Month: August 2019

新城市立新城小学校 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “新城市立新城小学校” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年6月) 新城市立新城小学校(しんしろしりつ しんしろしょうがっこう)は、愛知県新城市にある公立小学校。 校区は奥井道、内井道南、内井道北、井道、二本松、沖野、東沖野、桜淵、中野、鰹淵、石名号、笠岩、向野、札木、屋敷、滝ノ上、西新町、下川、久保、裏野、町並、東入船、西入船、宮ノ前、宮ノ西、橋向、北畑、南畑、八幡、東末旨、的場、宮ノ後、鹿原、城北1丁目、城北2丁目の一部、城北3丁目の一部、片山の一部、石田の一部、平井の一部であり、公立中学校に進む場合は新城市立新城中学校に進学する[1]。 校地は新城城址の一部である。 校内には1915年建築の木造校舎(東校舎)が移築・復元されており、しろあと資料館となっている。また1935年完成の楼門が現存する。 新城小学校は、新城学校と新街学校を統合し尋常小学新城学校となった1887年を開校年とし、2017年に開校130周年を迎えている。ここではそれ以前についても記述する。 1872年(明治5年) – 郷学校として新城郷学校が開校。永住寺[注釈 1]を仮校舎とする。 1873年(明治6年)

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アテナイの学堂 – Wikipedia

アテナイの学堂(アテナイのがくどう、伊: Scuola di Atene、アテネのがくどう)は、ルネサンス期イタリアの画家ラファエロ・サンティのもっとも有名な絵画の一つである。描かれたのは、ローマ教皇ユリウス2世に仕えた1509年と1510年の間である。バチカン教皇庁の中の、現在ラファエロの間と呼ばれる4つの部屋の壁をフレスコ画で飾ることになって、ラファエロはまず署名の間と呼ばれる部屋から着手することにした。そして、最初に『聖体の論議』を仕上げてから、2番目に手がけたのがこの『アテナイの学堂』[注釈 1]である。その絵は、長きにわたってラファエロの最高作とみられてきた。盛期ルネサンスの古典的精神を見事に具現化したものと言えよう[1] 。 この絵に描かれている人々は有名な古代ギリシアの哲学者たちである。研究者たちは、ギリシアの学者(哲学者・科学者)のほとんどをこの絵の中で見つけることができるはずだと言い続けてきた。しかし、ラファエロははっきりと誰を描いたと言っていなかったので、絵の中に描かれている人物が誰か、正確に言い当てることははなはだ難しい。それを説明する同時代の記録も存在していない[2]。さらに問題を悪化させるのは、ラファエロは、絵の中の哲学者・科学者が誰なのかを読み解いてもらうための全員分の仕掛け(図像学)を作っていたはずだが、それを記録として残していなかったことだ[1][2]。とはいっても、絵の中に誰を描くかの選択をするのに、多くの人の承認が要ったはずと思われる[2]。 舞台設定[編集] 学堂はギリシャ十字(縦横が等しい十字)の形の中にあり、キリスト教神学と非=キリスト教のギリシア哲学との調和を意図したものと思われる[1]。その建築様式はドナト・ブラマンテに触発されたもので、ジョルジョ・ヴァザーリは、ブラマンテは実際にこの絵を手伝ったと言っている[1]。研究者の中には、学堂そのものがサン・ピエトロ大聖堂の正面からの景観になるように意図されていたという人もいる[1]。後ろの方に2つの彫像があり、向かって左は竪琴を持ったギリシアの神アポローンで[1]、医、治癒、光、真実、詩、音楽の神である。一方右側にいるのは、やはりギリシアの女神アテーナーだが、ローマの女神ミネルウァの恰好をしている[1]。アテーナーは知恵の女神である。 登場人物[編集] プラトン、アリストテレスなど、絵のなかの哲学者の何人かの身元は異論のないところだが、その他大勢の人物については研究者の間で意見が食い違っている。以下に示すのは、そのうちの一つ、Michael Lahanasの推理である[3]。 プラトンとアリストテレス[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “アテナイの学堂” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp ·

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週刊少年マガジン – Wikipedia

『週刊少年マガジン』(しゅうかんしょうねんマガジン、英: WEEKLY SHONEN MAGAZINE)は、講談社が発行する日本の週刊少年漫画雑誌。1959年3月17日創刊。毎週水曜日発売。略称は 「マガジン」「週マガ」。 劇画路線[編集] W3事件の際、手塚治虫が『週刊少年マガジン』から原稿を引き上げたため、対立軸を明確にすべく1970年代に劇画路線をとったことで知られる。近年の少年誌では珍しい、ノンフィクションのドキュメンタリー漫画が掲載された他、一時期は芸能人による連載企画も行われていた。 グラビア企画[編集] 多数の女性芸能人を輩出しているオーディション企画ミスマガジンを始め、グラビアアイドルや人気女優などのカラーグラビアも積極的に行なっている。また、「マガジン一押し!若手アイドル○連発」などと銘打ってまだ知名度の低いグラビアアイドルをまとめて掲載する企画が不定期で行なわれており、中には乙葉や小倉優子など、その後知名度が高くなった女性タレントも出演していた。しかし、2000年代後半以後はすでにテレビで活躍している女性タレント(スザンヌ、南明奈など)が出演することが多い。稀に男性芸能人が出演することもあり、2000年8号では男性バンドのL’Arc〜en〜Cielが、2015年42号では男女4人組バンドのSEKAI NO OWARIが出演した。ちなみに本誌の表紙を飾った最初の女性芸能人は1970年43号の藤圭子[1]、表紙を飾った最初の水着アイドルは1972年33号の山口いづみ[1] である。 アンケートの扱い[編集] 読者アンケートは、編集方針の参考という扱いである。『週刊少年ジャンプ』とは異なり、アンケート至上主義ではないが、アンケートで人気が芳しくなかった作品は打ち切りとなることが多い。 掲載順は「アンケート上位順」ではなく、様々な要因によって決定される。例えば、「単行本の売り上げや作品同士の相性を考慮する、特に読者にアピールしたい作品を上位にする」「巻末にギャグ漫画[注 1] を配置する」などである[2]。そのため、常時下位掲載でも打ち切られないケース[注 2] も見られる(いわゆるしんがり漫画)。 作品の転出および転入[編集]

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クリス・ブロデリック – Wikipedia

クリス・ブロデリック(Christopher Alan Broderick、1970年3月6日 – )はアメリカ合衆国のギタリスト。アメリカのパワーメタルバンド、ジャグ・パンツァーやスラッシュメタルバンド、メガデスに所属し、2014年からはアクト・オヴ・デファイアンスにて活動中である。また、2019年より、イン・フレイムスのライヴサポートとして参加し、その後正式加入した。 コロラド州デンバー出身。11歳のころからギターをはじめ、1日に14時間練習していた時期もあったといい、ギターだけでなくヴァイオリン、ピアノなども猛練習を重ねた。その甲斐もあり地元では有名なギタリストとして知られるようになる。またデンバー大学でクラシックギターの学位も取得しており、またパコ・デ・ルシアに影響されフラメンコギターも習得している。 1997年にアメリカのヘヴィメタルバンド、ジャグ・パンツァーに加入。当時のギターリストだったジョーイ・タフォラが脱退してを受けての加入だったが、ジョーイが技巧派ギタリストだったためバンドとしてはギタリスト探しが難航、最終的にそのテクニックと音楽理論に裏付けされたクリスが加入する事になった。ジャグ・パンツァーでは4つのアルバムに参加しており、2008年までの11年間在籍した。 2008年にメガデスに加入。2007年に前ギターリストのグレン・ドローヴァーの脱退を受け、メガデスのドラムでグレンの兄であるショーン・ドローヴァ―がクリスの加入を希望し、デイヴ・ムステインにクリスが演奏するエレキギターとクラシックギターの映像を見せたところ即座にクリス加入が決まり、メガデスのマネージメントがクリスにコンタクトをし、その2週間後に正式加入が発表された。デイヴ・ムステインによれば「クリスを見つけた時は、まるでオジー・オズボーンがランディ・ローズを見つけたと同じくらいの衝撃」だったらしく、「歴代のメガデスのギターリストでもっとも素晴らしいギターリスト」と称賛している。メガデスのギタリストとしてのデビューは2008年2月4日のフィンランドのヘルシンキでのライブで、その後2009年のアルバム『Endgame』から音源に参加している。 2014年11月に自身の公式ウェブページにて音楽性の違いなどの理由からメガデスを脱退する事が発表された[1]。 メガデスを脱退した後に、同時期にメガデスを脱退したドラムのショーン・ドローヴァーと共にアクト・オヴ・デファイアンスを結成。元スカー・ザ・マーティアーのボーカルであるヘンリー・デレク、元シャドウズ・フォールのギターであるマット・バックハンドをベースに迎えた。 また2001年~2003年および2006年~2007年にアメリカのヘヴィメタルバンド・ネヴァーモアのサポートギターリストとして参加しており、2007年のTHRASH DOMINATIONにネヴァーモアが参加した際にも来日している。 2019年より、ニクラス・エンゲリンの代わりに、イン・フレイムスのライヴサポートとして参加し、その後、正式加入の発表無かったものの正式メンバーとしてクレジットされるようになった。 2011年まで日本のギターメーカー・アイバニーズとエンドース契約をしており、2011年からはジャクソンと契約している。現在発売されている「Chris Broderick Signature Soloist」は、「Soloist」の名を関してはいるが、彼自身がデザインを手掛けた独自のボディ形状となっており、6弦と7弦がラインナップされている。普段は7弦ギターをメインに使用しているが、メガデスでは過去の楽曲ではそれほど7弦が必要とされていないことから敢えて6弦ギターをメインに使用していた。 アンプはENGLとエンドース契約していたにも関わらず、メガデス加入の際にデイヴ・ムステインがマーシャルの音質を好んでいたためENGLの使用を認めず、メガデスではマーシャルを使用していた。 またヘヴィメタル系のギタリストとしては非常に珍しく、親指にピックをはめる「サムピック」を使用している。これは彼が得意とする両手指をフルに使用するエイトフィンガー・タッピングを演奏する際、通常のピッキングから即座にタッピングに移行する、あるいはその逆の場合ピックを持ち替える必要が省けるためである。しかし、サムピックを使用する場合普通のピックと比べて使い勝手に欠けるため、一般的なフラットピックにサムピックの指にはめる部分を接着して使用していた。現在はギターパーツのメーカーと共同で開発した、フラットピックに挟むだけでサムピックに簡単に変えられる「ピック・クリップ」を使用している。勿論、通常のサムピックと同様に、曲によっては(たとえば「Holy Wars…

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雲仙市立愛野小学校 – Wikipedia

雲仙市立愛野小学校(うんぜんしりつ あいのしょうがっこう)は、長崎県雲仙市愛野町乙にある公立小学校。略称は「愛小」。 歴史 1874年(明治7年)創立。2014年(平成26年)に創立140周年を迎えた。 学校教育目標 「自らの心力・知力・体力を、常により高いものへ向上させようと努力する子どもを育てる」 校章 この節の加筆が望まれています。 中央に校名の「愛小」の文字(縦書き)を置いている。 校歌 作詞は吉冨新二郎、作曲は伊藤英一による。歌詞は3番まであり、各番に校名の「愛野」が登場する。 校区 雲仙市愛野地区(旧・愛野町)全域。中学校区は雲仙市立愛野中学校。 1871年(明治4年)- 廃藩置県により、島原県の管轄となる。間もなく島原県は長崎県に統合される。 1872年(明治5年)8月 – 学制が頒布される。 1874年(明治7年)- 「第五大学区第三中学区[1]」の小学校として、野井村に「人民共立舟津小学校」、愛津村に「人民共立愛津小学校」が開校[2]。

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ログイン – Wikipedia

この記事の文章は不自然な表現、または文意がつかみづらい状態になっており、修正が必要とされています。(2019年5月) ウィキペディアにおけるログイン(アカウントの取り方)については、Help:ログインをご覧ください。また、実際にウィキペディアでログインするには、特別:ログインにアクセスしてください。 ログイン(英: log in)は、コンピュータの利用開始時にユーザーの身元や妥当性を識別して、さまざまなリソースへのアクセスに必要な資格情報を取得するための操作である。一般的に、コンピュータセキュリティに関する手法や手段の一部に組み込まれている。ログオン(英: log on)、サインイン(英: sign in)、サインオン(英: sign on)[要出典]などとも呼ばれる。 この節には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年5月) ログ (log) の本来の意味は「丸太」である。これは船舶で利用された航海日誌 (logbook) に由来する。航海日誌には船の速度を記録するが、かつては速度を「船首から投下した丸太が船尾に到達するまでの時間」で計測していたため、「ログ」という言葉を使っている(データログ#語源およびノット#起源を参照)。 コンピュータの利用中に付けられる利用記録を船舶用語に準えて「ログ」と呼んだこと、また作業員が工場に出勤してタイムカードに時刻を打刻することを英語で clock in

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百尺観音 (相馬市) – Wikipedia

画像提供依頼:百尺観音像の画像提供をお願いします。(2020年6月) 百尺観音(ひゃくしゃくかんのん)は、福島県相馬市日下石にある磨崖仏である。制作から管理まで、宗教法人や行政ではなく民間が行なっている。 目次 1 概要 2 施設 3 周辺 4 アクセス 5 脚注・参考文献 百尺観音 地元の仏師である荒嘉明が、諸国遊歴の後、「千体の仏像を作るより生涯一仏一体」[1]と決意し、建立に着手したのが始まりである。 昭和6年(1931年)に着手してからは嘉明は制作に身を投じ、昭和33年(1958年)には八十八尺になった観音像の開眼式が行なわれた。しかし、30余年の年月を費やし1人で掘り続けた嘉明であったが、完成を見ないまま昭和38年(1963年)に62歳で他界した。 二代目(荒保彦)が制作を引き継ぎ、崩れやすい砂岩の磨崖仏にモルタル加工を施すなど、観音像の建設を進めた。しかし、昭和55年(1980年)に53歳の若さで亡くなった。 さらに、三代目(荒嘉道)が継承し、参道や境内などの周辺を整備した。また、平成23年(2011年)の東日本大震災では、左手の落下やモルタルの剥離などの被害が出たことから修理を行なっていたが、平成25年(2013年)に58歳で他界した。 現在は、四代目の荒陽之輔が引き継ぎ、観音像の制作を行なっている。着工から100年となる令和13年(2031年)までの完成を目指し、整備を進めている。 現在の高さは88尺(約27m)であるが、未完の台座部分が完成すれば118尺(約36m)となり、日本一の磨崖仏となる。[2]

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ファイヴ・ピース・バンド・ライヴ – Wikipedia

『ファイヴ・ピース・バンド・ライヴ』(Five Peace Band Live)は、チック・コリアとジョン・マクラフリンを中心としたジャズ/フュージョン・バンド、ファイヴ・ピース・バンドが2008年に録音し、2009年に発表したライブ・アルバム。日本で先行発売された[5]。 ファイヴ・ピース・バンド(2008年のウィーン公演) コリアとマクラフリンは、1969年にマイルス・デイヴィスの『イン・ア・サイレント・ウェイ』、『ビッチェズ・ブリュー』といったアルバムの録音で共演しており、本作でもデイヴィスの曲「イン・ア・サイレント・ウェイ〜イッツ・アバウト・ザット・タイム」を演奏している[2][6]。なお、本作に収録された「イッツ・アバウト・ザット・タイム」には、『イン・ア・サイレント・ウェイ』の録音で両名と共演したハービー・ハンコックがゲスト参加している[7]。 バンド名は、マクラフリンが2008年に発表したアルバム『フローティング・ポイント』の収録曲から取られた[6][7]。 日本では、2009年2月16日付のオリコンチャートで最高118位を記録した[1]。フランスでは2009年5月9日付のアルバム・チャートで168位を記録するが、翌週にはチャート圏外に落ちた[4]。アメリカでは、総合アルバム・チャートのBillboard 200には入らなかったが、『ビルボード』のジャズ・アルバム・チャートでは15位に達した[8]。 第52回グラミー賞では最優秀ジャズ・インストゥルメンタル・アルバム賞を受賞した[9]。 Thom Jurekはオールミュージックにおいて5点満点中3.5点を付け「確かに、机上のスーパーグループというのは胡散臭い代物である。しかし、本作はそれに当たらない」「プレイヤー全員が絶好調で、極めて冒険的かつ美しい内容となったギグを再現している」と評している[2]。また、ジョン・ケルマンはAll About Jazzのレビューで5点満点中4.5点を付け「ストレート・アヘッド路線から、気合いに満ちたフュージョンまで網羅している」と評している[10]。 特記なき楽曲はジョン・マクラフリン作曲。 ディスク1[編集] ラジュ – “Raju” –

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高橋靗一 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “高橋靗一” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年2月) 高橋靗一 生誕 1924年(大正13年)4月27日 中華民国青島市 死没 (2016-02-25) 2016年2月25日(91歳没) 国籍 日本 出身校 東京大学

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西山朝 – Wikipedia

西山朝 大越 (国旗) 黄色が泰徳帝の歸仁政権、藍色が光中帝の富春政権の支配領域。緑が阮福暎の勢力圏(のちの阮朝) 西山朝(せいざんちょう、タイソンちょう、ベトナム語:Nhà Tây Sơn / 茹西山)は、1778年から1802年の間、ベトナム史に存在した王朝。この期間の一連の出来事は西山(タイソン)党の乱とも呼ばれる。 18世紀の大越では後黎朝の皇帝が名目上のものとなり、北部は鄭氏が北河国(中国呼称:交趾国、日本呼称:東京国)を称し、南部は広南阮氏が広南国を称していた。両者は「鄭阮紛争(中国語版)」と呼ばれる抗争を繰り返し、国土は疲弊した。 直接の抗争が落ち着いた後も、東京鄭氏の執権下では地主や官僚の土地私有化が進み、遊興三昧の鄭杠(中国語版)によって農村は荒廃し、永佑元年(1735年)には大飢饉が起こり反乱が相次いだ。 広南国でも景興26年(1765年)の武王阮福濶の死後、わずか12歳の定王阮福淳の摂政となった張福巒(中国語版)を中心に官僚の不正がはびこっていた。また、広南阮氏は以前よりアユタヤ王朝の干渉を避けようとするカンボジア(英語版)と姻戚関係を結び、それを利用した南進政策の元でメコンデルタに多くの植民地を築いており、景興18年(1757年)には反乱鎮圧を名目に現在のカンボジア南部にまで勢力を伸ばしたが、景興28年(1767年)にアユタヤ王朝に取って代わったトンブリー朝のタークシン王は再びカンボジアに侵攻。これにより植民地を失った広南国では民衆に更に重税を課すことになり、地方は疲弊した。 阮三兄弟像(タイソン県フーフォンのクアン・チュン博物館) 広南阮氏との戦い[編集] 景興32年(1771年)、西山(タイソン、現在のビンディン省)出身の阮岳(中国語版)・阮侶(中国語版)・阮恵の三兄弟(阮姓だが元は胡季犛と同じ胡姓で広南阮氏とは無縁)が摂政張福巒の排除を掲げて反乱を起こした。阮岳の妻の雅都(ベトナム語版)は山岳民族の巴拿族出身であり、反乱の初期は多くの山岳民族が阮岳を支えた。景興34年(1773年)には歸仁(現在のクイニョン)を占拠。さらに北上し広義・広南から広南阮氏を駆逐した。 これを好機と見た東京鄭氏の鄭森は軍を大挙南下させ、景興35年(1774年)には広南阮氏の本拠地富春(英語版)(現在のフエ)を攻略した。 西山軍は広南で東京鄭氏と対峙したが、広南阮氏と鄭氏の両者を敵に回す愚を避けて鄭氏に服従の意を示し、後黎朝より「広南鎮守宣撫大使」に任じられると更に南部に軍を進め、景興37年(1776年)には嘉定(現在のホーチミン市)に侵攻。阮福淳ら広南阮氏の多くを殺害したが、この時に一族の阮福暎だけは取り逃がした。 景興29年(1778年)、阮岳は歸仁の皇帝城(ベトナム語版)で西山王を名乗った。 ラックガム=ソアイムットの戦い[編集] 景興37年(1776年)に阮福暎はフランス人宣教師ピニョー・ド・ベーヌに子の阮福景を人質として差し出すことにより加勢を頼んだ。嘉定は阮福暎は一度は占領されたが、すぐに西山軍が奪回して阮福暎は富国島へ逃亡した。また阮福暎はシャムチャクリー王朝のラーマ1世から水兵2万(一説には5万)・船300隻の援軍を得た。メコンデルタの中国人勢力も阮福暎に味方した。 泰徳7年12月9日(1785年1月19日)、阮恵率いる西山軍と阮福暎・シャム連合軍はメコン川中流、美湫付近の瀝涔から

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