Month: October 2019

新幹線回数券 – Wikipedia

新幹線回数券(しんかんせんかいすうけん)は、新幹線で使える特別企画乗車券である。九州新幹線には6枚綴りのものは存在しないが2枚綴りのものは2枚きっぷという名称で存在する。 設定区間の特急料金を含んだ乗車券として販売されており、回数乗車券に近く、複数枚綴りで1枚当たりの金額は同区間の特急料金を含んだ運賃と比較し割安となる設定になっている。特別企画乗車券のため普通乗車券とは一部異なる約款が適用され、多客期の使用不可や乗り越し時の打ち切り計算などがある為注意が必要である。 九州新幹線2枚きっぷを除き、並行する在来線には乗車できない。 東海道・山陽新幹線[編集] 東海道・山陽新幹線の新幹線回数券には、「グリーン車用」「普通車指定席用」「普通車自由席用」の3タイプがある。どれも6枚綴りで有効期限は3か月。多客期の利用・普通個室の利用・途中下車はできない。払い戻しは全券未使用の場合のみ可能である。東海道新幹線には東京駅 – 新大阪駅間に限り20枚綴りの「新幹線回数券20」が設定され、6枚綴りと比べ割引率が高かったが、2014年10月1日に6枚綴りに統合された。 山陽新幹線内のみの利用であれば「みずほ」「さくら」にも乗車可能。博多駅をまたいで九州新幹線方面と行き来できる回数券は発売されていない。 九州新幹線[編集] 2枚きっぷを参照。 ただし九州新幹線2枚きっぷは自由席用しかなく指定席用やグリーン車用は存在しない。博多駅までであれば「みずほ」にも乗れるが、同駅をまたいで山陽新幹線方面と行き来できるものは発売されていない。 JR東日本の新幹線[編集] 東北・山形・秋田・上越・北陸新幹線の新幹線回数券には、「グリーン車用」(2016年3月25日をもって発売終了)・「普通車指定席用」・「普通車自由席用」の3タイプがある。どれも6枚綴りで有効期限は3か月。秋田新幹線の新幹線回数券では大曲 – 湯沢、秋田 – 男鹿・八郎潟・羽後本荘間において特急・急行列車の普通車自由席が利用できる。多客期の利用・途中下車はできない。払い戻しは全券未使用の場合のみ可能である。グランクラスは運賃のみ適用され、特急料金などが別途必要である。 盛岡駅までであれば「はやぶさ」にも乗車可能。いわて沼宮内駅以北(北海道新幹線区間を含む)を発着とする回数券は仙台 – 八戸のみが発売されており、東京と八戸・新青森・新函館北斗方面とを直接行き来できるものは発売されていない。

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住吉大伴神社 – Wikipedia

住吉大伴神社(すみよしおおともじんじゃ)は、京都府京都市右京区龍安寺にある神社。社格は旧村社。 衣笠山などに続く住吉山の山麓、京都市道183号(きぬかけの道)の南側にある。南西150mには仁和寺が、北東150mには龍安寺がある。右京区龍安寺や右京区谷口などの産土神である[1]。 天忍日命(あまのおしひのみこと) 道臣命(みちのおみのみこと) 上筒男命(うわつつおのみこと) 中筒男命(なかつつおのみこと) 底筒男命(そこつつおのみこと) 出典 : 京都古社寺辞典[2] 伴氏神社 創建年は不明だが、平安京遷都に際して大伴氏が大和国から京の都に移った際、その氏神として伴氏神社が祀られたものとされる[3]。続日本後紀の天長11年(834年)の条には伴氏神社の創祀に関する記述があるが、現在の住吉大伴神社とも、北野天満宮境内にある伴氏社ともいわれている[4]。弘仁14年(823年)に淳和天皇が即位すると、淳和天皇の諱が大伴だったことから大伴氏は伴氏に改称し、この神社も伴氏神社(ともうちのじんじゃ[3]、とものうじじんじゃ[1])と改称された。延喜5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳にも、山城国葛野郡上林郷の項に伴氏神社の名が記録されている[1]。貞観6年(866年)の応天門の変で伴善男が失脚し、大伴氏の衰退を機に神社の祭礼も廃絶された[1][5]。 住吉神社 大伴氏の没落後、山城国葛野郡上林郷の当地は左大臣・藤原実能(徳大寺実能)などを輩出した徳大寺家の領地となった[2]。平安時代末期には徳大寺家によって住吉神が祀られ、住吉神社(すみよしじんじゃ)と改称された[5]。中世までの史料では近世の『山城誌』などの史料はこの住吉神社をかつての伴氏神社に比定している[3]。 住吉大伴神社 昭和期に入って再び大伴祖神を祀るべきという意見が強まったため、1942年(昭和17年)には天忍日命(あまのおしひのみこと)と道臣命(みちのおみのみこと)が合祀され、現行の住吉大伴神社(すみよしおおともじんじゃ)と改称した[3][2][1]。 社殿 現在の本殿は昭和初期に建てられたものであり、間口一間、奥行一間半の縮小型住吉造で日本唯一の建築である[6]。1978年(昭和53年)には萱葺の本殿屋根が銅葺きに改められた。住吉造による本殿は住吉大社(大阪市住吉区)、住吉神社(福岡市博多区)に見られるのみである[6]。 境内社 往古より十禅師権現社、斎ノ宮社、小松尾明神社が奉斎されていたが、現在は小松尾神社のみが残り、他の末社は小松尾神社に合祀されている[6]。 歌碑

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イセビル – Wikipedia

イセビルは、横浜市中区伊勢佐木町にある商業ビルである。第一〜第三イセビルがあるが、一般に「イセビル」と通称される第一イセビルはイセザキモールの入口にあたり、関内駅・馬車道方面から吉田橋を渡ると商店街のゲートの右側に位置する。 横浜市会議員の上保慶三郎は、1923年の関東大震災により壊滅した横浜の街を復興させるための商業施設を建設するべく、耐火建築促進を目的とした復興建築助成株式会社の助成を受けた。慶三郎は、横浜ではこの制度適用の第1号であった。施工は東京・銀座の三ツ引商事が請け負い、「どんな震災や火災にも耐える建物を」との慶三郎の強い希望により基礎に404本のアカマツの杭が打たれた。これは、派大岡川[注釈 1]の川沿いという条件もあったが、異例のことであった。助成額をはるかに超える工費を要し、難工事の末、1926年に第一イセビルが完成した[注釈 2]。当時は地下1階・地上5階建で、のちに6階が増築されている[1]。地下には「イセビル和洋食堂」、最上階だった5階には「イセビル展望台食堂」が設けられ、他に寿司屋「新すし」や、2・3階には牛鍋屋「旭牛肉鍋」が入居した。上保の応接室は4階に設けられた。5階の展望台食堂が退店した後にはキリンビヤホールが入り、その後も本ビルには麻雀倶楽部やビリヤード場、洋傘店、高級ネクタイ店などが入居し、「ハマの不夜城」として栄華を誇った[4]。第二次世界大戦が始まると金属類回収令により、横浜で2番目に導入されたエレベーターは撤去を命じられた。横浜大空襲は耐え抜いたが、終戦後は進駐軍により接収された。接収中は、米軍関係者などが利用する食料品店が開設されていたが[5]、慶三郎の働きかけにより、伊勢佐木町の中では比較的早期に接収解除された[6]。 地下には1952年より「パブサントリー」が営業していたが、退店後十数年使われてこなかった。近年の原状回復工事において、昭和初期に「カフェー オリエント」として使われていたころとみられる砂漠の旅人やファラオ、裸婦の壁面絵画が発見された。2階には、1955年当時にダンスホール「白馬車」として営業していたころに描かれたとみられる、馬車に乗る男女と空に浮かぶ飛行船の壁絵が発見されている。5階には、一時期ホテルとして使用されていた名残のタイル張り浴槽が残っている[7]。2015年現在は、1階には崎陽軒の売店や家系ラーメン「ゴル家」、ジーンズショップ「ジーンズハウス いわ乃」、4階に出版社「星羊社」[8]やイベント企画会社「悟空研究所」などが入居している[5]。 屋上広告[編集] 伊勢佐木町の入口の目立つ位置にあり、屋上には長らく広告看板が設けられていた。完成当初には「キリンビール」[9]、米軍第8軍による接収中には、6階窓に「No.8 BAZAR」の看板が掲げられた[10]。1966年と1977年の写真では、「沖正宗」の横型看板と「ニッカウヰスキー」の縦型広告塔が確認できる。1980年12月からは、縦5m、横13.7mの救心の看板が掲出されたが、同社の広告戦略の見直しおよび防災上の観点から、2013年11月に看板は撤去された[11]。 第二・第三イセビル[編集] 第二イセビルは1954年度の助成で伊勢佐木町二丁目に、第三イセビルは1956年度の助成で長者町七丁目に建設された。いずれも現存する[12]。 吉田町側より。上部に「ルビセイ」の右横書きの表記が残る 1階の様子。崎陽軒などが入る イセザキモールに面した第2イセビル 長者町通りに面した第3イセビル。かつては角に時計台があった ^ 1970年代に廃河川となり、現在は首都高速横羽線の掘割区間になっている ^ 完成時期を1927年とした文献も見られるが[2]、1926年12月に刊行された雑誌で新築となったイセビルの様子が記述されている[3]

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上海図書館 – Wikipedia

上海図書館(上海科学技術情報研究所)(シャンハイとしょかん、中: 上海图书馆(上海科学技术情报研究所))は中国の上海にある図書館。ここは北京の中国国家図書館に次ぎ中国で2番目に大きな図書館である。 敷地面積は3.1ヘクタール、床面積は83,000m²[2]。建物は高さ106.9メートル(24階建て)および58.8メートルの2つの塔からなり[2]、その直方体を積み上げたピラミッド状の姿は、文化的遺産の堅い礎、そして知識を追求する人類の不断の努力を象徴したものである[3]。2012年時点で、世界で最も高い図書館である。 上海図書館が設立される前に上海にあった図書館としては、イエズス会が運営した1847年設立の徐家匯蔵書楼、初めて中国人自身が運営した図書館である1925年設立の上海東図書館がある[4]。 1950年に上海文化遺産運営委員会は図書の収集活動を行ない、約1年間で20万冊以上を集めた。これには多くの学者や名士が協力し、そのうちの一部は莫大な寄付を行なった。委員会は海外からも図書を購入した[4]。そして1952年7月22日に、上海で初めてとなる大規模公営図書館として、70万冊以上の蔵書を揃えた上海図書館を開設した[4]。ここは以前の上海競馬場のそばにある建物であり、床面積が30,000m²あった[4]。 1956年には徐家匯蔵書楼を分館とし、1958年に上海科学技術図書館(上海科技图书馆)、上海歴史文書図書館(上海历史文献图书馆)、上海新聞図書館(上海报刊图书馆)を合併した。1995年に上海図書館は、1958年設立の上海科学技術情報研究所 (ISTIS) と合併した[1]。これにより上海図書館は、公共図書館サービスと科学技術・産業情報研究機能が一体化した、中国初の図書館となった。 所蔵スペースの不足は1970年代から問題となり、現在の建物は1993年に起工[4]、1996年に移転、一般公開が始まった[3]。 関連文献[編集] David H. Stam, ed (2001). International Dictionary of Library Histories.

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柵戸 – Wikipedia

柵戸(さくこ、きのへ、きべ)は、7世紀から8世紀にかけて、城柵を維持するためにその中か周辺に置かれた人々をいう。関東地方、北陸地方と信濃国から、東北地方・北陸地方、九州地方の辺境域に設置された城柵に移住した。自ら土地を開墾して生活を立て、城柵の造営と修理にあたり、戦時には城柵の防衛にあたった。 『日本書紀』の大化3年(647年)是歳条に「渟足柵を造り、柵戸を置く」とあって、これが東北辺境の城柵と柵戸の初見である。翌大化4年(648年)には「磐舟柵を治めて蝦夷に備え、越と信濃の民を選んで初めて柵戸を置く」とある。一年遅れの磐舟柵のほうが「初めて」とされているのがやや不審だが、この頃が柵戸の開始期であった[1]。『和名類聚抄』の郷名からの推定では、渟足柵には越前国、磐舟柵には信濃国と越前国からの移民が想定できるという[2]。 史料には見えないが、太平洋側の陸奥国にも郡山遺跡のような柵が作られた。関東からの移民の存在が出土した土器から推定されており、彼らも柵戸だった可能性がある。 柵戸は九州南部にも置かれ、天平神護2年(766年)には日向・薩摩・大隅の三国に柵戸が存在した[3]。 移住政策(柵戸政策)は、養老6年(722年)以降しばらく行われなくなるが、天平宝字元年(757年)以降に桃生城・雄勝城の造営に伴って再び開始される。この時期に移住させられた住民は、「戸」を単位としたものでなく犯罪人や浮浪浪人などの移転が中心となっている。さらに桃生城・伊治城の造営や桃生郡・栗原郡を建てるに当たっては、陸奥国や坂東(関東地方)諸国から住民に優遇措置を与えて移住させる政策がとられる。それは住民の希望者を募るという方法にかわっていた。しかし、移民政策は継続されていて、延暦21年(802年)正月に駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野諸国の浪人4000人を陸奥胆沢城に移転させた[4]。この移民政策の記事が最後で、桓武朝末年の蝦夷征伐中止の決定(徳政相論)と関連して放棄されたと考えられている。[5] ^ 高橋崇「柵」232-233頁。 ^ 高橋崇「柵」233頁。 ^ 『続日本紀』同年六月丁亥条 ^ 『日本紀略』延暦2年正月戊辰条。 ^ 平野卓治「律令国家と「坂東」」 上原真人他編(2006年)137-139頁 参考文献[編集] 高橋崇「柵」、高橋富雄・編『東北古代史の研究』、吉川弘文館、1986年。 橋本博文・平野卓治「古代史の舞台 坂東」、上原真人・白石太一郎・吉川真司・吉村武彦『列島の古代史1 ひと・もの・こと 古代史の舞台』岩波書店 2006年 関連項目[編集]

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宮田大地 – Wikipedia

宮田 大地Daichi MIYATA 選手情報 生年月日 (1996-07-14) 1996年7月14日(25歳) 代表国 日本 出生地 福岡県大野城市 身長 171 cm コーチ 重松直樹 振付師 岩本英嗣 元振付師 ナタリア・ベステミアノワイゴール・ボブリン

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四條畷市立四條畷中学校 – Wikipedia

四條畷市立四條畷中学校 過去の名称 四條畷町立四條畷中学校 国公私立 公立学校 設置者 四條畷市 併合学校 四條畷町立田原中学校  四條畷市立四條畷南中学校 設立年月日 1947年4月1日 共学・別学 男女共学 学期 3学期制 所在地 〒575-0003 大阪府四條畷市岡山東5丁目2番10号 北緯34度44分37.2秒 東経135度39分9.4秒

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ファン・カルロス・パヤノ – Wikipedia

ファン・カルロス・パヤノ(Juan Carlos Payano、1984年4月12日 – )は、ドミニカ共和国のプロボクサー。コンセプシオン・デ・ラ・ベガ出身。元WBA世界バンタム級スーパー王者。 アマチュア時代[編集] 2003年、パンアメリカン競技大会にフライ級(51kg)で出場するが決勝でユリオルキス・ガンボアに敗退[1]。 2004年、ギリシャのアテネで開催されたアテネオリンピックにフライ級(51kg)で出場するが2回戦で敗退 [2]。 2005年、中華人民共和国の綿陽市で開催された世界選手権にフライ級(51kg)で出場するが準々決勝で敗退 [3]。 2007年、パンアメリカン競技大会にフライ級(51kg)で出場するが決勝でマックウィリアムズ・アローヨに敗退[4]。 2008年、中華人民共和国の北京で開催された北京オリンピックにフライ級(51kg)で出場するが2回戦で敗退[5]。 2009年、イタリアのミラノで開催された世界選手権にフライ級(51kg)で出場するが2回戦でアムナット・ルエンロンに敗退した[6]。 アマチュア時代の戦績は425勝21敗[7]。 プロ時代[編集] 2010年8月21日、4回3-0(3者とも40-36)の判定勝ちを収めデビュー戦を勝利で飾った。 2011年12月3日、レシャウン・ブライアーと対戦し、初回2分35秒TKO勝ちを収めた。 2012年3月2日、ホセ・シルベイラとWBCラテンアメリカバンタム級王座決定戦を行い、10回3-0(3者とも100-90)の判定勝ちを収め王座獲得に成功した。 2012年5月18日、ルイス・マルドナドとWBAフェデラテンバンタム級王座決定戦を行い、10回3-0(99-89、2者が100-88)の判定勝ちを収め王座獲得に成功した。

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