Month: June 2018

みちのく潮風トレイル – Wikipedia

みちのく潮風トレイル(みちのくしおかぜトレイル)は、東日本大震災からの復興に資するため、日本の東北太平洋沿岸地域を中心に環境省が設定した「歩いて旅を楽しむための道」である。総距離1,000キロを超える本トレイルは、環境省を中心に関係自治体、民間団体、地域住民などの協働により運営されている。ネイチャーライターの加藤則芳氏により提唱された。 環境省は東日本大震災(2011年3月)からの復興に資するため翌年5月に「三陸復興国立公園の創設を核としたグリーン復興のビジョン」を策定し、森・里・川・海のつながりにより育まれてきた自然環境と地域のくらしを後世に伝え、自然の恵みと脅威を学びつつ、それらを活用しながら復興することを提唱した。その具体的な取組は「グリーン復興プロジェクト」と呼ばれる。三陸復興國立公園の創設を中心に、自然環境モニタリング、環境教育、エコツーリズムの推進など7つのプロジェクトから構成された[1]。 7つのプロジェクトのうちのひとつが、三陸地域を南北につなぎ交流を深くめる道「東北太平洋岸自然歩道」である。「みちのく潮風トレイル」は通称である。(2013年3月に地域からの公募により決定した愛称。)「みちのく潮風トレイル」は、地域の自然環境や地域のくらし、震災の痕跡利用者と地域の人々などを様々に「結ぶ道」として、青森県八戸市蕪島から福島県相馬市松川浦までを対象に設定された長距離自然歩道である。[2] 「長距離自然歩道とは、国土を縦断、横断または循環し、複数の都道府県にまたがる歩道で、多くの人々が四季を通じて手軽に楽しくかつ安全に国土の優れた景勝地を歩くことにより、沿線の豊かな自然、歴史、文化に触れ、我が国の国土を再認識し、あわせて健全な身体を育成するとともに、自然保護思想の高揚に資することを目的としているものである。みちのく潮風トレイルは、これらに加え、利用の促進を図ることで、被災地域における交流人口を増加させ、地域の活性化につなげ、復興に寄与するものとして構想されたものである。また、東北太平洋岸を歩くスピードで旅することで、車の旅では見えない風景(自然・人文風景)、歴史、文化(風俗・食)などの奥深さを知り、体験する機械を提供するものである。」[3] みちのく潮風トレイルは2019年6月9日に全線開通し、青森県八戸市から福島県相馬市までを南北に縦断する一本の道つながった。全線開通時の距離は1,025キロである(環境省発表)。また、日本の長距離自然歩道の10番目に指定されている[4]。 トレイルルート(設定された路線)[編集] トレイルルートは旅歩道、登山道、林道、舗装道、砂浜、航路(複数の島がルートに含まれる)など、様々な既存の道が接続され設定されている。路線の設定にあたっては、地域住民との路線検討ワークショップを開催し地域の意見を取り入れるなど設定段階から地域参画が意識され、環境省他各市町村が協働で行った。 通過する4県28市町村名: 青森県 岩手県 宮城県 福島県 管理運営体制[編集] みちのく潮風トレイルは「東北太平洋岸自然歩道(みちのく潮風トレイル)運営計画」[5]に基づき、本計画の構成員である環境省、地方公共団体(4県28市町村)、サテライト施設(6施設)を運営する民間団体らの協働により管理運営されている。サテライト施設のひとつである、宮城県名取市に建設された「みちのく潮風トレイル名取トレイルセンター」が全線の管理運営を統括している。また、トレイル沿線に位置する6つのサテライト施設では利用者に対してトレイルの各地域の情報を提供し、名取トレイルセンターは1000キロに及ぶトレイル全線の情報を集約し発信している[6]。 サテライト施設 種差海岸インフォメーションセンター (八戸市) 北山崎ビジターセンター (田野畑村) 浄土ヶ浜ビジターセンター

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デンマーク君主一覧 – Wikipedia

名前 肖像 誕生 結婚 死去 参照 スヴェン2世エストリズセン(Svend II Estridsen)1047年–1074/76年 1019年イングランドウルフ伯とエストリズの息子 (1) ギーダ1048年頃(2) グンヒルド1050年頃 1074/6年4月28日スーゼロプ54–57歳 [2][22][23][24] ハーラル3世(Harald III Hén)1074/76年–1080年 1040年スヴェン2世の庶子 マルグレーテ子供なし

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トルク族 – Wikipedia

トルク[1][2]族(ロシア語: Торк) は、10世紀から13世紀にかけて、黒海北部のステップ地帯にいたテュルク系遊牧民の1部族である[3]。 トルク族はレートピシ(ルーシの年代記)に記される部族の1つである。古くは985年、トルク族の傭兵はキエフ大公ウラジーミルによる、ブルガール族、ハザール族に対する遠征に参加している。その後東方のポロヴェツ族に圧迫されたトルク族は、11世紀の初めに遊牧生活を営みながらドニエプル川流域へと移動し、結果ルーシ領と接することとなった。それに対し、キエフ大公フセヴォロドは1055年にルーシ領(ペレヤスラヴリ公国領)の防衛のためにトルク族を攻めた。続く1060年にはイジャスラフ、スヴャトスラフ、フセヴォロド、フセスラフらの連合軍がトルク族を攻め、ドン川周辺へと追いやっている。ただし12世紀になると、トルク族は再びドン川周辺から到来し、ルーシ領と接している。1116年、トルク族とペチェネグ族は2日間にわたってポロヴェツ族と戦い、ウラジーミル・モノマフ(当時ペレヤスラヴリ公)の元へと逃れてきた。しかし1121年に、モノマフが遊牧民ベレンデイ族をルーシから追放すると、ルーシ領に残存していたトルク族とペチェネグ族は自ら去った[4]。 一方、トルク族の一部は11世紀からローシ川沿岸(ポロシエ)の地も占拠しており、これらのトルク族はルーシの公に従属し、都市トルチェスクを中心として半定住化した。また、ドニエプル川左岸には別のトルク族の集団が定住しており、かれらはペレヤスラヴリ公国による支配を承認していた。12世紀の史料によれば、かれらは都市バルチ(現ウクライナ・バルィシィウカ(ru))付近の地に居住していた。これらポロシエやペレヤスラヴリ公国に定住したトルク族は、ペチェネグ族、ベレンデイ族らの他のルーシに従属する遊牧民の部族と併せて、チョールヌィ・クロブキという名称で呼ばれた。トルク族を含むチョールヌィ・クロブキは、ポロヴェツ族の侵入に対抗しきれずにルーシに庇護を求め、かつ1つに集団化したものである[5]。かれらは騎馬傭兵部隊となり[6]、ポロヴェツ族の侵入に対する国境(ルーシ諸公国の国境)の守備軍や、キエフ大公の遠征軍に参加した。さらに別の一部のトルク族にはドナウ川を越え、ビザンツ帝国民となったものがある。 モンゴルのルーシ侵攻に際し、1240年にポロシエは破壊にさらされた[7]。残ったトルク族の居住区は、スラヴ系住人の居住区と同化した。ステップ地帯に住んでいたトルク族は、後のウクライナ人の一部に含まれたとされている[8]。 トルク族の名は、現ウクライナの地名として数多く残されている。河川としてはトルチ川(uk)、行政区としてはトルキ(uk)、トレツィ(uk)、トルキウ(uk)等である。 ^ 田中陽兒『世界歴史大系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』p96等 ^ 中村喜和訳『モノマフ公の庭訓』// 『ロシア中世物語集』p116 ^ 中村喜和訳『ロシア中世物語集』p358 ^ 中沢敦夫ら「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(2) ―『キエフ年代記集成』(1118~1146年)」富山大学人文学部紀要第68号、2015年。p287 ^

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アベリオ・スコットレール – Wikipedia

380形電車 アベリオ・スコットレール(英: Abellio ScotRail)[1]は、スコットランドで列車運行を行うイギリスの列車運行会社である。オランダ国鉄子会社のアベリオが所有し、2015年4月1日よりスコットレールの営業権にて運行を開始した。 目次 1 歴史 2 列車 3 駅一覧 4 車両 4.1 現有車両 4.2 導入予定車両 5 車両基地 6

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天子山地 – Wikipedia

天子山地(てんしさんち)は、山梨県南部と静岡県北部にまたがる山地。天守山地(てんしゅさんち)ともいう[3]。 当山地は富士川と富士山の裾野の間に位置し、東側に比べ西側の標高が低い。本栖湖に南接し、南北に細長く連なる[1][3]。北部にこの最高峰の毛無山(標高1,964 m)があり[1]、南に向かって高度を下げる[3]。西に赤石山脈の前衛となる身延山地が富士川を挟んで対峙する[1]。地質は第三紀御坂層群[1] の堆積岩類とそれを貫く花崗岩からなる[3]。600万-800万年前に南にあった島が本州に衝突してその一部になったものであると推定されている[3]。北側に接続する御坂山地、西側にある身延山地と共に伊豆半島の衝突による隆起であるとする説も増えつつある[3]。北東部の竜ヶ岳から長者ヶ岳にかけての東側の静岡県側の山域は富士箱根伊豆国立公園の特別地域の指定を受けている[4]。山麓には本栖湖、朝霧高原、白糸の滝、田貫湖などの観光地がある[5]。 主な山を下表に示す[5]。 主な峠を以下に示す[5]。 佛峠 – 雨ヶ岳の北側、御坂山地との間、標高約1,120 m 割石峠 – 竜ヶ岳と富士山の裾野との鞍部、標高978 m、山梨県と静岡県の県境、国道139号が縦断する[9] 端足峠 – 竜ヶ岳と雨ヶ岳との鞍部、標高1,265 m 地蔵峠 –

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三墳五典 – Wikipedia

三墳五典(さんぷんごてん)とは、中国古代の書籍と伝えられるもの。どのような書であったかは諸説紛々としてわからない。三墳五典、またはそれを略した「墳典」「典墳」は、珍しい貴重な書籍を意味する語として、後世の詩文によく使われる。『千字文』にも「既集墳典」として見える。 三墳五典の名は、『春秋左氏伝』昭公12年に見え、それによると楚の霊王が左史の倚相をほめて「三墳・五典・八索・九丘を読むことができる」と言ったという。杜預の注は「みな古書の名である」と簡単に述べるにとどまる。このうち八索は『国語』にも出てくるが、韋昭は書物ではなく身体の部位のこととする[1]。 『周礼』春官・外史に「三皇五帝の書を掌る」とあり、鄭玄注に三墳五典のこととする。三墳五典が何を指すかは、人によって説が異なる。もっとも有名なのは孔安国に仮託された『尚書』序の説で、「伏羲・神農・黄帝の書を三墳といい、大道を説いたものである。少昊・顓頊・高辛・唐・虞の書を五典といい、常道を説いたものである」といい、また八索は八卦の説で、九丘は九州について記したものとする。書序はまた、孔子が三墳五典をもとに『尚書』百篇を選び、八索九丘は孔子によって除かれたとする。 そのほか、賈逵によれば、三墳は三王(禹、湯王、文王・武王)の書、五典は五帝の典、八索は八王の法、九丘は九州亡国の戒であるという。延篤は張衡の説により、三墳は三礼、五典は五帝の常道、八索は『周礼』にいう八議の刑(八辟)、九丘は九刑であるとする。馬融は三墳を天地人の気、五典を五行、八索を八卦、九丘を九州の数であるとする[2]。 『釈名』によると、三墳は天地人の三才の区分を論じたものであり、五典は五等の法であり、八索は孔子のように王にならなかった聖人の法であり、九丘は九州の地勢の違いに応じて教化するものであるとする。また、これらの書物はすべて上古の書物であり、『尚書』堯典以外は滅んだとしている[3]。 文字の存在[編集] 三墳を三皇の書とした場合、三皇は黄帝より前の人物であるので、「黄帝の時代に蒼頡が文字を作った」というもうひとつの伝説と矛盾する。 孔穎達によると、三皇の時代に字がなかったというのは緯書にもとづく説にすぎず、蒼頡が黄帝の史官であったとするのも一説にすぎないとして、伏犧以前に文字があったとする[4]。 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。 『古三墳』なる書物が現存するが、宋以前の目録に見えず、宋代の偽書と考えられている[5]。山墳・気墳・形墳の3篇に分かれており、それぞれ三易の連山・帰蔵・坤乾[6]に相当する。3篇のいずれも8つの要素の組みあわせそれぞれの名前を記している。 山墳は天皇伏羲氏の連山易で、君・臣・民・物・陰・陽・兵・象の八卦の組み合わせ 気墳は人皇神農氏の帰蔵易で、帰・蔵・生・動・長・育・止・殺の八卦の組み合わせ 形墳は地皇軒轅氏の坤乾易で、天・地・日・月・山・川・雲・気の八卦の組み合わせ ほかに「太古河図代姓紀」「天皇伏羲氏皇策辞」「人皇神農氏政典」「地皇軒轅氏政典」という文章が附属する。 『古三墳』には南宋の紹興17年(1147年)刊本(中国国家図書館蔵)がある[7]。北宋の毛漸の序が附属し、それによると元豊7年(1084年)に毛漸が入手したもので、もとは経は古文で書いてあり、それに隷書で書かれた伝が附属していたという。後序によると伝は書物を唐末の天復年間に発見した隠士によるという。明の『漢魏叢書』にも収める。 関連項目[編集]

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はまゆう (関釜フェリー) – Wikipedia

はまゆうは、関釜フェリーが運航しているフェリー。船名はヒガンバナ科の多年草である浜木綿(ハマユウ)に由来する。 釜山港に接岸する「はまゆう」 フェリー関釜 (3代)の代船として三菱重工業下関造船所で建造され、1998年8月28日に就航した。 航路[編集] 関釜航路 下関港(下関港国際旅客ターミナル) – 釜山港(釜山港新国際旅客ターミナル) 釜関フェリーの星希(朝鮮語版)とともに1日1便を運航する。 船体は2層の全通甲板を有する7層構造で、最下層から順に1-7番デッキと呼称しており、3番・4番デッキが全通甲板である。7番デッキは操舵室、4・5・6番デッキが旅客区画および乗組員区画、2番デッキが乗用車用、3番デッキがトラック用の車両搭載区画で、1番・2番デッキの船尾部が機関室となっている[1]。 多機能トイレ、車いす対応エレベーターを備えるなどバリアフリーに配慮した設計となっている[2]。 前船と比較して船体は大型化したが、旅客定員は変わらず、特別室や特等室が新たに設けられ、パブリックスペースも充実された[3]。デザインは潤いと快適を感じる空間を演出しコミュニケーションの場を提供する形とし、エントランスを中心に前方は客室・後方は公室に分離している[2]。 船室[編集] 船室タイプの一覧 クラス 部屋数 定員 設備 スイートルーム

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奥村安太郎 – Wikipedia

奥村 安太郎(おくむら やすたろう、1876年(明治9年)8月24日[1][2] – 1946年(昭和21年)12月11日[3])は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・木島。 京都府[3][4]京都市[5]で、旧淀藩士・木島行吉の息子として生まれ[1]、1901年(明治34年)8月、奥村つる の養子となり、その後家督を相続した[1]。1903年(明治36年)京都法政大学(現立命館大学)法律科を卒業した[1][2][3][4][5]。 1906年(明治39年)奥村合名会社を設立し代表社員に就任[1][2]。清国、朝鮮に支店を設けた[2]。1909年(明治42年)4月、三等郵便局長に任じられ1911年(明治44年)6月まで在任[2][3][5]。その後、京都電気取締役、日本陶料取締役、朝鮮無煙炭礦取締役、阪東土地取締役、摂丹鉄道社長、台湾農林社長、京都火災保険社長、国民銀行頭取、西宮土地監査役、台湾総督府嘱託、樺太庁嘱託などを務めた[1][2][3][4][5]。また、京都区裁判所下京区出張所を自費で建築し司法省に寄付するなど[1][2]、社会公共のために多大な寄付を行った[2]。 京都府市涜職問題が起き、市政刷新団の推薦で京都市会議員に当選した[2][3][5]。1915年(大正4年)3月、第12回衆議院議員総選挙(京都府京都市、無所属)では次点で落選[6]。1920年(大正9年)5月の第14回総選挙(京都府第2区、憲政会)で当選し[4][7]、その後庚申倶楽部に所属して衆議院議員に1期在任した[3][4][5]。 ^ a b c d e f g 『人事興信録 第4版』を135-136頁。 ^

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くずは・男山循環コミュニティバス – Wikipedia

くずは・男山循環コミュニティバス(くずは・おとこやまじゅんかんコミュニティバス)は、京阪宇治交通が『バスビィ』として運行を開始したコミュニティバスであり、現在は京阪宇治交通と合併した京阪バスが運行を継承している。 路線名は『くずは線・くずは男山団地循環線』(京阪バス合併後。京阪宇治交通時代は『男山団地内(ない)回り』)。その名の通り大阪府枚方市のくずは地区と京都府八幡市の男山団地を結ぶ形で路線が設定されている。 京阪バス男山営業所の管轄である。 旧・京阪宇治交通の路線を含めた京阪バスの中では最も古いコミュニティバスである。 このバスの運行経路が狭隘部を通過するとはいえ、最寄の停留所より半径300mも離れていない場所を通過することから、高齢者のバス利用に関する実証実験として開設されている。なお、この時期に『バスビィ介護サービス』の事業が開始されている。 設定に際しては、地元住民の他にも当時大阪工業大学教授であった松村暢彦(現・愛媛大学大学院教授)らの意見や提案なども取り入れられた。この内の一つが「利便性の確保と高齢者対策の観点から、団地内の停留所間隔を100m毎にする」と言う提案であった。このため318棟前→男山商店街西間は概ね100m間隔で停留所を設置した。このため、住民参加型路線に近い事例でもある。 経路番号は当初より5系統(現在の男山5号経路)である。2003年春頃に『バスビィ』から現在の名称に変更される際に、106棟前停留所からあさひ停留所間の経路(開設当初は、『106棟前→101棟前→しで原→公園前→あさひ』であった)が変更された。なお旧・京阪宇治交通時代の正式路線名は「男山団地内回り」(おとこやまだんちうちまわり)と称していた。 なお2003年頃に国土交通省より「導入効果の見られたコミュニティバス」にリストアップされた(参考文献より)。 2015年1月現在、京阪バスウェブサイトでは本系統を「コミュニティバス」としては扱っていない。 運行経路[編集] (男山5号経路) くずは→モール街→あさひ→泉→318棟前→306棟前→男山中央センター商店街前→男山商店街西→金振東(この間にフリー乗降区間あり)→106棟前→面取町2丁目→朝日1丁目→あさひ→くずは くずは男山循環コミュニティバスに使用されていた初代車両の504M号車(2008年12月中旬に運用離脱の上廃車。その後岩手県の大槌地域振興に譲渡されている) 運行開始当初は男山営業所に配備され、『バスビィ』として開設された当初から使用されている日野・レインボーRBの2台と、当時の京阪宇治交サービス宇治営業所から移籍した日産ディーゼル・RNの1台で運用され、稀にくずは丘コミュニティバスで運用されている三菱エアロミディMJノンステップが充当されることがあった。 かつては、レインボーRBがもう1台予備車となっていたが、後にコミュニティバスやわたの予備車となっていたが、同路線が京都京阪バスに移管されたことで廃車となった。 これらの車両が大阪府の流入車規制に抵触することとなったため、2008年12月中旬に新造の日野・ポンチョIIへと置き換えを行った(タウンくると同一仕様)。同時に全車くずは丘コミュニティバスと共通使用となった。この為三菱ふそう・エアロミディMJも運用されている(それ以前にも代走で運用されていた事もあった)。いずれの車両もノンステップバスである。 大人230円・小児120円(大阪地区1区)で、スルッとKANSAIのプリペイドカード・京阪グループ共通バスカード・京阪バス1dayチケットなど他の一般路線を同じカードが利用できる。2008年10月1日よりPiTaPaの使用が可能となった。 この経路のうち、男山商店街西停留所の先より金振西停留所の先までの金振地区住宅地にあるフリー乗降区間は、京阪バス全経路を通じて唯一である。これは山間部にあるそれとは意味合いが異なり、前述の通り高齢者などの交通弱者に対する配慮をすることを目的としたものである。乗車の際には手を上げて知らせ、降車の際はボタンを押した上で運転手に降りる場所を知らせる方式である。 前名称の『バスビィ』は、京阪宇治交通の内部でさまざまなシーンで用いられており、『バスビィ介護サービス』や『地ビール・バスビィ(スタウト・アルト・ピルスナー)』と、京阪宇治交通が目指した多角化する事業名に名づけられていた(現在はいずれもサービス自体が消滅し運営主体の京阪宇治交サービスも会社を解散している)。 かつて使用されていたレインボーRBの2台については、黄色地にオリジナルキャラクターの描かれているラッピングが施されているが、これは『地ビール・バスビィ』を販売していた『ガーデンズ天ヶ瀬』という施設の宣伝のためのものであった(現在はその施設については閉鎖されている)。 参考文献[編集]

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