Month: September 2020

ティレル・018 – Wikipedia

ティレル・018は、ハーベイ・ポスルスウェイトを責任者として設計されたF1マシンで、1989年シーズンから1990年シーズンにかけてティレルチームが使用した。 1988年シーズンに使用した017の後継モデルとして開発された。 018にはフロントサスペンションにモノショックが採用され、左右のフロントサスペンションで1セットのダンパーとスプリングを共有した。ダンパーとスプリングはコクピットの前方の、モノコック中央上面に沿うように配置され、ダンパーはリンクを用いて左右のプッシュロッドと接続された。モノショックのフロントサスペンションは、1990年以後、ジョーダン、レイトンハウス・マーチなど複数のチームがコピーして採用した。マクラーレンやフェラーリなどのトップチームも、左右のダンパーを接続してモノショックと同様の効果を持たせたフロントサスペンションを使用した。 018ではフロントウイングとノーズ底面が若干持ち上げられていた。翌年の019では更に大きくノーズが持ち上げられ、アンヘドラルウイングが導入された。 エンジンはコスワース・DFRを使用した。 第2戦サンマリノGPでミケーレ・アルボレート用の1台が初めて実戦投入。シェイクダウン直後であることが影響しミケーレ・アルボレートが予選落ちしたため、決勝レースでは、ジョナサン・パーマーが使用した。続くモナコGPで2台目のマシンが持ち込まれ、パーマーとアルボレートの両ドライバーが018を使用することができるようになった。同年のフランスGPからは大口スポンサーとしてキャメル(R.J.レイノルズ社)が付き、ライバル社であるマールボロの支援を受けていたアルボレートが離脱し、後釜にキャメルがスポンサーするF3000チームEJRでランキングトップとなっていた新人ジャン・アレジが起用された。アレジはフランスGPとスペインGPで4位に入賞し、イタリアGPでも5位でポイントを獲得するなどパーマーを上回る好成績を挙げた。なお、アレジがタイトルのかかっていた国際F3000参戦を優先したため欠場したベルギーGPとポルトガルGPではアレジの代役としてジョニー・ハーバートが018をドライブした[2]。018によりティレルはコンストラクターズ・ランキング5位でシーズンを終了し、チームの1980年代最高順位を記録した。 1990年シーズンは、第2戦ブラジルGPまで018が出走し、ロータスから移籍した中嶋悟とチームに残留したアレジがドライブした。第3戦サンマリノGPには後継モデルの019が3台持ち込まれたが、このレースのスタート直後に中嶋がクラッシュして019の1台が大破したため、次戦モナコGPには018がスペアカーとして持ち込まれた。 1989年シーズンはグッドイヤータイヤを使用したが、1990年シーズンは開幕直前になってピレリタイヤに変更した。 シャーシ履歴[編集] 018は5台が製造された[3]。 F1における全成績[編集] ティレル・018は1989年シーズン、メキシコGPで3位(アルボレート)を最上位に、カナダGPではパーマーがウェットレースの中ファステスト・ラップを記録[4]。1989年のコンストラクターズランキングで5位を獲得した。非ワークスエンジンを使用するチームの中では最上位だった。 1990年シーズンは、開幕戦のアメリカGPでアレジがスタート直後からトップを走り、アイルトン・セナと首位争いを繰り広げる好走を見せ、018のベストリザルトとなる2位に入賞した。このレースではもう1台の018に乗る中嶋悟も6位に入賞した。 (key) (太字はポールポジション) * 1990年の9ポイントはティレル・019による。 ^ “STATS F1

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修那羅峠 – Wikipedia

修那羅峠(しゅならとうげ・しょならとうげ)は、長野県小県郡青木村田沢と東筑摩郡筑北村坂井(旧:坂井村)[注 1]の境にある峠。標高は914 mで、石仏群が有名である。丸子信州新線(主要地方道)が通る[2]。本項目では、峠の近くに位置する安宮神社(やすみやじんじゃ、海抜1,037 m[6])についても併せて解説する。 古代から交通・文化の要所であった小県地方と安坂[注 2]・麻績地方を結ぶ峠で、地理院地図などには「しゅならとうげ」と記載される[7]一方、地元では北信方言の特徴的音韻[注 3]から[8]、もっぱら「しょならとうげ」と読む。安宮神社は、地元では親しみを込めて「しょならさま」「しょならさん」と呼ばれる[9]。 かつては安坂峠[注 2](あざかとうげ)と呼ばれていた。 「修那羅」(しゅなら)は梵語で石を意味する「アシュナ」 (ashu-na) の略音「シュナ」と、チベット語で峠を意味する「ラ」との合成語であり、「石峠」を意味する。 古くは「須那羅」とも書かれた。早稲田大学古美術部研究会の報告によれば、『日本書紀』中の素那羅の人々が定着した土地だという。石田肇はこの説を踏まえ、「須那羅」は朝鮮語の Soi=nara (=「金の国」、すなわち金官国の意味)で、継体朝から推古朝ごろに朝鮮半島からこの地に移住した渡来人たちが、故国の名前を伝承したのが起源であるという説を提唱している。 修那羅峠の石仏(2012年10月) 江戸時代末期ないし、幕末から明治初年にかけ、行者の修那羅大天武[注 4]が峠近くに修験場を構えた。修那羅大天武は万延元年(1860年)にこの地に住み着き、明治5年に死去した[6]が、生前に舟窪山[注 5][6](峠の西)で、安宮神社を開いたと伝えられている[6]。安宮神社の御祭神は、大国主命と修那羅大天武命である。 安宮神社の境内には、ブナやクリの林が広がる[6]。その林の中に[6]、善光寺平・小県・安曇野・松本方面の信者たちから寄贈された石造仏・石造神(総数860体)が寄進されている。石神仏の特徴は、神仏習合のものが多いことで[9]、『修那羅大天武一代記』(大正3年記)によれば、これらの石像の大部分は、大天武が住み着いた万延元年から、没した明治5年までの十数年間に建立されたという。石像の高さは30 cmから50、60 cm程度で、無造作に土の上(山道の片側)に並べられている。その形は、悪霊神、苗鹿大明神、蚕神、猫神[注 6]、馬神、催促金神、狼神、地蔵、大日如来など様々である[注 7][6]。古川純一

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ぎょう鉄 – Wikipedia

ぎょう鉄(撓鉄あるいは鐃鉄、ぎょうてつ)とは、金属の加工技術の一つ。厚鋼板の表面に加熱と冷却を加え、熱膨張と収縮により鋼板内部に生じる応力を利用して、外力を加えることなく鋼板を湾曲させて曲面を形成していく技術をいう。 おもに鋼製船舶の建造のための技術として発達してきた。船体は複雑な曲面で構成されており、プレス加工により難い3次元方向の曲面が多く、また、叩き加工では騒音・振動が甚だしいことから、鋼板の品質向上と併せ、叩かずに熱膨張・収縮による内部応力のみを利用して曲げる方法が発達した。 職人の手作業によって担われてきた技術であり、習得するには熟練を要し、「職工として自立できるまで最低でも10年は要する」等と評されることも多い[1][2]。船首のバルバス・バウや船尾の舵・推進器まわりなどの複雑な船体曲面を形成するのには不可欠の技術である[3]。 2010年代頃から、バルバス・バウではなくバルブレス船首形状を採用する船が増えつつある背景の一つには、ぎょう鉄技術者の育成が難しく、常に不足気味で、自動化も困難なため建造工程上の隘路になりやすいという事情もある[4]。 予め、図面に基づき、製作箇所の形状を表現した実物大の木枠(立体ゲージ)を製作する[1]。 船材の鋼板の曲げ方向と加熱・冷却を施す箇所・手順を検討する。必要に応じてマーキングする。 鋼板の表面を、アセチレンガスバーナーなどで加熱しながら、ホースで水をかけて冷却する[1][3]。鋼板は、加熱・冷却を加えた側に向かって曲がっていく[1]。 必要な形になるように、場所・方向を変えながら加熱・冷却を繰り返す[1][3]。 時々木枠を当てて曲がり具合を確認しながら作業を進める[1]。予定した形状が得られたら、作業完了となる。 ^ a b c d e f 2007年11月30日付西日本新聞掲載記事「鉄と格闘 熟練の技」 ^ 新潟造船株式会社公式サイト掲載「ある日の新潟造船」(2021年7月5日閲覧)

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イナモリソウ – Wikipedia

イナモリソウ Pseudopyxis depressa Miq. はアカネ科の草本。地表に張り付くように葉を広げ、大きな花をつける。 背の低い多年生の草本[1]。地下に細く伸びる根茎を持ち、その先端に直立する茎を着けるが、高さは普通は3-5cmほどにしかならない。ただし時には10cmに達することもある[2]。葉は対生するが、二対ないし三対しかなく、それが茎が短くて間が狭いためロゼット状に地表に広がる。よく見られるのは上の二対が互いに接近し、四輪生に見えるものである。葉は長さ3-6cm、幅2-4cm、卵形あるいは三角状卵形で先端は鋭く尖り、基部は丸いかやや心形にくぼみ、3-10mmの葉柄に繋がる。葉には全体に短い軟毛が一面に生える。托葉は先が尖った小さな三角形で、長い軟毛がある[3]。 花期は5-6月。葉腋から一個ずつ、あるいは枝先に1-2個の紅紫色の花をつける。萼は釣り鐘型で半ばまで五裂し、裂片は広披針形で先が尖る。また、剛毛が一面に生える。花冠は長さ2.5cm、内面には短い毛をまばらに出す。雄蘂は五本あり、花冠の筒部の上部について、花糸は短い。蒴果は長さ3mm、幅6mmの倒三角形。 和名は江戸時代に尾張の花屋の九兵衛が菰野(現在の三重県三重郡菰野町)の稲盛山で発見し、この名を付けたとされる[4][5]。 分布と生育環境[編集] 日本固有種で、関東以西の本州から九州までに知られる。山地の路傍などに見られる[6]。 土が崩れて他の植物には不適な場所に群生することが多い[7]。 本種が所属するイナモリソウ属は、属単位で日本に固有で、もう一種、シロバナイナモリソウ P. heterophylla があるだけである。本種とは名の通りに花色が異なるほか、より背が高く、葉が間を置いて付くなどの違いがある。 なお、名が似ているサツマイナモリ Ophiorrhiza japonica は別属のサツマイナモリ属に所属する。この属には琉球列島に更に別種がある。 保護の状況[編集]

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アフリカン・カンフー・ナチス – Wikipedia

『アフリカン・カンフー・ナチス』は、2021年に公開されたガーナ・ドイツ・日本合作の映画。R-15指定。セバスチャン・スタイン、ニンジャマン共同監督。 2020年にAmazon Prime Videoにて配信され、2021年6月12日に全国での劇場公開がされた。 2022年3月4日にDVD/Blu-rayが発売。同日にU-NEXTでの配信、Amazon Prime Videoでの再配信が開始。 この節の加筆が望まれています。 ストーリー[編集] 第二次世界大戦後、ヒトラーと東條英機は潜水艦に乗ってガーナに亡命し生き延びていた。彼らは現地人を洗脳し、ガーナアーリア人として一大勢力となる。 カンフー・影蛇拳の使い手であるアデーは、ガーナアーリア人の道場破りによりカンフーの師匠を殺され、恋人もヒトラーに奪われ復讐を誓う。 登場人物[編集] アデー クマシでカンフー・影蛇拳を学ぶ青年。ヒトラー率いるガーナアーリア人に道場を潰され、右手の薬指と小指、そして恋人のエヴァも奪われたことで復讐を誓う。 アドルフ・ヒトラー 第二次大戦後、ガーナに亡命していたアドルフ・ヒトラーその人。その弁舌は健在。 東條英機 第二次大戦後、ガーナに亡命していた東條英機その人。カラテの達人であり、武術トーナメントでは行司を務める。 ゲーリング ヒトラーと共にガーナに亡命したヘルマン・ゲーリングその人(ただし演じているのは黒人)。鋼輪拳の使い手であり、その実力は東条に次ぐ。

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朔日縁起宝生護摩 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “朔日縁起宝生護摩” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年6月) 朔日縁起宝生護摩(ついたちえんぎほうしょうごま)とは、阿含宗が毎月朔日に行う宝生護摩法要である。 朔日縁起宝生護摩講講員になると、毎月、開運宝生の朔日縁起宝生お守りが授与される。 朔日縁起宝生護摩は、毎月1日、午前7時から、関東別院などを中心に修法され、通信衛星によって同時に全国の本部、地区道場等でおこなわれている。 法話は阿含宗開祖桐山靖雄管長から最近では法務部の深田法務管長をはじめ、法務部職員によって交代で勤めている。 詳細説明[編集] 仏舎利の「舎利」というのは「骨・遺骨」を指す。仏様の舎利だから「仏舎利」というわけである。内陣に安置されている入れ物は「釈尊の遺骨を収めた入れ物」であり、仏舎利塔、または塔婆(スゥトゥパー)といわれる。よくお墓の傍か後方に立ててある木の札のようなもの、あれも塔婆というが、本来はこの仏舎利塔を指す。仏舎利塔は仏舎利カスケットという入れ物で、そこに釈尊の遺骨が祀られている。本当の釈尊の遺骨が入っている、ということで「真正仏舎利」ともいい、「真身舎利」とも言う。 この日に仏舎利尊の御前で宝生の護摩を焚き、その仏舎利尊の功徳を戴こうというものである。仏舎利は如意宝珠の意味もあり、宝の生み出す宝庫とみなされている。仏舎利尊に対し供養の護摩を焚き、祈願することでその無尽な宝生の功徳にあやかろうとする行事である。 仏様(仏舎利)から良い運気をいただいて、運を良くしようということも提唱されている。桐山曰く、「いくら才能があっても運が悪ければ何にもならない」ということ言われているが、努力・行動し、この仏様から最高の運気を戴けば、開運が期待できると評判になった護摩法要である。 この「朔日縁起宝生護摩講講員」になると、その仏舎利尊の「おみたま」を修法したカードが毎月与えられ毎月の拝受者の様々な祈願成就の依り代となる。 会費は入講した月から一年間有効で、会費は1万円である。先払いで現金一括払いである。阿含宗の会員でなくても入講可能である。また、毎月1日の道場での護摩修法への参拝も会員で無くても 可能である(入講してなくても参拝は可能である)。

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反人種差別 – Wikipedia

反人種差別(はんじんしゅさべつ)とは、人種差別に反対し、差別の撤廃に目指すことである。反レイシズム・アンチレイシズム(en:Anti-racism)とも言われる。国際社会においては1965年に国連総会において「人種差別撤廃条約(あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約)」が採択されており、1966年に発効している[1]。 運動・状況[編集] アメリカ合衆国[編集] 日本[編集] 国際連合人権委員会が「現代的形態の人種主義、人種差別、外国人嫌悪および関連する不寛容に関する特別報告者」として任命したドゥドゥ・ディエンは、2006年1月24日に調査した内容を報告書としてまとめ、2005年に行った日本への訪問[2]に関する付帯文書の中で「日本には人種差別と外国人嫌悪が存在し、それが3種類の被差別集団に影響を及ぼしているとの結論に達した。」と報告し、被差別集団を「部落の人びと、アイヌ民族および沖縄の人びとのようなナショナル・マイノリティ」・「朝鮮半島出身者・中国人を含む旧日本統治地域出身者およびその子孫」・「その他のアジア諸国および世界各地からやってきた外国人・移住者」と指定、公的機関が今まで行ってきた政策や措置に関しては、一部のマイノリティの一部の権利を促進する法律が複数採択されたことを評価しながらも、「人種差別を禁止し、かつ被害者に司法的救済を提供する国内法がないことに、懸念とともに留意するものである。」としている。そして、 「日本における人種差別の存在を認め、かつそれと闘う政治的意志を表明すること。」・「差別を禁止する国内法令を制定すること。」・「人種、皮膚の色、ジェンダー、出自・血統、国籍、民族的出身、障害、年齢、宗教および性的指向など、現代的差別における最も重要な分野を集約した、平等および人権のための国家委員会を設置すること。」・「 歴史の記述の見直しおよび歴史教育のプロセスに焦点を当てること。」と勧告している[3]。法務省は「パリ原則に準じた国内人権機関設置に関する勧告・要請等」の中で、国際社会から受けた勧告・要請等のひとつとして公表しており[4]、外務省で見解を発表している[5]。 日本は、2015年の人権理事会により「賛成32、反対12、棄権3」の投票により採択された決議「美辞麗句から現実へ:人種主義、人種差別、外国人排斥および関連する不寛容に反対する具体的行動を求める世界的呼びかけ」を、大韓民国・ポルトガルと共に棄権した[6]。 批判や主張[編集] 杉田水脈は、自身は日本の日常生活において激しいマイノリティ差別を実感したことはないとしており、アイヌ民族、同和部落、在日韓国人・朝鮮人、琉球民族などのマイノリティ差別を訴える団体は「差別」を創作する「被害者ビジネス」をおこなっているように感じているとして、「これらのマイノリティ差別を利用した被害者ビジネスを国内で実施している人たちも、慰安婦問題などの反日プロパガンダを世界で広げる人たちもすべてつながっている」と述べている[7]。 ケント・ギルバートは、いわゆる『沖縄民族』への差別に関する主張について、「架空の主張」にすぎないとしており、沖縄に米軍基地が置かれていることは地勢的な理由のみであり、日本人にも沖縄県民にも「差別」の意識は存在しないと述べている[8]。 関連項目[編集]

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常任委員会 – Wikipedia

常任委員会(じょうにんいいんかい)とは、日本の国会または地方議会の委員会または、常設委員会ともいう。議員は、官職を兼ねる者を除き、必ずその議院・議会の常任委員会の一つ以上に所属する(国会法第42条第2項、各条例)。 常任委員会は法律・条例であらかじめその設置が規定され、衆議院・参議院の各々に17の常任委員会が設置されている。 国会の常任委員会の委員長は国会法第25条で本会議で常任委員から選挙で選出することになっているが、議長が指名(衆議院規則第15条・参議院規則第30条)する慣例になっている。 上述のように官職を兼ねる者を除いて、すべての議員が必ずいずれかの委員会に所属しなければならないが、通常、政党の要職に就いている議員は国家基本政策委員会に、総理大臣や議長の経験者は懲罰委員会に所属することが慣例となっている。 日本の国会の常任委員会[編集] 衆議院の常任委員会[編集] 衆議院の常任委員会は衆議院規則で以下のように定められている。 参議院の常任委員会[編集] 参議院の常任委員会は参議院規則で以下のように定められている。 名称 員数 所管 1 内閣委員会 20 内閣及び内閣府の所管に属する事項(総務委員会、外交防衛委員会、財政金融委員会及び経済産業委員会の所管に属する事項を除く。)宮内庁の所管に属する事項国家公安委員会の所管に属する事項 2 総務委員会 25 総務省の所管に属する事項(環境委員会の所管に属する事項を除く。)人事院の所管に属する事項

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スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス・パウッルルス – Wikipedia

スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス・パウッルルス(Spurius Postumius Albinus Paullulus、 – 紀元前171年以降)は、紀元前2世紀初頭の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前174年に執政官(コンスル)を務めた。 アルビヌス・パウッルルスはパトリキ(貴族)であるポストゥミウス氏族の出身である。ポストゥミウス氏族はローマで最も有力な氏族の一つで、共和政ローマ建国5年目の紀元前505年にはプブリウス・ポストゥミウス・トゥベルトゥスが氏族最初の執政官に就任しており、その後も多くの執政官を出してきた。カピトリヌスのファスティによると、アルビヌス・パウッルルスの父も祖父もプラエノーメン(第一名、個人名)はアウルスである[1]。このことから、アルビヌス・パウッルルスの祖父は、紀元前242年の執政官アウルス・ポストゥミウス・アルビヌスと推定される。兄弟に紀元前180年の執政官アウルス・ポストゥミウス・アルビヌス・ルスクス、紀元前173年の執政官ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌスがいる[2]。 アグノーメン(第四名)であるパウッルルスは「小さい」という意味で、兄弟と区別するためにつけられたと思われる[3]。 現存する資料でパウッルルスが最初に登場するのは紀元前183年のことである[3]。この年にパウッルルスはプラエトル(法務官)に就任してシキリア属州の総督となった[4][5]。パウッルルスの兄であるルスクスは2年前の紀元前185年に法務官を務めており、クルスス・ホノルム(名誉のコース)の第一段階であるアエディリス(按察官)は紀元前187年に就任している。パウッルルスが按察官ににいつ就任したかの記録はないが、法務官と同じく兄から2年遅れであったとすれば、紀元前185年ということになる。この選挙を監督したのは従兄弟であるスプリウス・ポストゥミウス・アルビヌスであるため、その支援を受けた可能性がある[6]。大プリニウスは著書『博物誌』の中で、紀元前185年の按察官としてスプリウス・アルビヌスの名前をあげているが[7]、これがパウッルルスかは不明である[8]。 紀元前174年、パウッルルスは執政官に就任する。同僚のプレブス執政官はクィントゥス・ムキウス・スカエウォラであった[9]。法務官から執政官まで9年の間隔があるが(ウィリウス法では最低3年)、この頃のローマ政界はプレブスのフルウィウス氏族が優勢を締めていたためであろう。紀元前174年になって、ポストゥミウス氏族が勢いを盛り返してきた。兄アルビヌス・ルスクスはこの年に最年少でケンソル(監察官)に就任している。猛一人の兄弟のルキウスも翌年に執政官となる。執政官としてのパウッルルスの業績はほとんど分からない。ティトゥス・リウィウスの『ローマ建国史』の第41巻が該当箇所なのだが、欠落部分が多いためである[8]。分かることは、パウッルルスとスカエウォラは新たに2個ローマ軍団を編成しようとしたが、大規模な伝染病のために困難を極めたということだけだ[10] 第三次マケドニア戦争が始まった紀元前171年、パウッルルスは使節団を率いてロードス、さらには小アジアの都市を訪れている。その後パウッルルスに言及した資料はない。おそらく、まもなく死去したと思われる[11]。 ^ カピトリヌスのファスティ ^ Postumius, 1953 , s. 915-916. ^

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