三遊亭歌武蔵 – Wikipedia
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San’yutei Utamusashi |
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三遊亭歌武蔵定紋のひとつ「二ツ巴」 |
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本名 | |
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別名 | |
生年月日 | 1968年3月15日(54歳) |
出身地 | 日本・岐阜県 |
師匠 | 三代目三遊亭圓歌 |
弟子 | 三遊亭志う歌 三遊亭伊織 |
名跡 | 1. 三遊亭歌ちどき (1984年 – 1988年) 2. 三遊亭歌武蔵 (1988年 – ) |
出囃子 | 勧進帳 威風堂々 |
活動期間 | 1984年 – |
活動内容 | 落語家 |
所属 | 落語協会 |
受賞歴 | |
2002年∶彩の国落語大賞敢闘賞 2003年∶国立演芸場花形演芸会銀賞 2003年∶彩の国落語大賞技能賞 2004年∶国立演芸場花形演芸会金賞 2004年∶彩の国落語大賞大賞 |
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三遊亭 歌武蔵(さんゆうてい うたむさし、1968年3月15日 – )は、岐阜県出身の落語家。落語協会所属。力士から転身した噺家である。本名∶若森 正英。出囃子∶『勧進帳』、寄席以外では『威風堂々』の時もある。
出囃子の後、座布団に座り頭を下げた後「ただいまの協議について、ご説明いたします」と、相撲の物言いにおける審判長のセリフを話し、笑いを誘う。元力士故に和服姿が相撲の親方のようにも見える事からの持ちネタである。
柳家喜多八(2016年死去)、柳家喬太郎とはユニット「落語教育委員会」を組んでおり、定期的に公演を行っていた。開演前には、携帯電話の電源offをテーマにしたコントを全員で披露するのが恒例。
得意演目[編集]
『芝浜』『胴斬り』『お菊の皿』『猫の皿』『親子酒』など、古典を主に演じる。『大安売り』『稲川』など、相撲の噺も得意とする。
その一方で新作も手がけており、選挙を描いた『落選確実』のほか、『PKOの穴』は自衛隊での経験談を生かした演目である。
タレントで元落語家の伊集院光とは同期にあたる。
力士時代の兄弟子だった松武蔵(元幕下、YouTube 元力士・松ちゃんねる)は、2021年6月28日にアップロードした動画中で力士時代の歌武蔵(当時の四股名は森武蔵)のことを語っている[1]。それによると、森武蔵は前相撲と出世披露はしたが、序ノ口として土俵には立っていない。一般の中学生よりもごつくおじさんのような顔をしていた森武蔵は、当時流行ったウォークマンで落語を聞いており、三遊亭圓歌が大好きでリスペクトしていた。力士が相撲の師匠の名前を言うようにいろいろな落語家の名前をよく知っている不思議な少年で、森武蔵がスカしたときに力士たちは「あいつ落語をよく聞いていたし、向こうに行ってしまったのじゃないか?」と話していたという。
実家にも帰っておらず、預かった責任もあることから部屋マネージャーが力士たちから情報を取っており、たまたま14代武蔵川(第57代横綱三重ノ海)と圓歌が知り合いだった。そこで14代武蔵川が落語の師匠方に「弟子が訪ねるかもしれません」と連絡をいれたところ、やはり森武蔵は圓歌のもとに行った。「(森武蔵が)来たよ、引き渡そうか?」と圓歌から連絡があったが、14代武蔵川は「相撲界には私が連れてきたが、今度は彼が自分で師匠を探した。差し支えなければ弟子にしてやって下さい」と答えた[2]。中学を出て間もない少年が落語をやろうという気持ちで行ったし、道を変えてそこで頑張るんだったらと親方(14代武蔵川)も認めた、と松武蔵も話している[1]。
師匠である圓歌の家に住み込み修行中、両親が「人より多く食べる子だから」と師匠に書留を送っていたが二ツ目となり独立した際、師匠はその書留をまとめて歌武蔵に渡した。
真打[編集]
二ツ目[編集]
廃業[編集]
- ^ a b (日本語) 落語家になった弟弟子 びっくりエピソード 2021.6.28 2021年6月29日閲覧。
- ^ 読売新聞-明日へ ゴールの先で[5]-より
外部リンク[編集]
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