Month: October 2018

デヴィッド・コスタビル – Wikipedia

デヴィッド・コスタビルDavid Costabile 2014年撮影 生年月日 (1967-01-09) 1967年1月9日(55歳) 出生地 ワシントンD.C. 国籍 アメリカ合衆国 民族 イタリア系アメリカ人 ジャンル 俳優 活動期間 1997年 – 現在 主な作品 『リンカーン』『ブレイキング・バッド』(TV)『SUITS/スーツ』(TV)

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五十狭城入彦皇子 – Wikipedia

五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ、生没年不詳)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族。 『日本書紀』では「五十狭城入彦皇子」、他文献では「五十狭城入彦命」とも表記される。『古事記』に記載はなく、『日本書紀』でも事績に関する記載はない。 第12代景行天皇の皇子である。 『日本書紀』によれば、第12代景行天皇と、後皇后の八坂入媛命との間に生まれた7男6女のうち、10番目に生まれた皇子である。 『先代旧事本紀』「天皇本紀」においても景行天皇皇子として五十狭城入彦の名が見え、さらに同書では五十狭城入彦が三河長谷部直の祖であるとする。 また『新撰姓氏録』左京皇別 御使朝臣条・右京皇別 御立史条では、景行天皇皇子の気入彦命(けいりひこのみこと)が応神天皇の命により、逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕えたと見える。この「気入彦命」の記載は『日本書紀』『古事記』には無いため、五十狭城入彦と同一視する説がある[注 1]。 墓は、宮内庁により愛知県岡崎市西本郷町和志山にある五十狭城入彦皇子墓(北緯34度57分57.79秒 東経137度7分8.97秒 / 北緯34.9660528度 東経137.1191583度 / 34.9660528; 137.1191583 (五十狭城入彦皇子墓(和志山古墳)))に治定されている[2]。遺跡名は「和志山古墳(わしやまこふん)」。墳丘長58メートル(推定復元60-80メートル)の前方後円墳で[4]、4世紀末から5世紀初頭頃の築造と推定される[5]。 明治28年(1895年)に宮内省(現・宮内庁)により陵墓伝説地(被葬候補者:気入彦命)に指定されたのち、明治29年(1896年)には墳丘上にあった薬師堂・石塔が撤去され、大正15年(1926年)頃に「矢作陵墓参考地」に名称変更、昭和16年(1941年)に五十狭城入彦皇子墓に治定されている[4]。 また同古墳の南東の方向には、式内社論社の和志取神社(岡崎市西本郷町御立)が鎮座する。五十狭城入彦を祭神に祀るとともに、五十狭城入彦が逆臣の大王主(大任主)を当地で討ったとする由緒を伝えている[6]。西本郷の地は、東本郷と併せて『和名抄』に見える三河国碧海郡谷部郷(はせべごう)に比定されることから、五十狭城入彦後裔の長谷部氏が同地に来住したとする説もある。

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フィリップ・エルンスト・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト – Wikipedia

フィリップ・エルンスト・マリア・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト(Philipp Ernst Maria zu Hohenlohe-Schillingsfürst, 1853年6月5日 – 1915年12月26日)は、ドイツのシュタンデスヘル。旧諸侯ホーエンローエ家の一員。ホーエンローエ=シリングスフュルスト侯。ドイツ国民オリンピック委員会(NOK)(ドイツ語版)の前身、ドイツ・オリンピック委員会(DOK)の初代会長となった。 ドイツ帝国宰相を務めたクロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト侯とその妻でルートヴィヒ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン侯の娘マリー(1829年 – 1897年)の間の第3子、長男として生まれた。末弟アレクサンダーとは対照的に政治に関わらなかった。父祖伝来のシリングスフュルストの狭小な所領を経営する傍ら、最初の妻が婚資として持参したボヘミアのポジェブラディ城(ドイツ語版)の城主として、温泉町ポジェブラディ(ドイツ語版)の発展に尽くした。1896年よりドイツ・オリンピック委員会初代会長を務めた。死後、弟モーリッツが侯家の家督を継いだ。 1882年1月10日にウィーンにおいて、在墺ギリシャ大使グレゴール・イプシランティ(ギリシア語版)公爵の娘シャリクレー(1863年 – 1912年)と最初の結婚をした。彼女の弟エマヌエル・イプシランティはギリシャ王国の閣僚の1人だった。夫妻の間には2人の娘が生まれたが、どちらも夭折した。 シャリクレーと死別した翌年の1913年8月6日、平民女性ヘンリエッテ・ギントラー(1884年 – 1952年)と再婚(貴賤結婚)した。ヘンリエッテにはフォン・ヘルベルク(Frau von Hellberg)の貴族姓が与えられた。彼女との間の1人息子アレクサンダー・フォン・ヘルベルク(1914年 –

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Hi∞Fu – Wikipedia

Hi∞Fu(ひーふー)は、姉Hi (ひー)、妹Fu (ふー) による双子のシンガーソングライターユニット。hiMe story株式会社所属。愛媛県松山市出身。2015年メジャーデビュー。 略歴・人物[編集] 幼少期 – 高校生 愛媛県松山市出身。5人兄弟の長女、次女。 筋金入りの人見知りと恥ずかしがり屋。幼稚園のとき、お弁当箱を開けることが出来ずそのまま持って帰っていた。心配した母が病院に連れて行くも異常なし。原因はただ恥ずかしかっただけ。じろじろ見られたり、比べられたり、目立ってしまったりと、双子であることがコンプレックス。女の子らしい事は大嫌い、お人形さんよりも車やプラモデルなど男の子の遊びが好きだった。見た目もボーイッシュでショートカットだったため、よく男の子に間違われていた。お互いかなりの負けず嫌い。姉のHiは、小学生頃から読書感想文で受賞するなど、勉強や運動など何をするにも妹Fuよりも優秀であった。芸能界に憧れをもったのは、小学低学年の頃。友達との会話に入りたくて、TVを見始めたのがきっかけ。音楽番組やCMソングが流れると一緒に口ずさみ、ラジオを録音してその日のうちに流行の曲を覚えて歌っていた。お風呂の中やトイレ、家中どこでも当たり前のように歌っていた。だけど、歌が好きだという認識は全くなく、むしろ音楽の授業は大嫌いだった。 中学生になると兄の影響もあり柔道部に入部。道場にも通い、県の強化選手にも選ばれる。中学時代にはドラマと映画にハマる。 高校時代は文武両道で、毎日4時間の勉強と部活の日々。3年間成績は常にトップ。二人で1番&2番(姉のHiは全国模試 (数学) でも1番になったことがある)。柔道では県内2位。四国大会5位入賞 (Hi)。高校時代は洋楽とお笑いにハマり、学校の帰り道は二人でハモリながら帰るのが日課だった。 大学生 – 音楽の道へ 姉のHiはお茶の水女子大学、妹Fuは愛媛大学へ進学。しかし、みんなと足並み揃えた生き方に疑問を感じ、大学生活にも馴染めず思い悩んでいた頃、ゆずの音楽に出会いギターを始める。その頃、病気になった母を励まそうと「愛言葉」を作詞・作曲し母の日にプレゼント。涙を流し喜んでくれた母の姿を見て、言葉では伝えられないことも音楽では伝えることが出来る。音楽の持つ力を感じ、もっと多くの人の心に届く歌を歌いたいと本格的にプロの道を志す。大学はその後、退学。

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ビジネスプロセス – Wikipedia

この項目「ビジネスプロセス」は途中まで翻訳されたものです。(原文:en:Business process(08:11, 17 May 2011 UTC)の翻訳)翻訳作業に協力して下さる方を求めています。ノートページや履歴、翻訳のガイドラインも参照してください。要約欄への翻訳情報の記入をお忘れなく。(2011年6月) 事業プロセスまたは事業メソッドは、特定の顧客または顧客のため、特定のサービスまたは(特定の目標を提供する)プロダクトを創り出す、アクティビティまたはタスクの構造と関係の集合である。それはしばしば、アクティビティのシーケンスとしてフローチャートで可視化される。 3つのタイプの事業プロセスが存在する: 管理プロセス(英語版) システムの運用を統治するプロセス、典型的な管理プロセスには『企業統治』と『戦略管理』を含む。 運用プロセス 中核事業(英語版)を構成し、主要な価値ストリームを作り出すプロセス。典型的な運用プロセスには、調達、製造、宣伝とマーケティング、販売である。 支援プロセス 中核プロセスを支援する。その例は、会計、求人、コール・センター、技術サポートである。 事業プロセスは、ミッション目的で始まり、事業目的の達成で終わる。プロセス中心組織は、構造化された部門のバリアに分離され、機能的サイロ(英語版)を避けようとする。 事業プロセスは、それら自身の属性を持つ、複数のサブプロセスに分割できるが、しかしスーパープロセスの目標を達成するため貢献する。事業プロセスの分析は、典型的に、プロセスのマッピングとアクティビティ・レベルへのサブプロセスを含む。 事業プロセスは、顧客への価値付加のため設計され、不必要なアクティビティは含むべきでない。良く設計された事業プロセスの成果は(顧客への価値への)有効性を増大し、(会社のためのコストを少なく)効率性を増大する。 事業プロセスは、多数の手法や技法を通してモデル化できる。例えばIDEF3やBPMNは、ワークフローで事業プロセスを描くため使える技法である。 アダム・スミス[編集] プロセスを記述した最初の1人は、1776年の有名なピン工場の例のアダム・スミスであった。ドゥニ・ディドロの百科全書の記事により奮立たされてスミスは、以下の方法でピンの生産を記述した:

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MCバトル – Wikipedia

MCバトル(エムシーバトル)は、MC同士で行われるヒップホップ文化が発祥のラップバトルである。 諸説はあるが、1970年代後半にアメリカの東海岸のヒップホップシーンが起源とされており、DJバトルやダンスバトルと共に行われ広まっていったとされる。アメリカでは1980年代バトルラップがラップの表現の一つとして人気を博し、その後、定着した[1]。 MCバトルはゲーム的要素だと、ビートを小節ごとに交互で回すのが主流であるが、ただ単にラップでお互いを攻撃し合うこともあり、これもMCバトルと定義される。1980年代初頭のアメリカのヒップホップシーンでのMCは、他のMCのライブのステージでバトルラップを用いて戦い、それを通じて名声を得ていた。尚、その場のステージや街角などで行われるものをMCバトルとし、MCそれぞれの音源の歌詞で繰り広げられる中傷合戦はビーフとされている。 各国のMCバトル[編集] 日本におけるMCバトル[編集] 日本においては、クラブイベントの企画の一つに取り入れられたり、MCバトルメインのイベントが行われたりと全国各地で行われている。会場もクラブだったりライブハウスだったりとイベントの規模により異なる。 日本のMCバトルの大会においてはDJが流すビートに、MC同士が小節ごとに即興の歌詞を用いてフリースタイルのラップをし、お互いのスキルを競い合う。勝敗は即興性、内容、ディス、韻、フロウなどを総合して判定される。相手から言われたことに対してアンサー[要曖昧さ回避]がちゃんと返せているかもバトルにおいて重視される。大体は8小節を2~3ターンずつ交互で行われるが、16小節で行われる場合もある。DJとMCの他にバトルを進める進行役も存在する。バトル終了後の勝敗の判定は、現場の観客の歓声の大きさで決まったり、審査員の多数決で決まったり、どちらも取り入れられたりと、そのイベントにより基準が異なる。 大会でなければDJや進行がいなくても周辺への配慮が必要となるが、トラックのインストをスマートフォンやCDラジカセ、コンポ等で流し屋内や路上、公園等で行うことも可能。また、音がなくともアカペラでしようとすればすることもできる為、気軽に行うことができる。インターネットが普及してからはSkypeなどを通じてフリースタイルのラップを披露し合う者もいる。この他、スキル上達の練習方法としてサイファー(複数人が円形に形成し、順番にフリースタイルのラップを披露すること)などがある。 全国的にMCバトルが広まっていったのはB-BOY PARKがMCバトルを盛り込んだ2000年前後とされ、1999年~2001年のB BOY PARKのMCバトルではKICK THE CAN CREWのメンバーのKREVAが3年連続優勝を果たしている。2002年には日本でもヒットしたアメリカ公開の映画「8 Mile」でMCバトルがモチーフにされたこともあり、知られるきっかけとなる。その後もULTIMATE MC BATTLEや戦極 MCBATTLEなどのMCバトルのイベントが派生していった。イベントによってはバトルの模様を収録したDVDも制作され、映像化している。 出場するMCはメジャーレーベルからCDもリリースしてライブ活動も行うプロのラッパーから、音源制作をしていないラッパーまで様々である。参加目的も自分のラッパーとしての実力を試したいという理由や名声を得る為など多種多様である。バトルの大会で名を残したMCやバトルでの活動に特化しているMCをバトルMCと呼ぶ。近年ではお笑い芸人によるMCバトルのイベントも開催され、戦極MCBATTLEが主催した「戦極MCBATTLE

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旧日新館 (横手市) – Wikipedia

旧日新館(きゅうにっしんかん)は、秋田県横手市城南町にある建築物。2020年現在も現役の個人住宅であるが、一部については公開されている[1]。秋田県指定有形文化財で、横手市を代表する近代建築でもある。木造2階建て、280平方メートル[2]。 旧日新館は、1902年(明治35年)、旧制横手中学校(現:秋田県立横手高等学校)へアメリカ人英語教師のチャールス・C・チャンプリンが赴任してきたことを機に建てられた[3]。チャンプリンは当初、横手町内の小坂旅館に泊まっていたが日本家屋になじめず、これを受けた旅館主の小坂亀松が外国人向けの宿を新設することを企図した[3]。建築は地元棟梁の藤村初五郎が担当したが、藤村にとって西洋建築は初めてであり、小坂によって事前に東京などに視察へ行かされている[3]。設計には、建築に関しては素人ではあったがチャンプリンも関わり[2]、彼の出身地である米国南部の住宅のイメージと、水準の高い日本の木造建築技術が組み合わさり、ユニークな旅館建物「日新館」が生み出されることとなった[4]。 なお、日新館は外国人旅行者用の宿として建てられたものの、結果的には横手中学校の外国人教師の住宅に充てられることとなり[3]、以後5人のアメリカ人英語教師が入れ替わりで居住した後、6人目の横手中学校英語教師であったマルチン・M・スマイザーが1933年(昭和8年)の退職後に小坂から土地ごと建物を購入して自宅とした[3]。その後、日米関係の悪化と太平洋戦争の開始により、スマイザーの教え子だった弁護士が彼の身を案じ、土地を含めた旧日新館を自分の死後に日本人へ相続させる旨の遺言を作成させ、1955年(昭和30年)にスマイザーが80歳で死去した後は、その通りに彼の手伝いをしていた女性の鶴岡タカに譲られた[3]。 その後、タカは相続した旧日新館にて裁縫学校の横手和洋裁学院を開き、1963年(昭和38年)にタカが死去すると姪の鶴岡功子に引き継がれた[3]。1974年(昭和49年)、功子は生徒数減少などを理由に横手和洋裁学院を廃止し、建物の処分も検討したが、その価値を評価した横手市職員の働きによって旧日新館は1984年(昭和59年)3月10日に秋田県指定有形文化財に指定され[5]、翌年には保存修理工事が施された[3]。現在も旧日新館の一部は鶴岡家が住居として使用しており、残りの部分は無料公開されているが、建物を次世代へ継承することが課題であるという[3]。 公開時間・アクセス[編集] 公開時間:水曜日 9:00 – 16:00 交通アクセス[6] 関連項目[編集]

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フロリダ州会議事堂 – Wikipedia

アパラチー・ストリートからフロリダ州会議事堂を望む フロリダ州会議事堂(フロリダしゅうかいぎじどう、Florida State Capitol)は、アメリカ合衆国フロリダ州の州都タラハシーに立地する同州議会の議事堂。タラハシーのダウンタウンの中心、アパラチー・パークウェイがモンロー・ストリートと交わる丁字路の突き当たりに建っている。敷地内には1977年に完成した22階建ての新庁舎、およびそのウィングが、1845年に建てられた旧庁舎をコの字型に囲むようにして建っている。新庁舎内にはフロリダ州議会の上下両院の議場をはじめ、州の立法機関および行政機関の事務所が置かれている。一方、1973年に国家歴史登録財に指定された[1]旧庁舎は新庁舎の完成後、1902年当時の姿に復元され、博物館になっている[2]。 旧フロリダ州会議事堂(1845年) 1824年、植民地時代に東西フロリダそれぞれの首都であったセントオーガスティンとペンサコーラの中間点に、フロリダ準州の州都となるべくタラハシーが創設され、丸太造の準州会議事堂が建てられた[3][4]。その後、恒久的な準州会議事堂の建設が進められ、1845年、フロリダの州昇格とほぼ同時に、ギリシアリバイバル様式の旧州会議事堂が完成した。この旧州会議事堂には、1902年にドームが、1923年にウィングおよび大理石の内装が、1936年に州下院の北側ウィングが、そして1947年に州上院の南側ウィングがそれぞれ増築された[2]。 1902年の州会議事堂はフロリダ州政府の立法・行政・司法機関がすべて1つの庁舎の中に入った最後の庁舎であった。1913年には、フロリダ州最高裁判所が州会議事堂から専用の庁舎に移った[5]。現在のフロリダ州最高裁判所庁舎は、州会議事堂の1ブロック西に立地している。 旧州会議事堂のドームの屋根の張り替え工事 1977年に新庁舎が完成すると、旧庁舎の取り壊しが危惧された。しかし、市民運動により旧庁舎は取り壊しを免れ、翌1978年から4年の歳月を費やして、1902年の姿に復元した上で、博物館として転用されることになった[2]。2010年には、旧庁舎に風雨による著しい経年劣化が見られたため、州の管理サービス局と地元建築事務所MLDアーキテクツが協同で旧庁舎の内外装改修工事を行った。この工事によって、旧庁舎のドームの屋根が銅板に張り替えられ、朽ちていた窓は修理・補強され、元々のほぞ組み構造は支柱で補強された[6]。 庁舎概観[編集] フロリダ州会議事堂のモダニズム建築様式の庁舎はニューヨークのエドワード・ダレル・ストーンおよびジャクソンビルの建築事務所レイノルズ・スミス・アンド・ヒルズによって設計されたものである。この新庁舎は地上22階、地下3階の本庁舎を中心に、南北に5階建ての、ドームのかぶせられたウィングがついており、旧州会議事堂をコの字型に囲むようにして建っている[7]。 1階には州知事室、および州閣僚の事務室が置かれている。また、1階にはフロリダ・ウェルカム・センターが設置されており、議事堂のガイド付きツアーの受付窓口になっている。州議会の上下両院の議長室、書記官室、議員事務室、委員会室、会議室、および守衛室は2-4階に設けられている。また、4階には上下両院の本会議場が置かれ、5階に傍聴席がある。その上、6-21階には州の立法機関や行政機関の事務室が置かれている。最上階の22階は展望台として、来館者に無料で開放されている[8]。 一方、新庁舎の前面に建つ旧庁舎は博物館になっている。この博物館は先史時代から植民地時代、南北戦争、公民権運動、冷戦下でのキューバ系移民受け入れ、2000年の大統領選挙に至るまでのフロリダ州の歴史や、歴代州知事、州の自然環境、州の開発に関する事物を常設展示している。また、旧庁舎内の州知事室、州議会の上下両院の議場、州最高裁判所はそれぞれ、1902年の頃のものに復元され、展示室自体が展示物となっている[5]。 州下院ウィング正面。左下は自由の鐘のレプリカ。 1950年に製造され、各州に贈られた自由の鐘のレプリカは、フロリダ州会議事堂においては州下院のウィングの東正面に置かれている。この銅合金製のレプリカは、もともとは旧庁舎内に置かれていたが、その重さに対する懸念から、新庁舎西側のウォラー・パークに移された後、1980年前後に現在の位置に移された[5]。 旧庁舎の周囲には2本のオベリスクが立っている。1本は第3次セミノール戦争の最中、ロイヤルパークハンモックの戦いで戦死したジョン・パークヒル大尉の碑である。この碑はもう1本は旧庁舎の北東に立つ、レオン郡から南北戦争に出征した兵士の碑である。また、旧庁舎と新庁舎の間の中庭にはマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の碑や、イラク戦争でのパープルハート章受章者の碑も立っている[5]。 また、旧庁舎の正面北側には、樹齢100年を超えるマグノリアの木が植えられている[5]。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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常盤堂雷おこし本舗 – Wikipedia

株式会社常盤堂雷おこし本舗(ときわどうかみなりおこしほんぽ、英: Tokiwado Kaminariokoshi Honpo co.,ltd.)は、東京都台東区浅草に本社を置く製菓業者である[4][6]。雷おこしの製造・販売を主軸とする[2][3][4]。 雷おこしは1795年(寛政7年)、焼失した雷門の再建をきっかけに露天商が売り始めたのが発祥とされており、その系譜を受け継いだのが同社であると報じられている[2][3]。同時期に歌川広重が描いた錦絵には「常盤堂」の名が登場しているとも報じられている[3][7]。第二次世界大戦によって店と資料が焼失したため詳しい歴史は分からないとしているが[8]、2009年(平成21年)における報道では「創業250年」[3]、2012年(平成24年)における報道では「創業は200年以上前」[2]との紹介がなされているほか、1924年(大正13年)創業であるとの報道もある[4]。初代社長の穂刈恒一は元々雷おこしの原料となる「おこし種」を取り扱う下請け業者であったが、戦後に穂刈家として経営に参画するようになった[8]。現本店の位置に店を構えたのは1892年(明治25年)のことで[7][9]、現在の株式会社に組織を変更したのは1950年(昭和25年)である[4]。1967年(昭和42年)から東京都内の百貨店に販売網を広げ、1972年(昭和47年)には埼玉県大宮市(現さいたま市西区三橋)に工場を建設した[4]。かつては群馬県安中市や埼玉県桶川市にも工場があったほか[2][8]、初代穂刈恒一が社長であった頃に「雷おこし」を同社の登録商標としていた時期がある[3]。 昭和40年から50年代にかけて事業の多角化を開始[4]。海外進出としてマレーシア、タイ王国に華僑資本の合弁法人設立、シンガポールに全額出資子会社設立、大韓民国の製菓業者に雷おこしの製造技術を供与するなどしたほか[4]、外食産業として八重洲にうどん店を出店[4]、雷おこしの焙煎技術を利用してハト麦茶の製造販売に参入[4]、観光事業として大道芸や水芸など浅草ゆかりの芸を披露するホール「雷5656(ゴロゴロ)会館」を開設するなどした[4][10]。 3代目穂刈久米一が社長に就任した1996年(平成8年)には経営が悪化していたことから体制の立て直しを実施[2]。安中市と桶川市の工場を閉鎖し大宮工場に一本化したほか、硬い雷おこしが敬遠されるようになったことから時代に合わせて雷おこしを柔らかくする商品開発を行う[2]。従来の雷おこしは米粉100%で製造されていたが、米粉を50%に抑え、残り50%を小麦粉とデンプンにしたことで雷おこしに「フワッとした」感じを出すこと[2]、また水飴の量を減らして硬さと甘さを抑え上品な味付けにすること[8]に成功した。これにより同社の雷おこしは「他社と比較して柔らかく、年配客に人気」であるとの評価がある[11]。また、この商品開発に対しては先代の職人と激しく対立したとも報じられている[2]。 2000年代後期に入り、もんじゃ焼き、ピーナッツ、抹茶、チョコレート、和三盆などを利用・モチーフとした雷おこしを開発している[12]。工場がさいたま市にあることから、さいたま市誕生10周年記念イベントの際にはマスコットキャラクター「つなが竜ヌゥ」をかたどった人形焼を製造したことがある[13]。2003年(平成15年)時点で約100種の雷おこしを販売していると報じられている[7]。 江戸時代末期 – 雷門前で雷おこしを売り始める。同社のルーツとされる[2][3][7][8]。 1892年(明治25年) – 現本店の位置に店舗を構える[2][7][9]。 1950年(昭和25年) – 株式会社常盤堂雷おこし本舗を設立[4]。 1954年(昭和29年) –

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