Month: November 2018

菩提寺 (三田市) – Wikipedia

菩提寺 (ぼだいじ)は、兵庫県三田市尼寺にある真言宗花山院派の本山の寺院。山号は東光山。本尊は薬師瑠璃光如来。別称は花山院(かざんいん)で、通常は花山院菩提寺と呼ばれる。西国三十三所の番外札所。 本尊真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか ご詠歌:有馬富士ふもとの霧は海に似て 波かときけば小野の松風 花山院菩提寺は、三田市中心部から北方へ約6キロの東光山(標高約421.3m)の南側の標高395m辺りに位置する。 開山とされる法道仙人は、天竺から紫雲に乗って飛来したとされる伝説的な人物である。法道仙人開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に集中しており、「インドから紫雲に乗って飛来」云々の真偽は別としても、こうした伝承の元になり、地域の信仰の中心となった人物が実在した可能性は否定できない。 正暦3年(992年)頃、三十三の観音霊場を巡礼した花山法皇が、播磨清水寺に登った際に東方の山上が光り輝くのを見て訪ねて隠棲の地とし、その後晩年に帰京するまでの約14年間を過ごしたとされる。これに因んで元は紫雲山観音寺の名であった当山は東光山と呼ばれるようになったという。 当山を含む麓の集落は尼寺(にんじ)と呼ばれるが、これは法皇付きの女官11名が法皇寵愛の弘徽殿の女御藤原忯子の位牌を奉じて訪ねて来たものの、女人禁制ゆえに登山を許されなかったため、尼となって麓に住み着いたことに因む。集落内には十二尼妃の墓と伝わる大小12基の墓(中央の大きい墓が弘徽殿の女御のものとされる)が存在し、法皇を慕って弾いたと云われる琴弾坂があり、石碑が立っている。 11世紀には多田荘を本拠とした多田源氏が帰依し、山内に堂塔が立ち並んで勢威を示したが、後に雷火で焼失した。現在は山内から出土する礎石群が当時を偲ばせる。 花山法皇殿(本堂) – 中央に本尊・十一面観音立像、向かって右に花山法皇坐像、左に弘法大師坐像を祀る。 薬師堂 – もう一つの本堂で西国薬師四十九霊場第21番札所。本尊・薬師瑠璃光如来坐像、両脇に日光・月光菩薩立像、さらにその両脇に十二神将を祀り、御前に護摩壇を設ける。

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第三セクター – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “第三セクター” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年2月) 第三セクター(だいさんセクター)は、第一セクター(国および地方公共団体が経営する公企業)や第二セクター(私企業)とは異なる第三的方式による法人。略称は三セク(さんセク)。 意味は以下の2つだが、日本では主に2の意味でこの語が使われることが多い。 NPO・市民団体などの非営利団体。 国や地方公共団体と民間が合同で出資・経営する企業。 日本での主な意味[編集] 日本は、日本国政府または地方公共団体(第一セクター)が、民間企業(第二セクター)と共同出資により設立した法人を指す。多くは設立が比較的容易で、運営方式も自由な株式会社の形態を採る『半官半民』の中間的な形態。 また、第三セクターは法的に概念が規定されているわけではなく、株式会社・財団法人など、それぞれの法人形態に従った制度が適用される。 当初、日本国有鉄道およびJR各社の赤字ローカル線(特定地方交通線)を引き受ける事業主体としての第三セクター鉄道で知られるようになったが、それ以外にも大阪府都市開発(当時、現社名:泉北高速鉄道)[1] など「民間活力の活用」というスローガンのもと、地域振興などを目的とした第三セクター会社が設立されており、1980年代後半以降は政策的に各地に広がった。 なお、この意味での第三セクターという用語が日本で公式文書に初めて用いられたのは、1973年(昭和48年)に第2次田中角榮内閣の元で閣議決定された「経済社会基本計画」である。 法人数[編集]

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ミーンズテスト – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ミーンズテスト” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年10月) ミーンズテスト(英: means test [注釈 1])とは、市民が政府に対し、社会保障制度による給付を申請した際に、申請者が要件を満たすかどうか判断するため行政側が行う資力調査のこと。調査は申請者の収入、資産、またはその両方を対象にして行われ、通常は収入・資産が一定水準を下回ることが受給の要件となる。申請者を含む世帯について要件を満たすかどうかを調査することも多い。 日本[編集] 生活保護の受給に際し、世帯単位でミーンズテストが行われる(生活保護法第10条)。 児童手当(2013年-)の受給に際し、扶養親族の範囲でテストが行われる(児童手当法第5条)。子ども手当(2010-2013年)ではミーンズテストなしに支給する試みがなされた。 韓国[編集] 国民基礎生活保障制度の受給に対して実施される。 アメリカ州[編集]

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実藤恵秀 – Wikipedia

実藤 恵秀(さねとう けいしゅう、1896年5月13日 – 1985年1月2日)は、日本の中国研究者。 広島県出身。早稲田大学文学部支那文学科卒。1935年竹内好らの中国文学研究会に参加。早大助教授、1949年教授。1960年「中国留日学生史の研究」で早大文学博士。1967年定年退任、名誉教授[1]。子に実藤遠、さねとうあきらがいる。戦後は「さねとう(・)けいしゅう」の署名を多く用いた。 『支那現代文捷径 漢文基準』尚文堂 1933 『漢文から時文へ 支那現代文の読み方』三修社 1939 『中国人日本留学史稿』日華学会 1939 『日本文化の支那への影響』蛍雪書院 1940 『近代日支文化論』大東出版社 東亜文化叢書 1941 『こども支那風土記』高井貞二絵

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藤井岳 – Wikipedia

獲得メダル 日本 柔道 アジア選手権 金 2013 バンコク 100kg超級 藤井 岳(ふじい がく、1991年5月30日 – )は、東京都青梅市出身の日本の柔道選手である。階級は100kg超級。身長182cm。体重117kg。血液型はO型。段位は四段。組み手は左組み。得意技は体落。現在はパーク24に所属[1][2]。さらに、SFC大学院にも在学している[3]。 目次 1 経歴 2 戦績 3 脚注 4 外部リンク 柔道は7歳の時に吉野柔道教室で始めた[1]。桐朋中学入学後は大門柔道教室に入門して、3年の時には全国中学校柔道大会90kg超級で2位になった。国立大学への進学も視野に入れていたが、柔道に人生をかけるとして東海大相模高校に進む道を選択した[4]。1年の時には早くも金鷲旗の優勝に1年先輩の高木海帆や同級生の羽賀龍之介らとともに貢献することになった。インターハイ団体戦では3位だったが、全国高校選手権では優勝した。2年の時には金鷲旗とインターハイも制して高校3冠(全国高校選手権、金鷲旗、インターハイ)を達成した[1]。続く全国高校選手権でも優勝した。3年の時にも同級生の羽賀や1年後輩の王子谷剛志らとともに金鷲旗とインターハイを制して、1987年の世田谷学園高校以来、史上2校目の2年連続高校3冠に貢献することとなった[5]。さらには国体少年男子の部でも神奈川県チームの優勝に貢献した[1]。

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製鉄記念広畑病院 – Wikipedia

製鉄記念広畑病院(せいてつきねんひろはたびょういん)は、兵庫県姫路市にある新日本製鐵(現、日本製鉄)系列の病院である。1940年開院の日本製鐵広畑製鐵所病院を前進とし、3度の改称を経て現行の名称となった。 姫路市広畑地区は長らく新日鉄広畑製鐵所の企業城下町であり、製鉄所の立地する浜手一帯には新日鐵関連の諸施設、社宅等が立ち並んでいた。当病院もその一つである。地元での略称としては「新日鉄病院」等が用いられた。(バス停名など) 1980年代に入ると広畑製鐵所は規模縮小され、それに伴い病院周辺の労働会館、社宅、運動場等が姿を消していく中、当病院は存続した。現在は新日鐵直営から医療法人社団を経て社会医療法人に移行している。兵庫県立姫路循環器病センターと統合し総合病院化も含めて姫路駅東の再開発地域への移転を検討している [1][2]。 平成に入ると路線バスが病院正面へ乗り入れるなどアクセス改善が進み、また長年古びたモルタル建築の病棟だけだったが新館が建設された。旧館群は、独特の濃い肌色の外観を持つ。 兵庫県立加古川医療センターを基地病院とする兵庫県南部ドクターヘリの準基地病院として共同運用、運航している。 1940年(昭和15年)9月 – 日本製鐵広畑製鐵所病院として開院。 1949年(昭和24年)10月 – 一般診療を開始。 1950年(昭和25年)4月 – 日本製鐵解体に伴い、富士製鐵広畑製鐵所病院と改称。 1951年(昭和26年)4月 – 医療法に基づく総合病院として認可される。 1955年(昭和30年)10月 –

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ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル (初代バッキンガム侯爵) – Wikipedia

初代バッキンガム侯爵ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル(英語: George Nugent-Temple-Grenville, 1st Marquess of Buckingham, KG, KP, PC、1753年6月17日 – 1813年2月11日)は、イギリスの政治家、貴族。 1753年6月17日、後に首相を務める政治家ジョージ・グレンヴィルとその妻エリザベス(第3代準男爵サー・ウィリアム・ウィンダムの娘)の間の長男としてロンドンに生まれる[1][2]。 イートン校をへてオックスフォード大学クライスト・チャーチで学ぶ[2]。 1774年から1779年にかけて バッキンガムシャー選挙区(英語版)から選出されてホイッグ党の庶民院議員を務める[1][2]。1775年にはロバート・ニュージェントの娘メアリーと結婚した(ロバート・ニュージェントは翌1776年にジョージへの特別継承権を認めたアイルランド貴族爵位ニュージェント伯爵(英語版)に叙されている)[3]。 1779年9月に死去した伯父の第2代テンプル伯爵リチャード・グレンヴィルから第3代テンプル伯爵位を継承し、貴族院議員に転じた。またこの際に勅許をえて家名を「グレンヴィル」から「ニュージェント=テンプル=グレンヴィル」に改めた[1][2]。 1782年7月から1813年6月にかけてバッキンガムシャー知事(英語版)を務めた。1782年から1783年にかけてはアイルランド総督を務めた。1783年2月5日には聖パトリック騎士団(勲章)グランド・マスターとなる。1783年中にごく短期間だが、外務大臣や内務大臣を務めた。1784年12月にはバッキンガム侯爵に叙された。1787年から1789年にかけてアイルランド総督に再任した[1][2]。 1788年10月に岳父が死去し、第2代ニュージェント伯爵位を継承した[2]。1801年にはガーター勲章に叙せられた[1][2]。 1813年2月11日に死去した[1][2]。

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埼玉県道57号さいたま鴻巣線 – Wikipedia

さいたま市桜区五関付近 埼玉県道57号さいたま鴻巣線(さいたまけんどう57ごう さいたまこうのすせん)は、埼玉県さいたま市浦和区から鴻巣市に至る県道(主要地方道)である。 埼玉県さいたま市浦和区の国道17号六間通り交差点から西南西へ向かい、さいたま市桜区役所付近で西北西に、千貫樋水郷公園で北に方向を変え、さいたま市西区、上尾市、桶川市、北本市を経由して埼玉県鴻巣市に至る。上尾市平方から鴻巣市にかけては鎌倉街道上野道の道筋を踏襲している[1]。 1994年(平成6年)に路線の整理が行われ、それまでの埼玉県道66号桶川浦和線と埼玉県道209号川田谷鴻巣線を統合し、新たに埼玉県道57号浦和鴻巣線となり、その後さいたま市成立に伴い、名称を埼玉県道57号さいたま鴻巣線と改め、現在に至る。なお、浦和と鴻巣を結ぶ県道には旧中山道を経由する埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線もあるが、そちらは旧国道17号の降格道路であり、新たに設置された道路ではない。 上尾市の区間は1924年(大正13年)7月15日に、平方村の現在の川越上尾線「平方交差点」を起点に北上し、大石村を経由して[2]桶川町に至る村内の道路を「平方桶川線」(路線番号226号)として県道に編入した[3]。1960年(昭和35年)9月1日に路線名称と路線番号が変更され、埼玉県道66号井戸木中野林浦和線に変更された[4]。 「主要地方道」とされており、主な通過地点を地名として一見した限りでは国道17号の西側を平行し、これに補完する県道であるが、実際の経路はつぎはぎで起終点を地図上で無理矢理につないだ感じが否めない。上尾市から桶川市にかけては、ゴルフ場の中を細道で通り、住宅地の生活道路を経由している上、上尾・桶川市境の藤波交差点から小泉交差点の手前までの区間では県道よりも距離が短く両者を一本道で結ぶ市道1055号[5]が存在し、通常こちらの道が代替される。 桶川市川田谷から北本市高尾までは、当路線の西側に圏央道桶川北本ICとそれに接続する形で国道17号上尾道路が暫定開通した為、こちらの利用者による交通量の増加および歩行者・自転車の安全確保により各所で拡幅・歩道の増設工事が行われている。 また、国道463号(埼大通り)のバイパス機能として期待されている4車線道路の都市計画道路道場三室線の常盤7丁目交差点(さいたま市浦和区)以西は当県道のバイパスに指定されている。さいたま市桜区下大久保交差点から南下し桜区役所入口交差点で東に折れ、新大宮バイパスを交差し、埼玉りそな銀行前の国道17号に至るルートをとっている(その先は国道463号の越谷浦和バイパスとなっている)。2011年(平成23年)2月9日に、常盤7丁目交差点からさいたま市中央区鈴谷一丁目付近の与野中央通りとの交差点まで部分開通し、後に与野中央通りとの交差点から新大宮バイパスの区間までが建設される予定となっている。 起点・終点[編集] 埼玉県さいたま市浦和区常盤 国道17号・国道463号(重複)交点 埼玉県鴻巣市本町 本町交差点 通過する自治体[編集] 通称[編集] 新六間道路(起点から桜区道場付近まで) 川田谷県道(鴻巣市から桶川市川田谷まで。旧県道川田谷鴻巣線) 中仙道線/旧中山道(埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線との共用区間である北本市・鴻巣市境界 –

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続・まりなりなぁ! – Wikipedia

続・まりなりなぁ!は、2005年11月23日に発売された大野まりなの三作目のオリジナルミニアルバム[1]。 帯文句は「命、ぎりぎり。」 作品に合わせてアイドル歌謡風につくられた曲が含まれるため、前作のまりなりなぁ!に比べ、合いの手などを多用する典型的な萌えソング(電波ソング)の色は多少薄まっているが、全体には加工した声が特徴的な萌えソングのアルバムである。中でも、「ちゅいんちゅい~ん」を繰り返すちゅい~ん!はあえてLONG REMIX版が追加収録された。 ジャケットとブックレットでは、メイドカフェでメイドに扮装した大野まりなが、畑亜貴と細江慎治をもてなす趣向になっている[注 1]。 前作同様にミニアルバムであるが、これは電波ソングをあまりに長時間聞くと聞き手の精神に負担をかけるのではないかという大野の配慮による。 瞳にパノラマ・ブルー (「蒼い海のトリスティア(OVA)」キャラクターソング) 作詞・作曲・編曲:畑亜貴 ちゅい~ん! (「やきもちツインベル」テーマソング) Magical Valentine (「わが魔々かぷりちお」テーマソング) 作詞:米倉俵(有限会社りっくりっく) 作曲・編曲:吉原かつみ Virgin SNOW (「Virgin

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がうる・ぐら – Wikipedia

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