Month: April 2021

牧野貞喜 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “牧野貞喜” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年9月) 牧野 貞喜(まきの さだはる)は、常陸笠間藩の第3代藩主。成貞系牧野家6代。 宝暦8年(1758年)8月6日、第2代藩主・牧野貞長の長男として生まれる。宝暦14年(1764年)1月11日に貞喜と名乗る。安永3年(1774年)に従五位下・兵部少輔に叙位・任官する。寛政4年(1792年)3月21日、父の隠居で家督を継ぎ、3月22日に備中守に遷任する。寛政5年(1793年)3月7日に日向守に遷任する。12月16日には奏者番に任じられた。 この頃の笠間藩牧野家では、父の時代からの藩財政悪化により、重税を行ない、さらに天明の大飢饉による被害などで農村は荒廃し、人口も減少していた。このため、貞喜は藩政再建のために藩政改革に乗り出す(寛政改革)。良水という僧侶を登用して、家臣の俸禄削減や倹約令の徹底、年貢収納の強化、北陸地方の農民移住の奨励などを行なったのである。これらは一定の成果を挙げたが、北陸の農民を移住させたことが加賀藩の怒りを買い、そのため文化5年(1808年)に良水は自害に追い込まれた。これにより、改革は一時的に停滞する。 文化6年(1809年)、貞喜は川崎頼母を登用して新たな藩政改革に乗り出した(化政改革)。農村支配の強化や次男・三男の分地・分家取立てによる人口増加、窮民への資金融資、出生や多子を持つ親への褒賞、勧婚などを行なったのである。さらに農業以外にも分業を奨励し、囲米なども行なった。また藩校・時習館を創設して優秀な人材を積極的に登用し、藩士の意見を広く取り立てるために上書の制を採用した。これらは笠間藩の再建に大きく効果を挙げている。 文化14年(1817年)10月21日、足病を理由に家督を次男の貞幹に譲って隠居する。以後も藩政の実権を握って改革を推進しながら、俳諧の世界に入って江戸可因に師事し、「菊畠」などの作品を残している。文政5年(1822年)10月17日に死去、享年65。 牧野氏の歴代藩主の中でも随一の名君であり、当時から中興の英主として評価された。 多芸な大名で、作陶を趣味とし、自ら城内で御庭焼を行った。また政策としても窯業を奨励し、笠間焼を発展させた。 俳句を能くした。笠間城址には「布里む久盤 啼く児能親可 田宇ゑ笠」(ふりむくは なく子の親か 田植笠)という句碑が建っている。この石碑は、笠間藩最後の藩主となった牧野貞寧が明治19年(1886年)に建てたもの。 大正7年(1918年)には笠間の殖産興業化を図り、治水や文化面でも大いに功績を残したことを評価されて、時の政府より従三位を追贈された。

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タツ青木 – Wikipedia

タツ 青木(本名:青木 達幸、あおき たつゆき)1958年9月19日 – )は、シカゴ在住の日本人ベーシスト、マルチ・インストゥルメンタリスト(三味線、太鼓)、教育者、実験映画作家。シカゴにおけるアジア音楽の開拓者&伝統芸能継承者、シカゴ美術館附属美術大学准教授(映画製作、美術史)。 タツ青木 基本情報 原語名 青木 達幸(あおきたつゆき) 生誕 (1957-09-19) 1957年9月19日(64歳)東京 ジャンル ワールドミュージック 職業 ミュージシャン、映画監督、教育者 担当楽器 ベース、三味線、太鼓

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デス (グラディウス) – Wikipedia

デス(DES)は、コナミのシューティングゲーム『沙羅曼蛇』を初めとした『グラディウス』シリーズに登場する架空の兵器。バクテリアン軍の宇宙空母あるいは宇宙戦艦である。 名前の綴りは死を意味する「DEATH」ではなく「DES」。但し「グラディウス外伝 パーフェクトガイド(発行:コナミ、1997年)」のデスダブルの解説ページのみ「DEATH DOUBLE」と表記されている。 当項目では派生キャラであるガウについても述べる。 グラディウスシリーズ二作目『沙羅曼蛇』(AC版、PCE版)ステージ5のボスキャラクターとして初登場後、以降のシリーズではビッグコア、テトランと並ぶボスオンパレードにおける常連キャラとなる。シリーズを追う毎にビッグコアと同じくMk-II、Mk-IIIとバージョンアップするが、外見は殆ど変わらない。 外見は円筒形で、機首には開閉式のハッチと艦首に2門の小型のイオンレーザー砲(『グラディウスV』まで使用されることはなかった)、後部には2つのエンジン、アンテナと小さな翼が付いており、全体的に無骨なデザインである。ビッグコア等と異なりコアを防御する遮蔽板が無い。弱点はコアであり、Mk-II以降はハッチから破壊しなければコアに攻撃できない。 バリエーション[編集] 空母デス[編集] グラディウスシリーズ二作目『沙羅曼蛇』(AC版、PCE版)ステージ5のボスとして、自機の後方(画面では左)から登場する。 攻撃方法は、先端部のハッチから艦載機を1機ずつ発進させる。その艦載機は破壊可能な誘導ミサイルを1発撃ってくる。さらにハッチの破壊をしない場合、画面の端で反射するブルーボールを1個ずつ射出してくる。また、通常弾も自機狙い(座標によっては死角になる場合もある)に放つ。デスの破壊に手間取ると、画面上はブルーボールだらけになり、回避が困難になる。高周期になると、ブルーボールと通常弾の発射量が大幅に増加する。 『ライフフォース』のステージ5のボス「ガウ」もこれと同じ攻撃方法である。 なお、コアはある程度攻撃しないと開かない。ハッチは破壊可能。 PCE版 PCE版でのデスは、攻撃方法と挙動が異なる。 最初にブルーボールを自機狙いに3発放射状に放ち、破壊可能な誘導ミサイルを3発放射状に撃った後、ハッチから艦載機を1機発進させる。ブルーボールは反射しないで画面外に消えていくようになっており、AC版に比べて倒しやすくなっている。パワーアップしたり高周期になると、ブルーボールとミサイルの発射数が増え、それぞれ最大9発まで増加。艦載機も2機ずつ発進するようになる。 自機をデスの真上または真下の位置に動かすと、急速に動いて押し潰そうとしてくる。 その他、登場してすぐにコアを開く、コアは攻撃を受けると赤く点滅する、ハッチは破壊できない、といった挙動の違いがある。 デスMk-II[編集] 『グラディウスII』(AC版、PCE版)ステージ4のボスとして登場。艦載機の収納庫を超大型のイオンレーザー砲へ換装し、主砲に蓋をする開閉式ハッチの内部にミサイルランチャーが装備されている。コアを攻撃するにはまず前部のハッチから破壊しなければならない。最初はミサイルを5発同時に発射して攻撃してくる。ミサイルは破壊不可で、追尾機能が付いているが低性能である。ハッチを破壊すると主砲である極太イオンレーザーを撃ってくるが、砲の前には完全状態のバリアーも無力である。製作者曰く、元々登場させるつもりは無かったが、制作期間に余裕が無かったので出したとのこと。[1] 『グラディウスIII』(AC版)ステージ10のボスオンパレード(5番手)で再登場するが、こちらの機体はミサイルの追尾機能が強化されている。逆にSFC版ステージ8のボスオンパレード(1番手)に登場する機体は無誘導ミサイルになっている。

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金融商品詐欺 – Wikipedia

この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2016年4月) 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2016年4月) 金融商品詐欺(きんゆうしょうひんさぎ)は、価値が全くない未公開株や高価な物品等について嘘の情報を教えて、購入すればもうかると信じ込ませ、その購入代金として金銭等をだまし取る(脅し取る)特殊詐欺の手口の一つ[1]である。 投資詐欺(とうしさぎ)とも言われる。なお、本項目は、多くの官公庁などに記載されている注意呼びかけを集約したものが主体である。 目次 1 詐欺手法 2 被害にあうのを防ぐ方法[7] 3 その他 4 被害額上位の事件一覧 5 出典 6 関連項目 7 脚注 詐欺手法[編集]

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卒業制作 – Wikipedia

卒業制作(そつぎょうせいさく)は、主に服飾 、美術系(絵画、彫刻、建築、写真など)の大学・専門学校での最終制作課題の通称として用いられる。学生にとって在学期間の集大成であると同時に、その後の就職や作家活動に少なからず影響を与える重要な制作物および制作活動と位置づけられる。 絵画専攻の卒業制作では、100号前後の油絵や日本画を制作することが多いが、現在ではインスタレーションやパフォーマンスなどの表現を行う学生も比較的増えている。このような傾向は関東や近畿などの有名美術大学で多く見られるが、地方の学校では未だ少ない。また、絵画専攻の卒業制作は制作された後、各々の学校構内や近隣の美術館などを借りて展示発表されることが多い。特に関東地方の美術大学が一堂に集結して作品を発表する5美術大学展(近年は東京都美術館で開催)は、同時期に開催される東京芸術大学の卒業制作展と合わせて絵画科の卒業制作展としては国内最大の規模があり、毎年多数の来場者が訪れる。また、絵画科の卒業制作展は作家志望の学生にとって重要なプレゼンテーションの場としても機能しており、多くの学生が自分の作品をギャラリストやキュレーターに売り込むことに尽力する。 卒業設計とも呼ばれる。建築学科学生のほか造園学・ランドスケープ学科などにおいても実施している場合がある。 建築意匠設計での就職(おもにアトリエ事務所・組織事務所・ゼネコン(建設業設計部)・ハウスメーカー)の際には、通常の設計製図の授業において製作したものやコンペティションなどに提出した図面成果と合わせて、この卒業制作の図面・模型をまとめたポートフォリオが重要資料となる。 全国的なコンペとしては毎年、六月に東京都において日本建築家協会主催の『全国学生卒業設計コンクール』;全国巡回の形で日本建築学会主催の『全国大学・高専卒業設計展示会』;3月にせんだいメディアテーク(仙台市)において学生主催の『卒業設計日本一決定戦』;5月に「学生設計優秀作品展ー建築・都市・環境」(通称「レモン展」)などが開催されている、九州地方中心の「学生デザインレビュー」(全国学生卒業設計コンクールの予選を兼ねる)なども開催されている。修士課程の発表の場としては、『トウキョウ建築コレクション』が開催されている。各大学ごとにも優秀な作品を表彰する制度もあり、例えば東京大学の辰野賞や、京都大学の武田五一賞、日本大学の桜建賞などがそれにあたる。 なお、大学によっては、 卒業制作と卒業研究(論文)の片方を選択 卒業制作と卒業研究(論文)の両方が必修 と制度にばらつきがあるが、大学院への進学には両方が必修であることが多い。 また両方が必修であっても専攻が材料系・構造系と、意匠系・建築計画系では卒業制作が評価に占める割合が変わる。 関連項目[編集]

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徳川頼宣 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “徳川頼宣” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年9月) 徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は、紀伊和歌山藩の初代藩主。紀州徳川家の祖。幼名は長福丸、元服に伴い頼将(よりのぶ)と名乗り、元和年中に頼信、さらに頼宣に表記を改める[注釈 1]。なお、頼将(よりまさ)と読む文献もある。 慶長7年3月7日(1602年4月28日)、伏見城にて徳川家康の十男として生まれる[2]。幼名は長福丸。母は江川英長の養女(正木頼忠の娘)・蔭山殿。 慶長8年(1603年)11月、2歳にして、兄武田信吉の遺領、常陸水戸藩20万石を与えられる。慶長9年(1604年)12月、5万石加増。頼宣は水戸には入らず、駿府の家康の許で育てられた。慶長11年(1606年)、家康に従い京都に上り元服する。他の国持大名に伍させるため家康の意向により常陸介[注釈 2]に叙任される。 慶長14年(1609年)、肥後熊本藩主加藤清正の次女・八十姫と婚約。翌年9月、徳川家より結納使として頼宣の伯父三浦為春(生母の兄)が清正の領国肥後国に下って納幣。同年12月、駿府藩50万石に転封された。 慶長16年(1611年)、家康と豊臣秀頼が京都二条城で会見を行った際は兄の徳川義直と共に東寺まで出迎え、(人質として)加藤清正に預けられた。のち、義直と共に返礼の名代として大坂城の秀頼を訪問する。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で初陣を飾り、天王寺付近に布陣した。翌年大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍した。 元和3年正月22日(1617年2月27日)、家康も清正ももはや鬼籍ではあったが、かねてよりの約束により前述の清正の次女・八十姫(瑤林院)を御簾中(正室)とする。

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アグラオニケ – Wikipedia

アグラオニケ[4][5](古代ギリシア語: Ἀγλαονίκη、Aglaoníkē)あるいはテッサリアのアガニケ[2]は、古代ギリシアのテッサリア出身の女性で、天文学者として認識される歴史上最初の女性でもある[6][2]。月食の発生を予報し、月を天上から引き下ろした魔女とも言われていた[6][3]。 アグラオニケに関する伝記的な資料はほとんど存在しないが、2つの著作の合わせて3ヶ所に、短い記述があることは確認されている。著作の一つは、古代ローマの著述家プルタルコスの随想集『倫理論集(モラリア)』、もう一つは、ヘレニズムの詩人ロドスのアポローニオスの叙事詩『アルゴナウティカ』の古註である[6][3]。 『モラリア』の中では、『結婚訓』と『神託の衰微について』の2篇にアグラオニケについての記述がある。 アグラオニケが経験から月食の起こる満月の周期を知って月が大地の影に占められる時を予測し、彼女が月を引き降ろしたと女たちを欺き信じさせた —プルタルコス、『結婚訓』48 145c(瀬口昌久訳)[4] ヘゲトルの娘で天文学に長けたアグラオニケは、月蝕のさいにいつも呪文をかけて月を引きずり下ろすふりをしていた —プルタルコス、『神託の衰微について』13 417a(丸橋裕訳)[5] また、『アルゴナウティカ』の古註には、以下のような記述がある。 ヘゲモンの娘アグラオニケは、天文学に通じ、月食の何たるかと、それがいつ起きるかを知っており、女神を引き下ろし、そしてただちに家人の一人を失う不幸に見舞われた、といわれたものである。 —『アルゴナウティカ』古註 4巻 59-61[7] 『結婚訓』には「テッサリアのヘゲトルの娘」とあり、『アルゴナウティカ』の古註でも「テッサリアの魔女」の記述に続けてアグラオニケが登場することから、アグラオニケはテッサリアの出身とされている[6][1][4][7]。そしてこれらの記述から、アグラオニケは天文学の知識に通じ、朔望の周期を知り、月食が起きる日時を予測することができたと考えられ、しばしば歴史上最初の女性天文学者として引き合いに出される[6][注 1]。天文学の知識に基づいて、月食の予報をしていたのだとすると、おそらくその計算はアグラオニケの独創ではないと考えられ、アグラオニケは、月食の予報を可能としていたバビロニアの天文学者の知識がギリシアに伝わったセレウコス朝期以降の人物であり、その評判を記述したプルタルコスよりは前の時代の人物であることになる[3]。 ただし、月食の予報と、月を引き下ろす魔術をそのまま結び付けてよいかどうかには、疑問もある。通常の皆既月食では、満月の明るさを大幅に減じ変色するが、月は依然として肉眼で容易にみえるからで、月を引き下ろしたと信じさせるには程遠い状況と考えられる。ただ、まれに目にはみえなくなる程暗くなる皆既月食も起こることがあり、モナシュ大学の西洋古典学者ビックネルはこの点に着目し、アグラオニケが予報した月食も同様のものだったと考え、プルタルコスやキケロの文献から月が消える程の月食の見当を付けることで、アグラオニケの年代を紀元前2世紀から紀元前1世紀のどこかがもっともらしいとしている[3][注 2]。 テッサリアの魔女[編集]

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印刷 – Wikipedia

印刷(いんさつ、英: printing)とは、インキにより、紙などの媒体に文字や絵、写真などの画像を再現することを指し、印刷された物を印刷物という。 現代では2次元の媒体に限らず、車体など3次元の曲面に直接印刷する技術も多数開発されている。印刷がカバーする範囲は極めて広く、気体以外の全ての物体に対して可能であるとされている(ゲル状の物体にすら印刷が可能な技術がある)。 印刷技術が発明されたのは、東アジアであると考えられている。2世紀頃に中国で紙が発明され、7世紀から8世紀頃には木版印刷が行われていたといわれる[1]。この木版印刷は朝鮮半島および日本にも伝来し、764年から770年にかけて現存する印刷物で製作年代がはっきりと判明しているものとしては世界最古のものである、日本の「百万塔陀羅尼」が印刷された[2]。北宋に入ると木版印刷は広く普及し、多くの本が印刷されるようになった。また1041年ごろには畢昇が陶器による活字を発明した。この活字は朝鮮へと伝わり、金属活字による印刷が13〜14世紀の高麗でおこなわれている。ただし中国や日本においては文字数が膨大なものにのぼったこと、そして何よりも木版は版を長く保存しておけるのに対し、活版は印刷が終わればすぐに版を崩してしまうため再版のコストが非常に高くついたことから活字はそれほど普及せず[3]、19世紀半ば以降にヨーロッパから再び金属活字が流入するまでは木版印刷が主流を占め続けていた。この木版印刷の技術はシルクロードを西進してヨーロッパにももたらされたが、その当時は本の複製はもっぱら写本が一般的であった。14世紀から15世紀ごろには、エッチングの技法がヨーロッパにおいて広がり、銅版印刷の技術が新たに生まれた。銅版は繊細な表現が可能であることから主に文字ではなく絵画の印刷に使用され、銅板による版画(銅版画)はルネサンス期以降広く使用されるようになった。 活版印刷の発明[編集] 印刷に一大転機をもたらしたのが、1450年頃のヨハネス・グーテンベルクによる金属活字を用いた活版印刷技術の発明である。グーテンベルクは金属活字だけでなく、油性インキ、印刷機、活字の鋳造装置などを次々と開発し[4]、これらを組み合わせて大量に印刷ができるシステムを構築して、印刷という産業が成り立つ基盤を整えた。さらにそれまで使用されていた羊皮紙よりもはるかに印刷に適していた紙を印刷用紙に使用した。こうしたことからそれまでとは比べ物にならないほど書物が簡単に生産できるようになり、印刷が急速に広まった。その伝播速度は非常に速く、発明から20年ほどたった1470年までには、発明されたドイツのマインツのみならず、ライン川流域やパリ、北イタリアやローマにすでに印刷所が設立され、それからさらに10年後の1480年までにはイングランド・フランス全域・アラゴン・ネーデルラント・北ドイツ、さらにはチェコやポーランド、ハンガリーにいたるヨーロッパの広い地域で活版印刷所が設立されていた[5]。グーテンベルクの発明から1500年以前までに印刷された書物はインキュナブラ(揺籃期本、初期刊本)と呼ばれ、どれも貴重書であるため莫大な古書価がつくことも間々ある。当時の印刷物は、聖書を始めとする宗教書が半数近くを占めており、活版印刷による聖書の普及は、マルティン・ルターらによる宗教改革につながっていく。ただし当時の印刷物の増大は宗教書に限らず、学術や実用書などあらゆる分野の印刷物が激増した。 活版印刷発明の影響[編集] 1450年から1800年にかけてのヨーロッパの書籍発行数[6] 印刷、特に活版印刷の発明は世界にいくつもの巨大な影響を与え、この影響を総称して「印刷革命」と呼ばれることすらある[7]。まず直接的な影響としては、活版印刷によって本が大量に供給されるようになり、それまで非常に高価だった書籍が庶民でも手に入るようになったため、知識の蓄積および交流がそれまでの社会に比べ格段に進むようになり、宗教改革をはじめとする数々の社会的変革を引き起こした。 印刷はまた、書物の規格化をももたらした。写本の場合誤記や文章の欠落は珍しいことでは全くなかったが、活版印刷は事前チェックが可能であり、もし誤りがあった場合も修正が容易であるため、誤植の可能性を加味しても手書き本に比べはるかに正確な文章が記されるようになった。同時期に発達した版画と活版印刷の組み合わせは、元の情報の正確な反復を可能にし、信頼できる正確な図版および文章の蓄積は科学革命の基盤となった[8]。印刷によって書籍に整った文字が並ぶようになったことは、それまでの手書き本に比べて読解を容易なものとし、識字の有用性をより高めることとなった。こうした書籍の氾濫は、貴重な本を一人の人間が読み上げそれを周囲の大勢の人間が拝聴するという形で行われていた知識の伝達システムを変化させ、聴覚に代わり視覚が優位に立つ新しい方法が主流となった[9]。 このほか、それまでの写本時代にはほとんど考慮されていなかった著作権が、活版印刷の開始後ほとんど時をおかずして各国で次々と保護されるようになっていったことも印刷の大きな影響のひとつである。活版印刷の発明以前においては写本自体が写字生の確保などで非常に高コストなものであり、本自体も手書きのため発行量が非常に少なく、著者に写本の際なんらかの報酬が入ることはほとんどなかった。しかし活版印刷によって大量の書籍が一度に生産できるようになると、他者の出版物を無断で複製し再出版することが横行するようになり、著者並びに出版業者に対する権利の保護が急務となった。1518年にイングランドにおいてヘンリー8世が出版業者のリチャード・ピンソンに対し彼の出版物の他者再刊禁止を認めたのは、こうした動きの初期の例である[10]。 近代における印刷技術の改良[編集] その後、欧米においては長らく活版による文字、凹版による絵画、挿絵の印刷が行われた。活版印刷は熟練の植字工が必要であり、いまだ大量の印刷物を素早く印刷するというわけにはいかなかった。1642年にはドイツのルートヴィヒ・フォン・ジーゲンがメゾチントを発明した。18世紀初頭にはスコットランドのウィリアム・ゲドが鉛版を考案した。これは組みあがった活字に可塑性のあるものをかぶせて雌型を作り、それに鉛を注いで印刷用の板を再作成する方法で、組みあがった活字の再作成が容易になり、再版のコストを大きく下げた[11]。こうした鉛版には当初粘土、次いで石膏が使われていたが、19世紀前半にフランスのジュヌーが紙を使って紙型を作成することを考案し、以後この方法が主流となった。1798年にドイツのセネフェルダーが石版印刷(リトグラフ)を発明。これが平版印刷の始めとなる。1800年にはイギリスのチャールズ・スタンホープ(スタナップ)が鉄製の印刷機を発明し、それまでの木製のグーテンベルク印刷機にとってかわった。1811年にはドイツのフリードリヒ・ケーニヒが蒸気式の印刷機を開発し、印刷能力は大幅に向上した。 1851年には輪転印刷機が発明された[18]。こうした機械化によって、印刷物はより速く大量生産でき安価なものとなった。1884年にはオットマー・マーゲンターラーがライノタイプと呼ばれる鋳植機を発明し、これによって印刷工が1行ごとにまるごと活字を鋳造できるようになり印刷はより効率化した[19]。現在主流となっている平版オフセット印刷は、1904年にアメリカのルーベルが発明したといわれているが、それ以前にイギリスではブリキ印刷の分野で使用されていた。ルーベルの発明は紙への平版オフセット印刷である。1938年にはアメリカのチェスター・カールソンがゼログラフィ(静電写真法)を発明し、1942年に特許を取得した。この発明は複写機の技術的基礎となり、1960年にハロイド社(のちのゼロックス)がこれを商品化したことでコピー機は全世界に普及した[20]。1985年にはアメリカでDTPが始まった。 デジタル印刷の出現[編集] 古代から印刷には必ず版が必要とされていたが、1990年代以降、製版データは作成するが実用版(刷版)を出力しないデジタル印刷が出現した[21]。 技術的な意味での世界初のデジタルカラー印刷機は1991年にドイツのハイデルベルク社が発表したGTO-DIとされている[21]。 1993年にはイスラエルのインディゴ社が電子写真方式のE-print1000を発表した[21]。電子写真方式の印刷機に用いられるエレクトロインキはブランケット胴に残らず、一回転ごとに異なる画像を印刷できる画期的なものであった[21]。 一方、インクジェット方式は1990年代に日本でデジタルカメラとともに流行[21]。産業用のインクジェット方式のプリンタは2011年頃から大型のものが次々と登場した[21]。 日本における歴史[編集]

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ミッチ・ウィリアムス – Wikipedia

ミッチェル・スティーブン・ウィリアムス(Mitchell Steven Williams , 1964年11月17日 – )はアメリカ・メジャーリーグで活躍した投手。左投左打。 アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタアナ出身。 ニックネームは「Wild Thing」(映画「メジャーリーグ」のチャーリー・シーン扮する投手リッキー・ボーンの愛称に因む)。 人物・来歴[編集] 1986年にテキサス・レンジャーズでメジャーデビュー。この年新人でいきなり80試合に登板し、新人の最多登板記録を更新。 1987年は85試合(自己最多)に登板し、108回2/3を投げて奪三振129、与四死球101。 1988年はクローザーも務め、16セーブをあげる。 1988年オフにラファエル・パルメイロらとの交換トレードでシカゴ・カブスに移籍。 1989年に映画「メジャーリーグ」が封切られると、投げ終わって三塁側に倒れこむ程の力強いフォームから、時速90マイル(145km/h)を楽に越す速球を投げるが、コントロールが悪く、まさにリッキー・ボーン(チャーリー・シーンが演じる投手)のキャラクターそのもののようなウィリアムスを見たリグレー・フィールドのオルガン奏者が、映画の中でのリッキーの登場曲「Wild Thing」(演奏者はX)を演奏したところこれがマッチし、以後、同名の愛称がウィリアムスにつけられることとなった。後年、1993年以後は背番号も映画の中のリッキーと同じ「99」(時速99マイル=約159km/hの速球を投げることにちなむ)に変更した。 この1989年には、76試合に登板して4勝4敗36セーブの活躍でチームのナ・リーグ東地区優勝に貢献する。また、オールスター出場も果たした。 1991年にはフィラデルフィア・フィリーズに移籍し、この年は12勝5敗30セーブをあげる。特に8月には8勝をあげた。 1992年も29セーブをあげる。

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ひまつぶし (チームしゃちほこのアルバム) – Wikipedia

『ひまつぶし』は、チームしゃちほこの1stアルバム。2014年8月20日にワーナーミュージック・ジャパンから発売された。 アルバムタイトルは愛知県名古屋市の郷土料理とされるひつまぶしに由来している。ひつまぶしの3種類の食べ方になぞらえて、「聴く盤」(初回生産限定ひまつぶしプライス、通常仕様)、「初回限定【見る盤】」、「初回限定【踊る盤】」の3形態での発売。聴く盤はCDのみ。見る盤はDVDとLet’sひまつぶし!ほぼB3サイズ「マチガイサガシ」仕様歌詞カード付き。踊る盤はメンバーの撮りおろしショットが入ったダンス教則本とLet’sひまつぶし!ほぼB3サイズ「でら難問!イラストロジック」仕様歌詞カード付き。また、裏ジャケットはひつまぶしの写真になっている。 当アルバムは、「第7回CDショップ大賞2015」にノミネートされた[3]。 CD[編集] SPACEひつまぶし supported by ZEN-LA-ROCK (スペースひつまぶし サポーテッド バイ ゼン-ラ-ロック) 作詞:ZEN-LA-ROCK、作曲・編曲:ANNE Beats サビには、ファとソの2音のみしか使われていない。[4]発売前にインターネットカフェ スペースクリエイト 自遊空間で先行試聴ができた。 首都移転計画 (しゅといてんけいかく) 作詞:Naoki Takada、作曲:Naoki

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