Month: June 2020

マービン・カメル – Wikipedia

マービン・カメル(Marvin Camel、1951年12月24日 – )は、アメリカ合衆国の男性プロボクサー。モンタナ州ローナン出身。初代WBC世界クルーザー級王者。初代IBF世界クルーザー級王者。 1973年6月25日、プロデビュー。初回2分19秒TKO勝ちで白星でデビューを飾った。 1976年7月17日、後のWBC世界ライトヘビー級王者マシュー・サード・ムハマドと対戦し10回1-2の判定負けでキャリア初黒星を喫した。 1976年10月23日、マシュー・サード・ムハマドと再戦し10回2-0(100-91、98-96、96-96)の判定勝ちでリベンジに成功した。 1979年6月5日、ビリー・シャーキーとNABF北米クルーザー級王座決定戦を行い12回3-0の判定勝ちで王座獲得に成功した。 1979年12月8日、スプリトのスポーツキ・センター・クリペで元WBC世界ライトヘビー級王者メート・パルロフと初代WBC世界クルーザー級王座決定戦を行い15回1-0(147-142、143-143、144-144)の判定引き分けに終わり王座獲得に失敗した。 1980年3月31日、シーザースでメート・パルロフと引き分けに終わった初代WBC世界クルーザー級王座決定戦で対戦し15回3-0(144-141、148-141、149-141)の判定勝ちで王座獲得に成功した。 1980年11月25日、ニューオーリンズのルイジアナ・スーパードームでカルロス・デ・レオンと対戦し15回0-2(142-145、145-145、141-145)の判定負けで初防衛に失敗し王座から陥落した。 1981年5月5日、ラヒーム・ラクマンとネバダ州クルーザー級王座決定戦を行い12回3-0(2者が120-107、120-108)の判定勝ちで王座獲得に成功した。 1981年8月11日、ウィーリー・シャノンと対戦し3回27秒TKO勝ちで初防衛に成功した。 1981年10月2日、USBA全米クルーザー級王者バシュ・アリと対戦し12回3-0の判定勝ちで王座獲得に成功した。 1982年2月24日、プレイボール・ホテル・アンド・カジノでWBC世界クルーザー級王者カルロス・デ・レオンと2年ぶりに再戦するが8回TKO負けで2年ぶりの王座返り咲きに失敗した。 1982年6月30日、レオナルド・ロッドリゲスと対戦し4回終了時棄権でUSBA王座初防衛に成功した。 1983年5月21日、ロッキー・セコースキーと対戦し9回KO勝ちで2度目の防衛に成功した。 1983年12月13日、ロッディー・マクドナルドと初代IBF世界クルーザー級王座決定戦で対戦し5回2分49秒TKO勝ちでIBFに続く王座獲得に成功した。 1984年10月6日、リー・ロイー・マーフィーと対戦し14回終了時カットの傷による棄権で初防衛に失敗し王座から陥落した。 1987年5月1日、後の世界2階級制覇王者ヴァージル・ヒルと対戦し初回2分52秒KO負け。

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1型糖尿病 – Wikipedia

1型糖尿病(いちがたとうにょうびょう、ICD-10:E10)は、膵臓のβ細胞の破壊によるインスリンの欠乏を成因とする糖尿病である。以前は「インスリン依存型糖尿病」や「小児糖尿病」とも呼ばれていた。各種糖尿病のうち5-10%を1型が占めている[4]。 生活習慣病に分類されており、一般的に「糖尿病」と言って想像する2型糖尿病とは異なり、1型糖尿病は生活習慣とは無関係の自己免疫性疾患が原因とされ、原因は異なるが同じ糖尿病の病態を示す。 膵臓にあるβ細胞は、血糖値を下げる唯一のホルモンであるインスリンを分泌している。ところが、何らかの原因によりこのβ細胞が破壊されてしまうと、インスリンの分泌が極度に低下するか、殆ど分泌されなくなり、糖尿病を発症する。インスリンが機能しないため血糖値が上昇し、糖尿病性昏睡などの急性のものから、糖尿病性腎症などの慢性のものまで、さまざまな合併症を引き起こし、放置すると死亡する。20世紀前半にインスリンが治療応用されるまでは、極度の食事制限を要する致死的疾患の一つであった。 予防法は分かっていない[5]。根治法はなく対症療法が行われる。経口血糖降下薬は無効で、患者はかならず注射薬であるインスリンを常に携帯し、毎日5回自己注射しなくてはならない[2]。今日ではペン型注射器が開発され、発症者の大半である小児でも自分で打ちやすくなった。 発症機序の詳細は不明であるが、遺伝因子と環境因子の相互作用の結果発症する自己免疫疾患と考えられており[6]、動物実験では腸内細菌叢の操作により、発症および症状の進展を制御出来たとする研究報告がある[6]。 発症原因やリスクに関わる研究例は、 自己免疫疾患の遺伝的素因(HLA-DR、DQ、PTPN22、CTLA-4など)[7] 自己抗体(ICA、抗GAD抗体、抗IA-2抗体、抗インスリン抗体など) 分子模倣(コクサッキーBウイルスと抗GAD抗体の抗原であるグルタミン酸デカルボキシラーゼの相似性を根拠とする、そのほかエンテロウイルスやEBウイルス[8] がよく候補に挙げられる) 乳児期の一過性の潜在性ビタミンD欠乏症が将来の発症リスクを3倍に上昇させる[9]。 1型糖尿病のハイリスク遺伝子を有する児に対して、早期に調整乳を曝露すると発症リスクが上昇する[10] その一方で、1型糖尿病の一部には自己抗体が証明されず、膵臓にも炎症細胞の浸潤が証明されないものもある。これはあきらかに自己免疫性とは言えないものである。アジア、アフリカ人に多いとされるこの病型の原因についてはほとんど不明である。しかし、2型糖尿病を発症しインスリン療法による治療中に1型を発症する例もある[11][12]。 分類[編集] 原因と発症形式による分類。 β細胞破壊の原因 自己免疫性(1A型) – 血中に自らの膵細胞を攻撃する自己抗体が認められるもの 特発性(1B型)

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鹿苑寺 – Wikipedia

この項目では、京都市にある寺院について説明しています。岐阜県美濃市にある同名寺院については「鹿苑寺 (美濃市)」をご覧ください。 鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。大本山相国寺の境外塔頭。山号は北山(ほくざん)。本尊は聖観音。建物の内外に金箔が貼られた舎利殿から別名、金閣寺(きんかくじ)として知られている[1]。正式には、北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)と号する。 寺名は開基(創設者)である室町幕府第3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ[2]。寺紋は五七桐[3]。義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失し、1955年(昭和30年)に再建された。1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録される。金閣は、銀閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。 この地は、鎌倉時代の元仁元年(1224年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、併せて山荘(「北山第」)を営んでいた場所であり[4]、以後も公経の子孫である西園寺家が代々領有を続けていた。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようとした謀反が発覚したために逮捕、処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収された。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。 応永4年(1397年)、室町幕府第3代将軍足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。邸宅とはいえ、その規模は御所に匹敵し、政治中枢のすべてが集約された。応永元年(1394年)に義満は将軍職を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山第にあって政務を執っていた。 応永6年(1399年)には相国寺七重大塔が完成し、同年にはいわゆる金閣寺(北山第)舎利殿の初代建物が完成したと推定される[5]。ただし、遣明船の開始は応永8年(1401年)であり[6]、舎利殿や相国寺大塔の建設は遣明船の利益によって財源がもたらされたわけではない。 応永10年(1403年)の相国寺七重大塔(高さ約109メートル:日本史上で最も高い仏塔)の焼失を受け[7]、義満は当地に七重大塔(北山大塔。相国寺七重大塔と同程度の規模か[8])を建立した。 応永15年(1408年)に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣をその生母春日局の屋敷に移し、自らここに入ったが、翌16年(1409年)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。 応永23年(1416年)1月、七重大塔が落雷で焼失すると、義持はこの地に七重大塔を再建せず、再び相国寺に七重大塔を再建するよう命じている[9]。 当時は義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永26年(1419年)11月に足利義満が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された[10]。そして、応永27年(1420年)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。その際、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)とした。 足利義満の孫・第8代将軍足利義政はたびたび鹿苑寺に参詣し、舎利殿にも上っていることが記録に残されている。『蔭涼軒日録』には、応仁の乱が終わって8年ほど経った文明17年(1485年)10月15日に義政が参詣した際の、義政と亀泉集証(『蔭涼軒日録』の筆者)のやりとりが記録されている。金閣は応仁の乱には焼け残ったが、当時の境内はまだ荒れており、庭の楓樹の大半が乱のさなかに伐られ、池の水量も減っていたことが義政と亀泉のやりとりから窺われる。義政の問いに対する亀泉の応答によると、二層に安置されていた観音像は応仁の乱で失われ、新しい像に替わっていた。また、三層には阿弥陀如来と二十五菩薩の像を安置していたが、像本体は失われ、像の背後にあった白雲だけが残っていた[11][12]。 足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘(現・慈照寺)に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。銀閣(慈照寺観音殿)、飛雲閣(西本願寺)と併せて「京の三閣」と呼ばれる。 応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に西笑承兌が中興し、以後主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により1894年(明治27年)から庭園および金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。 舎利殿(金閣)は古社寺保存法に基づき1897年(明治30年)12月28日に「特別保護建造物」に指定され、1929年(昭和4年)7月1日の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。また、1904年(明治37年)から1906年(明治39年)に解体修理が行われた。庭園は史蹟名勝天然紀念物保存法(文化財保護法の前身の1つ)により1925年(大正14年)10月8日に史跡・名勝、文化財保護法により1956年(昭和31年)7月19日に特別史跡・特別名勝に指定されている。 1935年(昭和10年)には、満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀が、国賓として来日した際、鹿苑寺を訪れている。 1950年(昭和25年)7月2日未明、放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失する(金閣寺放火事件)。文部省文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。再建費用として、政府からの補助や全国各地からの寄付により約3000万円(当時)が集められ[13]、1952年(昭和27年)着工、1955年(昭和30年)竣工。同年10月10日に落慶法要が営まれ、創建当時の姿に復元された。 1986年(昭和61年)から翌1987年(昭和62年)に金閣の「昭和大修復」が行われたほか、1997年(平成9年)に茶室「夕佳亭」の解体修理、2005年(平成17年)から2007年(平成19年)に方丈の解体修理も行われている。 1994年(平成6年)12月、当寺が構成要素のひとつとなったユネスコ世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」が登録された。 2003年(平成15年)茶室「常足亭」

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本明朝 – Wikipedia

本明朝(ほんみんちょう)は、リョービ印刷機販売(後のリョービイマジクス)が開発・発売した写真植字向け明朝体、またそのデジタルフォント製品。2017年以降、モリサワがタイプバンクフォントとして取り扱う。 1958年に晃文堂[1]の金属活字書体として「晃文堂明朝」が登場した。晃文堂明朝は、三省堂の印刷部門に在籍していた杉本幸治が晃文堂の社員たちと基本設計書をまとめ、晃文堂のデザイナーが描いた原図を杉本が週1回程度チェックするなど、杉本が監修するような形でデザインされた[2]。各社の書体について資料を集め研究したところ、日本タイプライター(現・キヤノンセミコンダクターエクイップメント)のタイプ活字[3]による印字物にあたたかみとよい雰囲気を感じ、字配り・骨格・太さなどを観察して晃文堂明朝を作ったと杉本は回顧している[4]。 1970年に菱備製作所(現・リョービ)が晃文堂を傘下に収め[5]写植に進出すると、写植書体の「細明朝」となった[6]。しかし金属活字そのままの「細明朝」の評判は芳しくなく[7]、横線が飛んでしまうという問題を抱えていた[2]。杉本の手によって改刻され1982年に「本明朝-L」となり[6]、その後「本明朝-M」や「本明朝-B」などの書体バリエーションが追加されていった[6]。「本明朝-M」は杉本が一から書き起こしたもので、BやEも杉本が手掛けた[2]。「本明朝-L」は1987年にデジタル化された[6]。1987年のデジタル化の際には当時の解像度の制約により縦線を垂直にするなどの単純化が行われたが、2004年に杉本の監修のもと、米田隆がデザインした本文用書体「本明朝-Book」では本来の姿を復活させ、縦線に抑揚を付け、口を台形にするといったエレメントが採用された[2]。 リョービイマジクスは2011年10月にフォント事業をモリサワに譲渡し[8]、2012年4月にリョービに吸収合併された[5]。モリサワは旧リョービ書体を2012年2月に子会社タイプバンクに移譲した[9]。2012年にモリサワの年間契約フォントライセンス・MORISAWA PASSPORTでの提供が始まった。2017年9月にモリサワがタイプバンクを吸収合併した[10]後も、本明朝をはじめとする旧リョービ書体は「タイプバンクフォント」として扱われている[11]。 パーソナルコンピュータOSへの搭載[編集] 1992年にClassic Mac OS向けとして出た「漢字TrueType」パッケージでは明朝体に本明朝-Mが採用され[12]、同年末の漢字Talk 7.1でも本明朝-Mは「リュウミンライト-KL」・「平成明朝W3」とともに搭載された[13][12]。一方、1993年の日本語版Windows 3.1では標準明朝体フォントとして本明朝-Lをベースとする「MS 明朝」ファミリーが採用され[14]、Microsoft Officeでも付属する明朝体フォントは本明朝ベースの「MS 明朝」を元にした「HG 明朝」ファミリーとなっていた[15][16]。 ファミリー[編集] ウエイトはL/M/B/E/Uがあり、OpenType版ではL/Mの文字セットはPro(Adobe-Japan1-4)、B/E/UはStd(Adobe-Japan1-3)。 書籍本文に特化した「本明朝-Book」はLとMの中間のウエイトで、文字セットはPr5N/Pr5(Adobe-Japan1-5)。 本文向けのL/Book/Mには仮名のバリエーションとして「標準がな」「小がな」「新がな」「新小がな」がある。B/E/Uには「標準がな」「新がな」がある。 新がな、新小がな[編集]

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慶進中学校・高等学校 – Wikipedia

慶進中学校・高等学校(けいしんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、山口県宇部市西琴芝にある私立中学校・高等学校(中高一貫校)。 それぞれの正式名称は、慶進中学校(けいしんちゅうがっこう、Keishin Junior High School)および慶進高等学校(けいしんこうとうがっこう、Keishin High School)である。 学校法人宇部学園が運営しており、系列校に山口学芸大学、山口芸術短期大学、成進高等学校(旧美祢中央高等学校)、宇部中央自動車学校等がある[1][2]。在籍生徒数は中学校・高等学校合計で900人弱[注釈 1]。 校訓は「独立自尊」「至誠一貫」「敬愛感謝」[4]。このうち「至誠一貫」は学校法人宇部学園初代理事長である二木謙吾の座右の銘であった。 学科は普通科のみで、中高一貫教育を実施する「中高一貫コース」、難関国公立・私立大学合格を目指す「アドバンスコース」および大学合格を目指す「グローバルコース」を設置している[4]。 校章は、六角形(亀甲)を三つ並べた「三つ盛り亀甲」の中央に「慶進」の文字をあしらったものであり、「千年万年永久に生成発展して止まない学校」「独立自尊・至誠一貫・敬愛感謝の3つの校訓」「学校・生徒・保護者の連帯」を表現している[4]。また、校章と別に「KS」の文字をデザインしたシンボルマークを定めており、ブルー・紫紺・エンジの3色で3つのコースを表している[4]。 同窓会組織として「わすれな会」があり、当校に事務局を設置している[6]。 建て替え前の旧本館(正面奥・2007年撮影) 1928年(昭和3年)に熊本県出身の蔵原経智とその妻・カツモが創立した宇部裁縫女学校が発祥である[注釈 2]。 1970年(昭和45年)に情報処理科、1971年(昭和46年)に事務科・経理科(後に総合ビジネス科に統合)を設置し、女子校として職業系の学科を中心に実践系教育を実施してきたが、2002年(平成14年)に宇部女子高等学校を慶進高等学校へ改称し同時に男女共学化、さらに2004年(平成16年)に宇部女子中学校を再開する形で慶進中学校を併設し、中高一貫教育を開始した[4]。情報処理科および総合ビジネス科は2009年(平成21年)4月までに廃止された。 年表[編集] 1928年(昭和3年) –

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ジャパン・ニュース・ネットワーク – Wikipedia

ジャパン・ニュース・ネットワーク(英: Japan News Network[1])は、TBSテレビをキー局とする、日本の民放テレビ局のニュースネットワークである。略称のJNN(ジェイエヌエヌ)で言及されることが多い[2]。 日本のテレビニュースネットワークとしては最も歴史が古い。 なお、ここではニュースとは別関係のテレビ番組供給ネットワーク、TBSネットワーク(TBS Network)についても解説する。ただし、TBSラジオを基幹局としてテレビと同時並行的に存在するラジオネットワークについては、ジャパン・ラジオ・ネットワーク(JRN)を参照のこと。 また、一般に本項で解説するJNNとTBSネットワークとを合わせてTBS系列という[3]。 ネットワークの形成[編集] ラジオ東京(KRT、東京放送。現:TBSホールディングス)が、日本放送協会(NHK)に対抗する日本初のテレビニュースネットワークとして1959年8月1日に結成。 この年に放送された皇太子明仁親王(後の第125代天皇)結婚特別番組のネット局がほぼそのまま加盟した形となった[4][5]。当時郵政省(現在:総務省)ではテレビの全国放送はNHKのみとし、民間放送は各県域内でのローカル放送を前提としていた。しかしながら、ラジオと異なりテレビの場合はNHKに対抗し得る内容の全国ニュースを放送するにはどうしても各局間のニュース映像素材の交換が必要となっていた。 これより先、ラジオ東京制作の『東京テレニュース』を初期加盟16局がネット受けを行い放送していた。特に北海道放送(HBC)、中部日本放送(CBC、現:CBCテレビ)、大阪テレビ放送(OTV、朝日放送テレビの前身)、ラジオ九州(RKB、RKB毎日放送の前身)とラジオ東京はその前年である1958年にニュース協定を結んでいた。 JNN発足当時、他局も放送局間で素材交換を行った全国ニュース番組を放送していたが、日本テレビは自社で制作したニュースをネット局に配給、フジテレビと日本教育テレビ(NETテレビ。現:テレビ朝日)はニュース番組制作会社が制作したニュース番組を購入して配給する形で全国放送していた。特にNETの場合は制作に朝日新聞社が関わっていた。これに対し、JNNは特定の新聞社との関係を持たず、自主制作で且つ加盟各社の共同制作であり、ラジオ東京が編集・制作・送出およびセールスを行っていたものの、同社は加盟各社の代表という立場に過ぎない点が他系列と異なっていた。 初期はニュース番組のタイトルも各局が自由に差し替えられたが、1975年3月31日、朝日放送テレビから毎日放送へのネットチェンジ後はネット加盟局全社統一となっている。 フルネット局28局で形成されている。秋田県・福井県・徳島県・佐賀県にはJNN加盟局がない[6][7]。 1989年11月27日から、被疑者の呼び捨てを止めている[8]。 ロゴマークの色は原則緑で「JNN」と(公式サイトでは)表示するが、2017年10月以降、定時ニュースのロゴが独自のものに変更されたほか、「新・情報7days ニュースキャスター」なども独自のロゴを使用する[9]。また、番組配信局テロップは一切出していない。 ネットワークの特徴[編集] 全体として、AMラジオを兼営している老舗局が多く、特に「○○放送」という名前のJNN加盟局はそのほとんどがその地域において、最初の民放テレビ局(第1局)となっている[10]。北海道、東北の太平洋側[11][12][13]、静岡県、長野県、新潟県、石川県、近畿地方[14]、中国地方(山口県を除く)、九州・沖縄地方の全局[15]では、ジャパン・ラジオ・ネットワーク(JRN)にも同時加盟している[16][17][18][19]。したがって、基幹局[20]は事実上も含めれば全てラテ兼営(札幌・福岡が同一法人による本来のラテ兼営、東京・名古屋・大阪が同一放送持株会社傘下による事実上のラテ兼営)で、同時にJRNの基幹局でもある。

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九四式二号甲無線機 – Wikipedia

九四式二号甲無線機(きゅうよんしきにごうこうむせんき)は大日本帝国陸軍が開発した全備重量700kgの無線機である。通信隊用機材であり、約200km以内での遠距離通信に使用された。機能は電信通信のみである。 三九式輜重車4輌、もしくは積載量1.5t以上の自動貨車1台に搭載して運用する。通信に直接必要な機材のみを運搬するには輜重車3輌が必要だった。空中線を張るには高さ10mの電柱2本を立て、全長20mのワイヤーを吊す。地線として同じ長さのワイヤーを数本地面に設置した。 本無線機は陸軍の通信隊用機材として開発されたものである。開発開始は昭和6年。審査要件は以下のようにこの無線機を規定した。主として短波を使用し、電信通信距離200km、二馬曳輜重車2輌または自動貨車一台に積載して移動できること。 昭和7年度はこの要件を継承し、6月に試作機を試験して所期の性能を得た。8月には自動車での運搬試験を行い、所定の移動性能が確かめられた。 昭和8年度、搭載方法が一馬曳輜重車4輌に変更された。また無線技術向上のために新たな試作に取りかかった。変調器を追加し送信機を対空二号機と共通化した。周波数変更の容易化、受信機をスーパーヘテロダイン方式へ変更した。昭和8年7月に満州北部で雨期・炎熱試験を実施、300km以内での同時送受信が容易であることが確かめられた。 昭和9年3月、満州北部で冬期試験が行われ、600km以内での同時送受信が可能であること、寒気により発動機と発電機が故障を起こす傾向があるという結果が出た。ほかに温度による不調はなく、移動が頻繁な司令部用としても支障はなかった。発動機と発電機に改修が加えられた。6月、自動貨車に車載したままで電信所を開く方法を模索し、自動車積載法を決定した。 昭和10年3月、短期に調弁可能であることを確認。11月に陸軍航空本部は本無線機の仮制式制定上申を容認し、12月に上申が行われた。 通信機、発電装置、空中線材料、属品と材料で構成される。また通信機は送信装置と受信装置からなっている。 送信装置内容 送信機・水晶制御または主発振によって電信送信を行う。周波数の範囲は950から7,500キロサイクル毎秒である。 付属品・電鍵と手入れ用具。 予備品・交換用部品。 他材料。 受信装置内容 受信機・九四式一号無線機と同じ装置を使用した。拡大および検波性能を持つ。周波数範囲は140から15,000キロサイクル毎秒。 付属品・受話器と手入れ用具。 予備品・交換用部品。 他材料。 発電装置内容 発動機・竪型空冷式単気筒二行程、2.4馬力、3,000回転毎分。

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谷福丸 – Wikipedia

谷 福丸(たに ふくまる、1939年2月11日 – )は、日本の官僚、国会職員、画家。瑞宝大綬章。55年体制の終焉の後、羽田、村山、橋本、小渕、森、小泉の6代の政権の傍ら、国会で史上最長[1](退任時)の約9年5か月、衆議院事務総長を務めた。その退職後は、国土緑化推進機構副理事長を務めた。 来歴・人物[編集] 福岡県出身。福岡県立田川東高等学校(現・福岡県立東鷹高等学校)を経て(1957年卒業)、九州大学法学部卒業(1963年)。上野英信が著した『追われゆく坑夫たち』に感銘を受け、大学卒業後、福岡県庁に入庁し、既に衰退期に入っていた筑豊炭田の炭鉱を抱える鞍手福祉事務所にケースワーカーとして勤務した。県庁勤務中、国家公務員採用のため上京が決まったが、その挨拶回りの道すがら、仕事上世話をしていた家庭の子供から「好かん人が来たよー」と言われたことで「物事は半分、努力は半分分かってもらえれば十分なのだ」と思うようになったという[2]。 上京後、法務省を経て(1964年 – 1965年)佐藤栄作政権期の1965年に衆議院事務局に入局した。入局当初は、委員部で内閣委員会・予算委員会を担当し、その後、社会労働委員会担当、1968年に委員部調査課先例第二係長となる。1973年から1977年まで英国大使館に出向。この間、皇太子夫妻、田中角栄首相の訪英や、1976年の列国議会同盟ロンドン会議、1977年のロンドンサミットの対応に当たる。1977年に帰朝した後は、委員部調査課を経て議事部議事課にて次第書(議長の議事進行原稿)の作成に当たる。1979年には、灘尾弘吉議長の下で議長秘書を務める。1981年に委員部総務課長、1983年に秘書課長となる。1987年に議事部副部長(秘書課長事務取扱)に昇任。昭和天皇の崩御に伴う事務に従事した。次いで1989年に庶務部長、1992年に事務次長に昇任した。事務次長在任時にPKO法案の採決時の牛歩への対応、細川護煕への首班指名の選挙の際の点呼読み飛ばし事件の対応などに当たっている。 1994年6月16日、第12代衆議院事務総長に就任。間もなく羽田孜の後継を決める首班指名選挙の事務に当たる。選挙の結果自社さ連立政権下で村山富市が指名された。1996年早々の住専国会では、委員室周辺に座り込みを行う新進党議員に対し、自らの判断で座り込みを解くよう申入れを行ったが、これに対して新進党が事務総長に退去勧告をする権限はないなどとする申入れを行った。1998年には、決算委員会の決算行政監視委員会への改組や、衆議院調査局の発足をみた。翌1999年にも、政府委員制度の廃止、国家基本政策委員会の設置、憲法調査会の設置を内容とする国会法改正が成立するなど、国会の制度の変革への対応に当たった。2000年には、小渕内閣の下、憲政史上初めての野党欠席の下の施政方針演説が行われた。同年には加藤の乱の中、混乱した本会議の事務に当たった。2003年に事務総長を辞任した。 事務総長退任後は、通例どおり国立国会図書館長に擬せられるが、不祥事の影響もあり就任は出来なかった[3]。2003年に国土緑化推進機構の副理事長に就任し、毎年の植樹祭、育樹祭をはじめとし、国土緑化運動の推進に当たった。2010年春の叙勲で瑞宝大綬章を受章。 ロバート・ブレイク『ディズレイリ』を灘尾弘吉監修の下で翻訳・出版(大蔵省印刷局、1993年)している。事務総長退任後に、議会法等の研究者によるオーラル・ヒストリーの聞き取りに応じ刊行されている。 参考文献[編集] 赤坂幸一・中澤俊介・牧原出編『谷福丸オーラル・ヒストリー 議会政治と55年体制 衆議院事務総長の回想』信山社、2012年。

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百里飛行場 – Wikipedia

百里飛行場(ひゃくりひこうじょう)は、茨城県 小美玉市 百里・与沢にある自衛隊と民間の共用飛行場である。 防衛省・航空自衛隊が管理する飛行場であったが、2010年に民間共用化され茨城空港(いばらきくうこう)としての営業を開始した[1][2]。 滑走路と自衛隊施設の大半は百里にあるが、茨城空港の空港ターミナルビルは隣の与沢にある。 利用者数[編集] 元のウィキデータクエリを参照してください. 利用状況[編集] 空港乗降客数推移(人)[3][4] 国際線 国内線 合計 2009年度(3/11 – 3/31) 7,840 666 8,506 2010年度 106,972

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