡市荒戸町[4]

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関西三空港の経緯と現状 – Wikipedia

関西三空港の経緯と現状(かんさいさんくうこうのけいいとげんじょう)では、日本の関西地方に存在する大阪国際空港(大阪空港、伊丹空港)、関西国際空港(関空)、神戸空港の三空港の建設・運営にまつわる経緯と現状について記述する。 かつては、関西地方の航空交通機能は、大阪国際空港が一手に担っていた。1960年代に入り、高度経済成長にともなって関西の航空需要が拡大すると、関西地方にも本格的な第二空港必要論が浮上してきた。それからやや時を遅れて、1964年からジェット機が乗り入れた大阪国際空港は、騒音や排気ガスなどの環境・公害の問題から、周辺自治体では大阪国際空港の運用をめぐる訴訟が相次いだ。 運輸省(当時・現国土交通省)は、関西新空港の需要を見込んで1968年から調査を始め、地元自治体の新空港建設反対論を説得して、大阪府南部の泉州沖にて関西国際空港の建設を進めた。この際に、関西国際空港の建設計画について、運輸大臣の諮問機関が出した答申は、大阪国際空港の公害対策と地元の合意に配慮したものであった。この答申は、関西国際空港の開港にともない、大阪国際空港が廃止されるかのような印象を与える内容でもあった。(もっとも、これについて、当時の運輸省は大阪国際空港の廃止方針を公式に定めたものではないと、否定している。) しかし、1980年代に入ると、大阪国際空港周辺での騒音対策・排ガス対策が進展し、大阪国際空港周辺の空港反対運動を行う革新自治体も減少した。さらに、運輸省は、大阪国際空港の都市への近さゆえの利便性や経済的利益などを各方面から再評価し、大阪国際空港の関西国際空港開港後の存続へ動き出した。そして、運輸省と大阪国際空港の地元自治体連合の11市協(正式名称は、大阪国際空港騒音対策協議会(~2007年)、大阪国際空港周辺都市対策協議会(それ以降))との間で存続協定が結ばれることで、1990年大阪国際空港は存続が正式に決まった。その後、1994年に関西国際空港が開業し、さらに、完全24時間運用のために、関西国際空港には第二滑走路が建設された[1]。一方で、関西地方の第三の主要空港である神戸空港にも予算がつけられたため、関西三空港の各空港(とりわけ負債を多く抱えた関西国際空港)の採算性について、各方面から疑問が投げかけられた。神戸空港については、阪神・淡路大震災のあとに本格的な予算措置が図られたため、1990年代末から2000年代初頭をピークとして市民による反対運動も行われた。 三空港併存時代を迎えた現在では、航空行政や役割分担のありかたについてさまざまな議論が行われている。その議論の一つの結実が、2012年の大阪国際空港と関西国際空港の経営統合である。 過去の経緯[編集] 大阪国際空港開港-1950年代[編集] 大阪国際空港の前身は、第二次世界大戦前の1939年1月17日に開業した大阪第二飛行場である。当時の空港面積は、約16万坪(53万平方m)であった。1940年より日本陸軍に接収され、67万坪に拡張された。日本の第二次世界大戦敗戦後は、GHQが接収し、1953年初頭に、3,000 mの新滑走路を新設を含めた24万坪への空港拡張案が提示されたが、共産党、社会党、地労協を中心に大闘争を展開し、計画は一旦取り止めになった。 その後、空港は1958年3月18日に日本へ返還され、国営の「大阪空港」として開港した。さらに1959年7月3日には、第1種空港として国際路線を開設し、大阪国際空港に改称された。 1960年代 空港拡張とジェット時代の到来[編集] 返還後間もなく、航空需要の拡大をうけて、自民党関西議員連盟(会長は芦田均)、大阪商工会議所などが大阪国際空港拡張運動に乗り出したが、その案は以前のGHQの手によるものと基本的に同じであった。政府はこの拡張案を承認し、地元自治体に協力を要請した。この際に、地元では野党や労協を中心に、拡張反対闘争の再結成が呼びかけられたが、条件つきで拡張賛成に転じるところも出て、前回の大闘争ほどには発展しなかった。 空港拡張案をめぐり、1961年の豊中市での強行採決[2]につづき、1962年3月には伊丹市でも採択されるにいたった。 1960年代以降の高度経済成長期には、大阪市の近郊にも市街地が拡大し、大阪国際空港の周辺も宅地化の波が押し寄せていた。一方で、離着陸回数の増加や航空機の大型化・ジェット機化がすすめられ、1964年6月より大阪国際空港へのジェット機の乗り入れを開始した。当時は、ボーイング707やダグラス DC-8、コンベア880などの大型ジェット機が相次いで就航した。 空港廃止運動[編集] ジェット機乗り入れからわずか4ヵ月後の1964年10月、大阪国際空港周辺の環境改善を求める周辺8自治体の連合の8市協(後の11市協)が発足した。その後も次第に騒音問題は深刻化し、大阪国際空港での夜間の飛行禁止などを求めた訴訟や、大阪国際空港の廃止などを求める公害等調整委員会に対する調停が始まった。 空港反対運動の方も粘り強い活動に転換し、革新政党中心の運動から、地域ぐるみの運動に拡大していった。一方で、当時は日米地位協定第5条によるアメリカ軍(や自衛隊)の優先使用が頻繁におこなわれていた。新明和工業がこの地で軍用機のオーバーホール[3]を行っていた関係で、1960年代には、空港反対運動はベトナム反戦運動とも結びついた。なお、1969年の大阪国際空港の発着回数は約12万回であり、その後半の半年は、およそ4割がジェット機のものとなっている[4]。 空港反対運動により当初の拡張計画は遅延していたものの、1970年の大阪万博に向けて政府は買収を急ぎ[5]、拡張工事は1966年12月に完了した。しかし、国は、地元との交渉の過程で国際便移転の覚書をかわし、大阪国際空港の公害問題を解決するための、関西第二空港の建設の必要性を間接的に認めていた。大阪国際空港周辺では、依然として公害防止対策は未熟なままで、空港周辺地域は不眠症や難聴、地震並の振動など、劣悪な環境下に置かれた。

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