Month: April 2019

津野海太郎 – Wikipedia

津野 海太郎(つの かいたろう、1938年4月6日 – )は、日本の演出家・編集者・評論家。元晶文社取締役、和光大学名誉教授。 福岡県生まれ。本姓・鈴木。東京都新宿区立落合中学校から東京都立戸山高等学校を経て早稲田大学第一文学部国文科卒[1]。大学時代は劇研に所属していた。 大学卒業後の1962年に『新日本文学』の編集者となる。1965年には晶文社に入社。劇団「黒テント」で演出家として活動する一方、1998年まで、晶文社の編集責任者として、雑誌『WonderLand』などを編集。植草甚一やリチャード・ブローティガンなどの著作の出版に関わった[2]。また、高橋悠治が主催していたミニコミ『水牛通信』の編集も担当。のち『季刊・本とコンピュータ』の編集長を務め、電子書籍の啓蒙にも携わっている[3]。2009年まで和光大学教授・図書館長を務める。 演劇評論、書籍論などの執筆も行い、2003年、坪内逍遥伝『滑稽な巨人』で新田次郎文学賞受賞、2009年『ジェローム・ロビンスが死んだ』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2019年、『最後の読書』で読売文学賞(随筆・紀行賞)受賞[4]。 演劇活動では、1967年に結成した「六月劇場」(岸田森、草野大悟、樹木希林など)を皮切りに、1980年代なかばまで、「黒テント」でプロデューサー、演出家として活動する。おもな演出作品に、ブレヒト『夜打つ太鼓』、長谷川四郎『審判』、山元清多『さよならマックス』、津野構成『ラ・バラッカ』、高橋悠治構成『可不可』など。 『悲劇の批判』晶文社 1970 『門の向うの劇場 同時代演劇論』白水社 1972 『ペストと劇場』晶文社 1980 『小さなメディアの必要』晶文社 1981 『物語・日本人の占領』朝日選書 1985/平凡社ライブラリー

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大爆笑!!人生劇場 〜大江戸日記〜 – Wikipedia

『大爆笑!!人生劇場 〜大江戸日記〜』(だいばくしょうじんせいげきじょう おおえどにっき)は、1994年11月25日に日本のタイトーから発売されたスーパーファミコン用コンピュータコンピュータボードゲーム。 同社の『爆笑!!人生劇場シリーズ』第7作目。本作は江戸時代を舞台としており、前作『大爆笑!!人生劇場 ドキドキ青春編』(1993年)とは異なり多くの資産を持つ事を競う内容で、資産を買い占める要素に重きを置いた作品となっている[1]。5つのテーマの異なるステージがあり、3Dダンジョンなどが存在する事を特徴としている[1]。 開発はアクトジャパンが行い、監督はアーケードゲーム『スペースインベーダー』(1978年)を手掛けた西角友宏、制作はファミリーコンピュータ用ソフト『爆笑!!人生劇場3』(1991年)を手掛けたくろさわきょうこ、音楽はスーパーファミコン用ソフト『ダライアスフォース』(1993年)を手掛けたわたなべよしおおよび草津きよしが担当している。 後に続編となる『大爆笑!!人生劇場 〜ずっこけサラリーマン編〜』(1995年)が発売された。 ゲーム内容[編集] システム[編集] 舞台をこれまでの現代から江戸時代に移したシリーズ異色作。様々な人生体験(イベント)を経て、一番のお金持ちが勝ちというルールは共通だが、今作は『桃太郎電鉄シリーズ』のように、国や資産を買い集める要素が大幅に追加された。マップは所定のターン数まで同じマップを回り続ける方式だった前作からスタートとゴールが存在するステージ型の方式に変更されている。ステージは全5つに分かれ、うち第1ステージはステータスの増減に関するイベントが中心で職の決定を左右する幼少期ステージ、第3ステージは3Dダンジョン形式のボーナスステージである。1人があがるとそのステージは終了となり、ビリにペナルティが課せられ次のステージふりだしからの一斉スタートになる。 金・資産[編集] 金と資産の総和によって順位が決定される。店やイベントで手に入る資産は保有していると収入が発生し給料に加算される。また、店で買える資産は特定の組み合わせによってボーナスが加算される。 金 単位は「両」。ただし、実際の江戸時代で使われていた「両」とは価値が大きく異なる。(それまでの爆笑!!人生劇場シリーズにおける「万円」を踏襲している) 国 国は購入時と給料日に年貢の税率を変更することができる。鉱山の発見や特産品の豊作で臨時収入が発生することがあるが、台風などで損害が出ることもある。 なお、国の経営は所有者のパラメータも影響し、力のパラメータが低い状態で国を所有し年貢の税率が高い状態だと一揆が起こり高額な罰金を取られる。同じ国で2度目の一揆が起こると国を没収されてしまう。また学問が低い状態で国を所有していると国が人手不足になり収入が減額される。 不動産 お屋敷や温泉などの不動産は老朽化して修理費を取られる場合がある。 工芸品

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春日舞織 – Wikipedia

春日舞織 プロフィール 初出作品:アルカナハート 格闘スタイル:春日流退魔法術 誕生日:11月26日(いて座、14歳) 出身地:国籍: 日本/現住所:渋谷区代々木春日神宮 身長:153cm 体重:45kg スリーサイズ:B88 W58 H87 血液型:AB型 好きなもの:チョコレート 嫌いなもの:肉類 趣味:家事全般 特技:折り紙 家族構成:姉、妹(双子) 得意な科目:家庭科、日本史、美術 苦手な科目:理科

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興宮町 – Wikipedia

興宮町(おきのみやちょう)は、東京都江戸川区北部の町名で「丁目」の設定はない。住居表示実施済み区域である。郵便番号は133-0042[2]。 隣接する地域は、北は上一色二丁目、東は新中川を挟んで対岸に南小岩五・六丁目、南は松本二丁目、西は本一色二・三丁目および上一色一丁目。 江戸川区北部に位置する。地区の東辺を新中川と接し、南辺を国道14号、西辺を東京都道318号環状七号線(環七通り)で画す。 江戸時代は葛飾郡興宮村。1889年(明治22年)鹿本村の大字となる。1932年(昭和7年)より江戸川区興宮町。1966年(昭和41年)住居表示実施により一部が南小岩・東松本となる。1986年(昭和61年)一部が本一色3丁目・松本2丁目となり、同時に本一色町の一部をあわせた残りの町域で住居表示を実施し現行の「興宮町」となった。 地名の由来[編集] 興宮神社に由来した旧来の「興宮村」に由来。神社が海に面しており、「沖の宮」と呼ばれたことが由来とされる。「興之宮」「興野宮」とも表記し、更に「興」の代わりに「奥」が混同して使用されることもあった。 世帯数と人口[編集] 2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。 小・中学校の学区[編集] 区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[4]。なお、江戸川区では学校選択制度を導入しており、区内全域から選択することが可能。[5][6]。 公共交通[編集] 鉄道 興宮町の町域内に鉄道駅は存在しない。さらに同地区の全域が至近の駅から1km以上離れた鉄道空白地帯に当たり、地域住民の鉄道交通機関の利用に困難を来たすことがある。以下に最寄駅を挙げる。 路線バス この節の加筆が望まれています。 道路・橋梁[編集] 道路 橋梁 小岩大橋(新中川。興宮町 –

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藤山寛美 – Wikipedia

藤山 寛美(ふじやま かんび、本名:稲垣 完治(いながき かんじ)、1929年6月15日 – 1990年5月21日)は、日本の喜劇役者。戦後昭和の上方喜劇界を代表する喜劇役者であり、数多くの名作を残した。弟子にはな寛太・いま寛大のはな寛太、山崎海童らがいる。 女優の藤山直美は娘。俳優の藤山扇治郎は孫。 永年にわたり松竹新喜劇の大スターとして活躍。阿呆役を演じ、「あほの寛ちゃん」として人気を博した。「松竹の喜劇王」とも称されている。 来歴・生涯[編集] 結成当時の松竹新喜劇のメンバー。後列左から5人目が寛美 華々しくデビュー[編集] 1929年(昭和4年)、関西新派「成美団」の俳優・藤山秋美の末の息子として大阪府大阪市西区に生まれる。母は新町のお茶屋「中糸」の女将・稲垣キミ。父の病没した1933年(昭和8年)、花柳章太郎の命名で父の藤山を継承し芸名を「藤山寛美」とし、翌年1月に4歳で初舞台に立つ。関西新派の都築文男に師事し、13歳で渋谷天外 (2代目)に誘われて松竹家庭劇に移るまで師弟関係にあった。 大阪大空襲で大阪の芝居小屋が焼け落ちた事もあり、1945年(昭和20年)3月に皇軍慰問隊の一員として旧満州に渡ったが、奉天(現在の瀋陽)で終戦を迎え、一時期ソ連軍に抑留される。解放された後はハルビンでキャバレーのボーイや靴磨き、芝居、ブローカーなどをしながら生き延び、1947年(昭和22年)秋に帰国。以後は各劇団を転々とし、1947年に曾我廼家十吾、師匠格に当たる2代目渋谷天外、浪花千栄子らの松竹新喜劇の結成に参加。1951年、天外作「桂春團治」の酒屋の丁稚役が、批評家や演劇関係者に評価され、一躍人気役者となる。後、寛美を可愛がった天外が脳出血で倒れた後は、実質的座長となった。 型破りな金使いの荒さ・松竹新喜劇から降板[編集] 生来、俳優の子という出自ゆえ、「俳優」「芸人」としての姿勢を私生活でも徹底し、初代桂春團治と後の横山やすしの様に金使いも荒かった。「遊ばん芸人は華が無うなる」という母親の一家言を守り、夜の街を金に糸目をつけず豪遊した。 上方演芸界では「北の(南都)雄二かミナミの(藤田)まこと、東西南北藤山寛美」と称され、戦後の上方を代表する遊び人として多くの逸話を残した。バーのボーイに「チップとして」車のキーを渡し、自動車1台を与えたこともあった。そのため、知人に騙された巨額の借金も含め、多額の負債を抱え、1966年には当時の金額で1億8,000万円の負債を抱えて自己破産。松竹と松竹芸能から専属マネジメント契約の解除を通告される。松竹から事実上解雇された寛美は舞台には出演せず、東映の常務だった岡田茂(のち社長)を頼り[2]、東映の任侠映画に出演するなどして生活をしのいだ。 寛美が自己破産し松竹新喜劇をクビにされた事を知った天外は、寛美に「アホ!借金なんか作りよって!」と一喝した。事実上、その時点で寛美は「破門」の扱いとなったが、復帰後は破門を解かれた。 後輩芸人への面倒見が良かった寛美は、彼らの借金を立て替えることもしばしばで、特に自らがまだ多額の借金を抱えている最中に、月亭八方の1,000万円の借金をキャッシュで立て替えようとしたが、八方自身が恐れ多いと断った。なお、このエピソードは、八方自身の借金エピソードとして度々語られる[3]。

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行成薫 – Wikipedia

行成 薫(ゆきなり かおる、1979年8月10日[1] – )は、日本の小説家。 経歴・人物[編集] 宮城県仙台市出身[2]。東北学院大学教養学部を卒業する[3]。2012年に『名も無き世界のエンドロール』(応募時のタイトルは「マチルダ」)で第25回小説すばる新人賞を受賞[4]。2013年に単行本として発表された。仕事をする傍ら小説を執筆する[3]。「執筆を始めた当初は、新人賞に応募することは考えていなかった。受賞の連絡を受けたときは、嬉しく思う反面、肩にのしかかるプレッシャーを感じた」との旨を述べている[3]。趣味は料理[3]。好きな作家として藤沢周平、伊坂幸太郎を挙げている[3]。 2021年には『名も無き世界のエンドロール』が映画化[5]。映画版のその後を描くWebドラマ『Re:名も無き世界のエンドロール 〜Half a year later〜』では、原案を書き下ろした[6]。 文学賞受賞・候補歴[編集] 太字が受賞したもの 作品リスト[編集] 単著[編集] 名も無き世界のエンドロール(2013年3月 集英社 / 2015年2月

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ステファニー・ヨーステン – Wikipedia

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典が不足しています。存命人物の記事は特に、検証可能性を満たしている必要があります。(2019年12月) 人物の特筆性の基準を満たしていないおそれがあります。(2014年7月)出典検索?: “ステファニー・ヨーステン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL ステファニー・ヨーステンStefanie Joosten プロフィール 生年月日 1988年8月5日 現年齢 33歳 出身地 オランダ・リンブルフ州ヘールレン

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ひつじのショーン – Wikipedia

『ひつじのショーン』(Shaun the Sheep)は、イギリスのアードマン・アニメーションズ制作によるストップモーション・アニメーション。 『ウォレスとグルミット』シリーズの中編映画『ウォレスとグルミット、危機一髪』 Wallace & Gromit in A Close Shave (1995年)に登場する羊のショーンを主人公としたスピンオフ作品。人間の発明家とその相棒の犬が主人公だった『ウォレスとグルミット』とは異なり、『ひつじのショーン』は動物の目を通して見た世界を描いている。したがって、劇中の人間キャラクターの言葉は英語どころか言葉にもなっていない声として表現されている[1][2]。動物たちも基本的に喋らない。しかし、何かを話す際はこちらも視聴者には理解不能な音となっている[3]。 2007年3月5日より英国放送協会 (BBC) のBBC OneとCBBCで放送されている。日本では、2007年4月8日から6月24日までNHK教育(現・NHK Eテレ)で毎週日曜日の午後5:25から3話ずつ放送され、後に2008年10月頃からは毎週木曜日午後7:00に放送されていた。 字幕放送を実施しているが白色のみ使用(電話のマークは水色で表示)。牧場主のセリフは基本的に「(話し声)」や「(命令する声)」などと表示している。 2009年11月23日からBBCでは第2シリーズが放送されている。日本では2010年10月3日からNHK教育テレビで毎週日曜日の午前7:00から放送され、2011年4月23日以降は毎週土曜日午前9:00から再放送されている(同時に年度の一時期放送から通年の放送になった)。テーマ曲を「石井竜也とタトーシープス」が歌う。 2012年には第3シリーズが制作され、日本でも2013年5月11日からEテレで放送が開始された。

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ジョナサン・ボマリト – Wikipedia

2011ロレックススポーツカー ジョナサン・ボマリト(Jonathan Bomarito 1982年1月23日 – )は、モントレー出身のアメリカ合衆国のプロレーシングドライバー。 ボマリトは、カートで成功を収め、グランダムカップで2年間ドライブした後、2003年にフォーミュラ・フォード2000に移籍し、タイトルを獲得した。翌年はアトランティック・チャンピオンシップに移り、ポイントで9位でフィニッシュした。翌年、シリーズ初優勝を獲得し、チャンピオンシップで5位でフィニッシュした。 2007年、彼はサンノゼで優勝し、再び5位でフィニッシュ。 2008年、彼はアトランティックシリーズの準優勝者となり、3回の勝利を収めた。ボマリトはまた、2005年、2008年、2009年のデイトナ24時間レースにも出場した。 2010年、マツダ・RX-8のGTクラスを運転するロレックス・スポーツカー・シリーズのレギュラードライバーとなり、ボマリトは2勝(デイトナ24時間レースでのクラス優勝を含む)と5回の表彰台を獲得し、チャンピオンシップで4位でフィニッシュした。2011年と2012年のGTクラスドライバーズチャンピオンシップでも5位に入り、両シーズンで1勝・4回の表彰台を獲得した。プチ・ル・マンにもボマリトはこの間に参戦している。 アメリカン・ル・マン・シリーズでは、SRTモータースポーツの公式ドライバーとなり、SRT・バイパー GTS-Rで、コ・ドライバーのクノ・ウィットマーが2つの表彰台を獲得し、ドライバーズチャンピオンシップGTクラスで13位でフィニッシュした。彼らはまた、トミー・ケンドールをサードドライバーとしてル・マン24時間レースに出場し、クラス9位でフィニッシュした。ボマリトとウィットマーは、 2014年のユナイテッド・スポーツカー選手権でコ・ドライバーとして残り、インディアナポリスとオースティンで2勝を挙げた。彼らはコルベット・レーシングのアントニオ・ガルシアに次ぐポイントランキングに最終ラウンドで入ったため、SRTはGTLMドライバーズタイトルを獲得するマルケのチャンスを最大化するために2人のドライバーを両方の車に分割することを選択した。戦略はうまくいったが、ボマリトが2位につけたのに対して前にいたのはウィットマーであった。 [1] 2015年にプロトタイプクラスで運転するためにマツダと再契約した。 2018年のDPi規制に先立ってヨースト・レーシングがチームの管理を引き継ぐまで、結果は当初は控えめであった。 ヨーストは、次のシーズンのテスト時間を最大化するため、2017年シーズンの最終レースから撤退することを選択した。 2018年初頭のいくつかの信頼性の問題を除けば、ボマリトとチームは非常に成功した期間を送り、コ・ドライバーのハリー・ティンクネルとセブリング12時間レースを含む4つのレースで優勝し、2020シーズンはチャンピオンシップで総合3位でフィニッシュした。 レース成績[編集] アメリカン・オープンホイール[編集]

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