Month: February 2020

希少疾患 – Wikipedia

希少疾患(きしょうしっかん、英: Rare Disease、RD)は、患者数の小さな疾患の総称である。希少難病、稀少疾患とも記される。生活習慣病や感染症の多くを含む「普通の病気」(コモンディジーズ)の対義であり、コモンディジーズが一般人口を対象とするのに対し、希少疾患は人口10万人に対して患者が何人という単位で罹患率を表す。 ヨーロッパの希少疾患の患者会の連合組織であるen:European Organisation for Rare Diseases(EURORDIS)によると、希少疾患のおよそ80%が遺伝性である[1]。ただし、ここで遺伝性とは、必ずしも親子で遺伝したことを意味せず、子で初めて罹患したものを含む。ヨーロッパでの2000人に1人未満の罹患率の疾患を希少疾患とみなすという基準で数えると、6000疾患を超える希少疾患が存在し、欧州連合(EU)全体で合計3千万人が希少疾患に罹患していると述べられている[1]。日本の国立精神・神経医療研究センター理事長・総長の水沢英洋によると、遺伝性疾患は2019年11月時点で9000以上報告されており、このうち約6000は原因遺伝子が解明されている。命名されていない「未診断疾患」も存在する[2]。 希少疾患の定義として、どこまで患者数の大きいものまで数えるかという基準によって、ヨーロッパとアメリカ合衆国(米国)で異なっており、米国ではen:Rare Diseases Act of 2002に基づいて、米国全土で患者数が20万人未満の疾患を希少疾患とみなす。これは人口比でおよそ0.06%であり、ヨーロッパの基準では人口比でおよそ0.05%であるため、ヨーロッパよりも米国の方が希少疾患の範囲が幅広い。日本の場合には、ほぼ同じ疾患群に対して伝統的に難病、難治性疾患という呼称が用いられているが、「難」という文字が表す通り、希少性よりも重症度の評価を含めた医療行政上の疾患区分として導入が進んだため、米国やヨーロッパのような一律で単純な基準ではない。その一方で特定疾患の研究中心の制度を引き継ぐ形で助成のために法制度化された難病法により、指定をうけた疾患に対しては一律で系統的な助成が行われるようになり、こういった一律な制度が国の単位で実施されているのは事実上世界中で日本だけである。ただ、その対象人口は決して大きくなく、EURORDISにより希少疾患全体のEUでの人口比が6〜8%と述べられているのに対し[3]、難病法の対象人口の150万人[4]は人口比およそ1%である。 難病のうち、患者数の小さな疾患の困難さを強調して希少難病と呼ばれることがある。希少難病の厳密な定義は存在しないものの、日本語では頻繁に、欧米の報道における希少疾患を日本の難病という概念と整合させて翻訳した結果、希少疾患の代わりに希少難病と呼ばれる[5]。 混同されやすい用語として、希少疾病(きしょうしっぺい)は、日本の薬事法で希少疾病用医薬品の対象となる疾患の総称である。日本全土で患者数が5万人未満の疾患という基準により、欧米の希少疾患と同様に国の単位で一律の基準ではあるが、人口比でおよそ0.04%であるため、ヨーロッパの希少疾患の基準よりもさらに狭い。希少疾病用医薬品のことを、英語では放置された孤児を意味するオーファンという表現によりオーファンドラッグと呼称するため、その対象疾患もオーファンディジーズと呼ばれることがあるが、欧米でいう希少疾患とオーファンディジーズの違いは、患者数の小ささを表現するか、医療制度の中で見捨てられていることを表現するかであり、ほぼ同じである[6]。希少疾病について言及した者が、日本の希少疾病の対象範囲が、欧米の希少疾患の対象範囲よりも狭いことに着目し、狭義に考えていれば、希少疾病は希少疾患と区別され、そうではなく広義にとらえれば同義である。 こういった事情から、希少疾患についての世界共通の一律の基準は存在せず、国や制度によって解釈が多少異なるのが実情である。ヨーロッパと米国の基準は似ているが、日本の難病は重症度の評価を含んで指定する方式であるため狭く、日本での希少疾患という概念は厳密さを必要とする場合、ヨーロッパか米国のどちらかに準じる必要がある。 稀少疾患と、頭の一文字が異なって表記されることがあるが[7]、wikt:稀とwikt:希は同義字の関係であり、稀少疾患と希少疾患も同義である。希は常用漢字一覧に含まれ、稀は人名用漢字一覧に含まれる。 欧米の希少疾患の概念が、日本の難病を完全に含むわけではない。特に複雑な例として、ダウン症候群があげられる。ダウン症候群は難病法の対象疾患であり難病に含まれるが、日本においてはかつて患者数の小ささから希少疾患であったが、その同時期に、米国では患者数が大きく希少疾患ではなかった。 しかし、高齢妊娠の増加により年々患者数が増したことで、日本においても、希少疾患の基準を外れつつある。しかし、もしも新型出生前診断が普及すれば、患者数は減少へと転じるものと予測され、いずれ再び希少疾患としての希少性の条件を満たすと予測される。このように、国や制度により希少疾患の基準が異なるだけでなく、時代や人為的な影響で特定の疾患について患者数が変動し、希少疾患の条件を満たすかどうかが変わりうる。 希少疾患は、通常は遺伝性であり、それゆえに通常は一生を患う慢性疾患である。en:EURORDISによると、希少疾患のうち遺伝性疾患の割合は80%である[1]。残りは、稀な種類の感染症、稀な種類の免疫疾患、稀な種類のがんなどが含まれる。ただし、希少疾患の種類はあまりにも多く、例外が多いこともまた希少疾患の特徴である。

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ヴァレリー・ハリロフ – Wikipedia

ヴァレリー・ハリロフВалерий Халилов 生誕 1952年1月30日 ソビエト連邦、テルメズ 死没 2016年12月25日 (63歳没) 所属組織 ロシア連邦軍 最終階級 陸軍中将 テンプレートを表示 ポータル クラシック音楽 ヴァレリー・ミハイロヴィチ・ハリロフ(ロシア語: Валерий Михайлович Халилов, ラテン文字転写: Valery

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高砂国 – Wikipedia

高砂国(たかさごこく)は、16世紀から19世紀頃の日本で用いられていた台湾の別名。 安土桃山時代の日本では現在の台湾に当たる場所に高山国(こうざんこく)があると信じられていた。1593年(文禄3年)、豊臣秀吉は高山国に対して朝貢を求める書状を長崎の原田孫七郎に託したが「高山国」に当たる国が見つからなかったため失敗に終わっている。なお「高山国」の読みについてはバークレー美術館が所蔵する『世界図屏風』に「たかさんこく」との表記が見られる。1627年(寛永4年)には浜田弥兵衛が島民16名を連れて将軍・徳川家光に拝謁を求め、代表者の理加と名乗る島民が「高山国使節」として非公式ながら将軍に拝謁している(タイオワン事件も参照)。 これに前後して、江戸時代初期からは「高山国」と同様に台湾を指す名称として「高砂国」が使われるようになった。京都市左京区の金地院が所蔵する「異国渡海御朱印帳」では「高砂国」の表記に「タカサグン」の読み仮名が振られているのが確認できる。「タカサグン」は現地語の発音を転写したものとみられ、一例として有馬晴信の書状には「たかさくん」「たかさくん国」「たかさくん人」の用例が複数確認されているが、この「タカサグン」に播磨国加古郡や陸奥国宮城郡など日本に既存の地名であった「高砂」が音韻の相似から当てられるようになったと考えられている。 「タカサグン」の由来については諸説あり、高雄市にある寿山の旧称「打鼓山」に由来すると言う説や、台北帝国大学を創立した幣原坦の提唱による平埔族(特定の民族を指す固有名でなく、台湾島の平野部に居住する複数の民族の総称)の集落であった打狗社(後の高雄市)に由来するのではないかと言う説がある。1713年(正徳3年)刊の『和漢三才図会』では「和用高砂字」として現地の発音に日本で「高砂」の当て字を行った旨の注釈がある。 台湾は日清戦争を経て1895年(明治28年)の下関条約で清から大日本帝国に割譲され、日本の外地となった。この頃には清の統治下で台湾に入植した漢民族が台湾の多数派住民となっていたが、漢民族の入植以前から台湾島に居住していた台湾原住民の諸民族は生蕃(せいばん)と呼ばれていた。しかし、元来「蕃」は「蛮」と同義の蔑称としての意味合いが強い用字のため、1935年(昭和10年)に秩父宮雍仁親王の要請で高砂族(たかさごぞく)に改称されている。日本統治下ではこの他にも高砂麦酒(zh)や神戸港 – 基隆港間に就航していた客船・高砂丸などの名称に「高砂」が採られていた。また、基隆市、台中市、台南市など複数の都市では高砂国を由来として「高砂町」の町名が新設されたが、いずれの町名も1945年(昭和20年)に第二次世界大戦で日本が敗れて台湾の領有を放棄したことに伴い廃止されている。 参考文献[編集] 関連項目[編集]

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イェスデル (カンクリ部) – Wikipedia

イェスデル(モンゴル語: Yesüder、? – 1288年)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、カンクリ部の出身。『元史』などの漢文史料では也速䚟児(yĕsùdǎiér)、もしくは也速台児(yĕsùtáiér)と記される。 イェスデルはチンギス・カンの時代よりモンゴル帝国に仕えるようになったアイ・ベクの息子で、アイ・ベクがクチュの南宋親征中に病没すると地位を継承して軍を率いるようになった。1260年に第4代皇帝モンケが急死し弟のクビライとの開で帝位継承戦争が勃発すると、イェスデルはクビライ派についてアラムダール、クンドゥカイの討伐に加わり、続いて李璮の乱鎖圧にも加わった。 帝位継承戦争がクビライ派の勝利に終わると今度は南宋との戦いに従軍し、襄陽の包囲戦では百丈山・鸛子灘の攻略に功績を挙げた。襄陽への直接攻撃が始まると、イェスデルは鎧をつけて真先に城壁にのぼる活躍を見せ、この戦いぶり賞して銀100両を与えられた。1277年(至元14年)からは福建方面の侵攻に加わり、復州の戦いでは敵将を打ち取る功績を挙げ、この功績によってまず百人隊長(ジャウン)に、次いで千人隊長(ミンガン)に昇格となった。1279年(至元16年)には管軍総管とされている。 江南の平定後は懐遠大将軍・管軍万戸に任じられ、江淮一帯の戦艦教百隻を率いて日本遠征に参加した(弘安の役)が、日本の征服には失敗して帰還した。1283年(至元20年)には泰州万戸府のダルガチに任じられ、1286年(至元23年)には昭勇大将軍・欽察親軍都指揮使とされた。1287年(至元24年)にはナヤンの乱鎮圧戦にも参加した。その後(至元25年もしくは大徳3年)、イェスデルは亡くなり、成武郡公に追封された。息子は7人おり、それぞれ教化的、黒廝、黒的、延寿、拜顔、完沢帖木児、哈剌章といった[1][2]。 なお、元史巻133列伝20に立伝される「也速䚟児」とその父「愛伯」は巻123列伝10の「艾貌」とその息子「也速台児」と同一人物である[3]。 ^ 『元史』巻123列伝10艾貌抜都伝,「艾貌抜都、康里氏。初従雪不台那演征欽察、攻河西城、収西関、破河南;継従定宗略地阿奴、皆有功。又従四太子南伐、命充怯憐口阿答赤孛可孫。又従兵渡江攻鄂、以疾卒於軍。子也速台児、従討阿藍答・渾都海、征李璮、伐宋、累功授管軍総把。至元十四年、従攻福建興化、招古田等処民五千餘戸、以功升武略将軍・千戸、賜金符。又招手号新軍二千五百餘人、升宣武将軍・総管、賜虎符。有旨征日本、也速台児願效力、賜以弓矢、進懐遠大将軍・万戸。二十年、授泰州万戸府達魯花赤。二十三年、遷昭勇大将軍・欽察親軍都指揮使。二十四年、従征乃顔有功。明年卒。後贈金吾衛上将軍、追封成武郡公、諡顕敏」 ^ 『元史』巻133列伝20也速䚟児伝,「也速䚟児、康里人。父愛伯、伯牙兀氏。太祖時率衆来帰。初、以五十戸従軍南征、力戦而死。也速児世其官。従丞相伯顔経略襄樊、攻百丈山・鸛子灘功居最。及襄樊囲合、即被甲先登、賞銀鈔百両。明年、破復州、殺其将、以功陞百戸。主帥言賞不足酬其労、世祖賜金符、加為千戸、督五路招討。至元十六年、改金虎符、管軍総管。江南平、録功、進懐遠大将軍・管軍万戸。領江淮戰艦数百艘、東征日本、全軍而還。有旨、特賜養老一百戸、衣服・弓矢・鞍轡有加。二十二年、移鎮泰州。時籍民丁為兵、得万人、以也速䚟児為欽察親軍指揮使統之。大徳三年、以疾卒。子七人。曰教化的。曰黒廝、襲父職、以疾卒。曰黒的、牧馬同知。曰延寿、襲兄職。曰拜顔、領哈剌赤。曰完沢帖木児、広徳路万戸達魯花赤。曰哈剌章」 ^ 屠寄『蒙兀児史記』巻153蒙兀氏族表下 参考文献[編集]

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法住寺合戦 – Wikipedia

法住寺合戦(ほうじゅうじかっせん)は、寿永2年11月19日(1184年1月3日)、木曾義仲が院御所・法住寺殿を襲撃して北面武士および僧兵勢力と戦い、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉、政権を掌握した軍事政変である。平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。 平氏都落ち[編集] 寿永2年(1183年)7月に入ると、義仲・行家軍が入京の可能性が現実味を帯び、7月25日に安徳天皇が後白河法皇の御所がある法住寺殿に行幸することとなった。ところが、後白河自身はその日のうちに比叡山に避難してしまった。これを知った内大臣平宗盛は京都脱出を決意、平清経・時忠に命じて天皇及び摂政近衛基通、剣璽を京都から連れ出すように命じた。天皇と剣璽は六波羅で平氏一門と合流してその日のうちに西国へと落ちていったが、基通は途中で離脱して知足院に隠棲していた平信範(時忠の叔父)の下に逃れた。平氏以外の公卿のほとんどが、臨時に法皇御所となった比叡山の円融房に参集し、26日には対策会議が開かれた。後白河は平氏追討の意向を示したが、天皇と剣璽の返還を優先すべきとする公卿もおり、とりあえず和戦両面を模索することとなり、平氏勢力の撤退が確認された27日になって後白河は法住寺殿に帰還した[1]。 平氏追討[編集] 7月28日、都落ちした平氏一門に代わって、義仲・行家軍が入京する。この日の議定では平氏追討を主張する意見と平氏との和平交渉による天皇と剣璽の奪還を図るべきとする意見に割れた(『吉記』同日条)が、この日後白河は義仲・行家に平氏追討宣旨を下すと同時に、院庁庁官・中原康定を関東に派遣した。30日、藤原経宗・九条兼実・三条実房・中山忠親・藤原長方が大事を議定するために召集される(『玉葉』同日条)。議題は平氏追討の勧賞・京中の狼藉・関東北陸荘園への使者派遣についてだった。 勧賞は第一・頼朝、第二・義仲、第三・行家という順位が決まり、それぞれに任国と位階が与えられることになった。京中の狼藉は、これまで警察権を掌握していた平氏が7月25日にいなくなり、食糧難の中で大軍が入京したことにより、深刻なものとなっていた。『吉記』には、7月26日には「比叡山の僧兵が降りて来た。市内の放火略奪が発生した」とある。治安回復・狼藉の取り締まりは、義仲に委ねられることになる。義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重(左京)の守護を担当した。『吉記』7月30日条によると、京中守護の武将と担当地域は以下の通りである。 荘園への使者下向は出席者全員が賛成した。 院殿上除目[編集] 議定の席上、経宗は院殿上で除目を行うことを提案した。しかし、除目は天皇の権限に属すると他の出席者が反対したため、経宗は発言を撤回した。8月6日、後白河は平氏一門・党類200余人を解官すると(『百錬抄』同日条、『玉葉』8月9日条)、天皇不在の中で院殿上除目を強行し、10日、義仲を従五位下・左馬頭・越後守、行家を従五位下・備後守に任じた。16日には平氏の占めていた30余国の受領の除目が行われる。結果は院近臣勢力の露骨な拡大であり、兼実は「任人の体、殆ど物狂と謂ふべし。悲しむべし悲しむべし」(『玉葉』8月16日条)と憤慨している。 16日の除目で、義仲は伊予守、行家は備前守に遷った(『百錬抄』8月16日条)。伊予守は四位上臈の任じられる受領の最高峰とも言える地位であり、この時点では後白河も義仲を相応に評価していたと見られる。 天皇擁立を巡る紛糾[編集] 後白河は時忠ら堂上平氏の官職は解かずに天皇・神器の返還を求めたが、交渉は不調に終わる(『玉葉』8月12日条)。やむを得ず、都に残っている高倉上皇の皇子2人の中から新天皇を擁立することを決めるが、ここで義仲は突如として以仁王の子息・北陸宮の即位を主張する。 兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」(『玉葉』8月14日条)と言うように、この介入は治天の君の権限の侵犯だった。後白河は義仲の異議を抑えるために御卜を行い、四宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)が最吉となった。義仲は「故三条宮の至孝を思し食さざる条、太だ以て遺恨」(『玉葉』8月20日条)と不満を表明するが、20日、後鳥羽天皇が践祚する。剣璽のない異例の践祚だったが、経宗が次第を作成して儀式は無事に執り行われた。後白河は義仲の傲慢な態度に憤っていたと思われるが、平氏追討のためには義仲の武力に頼らざるを得ず、義仲に平家没官領140余箇所を与えている(『平家物語』)。 治安回復の遅れ[編集] 義仲に期待された役割は、平氏追討よりもむしろ京中の治安回復だったが、9月になると略奪が横行する。「凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々。四方皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られ了んぬ。段歩残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕す。その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取り了んぬ」(『玉葉』9月3日条)という有様で、治安は悪化の一途を辿った。 『平家物語』には狼藉停止の命令に対して、「都の守護に任じる者が馬の一疋を飼って乗らないはずがない。青田を刈って馬草にすることをいちいち咎めることもあるまい。兵粮米が無ければ、若い者が片隅で徴発することのどこが悪いのだ。大臣家や宮の御所に押し入ったわけではないぞ」と義仲の開き直りとも取れる発言が記されている。『平家物語』はこの発言を法住寺合戦の直前とする。 たまりかねた後白河は19日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」(『玉葉』9月21日条)と責めた。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、後白河は自ら剣を与え出陣させた。義仲にすれば、失った信用の回復や兵糧の確保のために、なんとしてでも戦果を挙げなければならなかった。 頼朝の申請[編集] 義仲の出陣と入れ替わるように、関東に派遣されていた使者・中原康定が帰京する。康定が伝えた頼朝の申状は、「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」(『玉葉』10月2日条)と朝廷を大いに喜ばせるものであった。その一方で頼朝は、志田義広が上洛したこと、義仲が平氏追討をせず国政を混乱させていることを理由に、義仲に勧賞を与えたことを「太だ謂はれなし」と抗議した(『玉葉』10月9日条)。 10月9日、後白河は頼朝を本位に復して赦免、14日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える(『百錬抄』)。ただし、後白河は北陸道を宣旨の対象地域から除き、上野・信濃も義仲の勢力圏と認めて、頼朝に義仲との和平を命じた(『玉葉』10月23日条)。高階泰経が「頼朝は恐るべしと雖も遠境にあり。義仲は当時京にあり」(『玉葉』閏10月13日条)と語るように、京都が義仲の軍事制圧下にある状況で義仲の功績を全て否定することは不可能だった。頼朝はこの和平案を後白河の日和見的態度と見て、中原康定に「天下は君の乱さしめ給ふ(天下の混乱は法皇の責任だ)」と脅しをかけ(『玉葉』10月24日条)、義仲の完全な排除を求めて譲らなかった。

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プレステージ・インターナショナル アランマーレ (バスケットボール) – Wikipedia

プレステージ・インターナショナルアランマーレPrestige International Aranmare 呼称/略称 アランマーレ秋田/アランマーレ 愛称 アランマーレ 所属リーグ WJBL 創設年 2015年 チーム史 本拠地 秋田県秋田市 チームカラー   オレンジ  ブルー 企業 プレステージ・インターナショナル 代表者

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フジトランスポート – Wikipedia

フジトランスポート株式会社は、奈良県奈良市に本社を置く運送会社。1978年(昭和53年)設立。旧社名は富士運輸株式会社。 従業員数は2021年6月末日時点で約1800名、車輌は約1700台保有し、グループ企業を含めると2021年8月1日時点で従業員数が2700名、車輌は2350台保有する運送会社である[1]。 日本国内の東北地方から九州地方(沖縄を除く)にかけて60箇所以上の支店などの拠点がある[1]。 長距離幹線輸送をメインとしたトラック物流会社である[2]。 航空貨物・郵便輸送・精密部品・冷凍食品・家具・路線便が輸送の中心。 航空貨物仕様の特殊車輌や空調車は全国的に見てもシェアが高い。[要出典] 運送会社の事業者数全国68000社のうち保有車両台数が1000台を超える事業者は0.1%であり[3]、富士運輸は上述の通り保有台数が1700台となることから、車両の保有台数では上位0.1%に入る規模である。 2022年1月1日付で、商号を富士運輸株式会社からフジトランスポート株式会社へ変更した。同時にグループ会社においても社名変更を行う予定である[4][5]。 沿革[編集] 2013年9月 NHKの番組「突撃!アッとホーム」の幸せサプライズの企画にて、「長距離トラックの運転手として働く父」として福岡支店の社員が主人公となり番組で放送された。 2014年7月 日本初の[要出典]長距離トラックにネスレのコーヒーメーカーであるバリスタを搭載し、乗務員がいつでもコーヒーをトラックで飲めるという企画を行った[7]。 2014年10月 ネスレが提供する原宿ブックカフェのスペシャルCMに富士運輸が採用されている[8]。 2017年2月 ダブルデッキトラックの運行を開始する[6]。 2019年10月 車両架装部門を「セノプロトラックス株式会社」として分社化[9]。 M&A関連[編集] フジトランスポートは運送会社の中でも比較的M&Aに積極的で、2010年代に入って多くの運送会社から営業や株式の譲渡を受け傘下に収めている。 2009年 秋にJALカーゴサービス社の運輸部門の全車両売却により、全てのトラックを富士運輸で買い取り業務を引き継いでいる[要出典]。 2011年10月

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第24回全日本高等学校女子サッカー選手権大会 – Wikipedia

第24回全日本高等学校女子サッカー選手権大会は、2016年1月3日から10日にかけて神戸市を中心とする兵庫県内で開催された全日本高等学校女子サッカー選手権大会である。 主催・主管団体[編集] 競技方法[編集] ノックアウト方式で開催され3位決定戦は行わない。 試合時間 1回戦~準々決勝:80分(40分ハーフ) 準決勝以降:90分(45分ハーフ) 決着がつかない場合 1回戦~準々決勝:PK戦で勝敗を決する(延長戦は行わない) 決勝:10分ハーフの延長戦を行い、なお決しない場合はPK戦で勝敗を決する。 試合会場[編集] 組み合わせ抽選[編集] 組み合わせ抽選は11月24日に日本サッカーミュージアムで行われた[1]。前回大会決勝カードの日ノ本学園-常盤木学園が1回戦で組まれ、その後進行側に不手際があり再抽選となったものの再び同じ組み合わせとなる珍事があった[2]。 日程・結果[編集] トーナメント表[編集]   1回戦(1月3日) 2回戦(1月4日) 準々決勝(1月6日) 準決勝(1月7日)

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ミュージック・グラフィティTV – Wikipedia

ミュージック・グラフィティTV 基本情報 運営(番組供給)事業者 株式会社アトス・ブロードキャスティング 旧チャンネル名 ダイナミック競馬(2001年4月16日 – 2001年10月31日)MusicAirグラフィティ/ダイナミック競馬(2001年11月1日 – 2005年11月30日)ミュージックグラフィティTV/keiba(2005年12月1日 – 2006年3月31日) 放送(配信)開始 2001年4月16日※1 ジャンル 音楽 放送内容 歌謡曲・フォーク・ニューミュージック等の音楽 スカパー!プレミアムサービス 放送事業者

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ブランスコム・リッチモンド – Wikipedia

ブランスコム・リッチモンド(Branscombe Richmond, 1955年8月8日 – )は、アメリカ合衆国の俳優、スタントマンである。 1955年、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれる。父親のLeo C. Richmondも俳優でスタントマンをしていた[1]。1974年にテレビドラマシリーズ『The Rookies』で俳優デビューを果たした後、1976年にはチャールトン・ヘストンら出演の『パニック・イン・スタジアム』でノークレジットながらも役者として映画デビュー。同時に大柄な体格を生かしてスタントマンとしても『ケンタッキー・フライド・ムービー』や『ロッキー3』などへ参加している。 特にその名が知られるようになったのは1992年からレギュラーキャストとして出演したアドベンチャードラマ『反逆のヒーローレネゲイド』で、同作品ではボビー・シックスキラーを演じている。作品によってはRichmond Branscombe、Ranscombe Richmon、など芸名が違っていることもある。 私生活[編集] 2014年8月現在は既婚であり、妻との間には4人の子供に恵まれている[2]。 出演作品[編集] 映画[編集] テレビドラマ[編集] ルーキーズ The Rookies

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