Month: October 2020

串良町 – Wikipedia

串良町(くしらちょう)は、鹿児島県肝属郡にあった町。第一次産業に従事する住民が多く、農業を基幹産業とする町である。 大隅中央合併協議会の一員として周辺の鹿屋市、輝北町、吾平町と2006年1月1日に合併(新設合併)し、新たに鹿屋市となった。合併後4年間(2009年まで)は鹿屋市の地域自治区「串良町」として、2010年以降は旧串良町内の大字に冠する地名(例:鹿屋市串良町岡崎)として残置されている。 地勢[編集] 大隅半島のほぼ中央部に位置しており、町域は東西12.7 km、南北6.1 kmに及ぶ。東串良町との境に串良川(肝属川支流)が流れる。町域の大半を笠野原台地が占める。 大字[編集] 2010年以降は「串良町」を冠している。 上小原、下小原、有里、岡崎、細山田 串良郷の地頭仮屋跡 江戸時代は薩摩藩の直轄領であり、東串良町とともに串良郷(外城)として統治されていた。後の串良町役場周辺に地頭仮屋(現代における役場)が設置された。 1889年4月1日 – 町村制実施に伴い串良郷を東西に分け、そのうち西側が西串良村として発足。東側は東串良町として現存する。 1932年5月15日 – 町制施行され、串良町となる。 1952年 – 串良町役場が完成[1]。

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極道の妻たち 地獄の道づれ – Wikipedia

『極道の妻たち 地獄の道づれ』(ごくどうのおんなたち じごくのみちづれ)は、2001年公開の日本映画。監督は、関本郁夫。主演は、高島礼子。通称『極妻(ごくつま)』シリーズの第14作目。高島版としては第4作目。本作では、大阪府を舞台に全国のヤクザ組織統一の話に巻き込まれた母体組織の加入を巡る、傘下組織の対立や駆け引きが描かれている。 キャッチコピーは、「女いのち、殺(と)れるもんなら殺(と)ってみい!」[1]。 あらすじ[編集] ある年の冬、大阪の大組織の山背組は三代目組長亡き後、傘下の掛川組組長は妻・律子の支えを受けて組長代行として母体運営をしていた。関西にある組織の会合に参加した掛川は会を仕切る坂岩延人たちから全国ヤクザ組織の統一連合(以下、連合)結成の話を聞くが、加入を断ったことで彼らと溝ができる。一方、掛川の組運営に不満を持つ山背組傘下の千田組組長も連合の話を耳にし、兄貴分の池内を関東の大物ヤクザ・茂田光機に会わせるが連合加入を断られたため池内を射殺してしまう。 池内の妻・美智留は夫に捨てられたと夜の街で憂さ晴らしをしていた所律子が現れ、3日前から夫が音信不通であることを伝える。その直後2人は、千田と妻・槙子が京都方面から雪の積もった車で戻ってくる所を偶然目撃する。数日後福井の越前海岸で池内の遺体が発見され拳銃自殺とされたが、美智留は千田の犯行を疑っていた。その頃千田は山背組を連合加入させたい茂田・坂岩から対策を命じられ、悪徳刑事と共に恐喝容疑をでっち上げて掛川を逮捕させる。 組員妻の集まりで美智留は槙子に先日の行き先を詰問するが、「滋賀の山奥でゴルフをした千田を迎えに行っただけ」と告げられる。美智留は証言を信じず山背組の跡目を巡る殺人と考えるが、律子はこの事件にはもっと根深いものが関係していると疑う。千田夫妻は、山背組の連合加盟と四代目襲名という目的のため茂田・坂岩の協力を得て根回しを進め掛川の裁判を理由に幹部会を除名させることを企む。 律子は美智留や知人の調べにより、千田夫妻が山背組跡目を狙って悪事をはたらきその裏にいた茂田、坂岩の存在を知る。事前に掛川の除名話を耳にした律子は、夫の面会に訪れて組長の名代を継ぐ許しを得て後日山背組最高幹部会に出席する。律子は同席した先代組長妻を味方につけて千田の反対を押切り、山背組組長代行になることを認められる。この動きに茂田・坂岩は苛立ちを隠せず組長代行の律子に強引に連合加盟させようとするが断られ、その報復措置として掛川の実弟を射殺する。 責任を感じた律子は、組員を使って恐喝事件が狂言だった証拠を見つけて掛川の無実を証明し、面会した夫に山背組の将来を託す。組長としての素質を疑問視された千田は茂田・坂岩に見限られ、槙子も夫に愛想を尽かして茂田に乗り換える。後日関西と関東の連合結成を祝う会が開かれ、茂田・坂岩 たち大勢のヤクザが集まる中、美智留を連れた律子が現れ組長代行としてけじめをつけるのだった。 キャスト[編集] 掛川律子 演 – 高島礼子 山背組傘下の掛川組の姐さん。基本的に冷静に物事を考え、軽はずみな行動は取らない性格で誠実で面倒見が良く、妻たちがケンカした時も両者の意見を聞くなどしている。組長になることにあまりガツガツしない夫の考えを尊重している。亮平と結婚する前は、大阪の北新地でホステスをしていた。掛川が逮捕されたことで内部に裏切った人物がいると疑い、美智留や熊谷たちに協力を得ながら調べ始める。 律子と特に親しい人たち[編集] 掛川亮平 演

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ロッシュ・ローブ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ロッシュ・ローブ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年12月) ロッシュ・ローブ(英語:Roche lobe、ロッシュ袋)は、軌道上の物質が重力によって恒星に結びつけられる恒星の周りの宇宙の領域のことである。ロシュ・ローブとも表記される。恒星が自身の過去のロッシュ・ローブ以上に膨張すると、物質は恒星の重力に束縛されなくなる。恒星が連星系の場合、物質はラグランジュ点の内側に落ち込む。重力の等位面は、おおよそ頂点が別の恒星の方向(連星系の場合はL1ラグランジュ点)を向いた水滴の形である。これは、物体が主星の潮汐力で破壊されずに主星に近づける限界の距離であるロッシュ限界とは異なる。また、重い天体のまわりを公転する天体の重力が及ぶ範囲を示すロッシュ球とも異なる。ロッシュ・ローブ、ロッシュ限界、ロッシュ球の名前は全てフランスの天文学者エドゥアール・ロシュに由来する。 ロッシュ・ローブの定義 連星系のロッシュ・ポテンシャルの三次元表現 円形の軌道を持った連星系では、物体と一緒に回転する座標系を用いるのが便利である。この非慣性系では、重力の他に遠心力を考える必要がある。この2力はスカラーポテンシャルで表すことができ、そのため例えば恒星の表面は等位面上にある。 両方の恒星の近傍では、重力ポテンシャルが同じ面はおおよそ球状で、最も近い恒星と同心である。恒星系から遠く離れたところでは、等位面はおおよそ恒星の中心に向かう軸と平行な楕円体である。等位面は系のL1ラグランジュ点で自身と交差し、2つのうち1つの恒星を中心とした8の字の形になる。この等位面がロッシュ・ローブの定義である。共回転系における物質移動には、コリオリの力が働いているように見える。コリオリの力が保存力ではないことは、ロッシュ・ローブモデルからは出てこない。(即ちスカラーポテンシャルでは表せない。) 質量移動 恒星が「ロッシュ・ローブを越える」と、ロッシュ・ローブを越えた部分の物質が、他の天体のロッシュ・ローブ内に「落下」する。連星系の進化では、この現象は「質量移動[1]」と呼ばれる。 原理的には、天体の質量の減少がロッシュ・ローブの収縮を引き起こし、天体の分裂が起こりうる。しかし、通常はこのようなことが起こらないいくつかの理由がある。第一に、質量の減少によって天体の半径が収縮し、半径がロッシュ・ローブを越えなくなる可能性がある。第二に、連星系の2つの天体の間で質量移動が起こると、角運動量も転移される。質量の大きな天体から質量の小さな天体に質量移動が起こると、軌道が縮小するが、その逆が起こると軌道が拡大する(質量の合計と角運動量の合計は保存される。)連星系の軌道の拡大により、質量を供出する天体のロッシュ・ローブの収縮率が小さくなるか、拡大することさえあり、天体の破壊を防ぐ。 質量移動の安定性や恒星の運命を決定するためには、天体の半径がどうなるかや質量の減少に対するロッシュ・ローブの反応についても考慮に入れなければならない。恒星の膨張がロッシュ・ローブよりも速い、または収縮がロッシュ・ローブよりも遅い時には、質量移動は不安定になり恒星は崩壊する。恒星の膨張がロッシュ・ローブよりも遅かったり、収縮がロッシュ・ローブよりも速い場合には質量移動は一般に安定で、崩壊も起こらない。 ロッシュ・ローブから物質が溢れることによって起こる質量移動は、アルゴルパラドックスや再帰新星、X線連星、ミリ秒パルサーなど種々の天文現象の原因となっている。

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川崎市多摩川丸子橋硬式野球場 – Wikipedia

川崎市多摩川丸子橋硬式野球場(かわさきしたまがわまるこばしこうしきやきゅうじょう)は、日本の神奈川県川崎市中原区上丸子天神町の多摩川右岸側河川敷(東急東横線の多摩川橋梁すぐ西側)に所在する野球場。 本野球場は北海道日本ハムファイターズの前身球団である東映フライヤーズが一級河川にある国有地を借り受ける形で1961年(昭和36年)に開設し、日拓ホームフライヤーズを経て日本ハムファイターズとなった後の1997年(平成9年)まで同球団の二軍専用球場および練習場として使用した日本ハム球団多摩川グランド(にっぽんハムきゅうだんたまがわグランド)を前身とする。 同グランドは2011年(平成23年)3月をもって借地契約満了により日本ハム球団から国へ返還されたことに伴い一度閉鎖された。その後、新たに川崎市が国から用地を取得し、市民用の野球場に改築したのが現在の多摩川丸子橋野球場である[1]。 本野球場の敷地には日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」が1936年(昭和11年)に開設されていたが、1940年代後半(時期不明)に閉鎖されている。 多摩川グランド時代[編集] 1961年(昭和36年)、当時の東映フライヤーズ球団が国有地を借り上げて二軍本拠地および練習場として開設。以来、1973年に日拓ホームフライヤーズ、翌1974年に日本ハムファイターズと経営母体および球団名の変遷を重ねながらも二軍本拠地としてイースタン・リーグ公式戦が行われた(日拓ホーム時代までの球場名は不明)。徒歩数分のところには球団の合宿所「勇翔寮」があり、若手選手の育成の場として長年に亘って使用されてきた。 当時、多摩川グラウンドと名乗る球場は読売ジャイアンツ(東京都大田区、現在の多摩川緑地広場硬式野球場)、大洋ホエールズ(川崎市中原区 その後等々力第二球場となったのち、下水道処理場「等々力環境センター」の整備に伴い閉鎖)と併せて3箇所あった。 しかし、後年は施設が老朽化したことに加え、観覧設備がなくトイレも仮設のものしかないなど観客や来訪者に対するサービスが充分ではないこと、さらに更衣設備がないため選手が屋外での着替えを余儀なくされることなど設備の不備が指摘されるようになった(ただその分、選手とファンとの距離が近く、係員や警備員も配備されていなかったためにサインや握手を求めるのは比較的容易で、「選手とファンが近いアットホームな球団」という日本ハム伝統のチームカラーが育まれていた)。また、外野後方に東急東横線の多摩川橋梁があり、イ・リーグ公式戦などの試合中に電車が通過する際には通過時の騒音やボールの視認性低下を理由に試合が一時中断されるなど(シートが昇降する仮設のバックスクリーンこそ設置されていたが、さほど用を成さなかった)、運営上大きな問題を抱えていた。 これらの問題から、1992年(平成4年)より相模原市の神奈川県立相模原球場(現:サーティーフォー相模原球場)を本拠地として使用するようになったため、同年以降は練習のみに使用されるようになった。1997年(平成9年)にはかねてから計画されていた育成施設「日本ハムファイターズタウン鎌ケ谷」が千葉県鎌ケ谷市に完成し、本拠地球場であるファイターズスタジアムと屋内練習場、合宿所(名称は同じく「勇翔寮」)を有する充実した施設群が整ったのに伴い、球団は同年春をもって多摩川グランドをはじめとする川崎市内の球団施設の使用を終了した。 なお、練習場としての使用終了後も球団が所有を続け、駒場学園高等学校硬式野球部の練習などに貸し出されていた。また、2001年(平成13年)5月26日と翌27日にはMLBのボストン・レッドソックスが当グランドで入団テストを開催している[2]。 2004年(平成16年)、一軍本拠地を東京都から北海道へ移転し球団名を「北海道日本ハムファイターズ」へ改称したのに伴い、所有者が従来の「日本ハム球団株式会社」(1946年12月設立)から2003年8月設立の新しい球団運営会社である「株式会社北海道日本ハムファイターズ」へ移行した。 2011年(平成23年)3月31日、借地契約満了により日本ハム球団から国に土地の所有権が返還されたことに伴い閉鎖された[3][4]。 市営化以降[編集] 日本ハム球団から国に土地が返還された2か月後の2011年(平成23年)5月、川崎市が国から土地を購入して市有地としたことに伴い再利用計画案が公表される。この計画案では、両翼90mの硬式野球場と多目的広場を設置し、2015年(平成27年)の完成を目指すとしていた。川崎市営の硬式野球場としては、同じ中原区にある川崎市等々力球場に次いで2か所目となる[注 1][1]。 これに関しては、川崎球場(2000年閉鎖、川崎富士見球技場に改修)のスタンドが撤去され、硬球が使用不可になってから[注 2]、硬球が使える公設の球場が不足する事態となり「硬球が使える球場として残すべきである」とするパブリックコメントが寄せられていた[1]。 2015年(平成27年)4月、改修工事が完了し「川崎市多摩川丸子橋硬式野球場」として再オープンした[5]。球場は両翼97m、中堅122mのアマチュア規則を充足したものとなり、アマチュアの地域大会規模(春季・秋季高校野球県大会や、大学連盟の下部リーグなど)での開催は可能となっているが、河川敷のそばにあるため増水対策としてスタンド・照明塔は設置されていない[6][7]。このため、観客はグラウンドそばの土手(地面のみ)で観戦することになる。 なお、改修後の一般開放での使用条件については、川崎市民に優先的に利用できるようにするため、事前に登録申請を済ませたうえで、次のような条件がもうけられている[7]。 チーム登録所在地が川崎市内に置かれていること

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