Month: August 2019

ムパンダ – Wikipedia

ムパンダは、カタビ州の州都である。2012年まではルクワ州に属していたものの、ルクワ州が分割され、ムパンダが州都になった。なお、東アフリカにおけるムパンダの郵便番号は、50100である。 地理・交通[編集] ムパンダはカタビ国立公園に比較的近く[1][注釈 1]、この公園へのアクセスの足掛かりとしても機能する。 鉄道[編集] タンガニーカ湖東岸のキゴマ州の州都であるキゴマから、タボーラ州の州都であるタボラへと向かい、さらに東へと向かう鉄道路線が中央線(英語版)である。この中央線が通るタボーラ州のカリウアからは、南西方向へ支線が伸びており、その終点がムパンダである[1]。なお、タボラからムパンダまで客車列車で向かった場合の所要時間は、だいたい12時間から15時間である。 タンザニアの鉄道路線の概略図。タンガニーカ湖東岸のKigomaから、Taboraへと向かう路線の途中で、南西へと分岐している路線が有る。この路線の終点が、ムパンダ(Mpanda)である。 道路[編集] ムパンダには、タボラやキゴマ方面以外に、タンザニア南西端部のスンバワンガからも、未舗装の道路が通じている。ただし、ムパンダ付近は例年2月や3月が雨季であり、この時期には降雨のせいで、道路が通行不能に陥る場合がある。 このような状況を打開するために、タンザニア政府は、スンバワンガより北のムパンダを通る幹線道路を、21世紀初頭時点で舗装する計画を進行させようとしている。 バス[編集] 道路が通行可能であれば、バスが運行されている。 近郊バス[編集] ムパンダ近郊のカタビ国立公園の傍のシタリケの町まで、小型バスが運行されている。 他に、ムパンダの南西、タンガニーカ湖の湖岸の漁村であるカレマ(英語版)などへも、毎日バスが運行されている。 長距離バス[編集] ムパンダから約240 km南のスンバワンガまで、片道5時間程度かけて走るバスが1日に2本運行されている。さらに、そのうち1本のバスは、スンバワンガよりも遠くへ、ムベヤ州の州都であるムベヤまで走る。 また、ムパンダからは北東のタボラへも、約380 kmの道程を、約9時間かけて走るバスが運行されている。 航空[編集] 2012年にムパンダ空港は設備が増強され、長さ約2 kmの舗装された滑走路が完成し、供用を開始した。ムパンダ空港へは、2012年現在、Auric航空が就航している[2]。

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ワットフォード・ジャンクション駅 – Wikipedia

ワットフォード・ジャンクション駅(ワットフォード・ジャンクションえき、英語:Watford Junction station)は、イギリスのワットフォード中心部の主要な鉄道駅である。ネットワーク・レールの管理下にあり、ウェスト・コースト本線の途中駅、ウェスト・コースト本線の支線にあたるアビー線(英語版)の起点、そしてワットフォード直流線(英語版)の北端である。 アヴァンティ・ウェスト・コースト、ロンドン・ノースウェスタン・レールウェイ(ウェスト・ミッドランズ・トレインズ)、サザン(ゴヴィア・テムズリンク・レールウェイ)、カレドニアン・スリーパー、そして当駅を終点とするロンドン・オーバーグラウンドの5社が発着している。この駅はトラベルカード・ゾーンスペシャル内にある。 駅の現在[編集] 11番線までホームがある。ロンドン・オーバーグラウンドが1 – 4番線、急行線が6・7番線、快速・各駅線が8 – 10番線、アビー線が11番線である。なお、5番線には現在ホームがなく、10番線は当駅折り返し専用ホームである。 ロンドン・オーバーグラウンド線の1 – 4番線は部分的に屋根があり、ナショナル・レールのホームはいくつかの待合室を除いて屋根がない。 11番線はロンドン・ミッドランドの支線の発着路線である。11番線の次の停車駅はノース・ワットフォード駅である。郊外へ向かう各駅停車の列車の次の駅はキングス・ラングレー駅である。 ロンドン・オーバーグラウンド線の1 – 4番線は部分的に屋根があり、ナショナル・レールのホームはいくつかある待合室を除いて屋根がない。 運行[編集] 日中の運転パターンは以下の通り(本数は1時間あたり)。 ナショナル・レール(上り・南行)

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アグラブ朝 – Wikipedia

アグラブ朝 الأغالبة カイラワーンの大モスク アグラブ朝(アグラブちょう、Aghalabid Dynasty、アラビア語: الأغالبة‎ 、800年 – 909年)はアッバース朝支配下で現在のチュニジア地方の支配を認められたアグラブ王国(The Aghalabid kingdom)の王朝。国教はイスラーム教スンナ派。首都はカイラワーン。 建国[編集] 創設者はイフリーキヤ(マグリブ地方東部。いまのチュニジアを中心とする地域)の政局混乱を収拾し、チュニス駐屯軍(ジュンド(アラブ正規軍))の反乱を鎮圧してイフリーキヤに自立政権を樹立したイブラーヒーム・イブン・アグラブ(英語版)である[1]。アッバース朝の第5代カリフであるハールーン・アッ=ラシードに金貨年4万ディーナールを貢納することでイフリーキヤ総督として認められ、カリフの宗主権を認めながらも独立した地方政権を北アフリカの地に確立した[2]。また、彼はフランク王国のカール大帝にライオンなどの当時としては珍獣を贈っている。 初代のイブラーヒーム1世(在位:800年-812年)はあくまでアッバース朝より派遣されたアミールを称し、以後その後継者もアミールを踏襲したものの[* 1]、実態は自立して貨幣にはアッバース朝カリフの名を刻まなかった[3]。 発展期[編集] アグラブ朝は、第3代のズィヤーダ・アラーフ1世の治世に、827年からシチリア島へ侵攻を開始し[4](ムスリムのシチリア征服(イタリア語版、英語版)、827年-902年)、シチリア首長国(831年 – 1072年)が成立、ヨーロッパ近海の制海権を掌握して諸島を征服し勢威を誇った。 全盛期[編集]

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メキシコ・アミーゴス・ブラック – Wikipedia

メキシコ・アミーゴス・ブラックは全日本プロレスで活動していたプロレスユニットである。メンバーは全員メキシコ人であるが、日本語はペラペラでとてもメキシコ人とは思えない容姿であるのが特徴である。結成時の名前は「メキシコ・アミーゴス」であった。 2007年2月に全日本のジュニアの主力選手である、TAKAみちのく、カズ・ハヤシ、NOSAWA論外が無期限の欠場となり、メキシコに遠征した。しかしその直後に謎のメキシコ人レスラー、ペペ・みちのく、ミゲル・ハヤシJr、エル・ノサワ・メンドーサの3人組が全日本に参戦してきた。陽気なアミーゴスの3人組はこれぞ本場のルチャを披露する等、たちまち人気者になる。 同年7月にはメンドーサが夏休みでメキシコに里帰りした代わりに、荒谷望誉似のマスクマンが加入したが、メンバーからは常に無視されている。7月シリーズの最終戦ではライバルのサムライジャパンのTANAKAがミゲルのバッグを控え室から勝手に盗み、中に入っていた運転免許証をリング上で披露しようとする。幸いそれはミゲルが阻止したが、アミーゴスはこの行動に激怒し同年8月26日両国国技館大会で両チームの解散マッチが行われ、アミーゴスが勝利し解散は免れた。 9月シリーズにはメンドーサが三冠ヘビー級王座から陥落した鈴木みのるとの試合に勝って、鈴木をアミーゴスに勧誘しようとしたが失敗。そしてペペはメキシコ・アミーゴスを解散すると発表するも、『メキシコ・アミーゴス・ブラック』と名を改めて活動すると発表する。翌日の水戸大会ではコスチュームを黒に統一し、ヒール転向を宣言。その後のシリーズでも鈴木をアミーゴスに勧誘したが、結局ダメだった。 その一方でアミーゴスのライバルのサムライ・ジャパンは名前を『サムライ・ニュージャパン』に名前を変え、新メンバーAKIYOSHIも加入するなど絶好調なのに対し、アミーゴスは絶不調とジャパン軍に押されぎみ。しかし10月18日代々木大会でペペ曰く『負けたら即パスポート公開マッチ』と名付けられたジャパン軍との最終決戦でなんとかアミーゴスが逆転勝利。ジャパン軍を今度こそ解散に追い込んだ。 12月9日の大阪大会で試合を終えたばかりの鈴木みのるにアミーゴス・ブラックの面々が懲りずにまた勧誘。いつものように断られるかと思いきや、なんと鈴木がこれを承諾し、鈴木のアミーゴス入りが決まった。そして12月16日の後楽園大会で鈴木が『レイ・ミノール』として登場。しかし試合ではアミーゴスの面々がわざとと思える再三の誤爆攻撃にマジギレしてしまい、鈴木は試合中にもかかわらず金色のロングタイツからいつもの黒タイツに戻すと、試合に勝ったアミーゴスの面々を正座させてリング上で説教し、鈴木はメンドーサことNOSAWA論外を拉致。鈴木に正体を暴かれたペペことTAKAみちのくとミゲルことカズ・ハヤシは『来年からいつもの名前に戻る』と遂に解散することを発表。最後は観客と最後の「ビバ・メヒコ!」と絶叫した。 メンバー[編集] ペペ・みちのく アミーゴスのリーダー格。来日当初から日本語が上手で試合前のMCでも日本人顔負けの日本語を軽々と話す。母はミゲルの異母兄弟と言う複雑な家庭。時々なぜかTAKAみちのくが代表を務めているKAIENTAI-DOJOの宣伝をしている。 ミゲル・ハヤシJr. ペペ曰く『メキシコ一のイケメンレスラー』。かつてメキシコで活躍していた有名選手の息子。初登場の時はまったく日本語が話せなかったが、今では日本語ペラペラ。 エル・ノサワ・メンドーサ ペペ曰く『影のアミーゴスの支配者』。なぜか鈴木みのるを怖がっている。 アラヤーダ(エル・イホ・デ・アラヤーダ・セグンド、エル・グラン・アラヤーダ、エル・なんとか・かんとか・アラヤーダ・セグンド、エル・なんでもいいですよ・アラヤーダ・セグンド) 2007年7月、メンドーサが夏休みを取りメキシコに里帰りした代わりに加入してきた荒谷望誉に似ているマスクマン。体型だけではなくて、やる気の無い表情やコーナーへのラリアット失敗など荒谷そっくり。やけに小さいアミーゴスTシャツを着ている。顔が大きいせいか、マスクがすぐに外れるときがある。基本的には常にメンバーから無視されている。メンバーからは『使えない』と酷評されている。 レイ・ミノール スカウトに成功して軍団に引き入れるも、初登場時に結局正体を明かしグループ解散へと導いた。 試合前にはオープニングのMCを勤めている。全日本のオープニングと言えばかつてTAKAみちのく率いるRO&Dが勤めていたが、アミーゴスが引き継いだ形となっている。締めはペペがお客さんと一緒に『メキシコー、アミーゴス!ビバ』と言うとお客さんは『メヒコ〜!』と言うのがお約束。 身長、体重はアラヤーダ以外は不明となっている。 『メキシコ・アミーゴス・ブラック』になってからは、3人ともコスチュームが黒を中心にしたものに変わった。また入場時には黒のマスクをしながら登場する(アラヤーダだけはなぜかピンクのマスクを着けている)。

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グラースヒュッテン (タウヌス) – Wikipedia

グラースヒュッテン (ドイツ語: Glashütten) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州ダルムシュタット行政管区に属すホーホタウヌス郡の町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)である。タウヌス山地のケーニヒシュタインに近いタウヌス自然公園に位置するこの町はかつてのグラースヒュッテン、シュロスボルン、オーバーエムスが合併して成立した。 位置[編集] グラースヒュッテンの町域西部は、ホーホタウヌスの細い山並みの中にあり、タウヌス主脈の3つの山頂を含む: シュロスボルン地区のブッツニッケル (462 m)、グラースヒュッテン地区のグラスコプフ(ドイツ語版、英語版) (687 m) とタウヌス山地で2番目に高いクライナー・フェルトベルク (826 m) である。主邑のグラースヒュッテン地区自身は、グラスコプフの西 1 km の連邦道 B8号線沿いにある。B8号線はこの地区内でリーメスと交差している。リーメスはこの町のシュロスボルンとグラースヒュッテンで北の町境をなしている。オーバーエムスはリーメスの北側にある。 隣接する市町村[編集]

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しあ – Wikipedia

しあ 別名 SHEER 生誕 1997年6月1日 出身地 日本 学歴 慶應義塾大学環境情報学部 ジャンル J-pop,Hiphop 担当楽器 作詞,歌 活動期間 2016年- しあ(日本名:しあ、英名:SHEER[1]、1997年6月1日 – )は、MC、詩人、アーティストとして知られている。 目次 1

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ケープ・カナベラル – Wikipedia

ケープ・カナベラル(Cape Canaveral)は、 アメリカ合衆国フロリダ州の砂洲 上記1.の砂洲の南に隣接する小都市 上記1.にあるアメリカ東部宇宙ロケットセンターの通称。ケネディ宇宙センターとケープ・カナベラル空軍基地からなる。 この項目では、主に1.と2.について述べる。 メリット島とケープ・カナベラルの地図。白がKSC、緑がCASS。 ケープ・カナベラル(Cape Canaveral)は、アメリカ合衆国フロリダ州中央部、ブレバード郡の大西洋上に浮かぶ砂洲。アメリカ航空宇宙局(NASA)のケネディ宇宙センター (KSC) と、同センターに隣接するケープ・カナベラル空軍基地 (CASS) で知られる。ケネディ宇宙センターが位置しているメリット島(en:Merritt Island)は、バナナ川(Banana River)を隔てて西側に位置する。 また、ケープ・カナベラル灯台(Cape Canaveral lighthouse)や南に隣接するケープ・カナベラル市のクルーズ観光港、カナベラル港(Port Canaveral)もよく知られている。 ケープ・カナベラルという名称はスペイン人がこの地に入植した際につけられた。砂洲の名である「カナベラル」は、スペイン語で籐を意味するCañaveralに由来している。

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ジョン・ウォロップ (初代ポーツマス伯爵) – Wikipedia

初代ポーツマス伯爵ジョン・ウォロップ(英語: John Wallop, 1st Earl of Portsmouth、1690年4月15日 – 1762年11月22日)は、グレートブリテン王国の政治家、貴族。 ジョン・ウォロップ(John Wallop)とアリシア・ボーレイス(Alicia Borlase、ウィリアム・ボーレイス(英語版)の娘)の三男として、1690年4月15日に生まれた[1]。1707年10月30日に兄ブルエット(Bluett)から家領を継承した後、1708年にイートン・カレッジで、1708年から1709年までジュネーヴ大学で教育を受けた後、1710年にグランドツアーに出てイタリアとドイツを旅した[2]。また、1708年に志願兵としてにアウデナールデの戦いに参戦した[3]。 1715年イギリス総選挙でホイッグ党の候補としてハンプシャー選挙区(英語版)から出馬、当選を果たした[2](アンドーヴァー選挙区(英語版)でも当選したが、ハンプシャー選挙区の代表として議員を務めることを選択した[4])。アンドーヴァー近くに領地を所有したため、アンドーヴァー選挙区で1議席を掌握したという[4]。 1717年のホイッグ党分裂で第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーに味方したため、見返りとして同年4月に下級大蔵卿(Lord of Treasury)の1人に任命された[2]。しかし、議会では便宜的国教徒禁止法と教会分裂阻止法(英語版)の廃止法案(1719年)で野党側として投票した[2]。1720年にロバート・ウォルポールが政権を握ると同年6月に下級大蔵卿を解任されたが[2]、その補償として1720年6月11日にグレートブリテン貴族であるサウサンプトン州におけるリミントン子爵とファーリー・ウォロップのウォロップ男爵に叙された[1]。1732年から1734年まで北トレント巡回裁判官(英語版)を務めた[1]。 ハンプシャー選挙区における与党側の選挙活動を管理した第3代ボルトン公爵チャールズ・ポーレットが1733年に野党に転じると、リミントン子爵はその後任としてハンプシャー統監とハンプシャー海軍次官(英語版)に就任、1734年にはワイト島総督(英語版)とワイト島海軍次官にも就任した[2]。 1742年にウォルポール内閣が倒れると全ての役職から解任されたが[2]、その補償として1743年4月11日にグレートブリテン貴族であるサウサンプトン州におけるポーツマス伯爵に叙された[1]。1746年、ワイト島総督とワイト島海軍次官に再び任命された[1]。 1755年10月1日、オックスフォード大学よりD.C.L.(英語版)の学位を授与された[1]。 1762年11月22日に死去、ファーリー・ウォロップ(英語版)で埋葬された[1]。長男ジョンに先立たれたため、孫ジョンが爵位を継承した[1]。

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フィリップ・リーヴ – Wikipedia

フィリップ・リーヴ(Philip Reeve、1966年[1] – )は、イギリス・ブライトン生まれの小説家、SF作家、イラストレーター。 5歳頃から小説を書き始める。書店に勤務しながら低予算の劇場プロジェクトの脚本執筆、また指導などを行う。劇場プロジェクトへの参加に続き、イラストレーターとしての活動を始める。The Murderous Maths Series, Horrible Histories, Dead Famous Series などを含む約40の児童書にイラストを多数提供。 小説家としてのデビュー作『移動都市』で、イギリスのネスレ・スマーティーズ賞などを受賞[1]。シリーズ4作目の『廃墟都市の復活』でガーディアン賞を受賞[1]。『アーサー王ここに眠る』でカーネギー賞を受賞した[1]。 移動都市シリーズ (Mortal Engines Quartet) Mortal

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ヴァランティーヌ・リニー – Wikipedia

ヴァランティーヌ・リニ― Valentine Ligny 生誕 1906年10月22日 フランス・パ=ド=カレー県アヴィオン(フランス語版) 死没 2022年1月4日 フランス・ソンム県アミアン 国籍 フランス 著名な実績 存命人物のうちフランスで2番目の高齢 ヴァランティーヌ・リニー(Valentine Ligny、1906年10月22日[1] – 2022年1月4日)は、かつてフランス・アミアンに在住していた長寿の女性。リュシル・ランドンに次いで存命人物のうちフランスで2番目の高齢者であり、世界でも6番目の高齢であった。 目次 1 人物

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