Month: November 2020

赤坂プレスセンター – Wikipedia

地図 赤坂プレスセンター(あかさかプレスセンター、英語: Akasaka Press Center)は、東京都港区六本木にある在日米軍基地[1]。ハーディー・バラックス (Hardy Barracks) とも称される[2][注 1]。 東京都区部にあるアメリカ軍基地の一つで[注 2]、在日米陸軍が管理している[5]。前身は旧日本陸軍歩兵第3連隊の駐屯地で、現在は星条旗新聞などの事務所、宿泊施設、ヘリポートとして使用され、大統領など来日する米政府要人の移動拠点としての役割も担っている[6]。占有面積は3万1670平米[1]。 赤坂プレスセンター入口(2020年撮影) 事務所棟(2012年撮影) 宿泊施設(2012年撮影) 現在、東京都内に残る7か所の在日米軍基地の一つ[7]。元は「麻布三連隊」こと陸軍歩兵第3連隊の敷地で、戦後、連合国最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、ハーディー・バラックスと称されている。名は1950年(昭和25年)7月1日、朝鮮戦争で任務行動中に航空機事故で戦死した20名の1人であるエルマー・ハーディー伍長に由来する。 現在、敷地内にはヘリポートやガレージ、宿泊施設「ハーディー・バラックス」、米軍準機関紙「星条旗新聞」(Stars and Stripes) のほか[8]、米陸軍国際技術センター・太平洋 (International

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ジュリオ・アウグスト・エンリケス – Wikipedia

ジュリオ・アウグスト・エンリケス(Júlio Augusto Henriques、1838年1月15日 – 1928年1月15日)は、ポルトガルの植物学者、コインブラ大学の教授である。コインブラ大学植物園の標本館を発展させた。 ブラガ県のアルコ・デ・バウルで生まれた[1]。ブラガの学校で学んだ後、コインブラのサン・ベント大学に入学し法律を学び1859年に卒業するが、自然科学を学ぶためにコインブラ大学に入学し、進化論の研究などをした。1866年からコインブラ大学の自然科学の助教となり[1]、1869年に植物学、農学、動物学、化学、鉱物学の臨時講師になった。植物学を好み、1873年に大学の植物園の仕事もした。植物学部門のリーダーとなり、研究設備を整え、学生のフィールドワークの機会を増やした。文献を整備し、標本館を作るために、標本を集めた。スペインやポルトガルの植物標本を集めた、ヴィルコム(Heinrich Moritz Willkomm)をはじめとする多くの学者から多くの標本を入手した。ヨーロッパの各地の植物園などと協力し植物園を充実させ、コインブラの植物園をポルト植物研究の中心的地位に高めた[2]。 1876年に 「植物園」(O Jardim Botanico)を出版した[3]。1880年に「ブロテロ協会」(Sociedade Broteriana:ポルトガルの植物学のパイオニア、フェリックス・アヴェラール・ブロテロに因んで命名された。)を設立し、ポルトガルの植物愛好家を集め、紀要に多くの記事を書き、植物に関する知識を広めた。ポルトガル各地で採集旅行を行った[4]。 著書にダーウィンの生涯、業績を書いた「Carlos Darwin」(1882)やエストレーラ山脈での植物調査に基づく、「Expedicao scientifica a Serra da Estrella」(1882)、カラムーロ山地の調査に基づく、「Uma

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宿毛海軍航空隊 – Wikipedia

宿毛海軍航空隊(すくもかいぐんこうくうたい)および昭和19年1月1日に改称した第四五三海軍航空隊(だい453かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。水上機の搭乗員の教育を推進するため、生徒・学生・練習生への実機練習を推進した。 ミッドウェー海戦の大敗によって不足した航空母艦飛行機隊を補完する水上機の増強を図るため、高知県幡多郡宿毛町に水上機基地を設置し、練習航空隊を設置した。長らく連合艦隊の演習水域として使用された宿毛湾は、海軍軍人の出入りも多く、頻繁に連合艦隊の艦艇も停泊する絶好の立地条件であった。そのため、練習連合航空隊に属することが多い練習航空隊では例外的に、連合艦隊の中心部隊である第一艦隊の隷下に置かれた。実戦部隊に転換されると、昭和18年に落成した鹿児島県揖宿郡指宿町の指宿水上機基地に主力を移した。 4月1日 第一艦隊附属として開隊。          水上戦闘機・水上偵察機補充要員養成航空隊として発足。定数は水上戦闘機12機・水上偵察機12機。 10月1日 第三艦隊第五〇航空戦隊に編入。 1月1日 実戦部隊に転換、「第四五三海軍航空隊」に改称。佐世保鎮守府部隊に編入。          指宿基地に移り、九州南方・西方海上の対潜哨戒に従事。 2月20日 海上護衛総司令部隷下に転属。九州沖の対潜哨戒を継続。          水上戦闘機隊を廃止し、水上偵察機隊に変更(定数14機)。 4月22日 電波探信儀・磁気探信儀の搭載を下令、各4機搭載。 6月29日 タカ412船団、奄美大島沖で潜水艦攻撃を受ける。磁探機1機で対潜掃討、戦果なし。 8月6日 モタ22船団、薩摩半島西方沖で潜水艦攻撃を受ける。磁探機2機で第八号海防艦・第三二号海防艦の対潜掃討に協力。 8月7日 巡洋艦長良、天草沖で戦没。磁探機3機で対潜掃討、戦果なし。 8月16日 男女群島沖を哨戒中、敵潜水艦を発見。爆撃したが戦果なし。 11月14日 佐多岬沖を哨戒中、敵潜水艦を発見。爆撃したが戦果なし。 12月15日 第九五一海軍航空隊に編入。 西日本の海上護衛戦力を統合するため、九五一空に編入されて宿毛空・四五三空は消滅した。しかし、対潜哨戒に欠かせない磁探を最優先に搭載した旧四五三空偵察機は、九五一空の中でも有力な戦備であったため、沖縄戦が始まるまでの九州~沖縄航路の哨戒任務に最優先で投入された。相次ぐ消耗のために、九五一空は縮小を余儀なくされたが、指宿基地は現状維持が図られ、終戦まで対潜哨戒任務を遂行した。 主力機種[編集] 歴代司令[編集] 青山茂雄(昭和18年4月1日

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ビービーメディア – Wikipedia

ビービーメディア株式会社BBmedia. Inc. 種類 株式会社 略称 BBメディア 本社所在地 日本〒106-0031東京都港区西麻布4-12-24 興和西麻布ビル6F 設立 1999年2月 業種 広告制作業 法人番号 5010401037115 事業内容 映像コンテンツ+インタラクティブコンテンツ+テクノロジーに基づく体験コンテンツの企画および制作 代表者 佐野真一(代表取締役社長) 資本金

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パリサー・パー・ポープル法 – Wikipedia

分子物理学において、パリサー・パー・ポープル法(パリサー・パー・ポープルほう、英: Pariser–Parr–Pople method、PPP法)は、自己無撞着場理論とπ電子近似から共役分子やイオンの性質を計算する半経験的量子力学的手法である[1]。有機化学分野で注目されている分子の電子構造やスペクトルの定量的予測に適用できる。それまでにもヒュッケル法といった手法は存在していたが、拡張ヒュッケル法のように、その範囲、適用範囲、複雑さが限定されていた。パリサー・パー・ポープル法はハートリー=フォック法といったより単純なモデルと比較して電子反発相互作用をより良く考慮できる[2][3][4]。 この手法は1950年代にルドルフ・パリサー(英語版)とロバート・パー(英語版)によって開発され、ジョン・ポープルによって共同開発された[5][6][7]。本質的には、分子軌道の合理的な近似値を見つけるより効率的な方法である。分子軌道の特性は分子の基本構造と反応性の両方に関係しているため、研究対象となる分子の物理的・化学的性質を予測するのに有用である。この方法では、ゼロ微分重なり(ZDO)近似を使用して、問題を合理的な大きさと複雑さに縮小したが、ベンゼンよりも大きな分子に対して完全に有用になるまでは、最新の半導体コンピュータ(パンチカードや真空管システムとは対照的に)を必要とした。 もともと、この方法を使ったパリサーの目的は、複雑な有機染料の特性を予測することだったが、それが実現することはなかった。この方法は、電子遷移、特に低次一重項遷移の精密な予測に広く適用可能であり、理論的にも応用的にも量子化学分野に広く応用されている。このテーマに関する2つの基本的な論文は、ISI, Current Contents 1977に報告された1961年から1977年の期間の化学と物理の被引用数の上位5つのうちの1つであり、合計2450回引用された。 ハートリー=フォック法に基づく半経験的手法とは対照的に、このπ電子理論は非常に強い第一原理に基づいている。PPP定式化は、実際には近似的なπ電子有効演算子であり、実際には有効な電子相関効果を含む経験的なパラメータである。PPP法の厳密なab initio理論は、図式的、多参照、高次摂動理論(Freed、Brandow、Lindgrenなど)によって提供されている(厳密な定式化は非自明であり、いくつかの場の理論を必要とする)。大規模な第一原理計算(MartinとBirge、MartinとFreed、SheppardとFreedなど)は、PPPモデルの近似の多くを確認しており、PPPのようなモデルがなぜこのような単純な定式化でうまく機能するのかを説明している。 パリサー・パー・ポープル法は、π電子系の計算にのみ適しており、σ電子は分子のp軌道を正しい幾何構造に保持するネットワークを形成していると仮定している[2][3][4]。この方法では、各二重結合について、そのπ結合性度ρを計算する。例えば、分子A=B-C=Dの場合、ρABとρCDを計算することができる。分子の原子間の結合長R、力の定数k、回転エネルギーVは、次のようにρの値に依存する[2]。 R0AB=1.503−0.166ρABkAB=5.0+4.6ρABV2ABCD=62.5ρBCβBC{displaystyle {begin{aligned}R_{0}^{mathrm {AB} }&=1.503-0.166rho _{mathrm {AB} }k^{mathrm {AB} }&=5.0+4.6rho

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アブドゥルハミード・イブン・トゥルク – Wikipedia

アブドゥルハミード・イブン・トゥルク(ʿAbd al-Ḥamīd b. Turk)は、9世紀のイスラーム圏の数学者[1][2]。その生涯については不明な点が多いが、ムハンマド・ブン・ムーサー・フワーリズミーと同時代を生き(#生涯)、フワーリズミーと同じく二次方程式の解法に関するアラビア語の著作がある(#著作)。もっぱらイブン・トゥルクのナサブで言及される[1]。 イブン・トゥルクの生涯については、詳しいことがほとんど何もわかっていない[1][2]。情報源としては、イブン・ナディームの Fihrist とキフティー(英語版、アラビア語版)の Tārīḵ al-ḥukamāʾ が利用できるが、その記述するところは完全に一致しない[1][2]。 これらの情報源によると、父系先祖の名前も含めたイスムはアブドゥルハミード・ブン・ワースィー・ブン・トゥルクといい、クンヤはアブル・ファドルとアブー・ムハンマドの2つがある(أبو الفضل يا أبو محمد عبد الحميد بن واسع بن

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サラ・グリーン – Wikipedia

このページは他の記事から全くリンクされておらず、孤立しています。関係あるページをこのページにリンクしてください。(2020年6月) この項目では、イギリスの人類学者について記述しています。その他の同名の人物については「サラ・グリーン (曖昧さ回避)」をご覧ください。 サラ・フランチェスカ・グリーン(Sarah Francesca Green、1961年3月9日 – )は、現在、ヘルシンキ大学の社会人類学・文化人類学の教授である[1]。専門分野は国境問題、空間関係、ジェンダーと性役割、情報通信技術である。ギリシャ、イギリス、アメリカ、イタリアに居住歴があり、現在はフィンランドのヘルシンキに住んでいる。2016年9月、グリーンは地中海地域における新規研究開発のために、欧州研究評議会高度助成金を授与された。このプロジェクトはCrosslocations[2] と呼ばれた。また重点分野とは異なるが、地中海地域における「輸送・貿易・旅行」を扱ったフィンランド・アカデミーのプロジェクトについても助成金が与えられた。 サラ・グリーンはイングランド・サフォークのレッドグレイヴで生まれた。彼女はレスボスとアテネで育ち、そこで学校に通った。その後、家族とともにイングランドに引っ越し、引き続き学校に通った。テキサス大学オースティン校で一時期を過ごした後、イングランドに戻り、ケンブリッジ大学(ニューホール、現在のマレー・エドワーズ・カレッジ)の学部生となり、考古学および人類学のトライポスを修了した。アメリカでの短期研修の後、1988年にケンブリッジ大学の博士課程に入り、1992年に社会人類学の博士号を取得した。彼女はケンブリッジ大学の研究フェローおよび客員講師として研究職を開始し、1995年にマンチェスター大学に移った[3]。2006年、彼女はマンチェスター大学で人類学の教授に就任し、また社会人類学の学部長を務めた(2007年–2010年)。グリーンはイギリス国内の複数の大学で客員教員を務めた他[4]、フィンランドでも客員教授を務めた[5]。 研究領域[編集] 彼女の研究テーマは多岐にわたっているものの、主たるコンセプトは一貫して「場」の概念となっている。彼女は様々な現地調査プロジェクトを通じ、人々が自分自身をこの世界においてどのように位置づけし、自身と他者がどのように関係しているかを、文字通りの意味そして比喩的な意味の両面において、探求してきた。グリーンはそのような「場」を探す行為について、社会的な要素や認識論的な要素のみならず、政治的な要素とも密接に関連していると考えている。彼女の研究テーマとしては、「ロンドンにおけるジェンダーと性役割に関する政治」「マンチェスターにおける情報通信技術を強力に促進する政治」「アルゴリド渓谷とギリシャ北西部における環境と土地劣化の認識の変化」「ギリシャとアルバニアの国境における国境関係の概念」「バルカンの出現、消滅、再出現」「エーゲ海における貨幣の循環」「信頼の概念とイギリスの新しい金融エリート」といったものが挙げられる。そして直近では「ヨーロッパ東縁部における国境の考え方の変遷」を扱っている[4]。 彼女の研究活動の大部分は、学際的な研究チームによる組織として行われた。彼女は若手の早い時期から「アルカイオメデス1」と「アルカイオメデス2」のプロジェクト(1993年–2000年)に参加。このプロジェクトは環境認知と政策立案を調査するための、EU出資プロジェクトであった[6]。2004年以降、イギリスESRCの社会文化変化研究センター内でコーディネーターとしてさまざまな研究活動に関与[7]。2006年からはヨーロッパ地域東縁部の国境および国境のでの実務に関連する概念的問題および経験的問題の両方を調査することに特化した国際的な研究ネットワークを構築してきた。EastBordNetは2008年にCOST(欧州科学技術協力)から資金提供を受け、グリーンは研究責任者を務めた[8]。国境調査に関連する様々な主題(国境技術、性別、貨幣など)が扱われ、国境調査に向けた新しい概念的アプローチが開発されました(例:「潮汐」)[9]。このネットワークには27か国が参加し、2013年1月にベルリンで開催した第2回国際会議には280人超の研究者が集まった。このネットワークは継続中であるが、COSTによる資金提供は終了している。マンチェスター大学出版会では、グリーンを編集長として、『国境の見直し』と題した新書シリーズの出版を企画した。このシリーズは、EastBordNetプロジェクトによって得られた国境研究に関する成果物やモノグラフを集約するものであった[10]。 2011年、彼女は人類学の分野で最大の国際会議であるアメリカ人類学会[11] に、エグゼクティブ・プログラム・ダイレクターとして招待された。この年はモントリオールでの開催であった。 主な出版物[編集] 2013 Borderwork: a visual

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ワニ形上目 – Wikipedia

ワニ形上目(ワニけいじょうもく、学名:Crocodylomorpha)は、ワニを含む爬虫類主竜類クルロタルシ類の上目。中生代の後期三畳紀に出現し、陸棲・半水棲・海棲と多くの生態的地位に適応した属種を輩出した。現生ではワニのみ生き残っている。 ワニ形上目は三畳紀に出現した[1]。その起源は明確にされていないが、プロテロスクスのような主竜形類から派生したと考えられている[2]。当時のワニ形上目は現在のワニから想像されるような大型の動物ではなく、小型で後肢が長く、現生のネコやイヌのように踵を浮かせて歩行する趾行性の動物であった[1]。前肢は後肢に比べて短いことから、基本的に二足歩行で行動し、前肢は獲物の捕獲や補助的な歩行に用いられていたと推測されている。初期のワニ形上目の例として後期三畳紀のテレストリスクスやグラキリスクス(英語版)が挙げられる[3]。二足歩行のワニ形上目は三畳紀のみに限られるわけではなく、2019年には大韓民国慶尚南道晋州市から二足歩行のワニ形上目のものと思われる白亜紀の足跡化石が発見されている[4]。 ワニ形上目は前期ジュラ紀から短期間のうちに多様化して数多くの生態的地位を埋めており、陸上・河川・湖沼・河口・海洋へ進出した[2]。例えば、陸上では中期ジュラ紀のマダガスカルにラザナンドロンゴベが生息していた。本属は全長約7メートル、体重は最大で約1トンと推定されており、当時の恐竜を差し置いて頂点捕食者の地位に居たと考えられている[5]。前期ジュラ紀の初頭には現生のワニを含むより小さな系統群である新鰐類が登場した。当時の新鰐類は現生のワニと比べて大きくはなく、全長1 – 3メートル程度のものが主であった[2]。新鰐類の代表例として挙げられる属に後期ジュラ紀のゴニオフォリスがいる。ゴニオフォリスは全長2,3メートルで、現生のワニと酷似した腹這いの姿勢を採っていた。つまり、より基盤的なワニ形上目のように内陸を直立歩行するのではなく、水辺に潜む捕食動物としての半水棲の生態に適応していた[6]。後期ジュラ紀のメトリオリンクスに代表されるメトリオリンクス科(英語版)は海棲適応を果たしており、四肢はヒレ状に特殊化を遂げた[3]。ただし当時の頂点捕食者は彼らではなく首長竜のリオプレウロドンであったと推測される[2]。 新顎類は白亜紀に大型化を遂げた。その代表例は前期白亜紀のサルコスクスである。サルコスクスは全長約12メートルに達する大型の捕食動物で、魚類だけでなく翼竜や中型の恐竜も獲物にしていたと考えられている。後期白亜紀には正鰐類が出現し、そのうち現生ワニ目のクロコダイル科とアリゲーター科が分布を拡大した。これらの属種には北極へ進出するものもいた。ガビアル科の出現は前者2科と比べて遅く、新生代の古第三紀始新世の前期に出現した[2]。 なお、半水棲の新鰐類のみが白亜紀末の大量絶滅を生き延びたわけではない。新鰐類の姉妹群であるノトスクス類(英語版)に属するセベコスクス亜目(英語版)と呼ばれる陸棲の系統は、新第三紀中新世までの化石記録が確認されている[7]。 解剖学的特徴[編集] ヒトを含む哺乳類の歯では、エナメル質に覆われていない歯根部の象牙質がセメント質に覆われ、顎の骨に開いたソケットに収納されている(槽生)。ワニ形上目をはじめとする主竜類もまたセメント質の槽生を獲得している[8]。歯は哺乳類と対照的に生涯を通じて何度でも生え変わる多生歯性を持つ。原毛・体毛の発達したキノボリトカゲ科や哺乳類で生え変わりの回数が少なく、羽毛の生えた鳥類ではそもそも歯が失われていることから、体毛と歯の生え変わりには負の相関があることが示唆されている。これについて木曽太郎は、ある遺伝子産物が体の前後軸方向に勾配をなし、頭部側で高ければワニ形上目をはじめとする多生歯性、後側で高ければ鳥類をはじめとする体毛の発現に繋がると可能性を指摘している[8]。 四肢の構造としては、哺乳類を含む獣弓目と同様に脚が体の下へ位置する、直立に近い姿勢を採る。すなわち、トカゲ(有鱗目)のように脚を横へ突き出して地面に這いつくばるような姿勢を採らない[8]。これは、腸骨の寛骨臼が外側を向く基盤的な主竜形類と異なり、ワニ形上目では寛骨臼が大腿骨頭側へ拡大して下側を向いている(すなわち大腿骨軸が下向きに位置する)ためである。この直立歩行の獲得は寛骨臼が貫通して直立を可能とした恐竜の直立様式とは由来を異とする[1]。なお、現生のワニでは大腿骨が下向きになっておらず、直立姿勢は失われている。現生のワニでは這い歩き、半直立の高這い、ギャロップといった歩行様式が見られる[9]。 遠位足根骨は癒合しており、獣弓目ゴルゴノプス亜目との収斂を示す[8]。足根骨の蝶番状の関節には隆起があり、足の筋肉の力を補助している[1]。また、ラウィスクス類やオルニトスクス科(英語版)と同様に第5中足骨が退化し失われている。加えてワニ形上目では第5趾も失われている[8]。 軟組織の化石記録を遡ることはできないが、ワニと鳥類に2心房2心室の心臓が確認されていることから、ワニ形上目も2心房2心室の心臓を持っていたと推測される。また有鱗目やカメ(主竜形類)は2心房1心室の心臓を持つため、2心房2心室という形態形質は槽生の獲得後に進化したと考えられる[8]。 Benton (1997) によると、主竜類は、プロテロスクス科(英語版)・エリスロスクス科(英語版)・ユーパルケリアが枝分かれした後、恐竜および翼竜の共通祖先とワニ形上目の祖先に二分された[8]。そしてこの時点でのワニを含む系統群を偽鰐類と呼称する。「偽」という表記がなされているが、実際のワニ目もこの偽鰐類に分類される[6]。偽鰐類にはワニ形上目の他にラウィスクス類(英語版)・アエトサウルス目(英語版)・植竜類・オルニトスクス科(英語版)などが分類される[8]。 以下は Nessbitt (2011) に基づいてワニ形上目の系統学的位置を示したクラドグラム [10]。

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阿難 – Wikipedia

「アーナンダ」はこの項目へ転送されています。モンゴル(元王朝)の皇族については「アナンダ」をご覧ください。 「阿南」とは異なります。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “阿難” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年7月) 阿難(あなん、梵/巴:Ānanda आनन्द アーナンダ 阿難陀)は、釈迦の十大弟子の一人であり、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから多聞第一(たもんだいいち)と称せられた。禅宗では摩訶迦葉の跡を継いで仏法付法蔵の第3祖であるとする。[1]阿難陀は漢語意訳では歓喜・慶喜とも記される。 なお各種仏典には、仏弟子や龍王をはじめとして、「-nanda(○○難陀)」という名前が頻繁に登場する。たとえば孫陀羅難陀も本項の阿難陀と名前が似ているため、よく混同されるが別人である。 人物・出身[編集] 彼の出身は仏典によって諸説あり一致しない(後述)が、一般的には釈迦の従弟で、様々な仏典に釈迦とその教団に違背した悪人として描かれているデーヴァダッタ(提婆達多)の弟と言われる。 彼は、釈迦が成道した夜に生まれたといわれる。大智度論によると、彼の父である斛飯王(こくぼんのう、ドローノーダナ)が、釈迦の実父であるシュッドーダナ王(浄飯王)のもとに使者を送り、阿難の誕生を知らせた時、浄飯王は非常に喜んだので「アーナンダ(歓喜)」と名づけられたといい、また国民は皆、王子の誕生を喜び、それによって名づけられたともいわれる。彼も阿那律(アヌルッダ)などの諸王子と共に釈迦仏の元に赴き仏弟子となった。時に釈迦が55歳、阿難が25歳といわれる(もしくは8歳で沙彌=年少の修行者となったという説もある)。 なお、『仏本行集経』によると、出家する時に釈迦仏から許しを得ず、阿難と提婆達多の2人だけは、雪山(ヒマラヤ)のふもとの長老、優波陀(ウバッダ)に就いて出家し具足戒を受け、師の許しを得て仏所へ赴いて弟子となったとされる。

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