Month: September 2018

身体論 – Wikipedia

身体論とは、身体はわれわれ人間にとっていかなる意味や価値を持つかという問題[1]。 「身体」[2]という我々にとってあまりに身近なものが、学問(主に哲学などの分野)で大きく問題にされるようになったのは、二十世紀になってからのことである。それまで「身体」は「精神」の隷属物と見なされ、「精神」に比べて、不当といえるほど低く位置づけられていた[3]。 身体論を巡る議論[編集] 物心二元論 「身体」をこのように低く位置づけるきっかけになったのは、十七世紀のフランスの哲学者デカルトが掲げた「物心二元論」であった。当時、哲学の体系を砂上の楼閣にしたくないと考えていたデカルトは、あらゆるものを疑うことを始めた。そして、あらゆるものを疑っている「私」だけはたしかに存在するということに気がついた(「我思う、ゆえに我あり」)。疑っている(考えている)「私」という存在と、その「私」が感覚でとらえる「私」以外の存在とのリアルさの違いから、デカルトは、世界が「精神」と「物質」に分けられると考えた。そして、空間に場所をとらない「精神」に対して、「身体」は、空間に場所をとるというその特質から、「物質」と位置づけられた。さらに、デカルトは「精神」を、人間だけがもつものとして、「物質」より高く位置づけたので、当然の結果として「身体」は、「精神」より低く位置づけられることになった[3]。 それでも、デカルトは、「精神」と「身体」の相互作用を無視できず、脳のなかにある松果腺で両者が結びつくとして、その二元論色を弱めたが、この二元論から出発したともいえる「近代科学」[4]は、自然研究の驚異的な成果に目を奪われ、本来「主体」として中心に論じられるべき「精神」を次第に棚上げしていき、「身体」と切り離された「物質」ばかりに目を向けるようになった。また、近代哲学は、「精神」より低く位置づけられた「身体」を大きな問題として取り上げなかった[3]。 「身体」は「物質」のひとつであるという考え方は十八世紀に入ってますます強まり、ド・ラ・メトリの「人間機械論」のように、人間の「身体」を複雑で精巧な自動機械のように見なす考え方まで登場する。人間の手が外化したものが道具であり、足が外化したものが車輪であるという、人間の「身体」が外化したものを「技術」と捉える(今では批判にさらされている)考え方も、こうした流れの中で出てきたものである。また、近代科学に基づく近代医学の分野では、病気を、あるいは身体組織のトラブルと考え、治療とは手術や薬物の投与によって、そのトラブルを取り除くことであると考えるようになった。これも、人間の「身体」をさまざまな身体組織で組み立てられた機械のようにみなす考え方であるといえる。近代医学は、身体の生理的組織や機能を心と切り離して研究する方向で進んでいくことになる[3]。 心身相関 こうした近代医学に、やがて「心身の相関性[5]」について研究する心身医学が登場する。そのきっかけを作ったのは、精神分析学を確立した、オーストリアの精神科医フロイトだった。「意識」による「無意識」の理解を目指していたフロイトは、神経症やヒステリーが「無意識」のコンプレックスと関係して発症することを発見した。このことは、身体的症状が心の状態と関係していることを示しており、「心身の相関性」の存在を明らかにしたといえる。神経症や心身症、自律神経失調症のような「心身の相関性」が強いといわれる病気は、近年ますます増加している。また、人間の心を置き去りにした薬物投与が、多くの薬害を生むようになった[3]。 一方で、環境問題の深刻化は、近代科学やそのもととなった自然(=物質)と人間(=精神)を切り離して考える「二元論」に対してその見直しを迫ることになった。こうした動きから、「身体」を単なる「物質」とみなす従来の「身体観」に対する不信感が高まり、哲学を中心に、新しい「身体観」を模索する動きが活発になる。はじめに立てられたのは、「身体」は本当に「物質」かという問いであった[3]。 間身体性 他人と違う自己が存在するという近代的自我の立場を出発点としただけの知性では、自己と他者のつながる世界の問題に対処できない。そこで世界は客観性をもって存在するのではなく、それぞれの主体性が絡み合って自分と他人の間の共同世界として成立するのだという考え方が登場した。このような事態を「間主観性(=共同主観性)」と言う[6]。間主観性とは、フッサールの用語で、相互主観性あるいは共同主観性ともいわれる。純粋意識の内在的領域に還元する自我論的な「現象学的還元」[7]に対して、他の主観、他人の自我の成立を明らかにするものが間主観的還元であるが,それは自我の所属圏における他者の身体の現出を介して自我が転移・移入されることによって行われる[8]。 そしてさらに母子一体感や没我的抱擁にも見られるように、自己と他者は畢竟「身体」によって根源的に結びついているのだから、根源的な間主観性とは、「間身体性」にほかならないという考え方も生まれた[3][6]。メルロー=ポンティは、他人の存在の問題、他人経験の問題(すなわち間主観性の問題)を、ワロンの発達心理学や、ラカンの鏡像段階の理論を手掛かりにとらえ直し、この問題を、いかにして自己が他人を他人として認め、関係を取り結ぶようになるかという形ではなく、いかにして自己が他人と区別される自己として意識されるに至るかという形で立てることにより、新たな解決を与えようとした[9]。 暗黙知 暗黙知とは、主観的で言語化することができない知識。言語化して説明可能な知識(形式知[10])に対し、言語化できない、または、たとえ言語化しても肝要なことを伝えようがない知識のこと。ハンガリーの哲学者マイケル・ポランニーの提唱した概念。具体的には自転車の乗り方や知人の顔の区別などがある。いずれも自転車を乗りこなすことや顔を区別することは可能であるにもかかわらず、どのように自転車を操作するのか、どのように他の顔と区別するのかを明示的に言葉で語ることはできない。そこでポランニーは「自転車に乗れること」や「顔を区別できること」を「知っていること」と見なし、その意識下の認識を暗黙知と呼び、形式知の背後に存在する知識と位置づけた[11]。 著名人の解釈[編集] 市川浩(哲学者、身体論者) 傾いている家の前に立つと、頭では分かっているのに、「身体」の平衡感覚がおかしくなって、地面の側が坂になっているように感じてしまうことがある。こうしたことなどから、「身体」は、単に、皮膚の内側に閉じ込められた「物質」としての「肉(み)」ではなく、皮膚の外まで拡がり、世界の事物と交わるものであると哲学者・市川浩は考えた。「物心二元論」に基づく考え方を嫌った市川は、「身体」の代わりに「身(み)」という言葉を用いている。「身」は、皮膚の下の「肉」という客体的な「身体」と、「身体」を原点として意味づけされた空間の中で、世界の事物と交わりながら社会的に生きている主体のありかとしての「身体」とをうまく統合的に表す概念として使われ、こうした市川の考えは、1970年代以降の身体論に、大きな影響を与えた[3]。 鷲田清一(哲学者) 「身体」を「からだ」と読む(捉える)鷲田清一は、「身体」は自分がどのように経験するかという視点から見たとき、「身体」は、「像(イメージ)」でしかありえないと指摘している。「身体」のなかで自分がじかに見たり触れたりして確認できるのは、手や足といったつねにその断片でしかなく、胃のような「身体」の内部はもちろんのこと、背中や後頭部さえじかに見ることはできない。そして自分の感情が露出してしまう顔もじかにみることはできない。「身体」を知覚するための情報は実に乏しく、自分の「身体」の全体像は、離れてみればこう見えるだろうという想像に頼るしかない。つまり、自分の「身体」は、「像(イメージ)」でしかありえないことになる[3]。

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昭和駅 – Wikipedia

「昭和停留場」はこの項目へ転送されています。それ以外の昭和停留場や昭和駅については「昭和#交通」をご覧ください。 昭和駅(しょうわえき)は、神奈川県川崎市川崎区扇町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)鶴見線の駅である。駅番号はJI 09。 駅名の由来[編集] 昭和肥料(現在の昭和電工)の工場の最寄り駅であることから、この名前が付けられた。 なお、川崎区内には「川崎区昭和」という地名があるが、当駅とは関係はない。 単式ホーム1面1線を有する地上駅。無人駅で、簡易Suica改札機設置駅。ホームの一部に屋根がある。駅舎は2017年に建て替えられ、自動券売機のスペース等を省いた簡素なものとなっている。トイレは設置されていない。 ホームに面している線路に平行してもう一本走る線路は、浜川崎駅と扇町駅を結ぶ貨物線である。浜川崎駅 – 扇町駅間は鶴見線旅客列車の走る電車線とこの貨物線からなる単線並列区間で、複線ではない。 またかつては、当駅手前より貨物線から分岐して道路を横断し、東亜石油京浜製油所へ続く専用線が分岐していた。 当駅は川崎市内にあるが、JRの特定都区市内制度における「横浜市内」の駅として扱われる。 利用状況[編集] 2008年度の1日平均乗車人員は569人である[4]。 近年の推移は下記の通り。 年度別1日平均乗車人員 年度 1日平均乗車人員 1995年(平成07年) 388

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フロイド・ローズ – Wikipedia

“Floyd Rose Original”モデル フロイド・ローズ(英語名:Floyd Rose)は、ギタリストでエンジニアのフロイド・D・ローズが考案したトレモロ・システム。1977年に開発され、1980年代の初頭からエドワード・ヴァン・ヘイレン、ニール・ショーン、ブラッド・ギルス、ジョー・サトリアーニ、スティーヴ・ヴァイらの使用によって爆発的な人気となった。大きな音程の可変幅とチューニングの安定性で知られる。ギター界の最も革新的な技術のひとつと見なされる事も多く[1][2]、今日でもエレクトリック・ギターのブリッジとして散見されるユニットである。 ローズはジミ・ヘンドリックスやディープ・パープルにインスパイアされたロックを演奏するギタリストであったが、昼間の仕事は宝飾品の職人であり、鉄工用の道具と知識を持っていた。同時代のギタリストの常としてフェンダー・ストラトキャスターのシンクロナイズド・トレモロの不安定さに悩んでいた彼は1976年より独自のトレモロユニット(フロイド・ローズ)の製作に取り組んでおり、初期のユニットは自身がガレージで製作していた手作りのものであった。 彼の発明はすぐさま影響力のあるギタリストの注目を浴び、初期型ユニットのシリアル番号「1」はエドワード・ヴァン・ヘイレン[3]、「2」はニール・ショーン[4] 、「3」はブラッド・ギルス[4]に渡っている。スティーヴ・ヴァイ[5]もこれを入手した。 ローズ氏は1979年には特許を取得した[6]。その後、前述のミュージシャンの影響による人気と需要の高まりに応じ、アメリカ市場向けは1982年にKramer Guitarsに販売が委託された(実際の生産はドイツSchaller社)。また、日本市場向けは1983年、既に前年から独自に類似品を「FRT-1」という品番で製造・販売していたフェルナンデスに生産が委託され、「FRT-3」という品番で販売された。 その後、ナット部の規格が制定され、弦をロックしたままでもチューニングの微調整ができるファイン・チューナーを搭載したモデルが登場する。初期「FRT-4」はツマミの位置がサドルに近く、演奏中に手がツマミに触れてしまう難点があったが、後にツマミの位置をサドルから離したモデルが登場し、これが弦をロックする種類のトレモロ・ユニットのスタンダードとなった。これらのタイプについて、日本国内ではフェルナンデスが「FRT-5」「FRT-7」という品番で販売していた(現在は“Floyd Rose Original”として販売)。 人気急増の為、他各社は同様なユニットを開発し、特許侵害を犯す事となった。実際にKahler社は1億ドルの損害賠償の訴えを起こされている[7]。そのため、ローズ氏とKramer社は他社へのライセンス生産を許諾する契約を行い、各社からライセンス品が製造・販売されるようになった。Kramer社との契約は1991年を持って終了、以降アメリカ市場ではフェンダー社が販売を行っている。日本ではESP社。 2005年に特許は期限切れで失効し、一部のライセンス品は安価になった。 概要と解説[編集] このトレモロユニットの基本的な概念は以下の3点である。 ナットとブリッジサドルで弦を固定する → これにより、アーミング時に弦がナットやブリッジ部分で動き、チューニングが変化するのを防いでいる。

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ジョー・ロバーツ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ジョー・ロバーツ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年8月) ジョー・ロバーツJoe Roberts 『キートンの鍛冶屋』(1922年) 本名 Joseph Henry Roberts 生年月日 (1871-02-02) 1871年2月2日 没年月日

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漫画読本 – Wikipedia

漫画讀本(まんがとくほん)は、かつて存在した日本の漫画雑誌。略称は漫讀(まんとく)[1]。1954年12月から1970年8月まで[1]文藝春秋新社および、後身の文藝春秋が発行していた。 『文藝春秋』は定期的に、小説特集など、読み物専門の「臨時増刊」を刊行していた。あるとき、横山隆一が文藝春秋社長の池島信平をともなって講演旅行をおこなっていた際、「漫画だけの増刊を出したらどうか」とアイデアを出した[1]。池島は早速電話で『文藝春秋』の増刊担当だった田川博一を呼び出し、漫画専門の増刊の出版を指示した。田川はかつて自身が親しんだ雑誌『新青年』のバックナンバーをかき集め、日本における外国漫画版権の窓口だったタトル商会と交渉。ソール・スタインバーグやチャールズ・アダムスなどの作品を1作あたり平均10ドルで買い付けた[1]ほか、戦前の新聞や雑誌連載漫画の再録をおこない、現役の漫画家に新作漫画およびエッセイの執筆を依頼した[1]。田川らはこれらの編集作業を、20日という短期間で終え、創刊号の発行にこぎつけた。創刊時の価格は75円[1]。この外国漫画、戦前の日本漫画、漫画家による新作とエッセイ、という4本柱は、廃刊まで変わらなかった[1]。 当初は「文藝春秋臨時増刊 漫画讀本」としての隔月刊行であったが、1958年3月号より『漫画讀本』として月刊化した[1]。最高時の発行部数は約30万部に達していたが、1970年に休刊となった。その後、過去の収録作を集めた「文藝春秋臨時増刊 漫画讀本」として2度復刊している(後述)。 杉浦幸雄、手塚治虫、佃公彦ら「漫画集団」の漫画家をはじめ、森哲郎、長谷川町子、杉浦茂らが漫画を寄稿していた。エッセイは、星新一、永六輔、安藤鶴夫らが寄稿していた。 この節の加筆が望まれています。 掲載作品[編集] 日本の漫画作品 海外の翻訳漫画作品 括弧内は原作者 エッセイ・ルポルタージュ 寄席紳士録(安藤鶴夫) 投稿コーナー[編集] 新人漫画教室 → 登竜門 まんとくドルードル ナンに見えるでしょう?(しとうきねお) 関連書籍[編集]

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ギーゼッケ アンド デブリエント – Wikipedia

ギーゼッケ アンド デブリエント(Giesecke & Devrient GmbH)は、ドイツ・ミュンヘンに本社を置く印刷会社である。 目次 1 概要 2 日本法人 3 ジンバブエへの関与 4 ミャンマー紙幣 5 参考文献 6 外部リンク ユーロ紙幣の印刷を行い欧州中央銀行に供給している欧州有数の紙幣印刷会社である。紙幣以外にも様々な有価証券やチケットなどの印刷も行っている。

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月刊コミックブンブン – Wikipedia

この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 『月刊コミックブンブン』が並ぶ売場(上から2段目(下から4段目)の左端に、『マミイ』『げんき』と隣り合わせで並んでいる。2004年撮影) 『月刊コミックブンブン』(げっかんコミックブンブン)とは、かつてポプラ社が発行していた月刊児童向け漫画雑誌。 『月刊プレコミックブンブン』として、2003年12月6日に創刊(2004年1月号)。 当時のポプラ社社長の坂井宏先は、『かいけつゾロリ』のアニメ化に際して、雑誌展開を他社に取られることを避けるための企業防衛として本誌を創刊したと語っている[1]。 創刊当初の雑誌コンセプトは童話・児童文学と少年漫画雑誌の中間を狙ったものであり、誌名の「プレコミック」もそのコンセプトに由来する。また、男子向け・女子向け・両性向けの作品が混在していた。その後『月刊コロコロコミック』のような児童向け漫画誌に転換、ほとんどの作品が男子向けとなり女子向けのものは少なくなっていた。同社からの童話、児童文学のコミカライズ作は転換後も連載されてはいたが、創刊当初よりは雑誌全体の連携色は薄まっていた。 編集は2004年1月号(創刊号)はマッグガーデンが、2004年2月号から2005年2月号まではポプラ社とマッグガーデンの共同出資で設立した編集プロダクションである株式会社ビープラスがそれぞれ行っていた。合弁は2005年に解消されビープラスがポプラ社に吸収合併されたため、2005年3月号以降はポプラ社へ編集が移行された。 児童誌としては珍しく、掲載作品に「この漫画はフィクションです。実在の人物・事件とは関係ありません」という但し書きが添えられていた。 創刊当初からマッグガーデンとの合弁解消までは、『月刊コミックブレイド』や初期『月刊少年ガンガン』で執筆していた作家の作品が多かったが、合弁解消以降はその比率を減らしていった。 2008年10月15日に発売された2008年11月号にて新装刊となり、誌名をそれまでの『月刊プレコミックブンブン』から『月刊コミックブンブン』へ改めた。その際『月刊コロコロコミック』と同じサイズとなり、毎月6日発売から毎月15日発売になるなどの変更が行われた。 2009年9月15日に発売された2009年10月号をもって休刊。なお、該当号の表紙には「最終号」の文字が書かれており、全ての連載作品が完結している。 単行本である「ブンブンコミックス」は、毎月10日に発売されていた。 アニメ化一覧[編集] NHK テレビ朝日系列 テレビ東京系列 フジテレビ系列 連載作品[編集] 連載終了作品[編集] 2004年9月号

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ローランド ディー. ジー. – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ローランド ディー. ジー.” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年4月) ローランド ディー. ジー.株式会社(英: Roland DG Corporation)は、日本のコンピュータ周辺機器の製造販売会社であり、広告・看板用インクジェットプリンタでは世界屈指である。社名のDGはDigital Groupの略。 電子楽器メーカーローランドの関連会社として1981年大阪に設立したアムデック株式会社(AMDEK)を前身とする。1983年より現社名となる。コンピュータミュージック用機器などのコンピュータ周辺機器やギター用エフェクターの組立キット等を製造販売していたが、近年は大型プリンターなど、コンピューター周辺機器を開発し急成長。「デジタル屋台」と呼ぶ少量多品種生産方式で、いくつかのメディアに取り上げられた。 1981年

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太郎山勇吉 – Wikipedia

太郎山 勇吉(たろうやま ゆうきち、1901年3月25日 – 1964年12月30日)は、長野県小県郡上田町(現:上田市)出身の元大相撲力士。本名は宮島 諭吉(みやじま ゆきち)。 1917年5月場所において浦風部屋から初土俵を踏んだ。長身・色白・好男子であることから「男は太郎山」とたちまち評判になり、本場所では常に黄色い声援を受けていたが、勝ち味が遅く相撲に豪快さなどが無かった。1925年5月場所において新入幕を果たしたが、一度十両陥落を経て1928年1月場所に幕内へ返り咲いてからは、現役引退まで常に幕内に在位し続けていた。 その間に師匠の廃業で高砂部屋へ、さらに1933年からは伊勢ヶ濱部屋へ身を寄せるなど、転々とした生活を送った。それに加えて1932年1月6日に春秋園事件が勃発すると革新力士団へ加入し、1933年1月場所に幕内格別席で復帰した。 1935年1月場所では十両に陥落したことで現役を引退し、同年中に故郷・長野県上田市で史上初となる土俵上の断髪式を行ったとされている。その後は年寄・浦風を襲名して二度に亘って浦風部屋を経営したが、いずれも関取を育てることなく閉鎖された。1964年12月30日に死去、63歳没。 主な成績[編集] 通算成績:177勝188敗1分2預11休 勝率.485 通算幕内成績:105勝136敗1分 勝率.436 通算在位:45場所 幕内在位 23場所 場所別成績[編集] 太郎山勇吉

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