Month: March 2019

四聖人の殉教 – Wikipedia

『四聖人の殉教』(しせいじんのじゅんきょう、伊: Martirio di quattro santi, 英: Martyrdom of Four Saints)は、イタリア、ルネサンス期のパルマ派の画家コレッジョが1524年頃に制作した絵画である。油彩。主題は聖プラキドゥス(英語版)、聖女フラヴィア、聖エウティキウス、聖ウィクトリヌスの殉教である[1]。同時期の『キリストの哀悼』(Compianto sul Cristo morto)の対作品であり、いずれもパルマのサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂(英語版)のデル・ボーノ家(Del Bono family)の礼拝堂祭壇画として制作された。現在はパルマ国立美術館に所蔵されている[1][2][3][4][5]。 6世紀頃の聖プラキドゥスと聖女フラヴィア、聖エウティキウス、聖ウィクトリヌスは4人兄弟であり、ローマの元老院議員テルトゥルス(Tertullus)の子供として生まれた。聖プラキドゥスは聖ベネディクトゥスの最初の弟子の1人であり、宣教の命を受けてメッシーナに赴き、フラヴィアと2人の兄弟もそれに加わったが、サラセン人の海賊によって殉教したとされる[5]。 制作経緯[編集] 発注主はパルマの貴族でローマ教皇パウルス3世の告白者であった[4]プラシド・デル・ボーノ(Placido del Bono)である[5]。この発注はコレッジョがちょうどサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂のクーポラに制作された天井画『パトモスの聖ヨハネの幻視』(Vision

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渋川へそ祭り – Wikipedia

渋川へそ祭り(しぶかわへそまつり)は、群馬県渋川市で毎年7月に行われる祭り。腹に顔の絵を描いた参加者が踊り歩く「はら踊り」で知られる[1]。 群馬県渋川市の位置市のキャッチフレーズは「日本のまんなか 水と緑といで湯の街 渋川市」である[2]。 始まり[編集] 渋川市におけるへそ祭りは、1983年(昭和58年)に寄居町へそ祭りとして開催されたのが始まりである[3]。大型店が郊外に進出する中、古い宿場の町並みが残る渋川市中心商店街はモータリゼーションへの追従が難しく、沈滞ムードが漂っていた[4]。商店街の催し物としては、1974年(昭和49年)に始まった歩行者天国があったが、マンネリ化から廃止の声が上がり、1986年(昭和61年)に廃止されてしまった[4]。また、渋川市の祭りとしては古くからの祇園祭が発展した渋川山車祭りがあったが、開催は1年おきであったことから知名度が低く、群馬県内の年中行事を紹介する旅行ガイドブックに掲載されないほどであった[5]。そこで、渋川商工会議所は商店街の活性化を目的に、渋川市が日本の真ん中、すなわち「へそ」に当たることから、「へそ祭り」の開催を企画した[3]。 1983年7月、渋川商工会議所の副会頭にして渋川寄居町の役員でもあった石北市太郎は、寄居町商友会のメンバーとともに、へそ祭りの先進地である北海道富良野市に赴き、北海へそ祭りを視察[5]。地元寄居町の協力に加え、市や商工会議所の賛同を得て、同年8月にへそ祭りを2日間に渡って開催した[5]。客に振る舞うために用意した500個のへそ饅頭が瞬く間に品切れとなるほどの集客で、祭りは成功裏に終わった[5]。 年中行事へ[編集] 寄居町へそ祭りの成功を受け、へそ祭りは渋川市の年中行事として、毎年7月25日から7月26日の2日間で開催されるようになった[3]。当時の渋川市長・登坂秀は、市の予算に補助金を計上するなど積極的に支援し、これまで毎年個別に開催されてきた渋川七夕まつりや、みゆきだ花火大会を、へそ祭りの一環として組み入れた[6]。1989年(平成元年)度の時点で、祭りの参加団体は渋川市役所や群馬銀行など45を数え、踊り手は3,000人、見物客は15万人であった[5]。 なお、東日本大震災があった2011年(平成23年)度以降は、期間を短縮して1日のみの開催となっている[1]。 参考文献[編集] 渋川市誌編さん委員会編集『渋川市誌 第三巻 通史編・下 近代・現代』渋川市、1991年3月31日。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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フランチェスコ1世・デステ – Wikipedia

フランチェスコ1世・デステFrancesco I d’Este モデナ=レッジョ公 在位 1629年7月25日 – 1658年10月14日 出生 (1610-09-06) 1610年9月6日 モデナ=レッジョ公国、モデナ 死去 (1658-10-14) 1658年10月14日(48歳没) サヴォイア公国、ヴェルチェッリ、サンティア 配偶者 マリーア・ファルネーゼ   ヴィットーリア・ファルネーゼ

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村上清加 – Wikipedia

村上清加 選手情報 国籍 日本 種目 短距離走・跳躍 生年月日 (1983-07-02) 1983年7月2日(38歳) 生誕地 東京都 身長 157cm 編集  村上 清加(むらかみ さやか、1983年7月2日[1] -)は、日本の陸上アスリート。東京都江戸川区出身[2]。千葉県印西市在住[3]。 「スタートラインTOKYO(旧ヘルスエンジェルス)」所属。大腿義足の200m走と走幅跳の前日本記録保持者(現在は更新されている)。夫は元・陸上選手で[4]、コーチも務めている村上健二[1]。 2009年4月、25歳の時に駅のホームで貧血を起こし、線路に転落。電車に轢かれ右足大腿部切断と左足粉砕骨折の大怪我を負う[1][5]。

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有声舌唇破裂音 – Wikipedia

有声舌唇破裂音(ゆうせいぜっしんはれつおん、英: Voiced linguolabial plosive、voiced linguolabial stop)は、一部の音声言語で使用される子音の一種である。これを表わす国際音声記号は ⟨d̼⟩ または ⟨b̺⟩。 特徴: 調音方法は閉鎖であり、これは声道中の気流を遮ることによって生み出されることを意味する。鼻から排気されない口音でもあるため、気流は完全に妨げられ、そして子音は破裂音になる。 調音部位は舌唇であり、これは上唇に対して舌を使って調音されることを意味する。 発声は有声であり、これは調音の間に声帯が振動することを意味する。 口音であり、これは空気が口だけから抜けることができることを意味する。 気流機構は肺臓的であり、これは、ほとんどの音と同様に、肺と横隔膜だけで空気を押すことによって調音されることを意味する。 この節の加筆が望まれています。 (2010年8月) ビジャゴ語におけるこの舌唇音は一般的にたたき音 [ɾ̼] として実現される。

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第88回全国高等学校野球選手権大会智辯和歌山対帝京 – Wikipedia

第88回全国高等学校野球選手権大会智辯和歌山対帝京(だい88かいぜんこくこうとうがっこうやきゅうせんしゅけんたいかいちべんわかやまたいていきょう)は、2006年8月17日に阪神甲子園球場で行われた高校野球の試合である。 この年の全国高等学校野球選手権大会に、和歌山代表として出場した智辯学園和歌山高等学校(以下「智弁和歌山」)と、東東京代表として出場した帝京高等学校(以下「帝京」)が、大会の準々決勝で対戦した。試合は両校合わせて29安打25得点を記録する乱打戦となり、後に「甲子園史上最も壮絶な試合」と呼ばれるようになった[3]。 対戦に至るまで[編集] 智弁和歌山は、2年連続で全国高等学校野球選手権大会に出場していた。1年生の頃から公式戦に出場していたメンバーが多く元々期待されていた世代だったこの年の3年生は、前年の大会の決勝を観戦し、田中将大の投球を目の当たりにして衝撃を受けていた[4]。監督の高嶋仁も、その後開催された第36回明治神宮野球大会を視察して田中の投球に驚き、以降、チームは田中を攻略することを目標に掲げ、徹底的にバットを振り込み今大会に臨んでおり、3回戦でも大会屈指の剛腕と呼ばれていた八重山商工の大嶺裕太を打ち崩すなど強打を発揮していた。 帝京は、4年ぶりに全国高等学校野球選手権大会に出場した。東東京大会では、持ち前の強打に加えて機動力を駆使した戦いぶりを見せ、「新しい帝京のイメージを植え付けた」と評されていた[6]。 試合前は、総合力で智弁和歌山が優勢と見られていた[7][8]。 試合経過[編集] 8回まで[編集] 試合は、帝京が先攻、智弁和歌山が後攻で始まった。2回裏、智弁和歌山は帝京の先発投手・高島祥平から馬場一平が3点本塁打を放ち先制[9]。高島はマウンドを降板する。 帝京も4回表、智弁和歌山の投手陣を攻め、2番手で登板した竹中孝昇から、塩澤佑太と杉谷拳士が二塁打を放ち2点を返す[10]。しかし、智弁和歌山はその裏、高島に代わって登板していた垣ヶ原達也から、馬場と上羽清継の本塁打で計3点を追加[11]。さらに7回裏には廣井亮介が2点本塁打を放ち、これを受けて帝京は垣ヶ原に代えて大田阿斗里をマウンドに送る[12]。 帝京は8回表、塩澤が2点本塁打を放ち、点差を4点とする。 9回表[編集] 帝京の9回表の攻撃は大田からだったが、帝京はここで代打として沼田隼を起用する[14]。沼田は三塁ゴロに倒れるが、その後、帝京は二死走者一、二塁とチャンスを作る[14]。ここから中村晃、塩澤、雨森達哉、我妻壮太の4連打で1点差とし、杉谷の2点適時打で逆転に成功する[16]。さらに、打者一巡で再び打席に立った沼田が3点本塁打を放つ[3]。 このホームランを受けて、智弁和歌山は竹中に代えて松本利樹をマウンドに送る。松本は不破卓哉を1球で三塁ゴロに打ち取り[14]、攻守交代となる。 帝京はこの回の攻撃で一挙8得点を挙げ、8回終了時点とは逆に智弁和歌山に4点差をつけた。帝京の監督・前田三夫は8点取ったことでこの試合は自分たちの勝利だと思い[16]、杉谷も、沼田がホームランを打った際に「勝った」と思ったという。一方、智弁和歌山の古宮克人は、松本が1球で不破を打ち取ったことで「これまだ、行けるんちゃうか」と思ったという。 9回裏[編集] 9回表の攻撃で大田に代打を送っていた帝京は、9回裏、中堅手の勝見亮祐をマウンドに送る。勝見は2者連続で四球を与えてしまい、智弁和歌山は無死走者一、二塁というチャンスを得る[20]。ストライクが1球しか入らない勝見は動揺に漬け込まれたのか橋本良平が3点本塁打を打たれてしまい、智弁和歌山は点差を1点に縮める[4]。 勝見は、続く亀田健人にも四球を与えてしまい[21]、これを受けて前田は、遊撃手の杉谷にマウンドに登るよう指示を出す。しかし、杉谷は松隈利道に初球で死球を与えてしまい、帝京は杉谷に代えて、打撃投手を務める岡野裕也をマウンドに送る。 智弁和歌山は代打・青石裕斗が岡野から適時打を放ち、同点に追いつく[21]。その後、岡野は2者連続で四球を与えてしまい、智弁和歌山は押し出しで決勝点を得てサヨナラ勝ちを収めた。 試合時間は2時間27分。最終的なスコアは13

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アイティオピス – Wikipedia

『アイティオピス』(ギリシア語: Αἰθιοπίς, Aithiopis, ラテン語: Aethiopis)は、古代ギリシアの叙事詩で、トロイア戦争を描いた叙事詩環の1つ。話の年代順にいうと『イーリアス』の直後の話になる。作者はミレトスのアルクティノスと言われる。全部で5巻から成り、ダクテュロス・ヘクサメトロス(長短短六歩格)で書かれている。しかし、わずかに断片が残っているだけである。 創作年代 『アイティオピス』は紀元前7世紀頃に作られたと言われるが、確かではない。古代の文献は紀元前8世紀としていたが、主要登場人物の1人であるペンテシレイアが芸術の中で表現された最古のものは紀元前600年頃で、それ以降に書かれた可能性もある。 テキスト 『アイティオピス』のオリジナルのテキストはわずか5行が残っているだけである。内容については、プロクロスの『Chrestomathy』の書いた「叙事詩の環」の散文のあらすじに頼るしかない状況である。 内容 『イーリアス』のラストのヘクトールの葬儀の直後から話ははじまる。 アマゾーンの女戦士ペンテシレイアがトロイアの援軍として到着する。戦闘で束の間の勝利を得た後、ペンテシレイアはギリシア軍のアキレウスに殺される。 アキレウスがペンテレイシアに恋していたと言ったのを、同じギリシア軍兵士のテルシーテースが嘲笑う。アキレウスはテルシーテースを殺し、それで罪を浄める。 ヘーパイストスの作った鎧をつけたメムノーン(エーオースとティートーノスの子)が、エティオピア軍(このエティオピアは、現在のエチオピアとする説と、現在のイスラエル、ヨルダン、エジプトの一部を含み、ヤッファを都としたフェニキアの王国とする説[1]がある)を率いてトロイアの加勢にやって来る。 戦いの中で、メムノーンがギリシア軍戦士アンティロコス(ネストールの子)を殺す。アンティロコスはアキレウスの大のお気に入りだったため、アキレウスはメムノーンを殺害。ゼウスはエーオースの頼みでメムノーンを不死にする。しかしアキレウスの怒りはおさまらず、トロイアの城門までトロイア軍を深追いする。そしてスカイアイ門で、アポローンの助けを得たパリスの放った矢によってアキレウスは死んでしまう。アキレウスの死体は大アイアースとオデュッセウスが回収する。 ギリシア軍はアンティコロスの葬式を行う。 アキレスの母親で海のニュンペー(ニンフ)のテティスが姉妹たち、ムーサイ(ミューズ)とやって来て、アキレスの死を嘆き悲しむ。 アキレウスを讃えて葬式の競技が催される。勝者には賞品としてアキレウスの武具が与えられるという。それをめぐって、大アイアースとオデュッセウスの間で確執が広がる。 話はそこまでで、『小イーリアス』に続く。 影響

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リクレル数 – Wikipedia

リクレル数(Lychrel number)とは、桁を前後反転させたものと自身との和を求め(この操作をリクレルプロセスと呼ぶ)、得られた値について同様の操作を繰り返したときに回文数にならない自然数のことである。このプロセスは、これに関連する最も有名な数に因んで「196アルゴリズム」と呼ばれることもある。十進数におけるリクレル数の存在はまだ証明されていないが、196などの多くの数がヒューリスティクス[1]や統計的根拠に基づいてリクレル数であることが予想されている。リクレル(Lychrel)という名前は、ウェイド・ヴァンランディンガム(Wade VanLandingham)が、自身のガールフレンドのファーストネームであるシェリル(Cheryl)のアナグラムから名付けたものである[2]。 リクレルプロセス[編集] リクレルプロセスとは、桁を反転させた物と自身との和を求める操作である。例えば、56なら 56 + 65 = 121 、125なら 125 + 521 = 646 のようになる。いくつかの数は、リクレルプロセスを繰り返す(得られた数字についてリクレルプロセスを適用する)と回文数になる。最終的に回文数になるものは、リクレル数ではない。1桁と2桁の数字は全て、リクレルプロセスを繰り返すと最終的に回文数になる。 10,000以下の数字の約80%は4ステップ以内、約90%は7ステップ以内に回文数になる。ここでは、リクレル数ではない数の例をいくつか挙げる。 56 は、1ステップで回文数になる:

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長野師管区部隊 – Wikipedia

長野師管区部隊(ながのしかんくぶたい)は、1945年4月から11月まであった大日本帝国陸軍の師管区部隊の一つである。長野師管区の防衛と徴兵・動員・訓練などにあたった。上級部隊は東部軍管区部隊である。8月の敗戦後もしばらく存置され、10月末に解散した。 部隊の編成[編集] 師管区は1945年4月に師管を改称して設けられ、師管区部隊は師管区の防衛と管区業務に専念する部隊として、従来の留守師団を転換して編成された。師管区部隊は、留守師団を構成した司令部・補充隊のほか、管区内の様々な非戦闘部隊・官衙もまとめられ、全体としてはかなり雑多な集まりである。長野師管区では、留守第54師団司令部が3月31日に長野師管区司令部に改称して発足した[1]。 師管区部隊の中心となる補充隊は、兵士を教育・訓練する組織である。新潟県新発田市にあった歩兵第3補充隊のほかは、長野市を中心として長野県の各地に分散配置された[2]。師管区司令部と補充隊は、多数の部隊の補充担任となっていた[3]。 管区内には複数の陸軍病院があり、師管区部隊の一部であるものと、軍管区に直属するものがあった。4月1日施行予定で2月に発した達では、松本陸軍病院と新発田陸軍病院が長野師管区司令官に隷属することと定められた[4]。これが7月10日頃には長野、松本、新発田、村松の4病院が師管区部隊とされた[5]。 師管区の防衛[編集] 東部軍管区司令官は第12方面軍司令官の兼任で、東部軍管区部隊は第12方面軍司令官の指揮下にあり、長野師管区部隊もそこに含まれた。第12方面軍は関東の防衛にあたり、敵の上陸の可能性がない長野師管区には作戦部隊をほとんど配置しなかった。そのため、長野師管区では師管区部隊が防衛を担い、配置された部隊は師管区部隊に配属という扱いになった。新潟に置かれた第3警備隊は、4月15日の第12方面軍の命令で、長野師管区司令官の指揮下に入った[6]。6月時点では他に高射砲1個大隊、機関銃3個中隊も配属されていた。 敗戦と復員[編集] 8月15日に日本がポツダム宣言を受諾し、戦争が終わると、陸軍は解体されることになり、各部隊は次々に復員(解散)した。しかし、師管区部隊は復員業務と治安維持のためにしばらく存置された。砲兵補充隊と工兵補充隊は9月15日に復員したが、他の補充隊はその後になった[2]。 内地の師管区司令部は陸軍省廃止直前の11月末に一斉に復員し[7]、長野師管区部隊も廃止になった。実質的には司令部が第一復員省東部復員監部長野支部に転換したが、人員は55人と少なくなった[8]。 編制と定員[編集] 戦後に作成された『東部軍管区編制人員表』による。軍人と軍属は分けて数えた。各部隊の定員はいくらか変遷しており、ここに載せたのは最後のものである。補充隊の中隊と装備は戦史叢書の『本土決戦準備』による[9]。「東部11部隊」などは部隊の通称号である[2]。 長野師管区司令部 – 365人(うち兼任1人)、軍属32人。 長野師管区制毒訓練所 – 28人(うち兼任1人)、軍属1人。 長野陸軍拘禁所 –

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