ロイヤル小林 – Wikipedia

ロイヤル小林(ロイヤルこばやし、本名:小林 和男(こばやし かずお)、1949年10月10日 – 2020年11月17日 )は、日本の男性プロボクサー。熊本県下益城郡出身[1]。WBC世界スーパーバンタム級、OPBF東洋太平洋フェザー級王者。ミュンヘンオリンピック(1972年)日本代表。

拓殖大学卒業後、自衛隊体育学校でボクシングを始め、アマチュアのトップ選手としてミュンヘンオリンピックに出場、ベスト8の成績を残す。アマ通算34勝 (28RSC) 3敗、KO率8割2分という記録を引っ提げてプロ入り。国際ジムからプロデビュー後もKOの山を築き、「KO仕掛人」の異名を持った屈指のハードパンチャーであった。

プロではWBC世界ジュニアフェザー級(現スーパーバンタム級)王者になった。

現役引退後は横浜光ボクシングジムなどでトレーナーを務めた後、ボクシング界を退いて熊本へ帰り、警備員などの仕事をしていたという[2]

2020年11月17日に、熊本県内の病院において食道がんで亡くなった[2][3]。71歳没。

  • 大卒ボクサーとして日本人初の世界王者。
  • アマチュア出身でありながら「プロ以上にプロらしい」と称され、「正々堂々、スポーツマンシップは夢物語。勝つために何でもするのがプロ」と語るなど、勝負にこだわる「プロ」であった。
  • 大卒アマエリートの肩書きに反して外見はパンチパーマに髭、ファイトスタイルはKO狙いのファイタータイプであった。
  • 1972年、全日本社会人ボクシング選手権大会ライト級決勝で17歳の田中栄民に判定勝。ミュンヘンオリンピック・ボクシングフェザー級でベスト8。
  • 1973年2月15日、プロデビュー戦でバロン熊沢(大川)に8回判定勝ち。小林はアマチュア時代の実績から、特例で8回戦以上に出場できるA級ライセンスを交付され、8回戦でのデビューとなった。
  • 1973年4月27日、デビュー2戦目で佐藤弘道(堀内)に2回KO勝ち。
  • 1974年6月9日、元世界バンタム級1位、「ロープ際の魔術師」とも呼ばれた名ボクサー、ジョー・メデル(メキシコ)に6回TKO勝ち。ただ、メデルも全盛期のカウンターの冴えをのぞかせ、一時は小林から左のカウンターでダウン(判定はスリップ)を奪った。試合後、36歳のメデルはリング上で引退を表明、引退のテンカウントのゴングを聞いた。
  • 1974年9月5日、原田達(新進・現新日本大阪ジム)に4回KO勝ち(相手の原田は、ヨネクラへ移籍後にOPBF東洋太平洋ジュニアライト級王者となる吹打竜)。デビュー2戦目からの11連続KO勝ちを達成。当時の人気時代劇にあやかり「KO仕掛人」と呼ばれる。
  • 1974年9月16日、世界ランカーのバート・ナバラタン(フィリピン)と対戦、10回判定勝ち。連続KO勝ちの記録は途絶えたものの、世界ランキング入りを決めた。
  • 1974年12月30日、日本フェザー級2位、竹森三城(三迫)と対戦、強打者同士の激しい打ち合いとなったが、パンチ力に勝る小林が打ち勝ち、2回KO勝ち。相手の竹森はこの3か月後、メキシコ遠征で世界フェザー級8位、サルバドール・トーレス(メキシコ)に2回KO勝ちして、世界ランキング入りしている。
  • 1975年2月17日、後の世界フェザー級王者、ダニー・ロペス(アメリカ)からダウンを奪ったこともある強打者、豊島正直(川口)と対戦。強打者同士の緊迫した試合となったが、6回に一気のラッシュでKO勝ち。
  • 1975年5月9日、国内のライバルと目されていた、前OBF東洋フェザー級王者歌川善介(勝又)に2回KO勝ち。2回に左フックの一撃で倒した。敗れた歌川は、試合後リング上で引退を表明した。
  • 1975年10月12日、18戦全勝(16KO)の戦績を引っさげ、東京・蔵前国技館にてWBA世界フェザー級王座に初挑戦。1回から王者アレクシス・アルゲリョ(ニカラグア)の速い左ジャブに苦戦するものの、4回には左フックを顔面に決め、守勢に立たせるなど善戦した。しかし、5回に勝負に出たアルゲリョの右をボディに受けダウン。辛くも立ち上がったところを今度は左をボディに受けてKO負け[1]
  • 1976年2月15日、初の海外遠征。パナマで地元のエミリオ・サルセドと対戦、2度のダウンを奪うも、地元判定で10回判定負け。
  • 1976年10月9日、東京・蔵前国技館にてWBC世界ジュニアフェザー級王座に挑戦。王者、リゴベルト・リアスコ(パナマ)に8回KO勝ちし王座獲得[1]。オリンピック日本代表経験者として初の世界王座奪取となった。当時、日本のボクシング界は同年5月に輪島功一が敗れてタイトルを失って以来11年ぶりに世界王者無しとなっており、小林の勝利がその状態にピリオドを打った。また、翌10日には具志堅用高が連日の世界奪取に成功している。
  • 1976年11月24日、WBC世界王座の初防衛戦。韓国・ソウルで同級1位廉東均(韓国)に15回判定で敗れ王座陥落し、世界王座在位47日の短命王者に終わる。この試合では、1回に小林が足を滑らせて転倒したところに、廉の左が軽く当たっていたためダウンと判定され、その失点が最後まで響いた[1]
  • 1978年1月19日、福岡県・北九州市立総合体育館にて廉からウイルフレド・ゴメス(プエルトリコ)にホルダーが移動していたWBC世界ジュニアフェザー級王座に再挑戦。王者ゴメスに1回、2回と攻勢をかけるものの、3回、アゴにゴメスの左フックのカウンターを鮮やかに決められ、KO負け[1]
  • 1978年4月27日、OPBF東洋太平洋フェザー級王座に挑戦。黄福寿(韓国)を10回KOで降し王座獲得。以後7度防衛。
  • 1978年8月6日、日本王者スパイダー根本(草加有沢)相手にOPBF王座の初防衛戦を行い、老獪な根本に苦戦するものの12回判定勝ち。
  • 1979年1月9日、東京・後楽園ホールにてWBA世界フェザー級王座に挑戦。王者エウセビオ・ペドロサ(パナマ)に13回KO負け[1]
  • 1979年7月26日、友成光(新日本木村)に10回判定負け。小林が日本人選手に敗れた唯一の試合である。
  • 1981年10月18日、OPBF王座8度目の防衛戦で、黄正漢(韓国)に1回KOで敗れ、現役引退。

獲得タイトル[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]