Month: February 2019

橋本昌彦 – Wikipedia

橋本昌彦(はしもと まさひこ、1979年10月12日 – )は、日本のシンガーソングライター。熊本県出身。関西大学卒業。血液型はO型。 プラネタリウム番組「LIFEいのち」の監督・脚本・音楽・ナレーション[1]、および講演活動も行う[2][3]。 プロフィール[編集] 熊本県水俣市出身。熊本市、鹿児島市での生活を経て、関西大学に進学。オーストラリア・メルボルンでの人生修行中にヴォーカルオーディションに合格し、シンガーとしてのキャリアをスタートさせる。アマチュアバンドのヴォーカリストとしてクラブやカフェなどでのLIVEを通じ知名度が広がり、メルボルンフェスティバルやモナッシュ大学、メルボルン大学のコンサートホールに出演するなど、徐々に活動の場を広げる[4]。 次第に自分の音楽性とオリジナリティーを求めるようになり、日本帰国を決意。作詞作曲を始める。帰国後は関西を中心に活動を始め、バナナホールなどのライブハウスやクラブでシンガーソングライターとしての出演を重ねる。 2005年、自身のホームグラウンドである九州での活動を志し、その中心地である博多に拠点を移す。それからすぐに書きためた楽曲をレコーディングし、9月21日にファーストアルバム『LOVE STORIES』を九州地区限定で発売。 2006年4月5日 ヒップランドミュージックよりファーストアルバム『LOVE STORIES』を全国発売。 2007年 サウンドプロデューサーに羽毛田丈史を迎えセカンドアルバムの制作に取り組む。 2008年2月25日 「your sleeping face」配信リリース。 2009年 都内表参道を中心にライブ活動を展開。

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石村英雄 – Wikipedia

石村 英雄(いしむら ひでお、1903年(明治36年)9月[1][2][3] – 1963年(昭和38年)4月24日[1][2][3])は、昭和期のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員。 山口県出身[1][2][3]。1926年(大正15年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した[1][2][3]。 中外商業新報社に入社し記者として勤務[1][2][3]。山口市会議員、山口県燃料配給統制組合理事長、山一燃料取締役社長、山口県地方労働委員会委員、中日文化研究所理事などを務めた[1][2][3]。 1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙に山口県第2区から左派社会党公認で出馬して初当選し[2][3][4]、その後、1960年(昭和35年)11月の第29回総選挙まで再選され[5]、衆議院議員に連続4期在任した[1][2][3]。この間、日本社会党政策審議会財政金融委員長、同塩業対策特別委員長、同政策審議会副会長などを務めた[1][2][3]。1963年4月、議員在任中に死去した。 ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 – 衆議院議員名鑑』66頁。

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血液の食用利用 – Wikipedia

ブラッドソーセージ。調理法は各地域によって異なるが、ヨーロッパや東アジアなど世界各地で作られる。 本項目では、血液の食用利用(けつえきのしょくようりよう)について述べる。食料としての血液はブラッドソーセージやソースの増粘剤として加工されたり、食料不足の時期には塩で硬化した(英語版)形として利用されたり、スープとして供されたりするなど、様々な利用法が存在する[1]。これらの血液はしばしば家畜の屠殺の際に採取されて容器に入れられ、速やかに消費や加工が行われる。血液を食料とすることを禁忌としている文化も存在する。血を使った料理にはソーセージやパンケーキ、スープやシチューの材料としたり、固化させた料理にしたりといったように様々な地域において、多くの料理が知られている。中には、調理を行わずに血液をそのまま飲む民族も存在している。血液は調理前に凝固させたり、調理中に凝固を促進させたりすることで、固形の食材として扱うこともできる。動物の血液はタンパク質と水を主成分とし、成分の類似性ゆえ時折「液体の肉」と喩えられる。衛生的に採取された血液は食用に使われるが、そうでない場合、血粉(英語版)に加工される。まれではあるが、人間用の医薬品として使われることもある[2]。 血を食することと文化[編集] 血液を食のタブーとしている文化もある。ユダヤ教やイスラム教では、血を飲むことはクルアーン第5章「食卓」の第3節で禁じられている。新約聖書ではエルサレム会議によって血を飲食することは禁じられている (Acts 15:19-21) 。他方、キリスト教諸宗派の多くでは、聖餐においてはぶどう酒とパンをキリストの血肉として飲食する。1662年に出版された英国国教会の「Book of Common Prayer」という書物では、この飲食を「宗教上の食べ物」と説明している。一方で、ギリシャ正教会では今でも血を飲むことは禁じられている[3]。 ナイジェリアのイボ人は血を食することに対して明確に禁じるルールはないものの、血を嫌悪し、調理していない肉や血にまみれた肉を食することを拒む傾向にある。 血への忌避は、大量の血の摂取が毒になるという事実に根差したものである可能性もある[4]。 各地域の状況[編集] アフリカ[編集] マサイ族では、特に割礼や子供の誕生の後など特別な機会において、羊の血液が飲まれている[5]。 アジア[編集] 日本[編集] 肉食、牧畜の伝統が浅い日本本土においては、血を食用とする文化はほとんど存在しない。だが栃木県日光市栗山村の猟師の間にはブラッドソーセージの一種が伝承されている。ツキノワグマ、ニホンジカ、カモシカなど大型の獲物を解体する折、結腸の部分を30㎝程の長さに切り、内容物をしごき出して裏返しにした上で血を注ぎ込んで密封し、茹でて醤油をつけて食べる。この食品は「それそれ」と呼ばれる[6]。 沖縄[編集] 沖縄の食文化において、豚肉は重要な食材である。戦前の沖縄では豚を屠畜する際に血を集め、豚血入りの野菜炒め・チーイリチーを作った。

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丸沼温泉 – Wikipedia

丸沼温泉(まるぬまおんせん)は、群馬県利根郡片品村(旧国上野国)にある温泉である[6]。鎌田温泉、片品温泉、幡谷温泉、丸沼温泉の4つの温泉と共に片品温泉郷を構成している。 源泉:丸沼温泉(1号泉・2号泉)[7]。ナトリウム-硫酸塩・塩化物泉[8]。無色透明[9]。 一軒宿[10]。 源泉は丸沼の北岸1kmに湧出口があり、流紋岩の切裂より噴出している[11]。丸沼の底から温泉が噴出しているところもある[12]。文豪の開高健は同ホテルを定宿にしており[13][14][注釈 1]、幸田露伴や井伏鱒二なども温泉を愛し、幸田露伴はここを舞台に小説『対髑髏』を残している[9][15]。宿では温泉を使いきれないため、一部を沼に放流している[16]。 シャレ―丸沼やセンターステーション、白根山荘など丸沼高原にある温泉は「座禅温泉」となっている[17][18][19]。 積雪のため営業期間は4月下旬から11月中旬ごろまでである[20]。 開湯時期ははっきりとしていないが、18世紀末より利用されており、かつては沼入の湯と呼ばれていた[8]。1791年(寛政3年)石工により発見された[5]。あるいは『片品村史』によると、1792年(文化4年)、上小川村の平四郎が案内した珍郷というものが開発し、1798年(文化10年)、珍郷の息子栄次郎が道を開いたという[21]。明治期からは千明森蔵の別荘になっていたが[5]、1933年(昭和33年)、別荘を丸沼観光ホテルとして環湖荘湯沢館が開業し、2001年(平成13年)に環湖荘丸沼館を改築している[22][23]。 参考文献[編集] 片品村『片品村史』(1963) 地質調査所『日本温泉・鉱泉分布図及び一覧』(1975) 地質調査所『日本温泉・鉱泉分布図及び一覧』(1992) 木暮敬、萩原進『群馬の温泉』(上毛新聞社、1980) 『群馬県の地名』(平凡社、1987) 『角川日本地名大辞典』(角川書店、1988) 『全国温泉大事典』(旅行読売出版社、1997) 『群馬の源泉一軒宿』(上毛新聞社、2009) 『新ぐんまの源泉一軒宿』(上毛新聞社、2014) 小暮淳『尾瀬の里湯』(上毛新聞社、2015) 週刊朝日編集部『文豪が泊まった温泉宿50』(朝日新聞出版、2019)

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有馬晴純 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “有馬晴純” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年2月)   凡例 有馬晴純 時代 戦国時代 生誕 文明15年(1483年) 死没 永禄9年2月28日(1566年3月19日) 別名 賢純・義純・義統(別名)、仙巌・南明軒(号)

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パブロ・ラライン – Wikipedia

パブロ・ラライン(スペイン語: Pablo Larraín, lah-rah-EEN, 1976年8月19日 – )は、チリ・サンティアゴ・デ・チレ出身の映画監督・脚本家・映画プロデューサー。 青年期[編集] 父親は独立民主連合選出の上院議員であるエルナン・ラライン(スペイン語版)、母親はセバスティアン・ピニェラ政権で住宅・都市大臣を務めたマグダレーナ・マッテ(スペイン語版)である。ララインは1976年8月19日にサンティアゴ・デ・チレに生まれ、サンティアゴのチリ芸術科学情報通信大学(英語版)で視聴覚コミュニケーションを学んだ。 映画製作[編集] ララインは彼の作品の映画事業や広告事業を展開しているファブラ社の共同創設者である[1]。2005年には初の長編映画『Fuga』を監督し、2006年3月に公式に公開された。この作品はカルタヘナ映画祭やマラガ映画祭などで受賞し、ララインは国際的な名声を得た[2]。2作目の『トニー・マネロ(英語版)』でも国際的な成功を継続させた[3]。この作品は2008年の最優秀チリ映画賞を受賞し、日本では2008年の第5回スペイン・ラテンアメリカ映画祭(現・ラテンビート映画祭)と2013年の第10回ラテンビート映画祭で上映された[4]。 2012年にはガエル・ガルシア・ベルナルを主演に据えて、1988年にチリで行われた国民投票(英語版)のキャンペーンを描いた『NO』を監督した。この国民投票はアウグスト・ピノチェト独裁政権の是非を問う国民投票であり、ガルシア・ベルナルはピノチェト反対派のCMを製作する広告マンを演じている。この作品はカンヌ国際映画祭の監督週間で上映され[5][6]、アートシネマ賞を受賞した[7]。第85回アカデミー賞では外国語映画賞チリ代表作品となり[8][9]、本戦ノミネートも果たした。日本では2012年の第25回東京国際映画祭のコンペ部門に出品され、2013年の第10回ラテンビート映画祭で上映、2014年8月30日には一般劇場公開された[9]。 2011年から2013年にはHBOラテンアメリカが制作したテレビドラマ『Prófugos』の共同監督を務めた[10]。2013年には第70回ヴェネツィア国際映画祭の審査員を務めた[11]。 2014年3月24日、The Wrapはララインがアメリカ映画『スカーフェイス』のリメイクを交渉中であると報じた。リメイク版は現代のロサンゼルスを舞台とし、地下犯罪組織でのし上がるメキシコ移民を中心に展開するという[12]。2015年に製作した『ザ・クラブ』は、ベルリン国際映画祭で審査員グランプリを受賞した。日本では第12回ラテンビート映画祭(2015年)で上映された[13]。2016年1月の第73回ゴールデングローブ賞では外国語映画賞にノミネートされた。 政治思想[編集] 右派の政治家である両親の下に生まれたが、彼が監督した作品の中で右派に通じるものはない。ララインは1970年代から1990年代に独裁体制を築いたピノチェト政権の熱心な反対者である。ララインは2008年に、「ピノチェト政権内の右派は過去数十年間にチリの文化面に起こったことに対する直接の責任がある。文化を破壊したり、拡散を制限しただけではない。著作家や芸術家の迫害を通じてもだ」と述べている。ララインは、「チリではほぼ20年間に渡って、芸術性そのものを表現できなかった」「世界中の右派はたいして芸術に興味を持っていない。芸術の知識を持ちあわせないと、最大限に活用したり楽しんだりするのは難しい」とも述べた[14]。 家族[編集] 2006年12月9日にチリ人女優のアントニア・セヘルス(スペイン語版)と結婚した[15]。2008年に長女が[16]、2011年に長男が生まれた。 フィルモグラフィー[編集]

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チアントレン – Wikipedia

チアントレン(Thianthrene)は、硫黄を含む複素環式化合物である。ジチインと呼ばれる複素環式化合物の誘導体である。容易に酸化されることで知られる。 構造と合成[編集] 他の1,4-ジチインと同様に、しかしその酸素アナログであるジベンゾジオキシンとは異なり、チアントレンの形は平面状ではない。2つのベンゾ基の間は128°の角度で曲がっている[2][3][4]。 チアントレンは、塩化アルミニウムの存在下でベンゼンを二塩化二硫黄で処理することにより生成する[5]。 チアントレンはジョン・ステンハウスによって、ベンゼンスルホン酸ナトリウムを乾留することで初めて得られた[6]。チアントレンは硫酸により酸化され、赤色のラジカルカチオンを形成する[7]。チアントレンイオンは電子スピン共鳴により特徴付けられている。4つの異なる論文で、チアントレン塩の結晶構造が述べられている[8]。 ^ Thianthrene at Sigma-Aldrich ^ Hosoya, S. (1963). “Molecular shapes of thianthrene and related heterocyclic

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浅見耕司 – Wikipedia

浅見 耕司(あさみ こうじ、1949年5月 – )は、日本の生物学者。京都大学化学研究所准教授。専門は生体膜の生物物理学的研究。 来歴・人物[編集] 1972年、埼玉大学理工学部生化学科卒業。 1977年、京都大学大学院理学研究科博士後期課程修了。理学博士(京都大学)。 1979年、高知医科大学医学部助手を経て、1986年より京都大学化学研究所助教授。 著書・論文[編集] 著書[編集] 共著[編集] 『膜学実験シリーズ 第1巻 生体膜編』日本膜学会編、共立出版、1994年 『実験化学講座9 電気磁気』丸善、1991年 『実験生物学講座6 細胞分画法』丸善、1984年 論文[編集]

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オーストラリア放送協会 – Wikipedia

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嶲州 – Wikipedia

嶲州(巂州、すいしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から唐代にかけて、現在の四川省涼山イ族自治州一帯に設置された。 537年(大同3年)、南朝梁の武陵王蕭紀により嶲州が立てられた。 570年(天和5年)、北周の鄭恪が越嶲を平定し、西寧州を置いた[1]。ほどなく西寧州は厳州と改称された。 586年(開皇6年)、隋により厳州は西寧州と改称された。598年(開皇18年)、西寧州は嶲州と改称された。嶲州は越嶲・邛都・蘇祗・可泉・台登・邛部の6県を管轄した。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、嶲州は越嶲郡と改称された[2]。 618年(武徳元年)、唐により越嶲郡は嶲州と改められた。嶲州は剣南道に属し、越嶲・邛部・台登・蘇祗・西瀘・昆明・会川の7県を管轄した。742年(天宝元年)、嶲州は越嶲郡と改称された。757年(至徳2載)、越嶲郡は吐蕃に占領された。758年(乾元元年)、形式的ながら唐の越嶲郡は嶲州と改称された[3]。797年(貞元13年)、唐の韋皋が嶲州を奪回した[4]。831年(大和5年)、南詔が嶲州に侵攻し、2県を奪った。832年(大和6年)、唐により嶲州は台登県に州治を移された[5]。咸通年間に嶲州全域は南詔に占領され、建昌府と改められた[6]。 ^ 『周書』武帝紀上 ^ 『隋書』地理志上 ^ 『旧唐書』地理志四 ^ 『旧唐書』徳宗紀下 ^ 『旧唐書』文宗紀下 ^ 『元史』地理志四 表 話 編

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