Month: August 2020

ハースF1チーム – Wikipedia

ハース・フォーミュラLLC(Haas Formula LLC)は、2016年からF1に参戦しているアメリカ合衆国のレーシング・コンストラクター。創設者はジーン・ハース。チーム名は「ハースF1チーム」。 創設者ジーン・ハース(2017年) NASCARの有力チームであるスチュワート=ハース・レーシングの創設者でありオーナーを務めるジーン・ハース(英語版)が、工作機械会社『ハース・オートメーション』の世界的な知名度を得るために立ち上げたF1チーム。アメリカ系F1コンストラクターの存在自体が30年ぶりであり、「当面スポンサーはいない方がいい」と発言したりシャシーはダラーラが委託製造するなど、現代のF1では異色の存在である[1]。 チーム本拠地はスチュワート=ハース・レーシングの隣に置かれるが、ヨーロッパでの拠点として以前マルシャF1チームが使用していた旧ファクトリーを買収して使用する。 なお、かつて1980年代にF1に参戦していたチーム・ハース、及び同チームのオーナーだったカール・ハース(英語版)とは別物で関連性はない[2]。 経緯[編集] チーム代表ギュンター・シュタイナー(2017年) 元々は、2010年シーズンにデビューするはずであった「US F1チーム」の参戦計画が流れ、その一連の中でUS F1チームの首脳がプロジェクト継続に関し、ジャガー・レーシングや初期レッドブル・レーシングの元スタッフだったギュンター・シュタイナーに接触してきたのが始まり。米国在住のシュタイナーは、US F1の意図を受け継ぎ米国産チームの設立を目指した。ジャンパオロ・ダラーラ(後のシャシー製造担当)やステファノ・ドメニカリ(後のフェラーリPU提供)らレース関係者の協力も受けて投資者を模索し、ハース・オートメーションを経営する実業家ジーン・ハースからの投資にこぎ着けた[3]。 2014年1月、ジーン・ハースをオーナーとするF1チームの設立を目指していると発表。当初は2015年からの参戦を目指して準備を進めていた。2014年4月に国際自動車連盟(FIA)から、ハースの参戦が承認されたが、より確実な準備を行ってから参戦するため参戦を2016年に延期した。2014年9月に2016年からの参戦を正式発表。またフェラーリと技術提携を行うことが発表され、フェラーリ製パワーユニット、トランスミッションが供給されることとなった。 2016年[編集] 2015年9月に、ロータスよりエースドライバーとしてロマン・グロージャンが移籍することが発表。またセカンドドライバーにはフェラーリのリサーブドライバーを務めていたエステバン・グティエレスを迎えた。 ハースF1最初のレースとなった開幕戦オーストラリアGPでは予選こそ2人ともQ1で敗退したものの、決勝では波乱絡みのレースをかいくぐったグロージャンが6位に入賞。チーム初参戦ながらポイントを獲得する快挙を達成。次戦も5位に入り、連続入賞するも次の中国GPにてタイヤ最低内圧の前年からの変更に対しグロージャンが不満を訴え、入賞を逃した。元々、翌年のマシンの開発を序盤戦から着手し[4]、今季の戦いを重視していなかったこともあり、徐々に順位を下げてゆくこととなった。それでも、グロージャンが前述の2戦も含めた計5回の入賞を記録。一方でグティエレスは苦戦し最終的にノーポイントでシーズンを終了。ただ、ブレーキのトラブルなど信頼性に泣かされ、満足にレースができなかった面もあるが、この状況を巡り、チームと対立し、チームの公式発表前に自ら同年を以てチーム離脱を発表。そのあとにグロージャンの残留とルノーよりケビン・マグヌッセンが移籍することが発表された[5]。最終的にグロージャンがチームの全得点を獲得し、コンストラクターズランキング8位と健闘した。 2017年[編集] ドライバーは予定通りグロージャンとマグヌッセンのコンビとなる。 エンジニアの小松礼雄は、レギュレーションの変化によるマシン開発が追いついていないため、2017年に関しては苦戦を覚悟していると語っていたが、いざシーズンが始まってみれば、グロージャンが開幕戦オーストラリアGPで予選6位を獲得。そして中国GPでマグヌッセンが、バーレーンGPでグロージャンがそれぞれ8位入賞を達成しており、中団グループでの争いには充分入れる力を示している。モナコGPでチーム初のダブル入賞を果たした。アゼルバイジャンGPでは荒れたレースを生き残りマグヌッセンが7位入賞。第9戦オーストリアGPではグロージャンが6位入賞で2017年のベストリザルトを獲得するとともに、前年のポイントに並んだ。終盤にはトロ・ロッソとルノーとのポイント差を詰めていきランキング6位まで見えていたが、結局逆転には至らず前年と同じ8位でシーズンを終えた。しかしポイント自体は2人で順調に入賞を重ねたこともあり前年を大きく上回る47ポイントを獲得し成績は向上している。

Continue reading

エイプ (ゲーム会社) – Wikipedia

タイトル 発売日 ISBN マザー百科 1989年10月 ISBN 4-09-104114-0 ファミコン通信 MOTHERのすべてがわかる本[4] 1989年10月10日 – ファイアーエムブレム百科 1990年4月 ISBN 4-09-104115-9 任天堂公式ガイドブック スーパーマリオワールド 1991年1月 ISBN 4-09-104117-5 ファミスタ百科 1991年1月 ISBN 4-09-104119-1

Continue reading

立川三光 – Wikipedia

立川 三光(たてかわ さんこう)は、上方落語の名跡。作家の香川登志緒によると江戸(東京)の立川一派と混乱を避けるため「たちかわ」と呼んでいたという(立川文庫がその例)。なお、落語家の享号は先祖を辿るとみな同じで「親戚」関係にあることが多いが、江戸の立川と上方の立川は親戚関係はないらしい。 上方立川一派は、幕末から明治期にかけて隆盛を誇ったが、その後衰微したため、現存する記録、史料は極めて少ない。『落語系圖』には3代目まで記載されているが代々疑問点が多く、幕末には既に代替している可能性もある。 尚『落語系圖』立川流祖について詳しく伝えておりそれによれば、立川伴五郎いう役者の子に三五郎という人物があり、この人が立川の家元で芝居噺の名人であったという。「四谷怪談」など幽霊物の元祖といわれ、道具入りの芝居噺として、角座・中座でも興行したというが、歌舞伎の史料の面からしても非常に疑問点が多い。 初代 立川三光(生没年不詳、一説には明治5年没) 出生地、本名、前名などは不明。1839年11月に近衛経熙の御前で噺を演じ経熙から出された謎々巧みに解き好評へを得たと言われる。1840年の「浪花諸芸玉づくし」に「咄・即席の三光」とある。1853年の見立番付には三光で見え光柳、一光、木寿、歌柳、南光の名が見え一派を形成したことが伺える。安政時代の番付には三玉齋の名が見える。 2世曽呂利新左衛門の回想録によると紀州の生まれで御池橋の東詰に寄席の自席を営んでいたという。 2代目 立川 三光(1815年(逆算) – 1880年4月17日) 出生地、本名、前名などは不明、2代目尾上多三蔵の声色を得意とした。後に2代目三玉齋。 得意演目は「子ほり奴」だったと伝わる。 弟子には九玉(後の2代目月亭文都)、光柳(後の3代目笑福亭松鶴)、三吉(後の3代目桂文團治)等がいる。 3代目 立川 三光(生年不詳

Continue reading

大川春義 – Wikipedia

大川 春義(おおかわ はるよし、1909年〈明治42年[* 1]〉 – 1985年〈昭和60年〉12月9日)は、日本の猟師(マタギ)。 北海道苫前郡苫前村三毛別(後の苫前町三渓)出身。獣害史最大の惨劇といわれた三毛別羆事件(1915年〈大正4年〉12月)の数少ない目撃者の1人[3]。同事件の犠牲者の仇を討つため猟師となり、生涯にヒグマを100頭以上仕留めてヒグマ狩猟の名人と呼ばれるとともに、北海道内のヒグマによる獣害防止に貢献した[4]。 少年期 – 猟師志願[編集] 三毛別羆事件復元現地に再現されたヒグマの姿 三毛別羆事件は、エゾヒグマの襲撃により三毛別の住民7名が死亡した事件である[* 2]。大川は屯田兵として入植した事件当時の三毛別区長の大川与三吉の息子であり[* 3]、事件中に自宅が事件対策本部となっていたことから、この事件の一部始終を見聞していた[4]。 事件終息後に彼は、父から猟師となってヒグマを仕留めることを薦められた。子供ながらヒグマを強く憎んだ彼は、犠牲者たち7人の位牌の前で、犠牲者1人につきヒグマ10頭、計70頭を仕留めて仇を討つことを誓った[3][7]。 当時の大川家には、アイヌの猟師が山での狩猟を終えた後、買物に立ち寄ることが多かった。少年期の大川は、この猟師たちにヒグマの生態や狩猟の知識を教わって育った[3]。三毛別羆事件のヒグマを仕留めたマタギである山本兵吉にも師事した[8]。 猟師としての活動[編集] 徴兵年齢である20歳に達して猟銃所持が許可された後、父から貯金をはたいて購入した最新式の村田銃を与えられ、猟師となった。ヒグマ狩りを目指して山に入ったものの、実際に目撃したヒグマに恐れをなし、撃つことができなかった。こうしてヒグマを前にして銃を放つことのできない日々が、実に10年以上続いた[2][3]。 1941年(昭和16年)、32歳にして初めてヒグマの親子を仕留め、父を始め地元住民たちの喝采を受けた。これがわずかな自信となり、翌1942年(昭和17年)には4頭、翌1943年(昭和18年)には3頭のヒグマを仕留めた[3]。ヒグマの胆嚢と毛皮は高価な売り物になったが、仇討ちだけが目的の大川はそれらに興味を示さず、住民たちに無償で配布した[3]。 第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)、召集により戦地に赴いた。戦地でもヒグマ狩りで鍛えた抜群の射撃能力で活躍。100メートル先の動く標的にも銃弾を連続して命中させ、人々を驚かせた[3]。

Continue reading

ジョー・モレル – Wikipedia

ジョー・モレル ウェールズ代表でのモレル(2019年) 名前 本名 ジョセフ・ジョン・モレルJoseff John Morrell ラテン文字 Joe Morrell 基本情報 国籍 ウェールズ イングランド 生年月日 (1997-01-03) 1997年1月3日(25歳) 出身地 イプスウィッチ 身長

Continue reading

三笑亭可楽 (6代目) – Wikipedia

六代目三笑亭 可楽(さんしょうてい からく)は、落語家。江戸と上方にそれぞれいる。 東京六代目 三笑亭 可楽(さんしょうてい からく、1846年11月3日〈弘化3年9月15日〉 – 大正13年〈1924年〉8月18日)は、落語家。本名∶中村 勘三郎。通称は住んでいた場所から「三味線堀の可楽」。 六代目桂文治の門下で文鶴。そののち慶治に改名。桂大和を経て再び文鶴を名乗る。1884年に六代目翁家さん馬に改名。 1913年1月、六代目三笑亭可楽を襲名。1920年、引退。以後は浅草小島町で暮らしていた(一説には宇都宮で義太夫語りをしていた息子と一緒に余生を過ごしていたという)。1924年、死去。墓所は東京都豊島区西巣鴨にある「善養寺」。戒名は「圓寿道勘信士」。 伊藤博文のそっくりさんで売ったという。活動写真制作元のエム・パテー商会(後の日活)によって作られた『伊藤公爵の一代記』でも伊藤博文役を演じている。 本名は歌舞伎俳優の中村勘三郎と同姓同名で、東京六代目の売りも道具入り芝居噺であった。ほかにも義士伝が得意であった。 俳句が趣味で、「久松が灰に文字書く火鉢かな」などの持ち句がある。 上方六代目 三笑亭 可楽(さんしょうてい からく、1861年 –

Continue reading

明正天皇 – Wikipedia

明正天皇(めいしょうてんのう、1624年1月9日〈元和9年11月19日〉 – 1696年12月4日〈元禄9年11月10日〉[1])は、日本の第109代天皇(在位:1629年12月22日〈寛永6年11月8日〉- 1643年11月14日〈寛永20年10月3日〉)。諱は興子(おきこ)。幼名は女一宮。 後水尾天皇の第2皇女。母は太政大臣征夷大将軍徳川秀忠の娘・東福門院源和子。徳川秀忠と崇源院の外孫、在位当時の将軍徳川家光の姪にあたり、徳川家綱の母方の従姉。徳川将軍家を外戚とした唯一の天皇である。 系図[編集] 元和9年11月19日(1624年1月9日)、後水尾天皇と女御徳川和子の間の最初の子として生まれる。 寛永6年(1629年)10月29日、7歳で内親王宣下を受けて興子内親王の名を与えられ、11月8日に父・後水尾天皇の譲位を受けて践祚した。女子の即位は男子の不在(夭逝)によるものであり、奈良時代の称徳天皇以来859年ぶりとなる女性天皇であった。後水尾天皇の突然の譲位は、数年前よりの紫衣事件や、将軍徳川家光の乳母春日局が無官のまま参内した事件等によって、江戸幕府への憤りを積もらせた結果と一般的に解釈されている[2]。後水尾天皇から譲位の相談を受けた中和門院は、主要な公家10人余に覚書を配布したが、その二条目には、女性天皇は不都合なものではないから、一時的に女一宮(明正天皇)に皇位を預け、皇子誕生の暁には譲位すべきとある(「女帝の儀は苦しかるまじき、左様にも候わば、女一宮に御位預けられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事」[3])。男子の皇位継承者が不在であったことに加え、政治的影響が理由で女性天皇が立てられたのは、歴代8人10代の中で、明正天皇が最後である[4]。 ただ、明正天皇の在位中は父・後水尾上皇による院政が敷かれ、女帝と言えども朝廷における実権を持つことはなかったとされる。女帝の存在や後水尾上皇の院政、皇嗣等をめぐって朝幕関係の緊張は継続した。東福門院の入内は徳川家が天皇の外戚になることを意図して図られたが、実際に明正天皇が即位すると、公家や諸大名が彼女に口入させて朝廷や朝幕関係に影響を与えることも警戒されるようになった。幕府は、寛永14年(1637年)には、摂政二条康道の関白への転任を認めない姿勢を示し、女帝の親政を否定した。 寛永19年(1642年)9月2日、東福門院の意向で藤原光子(後の壬生院)所生の素鵞宮(後光明天皇)を儲君に立て、同閏9月19日に同宮を東福門院の養子に迎えることで妥協が図られ、翌寛永20年、21歳の明正天皇は素鵞宮(元服して紹仁親王)に皇位を譲り、太上天皇となった[5]。譲位直前の9月1日、将軍徳川家光は4か条からなる黒印状を新院となる明正天皇に送付した。そこでは、官位など朝廷に関する一切の関与の禁止および新院御所での見物催物の独自開催の禁止(第1条)、血族は年始の挨拶のみ対面を許し他の者は摂関・皇族と言えども対面は不可(第2条)、行事のために公家が新院御所に参上する必要がある場合には新院の伝奏に届け出て表口より退出すること(第3条)、両親の下への行幸は可、新帝(後光明天皇)と実妹の女二宮の在所への行幸は両親いずれかの同行で可、新院のみの行幸は不可とし、行幸の際には必ず院付の公家が2名同行する事(第4条)などが命じられ、厳しく外部と隔離されることとなった。こうした徳川家を外戚とする明正天皇を取り巻いた事実は、東福門院より後に徳川家からの入内が行われなかったことと深く関わっていると考えられている[6]。 のちに出家して、太上法皇となる。元禄9年(1696年)11月10日、崩御。宝算74。 明正以後は後光明・後西・霊元まで傍系(姉弟)間での皇位継承が続く。 在位中の元号[編集] 諡号・追号・異名[編集] 明正の名は、女帝の元明天皇とその娘の元正天皇から取ったとされる。 陵・霊廟[編集] 陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 ^ 『明正天皇』

Continue reading

フィヒテンベルク – Wikipedia

紋章 地図(郡の位置) 基本情報 連邦州: バーデン=ヴュルテンベルク州 行政管区: シュトゥットガルト行政管区 郡: シュヴェービッシュ・ハル郡 市町村連合体: リムプルガー・ラント行政共同体 緯度経度: 北緯48度59分14秒 東経09度42分44秒 / 北緯48.98722度 東経9.71222度 / 48.98722; 9.71222座標:

Continue reading

宮地茂春 – Wikipedia

宮地 茂春(みやじ しげはる、1860年(安政6年) – 1895年(明治28年)6月11日)は、江戸時代末期の土佐藩白札郷士。自由党員。自由民権活動家。幼名は桃太郎(ももたろう)。 目次 1 来歴 1.1 生い立ち 1.2 自由民権運動活動期 2 家族 3 補註 4 参考文献 5 参考史料

Continue reading