岩佐多聞邸 – Wikipedia

岩佐多聞邸(いわさたもんてい)は、東京都渋谷区にある、個人住宅である。元紀州徳川家の代々木上原本邸内にあった迎賓館であったとされる。

紀州徳川家の本邸は大正末期から昭和初期にかけ、代々木上原の地にあり「静和園」と呼ばれていた[注釈 1][注釈 2]。この本邸の敷地内に迎賓館として本建築は存在したようである。その後、紀州徳川家の財政難もあり、この代々木上原の邸宅は1938年(昭和13年)ごろより五島慶太を通じて区割り分譲されたが、母屋と迎賓館は取り壊されずに残された[注釈 3][注釈 4]

太平洋戦争では内部が被災した。戦後は進駐軍に接収されたのち、現在の所有者の手に渡ったとされる。当初家主はこの元迎賓館を壊そうと試みたものの、あまりに頑丈な造りのため解体に20万円もかかると言われ、解体を断念したとされる。のち、厨房などの増築を経て借家にされたが、本来の造りは16畳1室、8畳2室、6畳1室と洋室ばかりの構造であったとされる。

建物概要[編集]

  • 竣工年: 大正初期(1912年頃)
  • 構造: RC造
  • 外壁: タイル
  • 屋根形式: 切妻
  • 屋根仕上げ: スレート葺
  • 窓: 上げ下げ窓

戦災で内部が焼失したこともあってか、屋根も新建材となり、外壁も大きく変えられるなど、改修が大きく、当初の様子を完全に窺うことはできない。しかし、軒下部分や出窓などの一部の意匠に、当時の面影を見ることができる。

ギャラリー[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 陸地測量部の昭和初期の地図などでは、この場所に『徳川邸』の記述が確認できる[5][6]
  2. ^ この時期の紀州徳川家当主は、15代賴倫だが、1925年(大正14年)に代々木上原邸で死去。その後16代の頼貞が分譲で手放すまでこの邸宅を所有した。
  3. ^ 国土地理院の1936年ごろと1945年ごろの航空写真を比較すると、邸宅敷地が区割り分譲された様子が見て取れる[8][9]
  4. ^ 残された建築物のうち母屋については、その玄関が移築され、五島慶太が1938年に設置した東横商業女学校の校舎玄関として利用された。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 近代建築小委員会「東京都(その1)(『日本近代建築総覧(新版)』追補)」『建築雑誌』第1430巻、1998年11月20日、 50-53頁、 NAID 110003805457
  • 川上悠介「渋谷区に残る洋風住宅について–悉皆調査から見えること」『すまいろん』第84巻、2007年10月20日、 48-51頁。
  • 『東京の近代洋風建築 :近代洋風建築(第2次)調査報告』東京都教育庁生涯学習部文化課、東京都教育委員会、1991年。全国書誌番号:91043198
  • 『総覧日本の建築 第3巻 (東京)』日本建築学会、新建築社、1987年。全国書誌番号:88025916
  • 紀州徳川家の迎賓館?”. AsahinaTakeshiHP. 朝日向猛 (2020年5月10日). 2020年8月3日閲覧。
  • 紀州徳川家の迎賓館? その2”. AsahinaTakeshiHP. 朝日向猛 (2020年8月2日). 2020年8月3日閲覧。
  • 五島慶太翁生誕130年記念誌「熱誠」”. 五島育英会. 2020年8月3日閲覧。
  • 「築100年超の岩佐邸 「土地の記憶」保存へ動く」『東京新聞』、2020年9月4日。
  • 「久米旧邸宅(東京)を沼田へ」『上毛新聞』、2020年9月26日。
  • 「久米民之助 東京・渋谷の洋館 「大正ロマン」の一角に」『東京新聞』、2020年10月8日。
  • 「旧久米民之助邸移築で沼田市長 ゆかりの紀伊徳川家 表敬」『上毛新聞』、2020年10月10日。
  • 「旧久米民之助邸 沼田に」『毎日新聞』、2020年10月11日。
  • 「久米民之助邸 沼田移築へ」『読売新聞』、2020年10月16日。
  • 「「沼田の恩人」邸宅移築で帰郷」『朝日新聞』、2020年10月26日。
  • 「土木の技法 小さな洋館に凝縮」『朝日新聞』、2020年11月24日。
  • 「旧久米邸洋館保存整備事業ついて」『沼田市・沼田市教育委員会 通達』、2020年10月1日。
  • 2020年4月17日 沼田市主催 旧久米邸洋館 キックオフイベント NUMATA KUME DAY 配布資料
  • 2020年4月17日 沼田市主催 旧久米邸洋館 キックオフイベント NUMATA KUME DAY 現地展示パネル
  • 沼田市歴史資料館 展示パネル

外部リンク[編集]