Month: December 2019

君島りさ – Wikipedia

この記事の出典や参考文献は、一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼っています。信頼できる第三者情報源とされる出典の追加が求められています。出典検索?: “君島りさ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年2月) 君島 りさ(きみしま りさ、12月14日[1] – )は日本の女性声優。千葉県出身[1]。アトリエピーチ所属。主にアダルトゲームに出演している。 人物・来歴[編集] アニメが好きで、小学校低学年の頃に声優という存在を知り、自分もなりたいと思ったのが声優を目指したきっかけであったという。小学校の卒業文集でも「声優になりたい」と書いていたが、高校生になると声優になるのは難しいのではないかと思うようになり、一度は声優になることをあきらめている。その後喫茶店でアルバイトをしていたが、東日本大震災が起こり、その後行われた計画停電の影響により電車の本数が減少し、アルバイト先に通えなくなったことでクビになってしまう。突然仕事がなくなってしまったことで、「どうせならほんとにやりたいと思うことをやりたい」と考えるようになり、桃塾へ入塾した[2]。 桃塾を選んだのは、もともと美少女ゲームやかわいい女の子が好きで、仕事がなくなりやることがなくなったときも美少女ゲームは遊んでおり、ヒロインから「好き」と言われたことに感動して、美少女ゲーム声優になろうと思ったことから[2]。 桃塾を修了後、アトリエピーチに所属し声優としてデビューした。桃塾での同期(4期生)には、藤邑鈴香、八ッ橋きなこ、なつめ美南海、妃咲みぁ、佐藤泰臣、内藤大樹、富井義邦、羽村しきがいる[3]。 過去には、人形劇団プークに所属していた[1]。 出演作品[編集]

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チェリーヒルズゴルフクラブ – Wikipedia

チェリーヒルズゴルフクラブ(CHERRY HILLS GOLF CLUB)は、兵庫県三木市にあるゴルフ場である。 「チェリーヒルズゴルフクラブ」は、京都の信和ゴルフグループの中核企業の「信和ゴルフ株式会社」が、新たなゴルフ場の建設に向けて経営母体「株式会社チェリーヒルズゴルフクラブ」を設立したことに始まる[1]。ゴルフ場の建設地は、兵庫県三木市細川町細川中地区のなだらかな丘陵地に決定された。コース設計は、ロバート・トレント・ジョーンズ・ジュニア(Robert Trent Jones Junior)が行い、1989年(平成元年)11月28日、27ホールのメンバーシップゴルフ場として開場された[1]。 コースは、人工美と自然美がマッチしたアメリカン・スタンダード・タイプのゴルフ場である[1]。ベントの戦略的なワングリーンに起伏に覆われたフェアウェイと、クリークにガードされたショートホールや池越えのロングホールで構成される[1]。コースデザイナーのロバート・トレント・ジョーンズ・ジュニアは、完成後、「日本の美しさを象徴するような山紫水明の地に、これまでの日本にないイメージで、さしずめ神秘的で気高い古城のようなコースが仕上がった」と語った[1]。 ロバート・トレント・ジョーンズ・ジュニアは、1939年(昭和14年)、アメリカニュージャージー州生、エール大学卒業後、スタンフォード・ロースクール進学。その後、父のもとで設計を学び独立[2]。父のロバート・トレント・ジョーンズ・シニア(Robert Trent Jones Senior)とともに世界的なゴルフ場設計家で、設計したゴルフ場は世界で250以上の実績がある[1]。コース設計の哲学は「リスク&リワード」で、ハザードを克服すれば報酬が得られ、リスクの高いルートと安全なルートが設定され、プレーヤーの考えに委ねられる[1]。メジャーの厳格な開催条件をクリアするコースと、ヨーロピアン調のクラブハウスも魅力である[1]。 ロバート・トレント・ジョーンズ・ジュニアの日本での設計コースは19コースを数え、「パインレークゴルフクラブ」(兵庫県、1984年(昭和59年)開場)、「スプリングフィールドゴルフクラブ」(岐阜県、1987年(昭和62年)開場)、「ゴールデンバレーゴルフ倶楽部」(兵庫県、1987年(昭和62年)開場)、「鬼ノ城ゴルフ倶楽部」(岡山県、1992年(平成4年)開場)、「桂ゴルフ倶楽部」(北海道、1993年(平成5年)開場)、「美浦ゴルフ倶楽部」(茨城県、1993年(平成5年)開場)、「ザ・カントリークラブ」(滋賀県、1995年(平成7年)開場)などのゴルフ場がある[1]。 2004年(平成16年)10月13日、信和ゴルフ株式会社が、大阪地裁へ民事再生法を申請し、同日保全命令を受けた[3]。信和ゴルフは、バブル期にハワイでリゾートホテルやゴルフ場の買収するなど事業を展開し好業績をあげていた[3]。しかし、海外での買収やリゾート開発、国内でのゴルフ場造成、また景気低迷や阪神大震災、さらに、メーンバンクの日債銀の経営破綻、同行が保有する債権が整理回収機構に譲渡された[3]。信和ゴルフグループ5社は、再生計画案の概要を説明[4]、2005年(平成17年)9月26日、再生計画案が可決、認可決定となった[5]。 また、日本のプロゴルフメジャー大会の一つである、日本女子プロゴルフ協会主催競技でもあり、日本選手権大会に相当する、日本女子プロゴルフ選手権大会などの実績があり、 2025年(令和7年)の第58回日本女子オープンゴルフ選手権競技大会の開催予定である。 信和グループ・自主再建型の再生計画案が成立 〒673-0714 兵庫県三木市細川町細川中字道重1200-23

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陳淏子 – Wikipedia

陳 淏子(ちん こうし、1615年 – 1703年)は、名は淏、字は爻一、号は扶揺、西湖花隠翁など。中国浙江省杭州府銭塘県の人[1]。明末から清代康煕年間にかけての文筆家兼出版業者であり、博物学者、園芸家である。康煕27年(1688年)、74歳の時に、園芸書『花鏡』を刊行した。長子は陳枚(簡侯)。 家族[編集] 陳淏の家は代々、杭州で医を業とし、父陳芝仙も祖父陳象先も名を知られた医師であった。医業の家ながら詩文書画に親しむ文人趣味の家庭で育ち、妹の陳汝凝は女流詩人であった(黄墀「朱節母陳汝凝行述」『留青集選』巻3)。汝凝には数首の作品が伝わっている。妻は戴氏。 行跡[編集] 陳淏は家伝の蔵書を火事で失ったため、自身は医家として身を立てることはなかった(方象瑛による「合葬墓誌銘」『留青新集』巻3)。明末崇禎年間に『両漢奏疏』16巻、『周文帰』20巻などを編集刊行した。『両漢奏疏』の序文を黄端伯と祁彪佳が書き、また「鑑定姓氏」「参考姓氏」には杭州の文社、読書社の成員であった聞啓祥・厳調御ら10人の名が見える。『周文帰』には顧錫疇らが序を書き、陳淏自身は「大凡」を書いている(崇禎13年、「古杭陳淏子」と署名)[2]。これで見ると、陳淏は評選家(評点家)として世に出たものである[3]。科挙の受験参考書という側面をもつ出版物の編者だったわけであるが、自身は科挙に成功しなかった。つまり社会的には当時の読書人の下層を形成する「落第秀才」の一人であった。 30代に入ってから間もなく明清交替(1644年)を経験した。近親者では妹汝凝の夫の朱治升が清軍による辮髪強制(薙髪令)を拒んで天目山にのがれ、自死をとげた(黄墀「朱節母行述」)。順治年間の大半については行跡を明証する文献が見つかっておらず、現在のところ経歴が空白となっている。 順治13年またはその翌年に杭州から南京に居を移したとされる李漁に誘われて、陳淏も南京に遊び、以後20年(李漁の最終的な南京居住は順治18年とされるので実際は10数年か)、「浪遊」したと査継佐あての書簡に書いている(「寄査伊璜」『写心集』巻1)。南京では呉百朋(錦雯)、呉国縉(玉林)などとも親交があった(「客秦淮送呉錦雯」『留青新集』巻5、「与陳扶揺」『写心集』巻2)。康煕12年(1673年)に南京で刊行された短編小説集『西湖佳話』の巻頭を飾る多色刷りの精巧な図版「西湖佳景」には「湖上扶揺子」と署名した跋語が附されていて、原刻初印本では署名のあとに「湖上陳氏・扶揺」という連印が捺してある。図版部分には他に王槩・王臬・王楫・孫肇功らも名をとどめているが、陳淏はこれらの人々とともに、康煕18年序刊『芥子園画伝』初集の制作刊行にも関与している[4]。 「合葬墓誌銘」には、「晩年、歯(よわい)日に進み、倦んで郷里に帰った」とある。康煕16年(1677年)に再度杭州に移った李漁が自身の南京僑居を「金陵(南京)に居ること二十載」と表現し(「上都門故人述旧状」『一家言集』巻3)、同じように陳淏が「二十年も浪遊した」と書いていることなどから推して、陳淏はその年に杭州にもどったと考えられる。63歳の時である[5]。晩年杭州の西湖の湖畔に住み多くの花草果木を育てた。康煕27年(1688年)に『花鏡』を著した。『花鏡』は花譜、園芸技術の解説書である。魚や亀、ヒキガエルの飼育法も含まれている。比較的早い時期に日本に伝わり、安永2年(1773年)には平賀源内が校正した『重刻秘伝花鏡』が刊行された。 生没年[編集] 生年は、従来万暦40年(1612年)頃と推定されてきたが、誠堂と署名した筆者が「記『花鏡』作者陳淏子」においてはじめて林雲銘「寿陳扶揺先生七十序」を紹介し[6]、康煕23年(1684年)4月に七十の誕生祝いをしていることから、万暦43年(1615年)の生まれと断定した。 没年は、康煕42年(1703年)10月に、すでに亡くなっていた妻戴氏と合葬するときに「合葬墓誌銘」が作られていることから、この年に没したと推定されており[7]、確定的にこの年を没年とするひともいる[8]。 陳淏の生涯・事績についてはまだ十分に研究されておらず、仕事の内容がどのようなものであったかについても不明な点が多い。『花鏡』張国泰序と「合葬墓誌銘」はともに陳淏が分野をまたいで豊富な著作をものしたと述べているが、現在わかっている数点の刊行書からも、その対象は詩文評論、小説、言語文字、絵画、園芸など多方面にわたっていたことが確かめられる。 『両漢奏疏』16巻 『西漢文帰』8巻・『東漢文帰』7巻 崇禎10年序 『周文帰』20巻 崇禎13年 『済顛大師酔菩提伝』 刊行年未詳

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ジョン・マクラーレン – Wikipedia

この項目では、アメリカの野球選手について説明しています。造園家のジョン・マクラーレンについては「ジョン・マクラーレン (造園家)」をご覧ください。 ジョン・マクラーレンJohn McLaren 野球中国代表 監督 #7 ナショナルズでのコーチ時代(2011年) 基本情報 国籍 アメリカ合衆国 出身地 テキサス州ガルベストン 生年月日 (1951-09-29) 1951年9月29日(70歳) 身長体重 6′ 0″ =約182.9 cm190 lb

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長江芳実 – Wikipedia

伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2020年9月) 長江 芳実(ながえ よしみ、1966年 – )は、日本の実業家。ネクストジャパン、マーシャル・ワールド創業者。 大阪府出身   出身校:大阪府立港高等学校出身1985年 空手道場「正心館」開設1993年 格闘技用品・トレーニング用品製造販売会社マーシャル・ワールド設立新規事業立ち上げ会社・株式会社ネクストジャパン設立ネクストジャパンにて、さまざまな事業を立ち上げるがほぼ全て失敗する。2000年 レジャー施設「JJ CLUB 100」が軌道に乗る。2004年 – 株式会社ネクストジャパンが東京証券取引所マザーズ市場に上場2007年 – 商号を株式会社ネクストジャパンホールディングスに変更2007年 4月 ネクストジャパンホールディングスが、繰越赤字36億円2007年 7月 全株を売却 数年後、NPO団体HUGSを立ち上げる。同サイトにて、「世界を変えたい」と発言する。NPO団体から株式会社に変更。  HUGSのサイトを消す。

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日本国憲法第18条 – Wikipedia

この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 日本国憲法 第18条(にほんこく/にっぽんこくけんぽう だい18じょう)は、日本国憲法の第3章にある条文で、身体的自由権である奴隷的拘束・苦役からの自由について規定している。 日本国憲法 – e-Gov法令検索 第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。 刑罰(自由刑)の執行に関しては、本条における意に反する苦役に服させることの禁止からは除外されている。ただし奴隷的拘束は、いかなる場合も許されない。 徴兵制度は「意に反する苦役」であるため、禁止されているとするのが、通説・政府見解である。 大日本帝国憲法[編集] 東京法律研究会 p.8 第二十條 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ從ヒ兵役ノ義務ヲ有ス 憲法改正要綱[編集] 「憲法改正要綱」、国立国会図書館「日本国憲法の誕生」。 八 第二十条中ニ「兵役ノ義務」トアルヲ「公益ノ為必要ナル役務ニ服スル義務」ト改ムルコト

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罪と女王 – Wikipedia

『罪と女王』(つみとじょおう、Dronningen)は2019年のデンマーク・スウェーデンのドラマ映画。 監督はマイ・エル=トーキー(デンマーク語版)、出演はトリーヌ・ディルホム(デンマーク語版)とグスタフ・リンド(スウェーデン語版)など。 義理の息子となった17歳の少年と性的な関係を結びながら、保身のために残酷な選択をする非情な女性弁護士を描いている[3]。 原題の「dronningen」はデンマーク語で「女王」の意味[4]。 デンマークのアカデミー賞に当たるロバート賞で、作品賞、監督賞、主演女優賞など主要計9部門を受賞している他、数々の映画賞を受賞し、義理の息子役に抜擢されたリンドも高い評価を得ている[5]。 日本では2020年2月にユーロスペースで開催された「トーキョーノーザンライツフェスティバル2020」において『クィーン・オブ・ハーツ』のタイトルで上映された[6][7]後、同年6月5日から一般劇場公開された。 ストーリー[編集] 性暴力や虐待を受けた子どもたちの保護に尽力している優秀な弁護士アンネは、医師である夫ペーターと幼い双子の娘たちと郊外の美しい邸宅で幸せに暮らしている。そんなある日、ペーターと前妻の息子で母親とスウェーデンで暮らしていた17歳のグスタフが問題を起こして退学となったために、彼を引き取ることになる。粗暴なグスタフはアンネたち家族になじもうとせず、しかも家族の留守中に家から貴重品を盗み出す事件を起こす。グスタフが犯人であるといち早く気づいたアンネは、グスタフを警察に突き出さない条件として家族と打ち解けるように言う。これをきっかけにグスタフは妹たちだけでなく、アンネとも距離を縮めていく。ところが、グスタフが若い女友だちを家に連れ込み、性行為をしている姿に、アンネは自らの肉体の衰えを痛感するようになる。また、夫との性生活への不満も重なり、ついにアンネはグスタフの部屋に入り込み、彼と肉体関係を結んでしまう。2人は家族の目を盗んで欲望の赴くままに関係を続けるが、ある日、妹リナに2人の関係を知られ、厳しく責められたことをきっかけに、アンネは保身のために一方的にグスタフとの関係を絶つ。アンネに捨てられたことで荒みはじめたグスタフに手を焼いたペーターは、グスタフを寄宿学校に入れることにするが、この事態にグスタフはアンネとの関係をペーターに明かしてしまう。動揺したペーターは真相をアンネに確かめるが、アンネは頑として否定し、グスタフが嘘をついていると主張する。ペーターはアンネの言うがままに、グスタフのアンネに対する憎しみにもとづく嘘と見なし、グスタフは寄宿学校に送られる。しばらくしてグスタフがアンネの弁護士事務所に現れ、成人による未成年者への性的虐待としてアンネを訴えると言う。しかし、アンネは「証拠もなく、不良少年のグスタフの言い分など誰も信じない」と突っぱねる。グスタフは父親にだけは自分が嘘をついていないと知ってもらいたかったが、それもアンネに妨害され、アンネの非情な言葉によって深く傷つけられる。こうして絶望したグスタフは姿を消し、しばらくして冬山で凍死しているのが発見される。ペーターはアンネの方が嘘をついていることに薄々気づいていたにもかかわらず、今の家庭を守るためにアンネの言うがままになっていたのだが、この事態にようやくアンネに怒りをぶつける。アンネも思わぬ展開に激しく動揺する。家族はグスタフの葬儀に向かうが、その後、アンネとペーターの関係がどうなったかについては何も示されないまま物語は終わる。 キャスト[編集] 作品の評価[編集] 映画批評家によるレビュー[編集] Rotten Tomatoesによれば、批評家の一致した見解は「トリーヌ・ディルホムの並外れた演技に導かれた『罪と女王』は、マイ・エル=トーキーの圧倒的手腕によって演出された、家族の中に潜む闇を大胆かつ妥協のない見方で表現している。」であり、30件の評論のうち高評価は97%にあたる29件で、平均点は10点満点中7.7点となっている[8]。 Metacriticによれば、7件の評論のうち、高評価は5件、賛否混在は1件、低評価は1件で、平均点は100点満点中67点となっている[9]。 映画ジャーナリストの猿渡由紀は「こんな偽善的で、かつ複雑な中年女を書けたのは、同じ女性ならではだろう。こういうキャラクターを映画でもっと見たい。」と高評価を与えている[10]。 一方、映画評論家のくれい響は概ね高評価を与えつつも「127分は若干長い。」としている[11]。 受賞歴[編集] 様々な映画賞を受賞している[12]。 その他に、第92回アカデミー賞の国際長編映画賞のデンマーク代表作品に選ばれた[13]が、最終ノミネートには至っていない。 外部リンク[編集]

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石川末廣 – Wikipedia

石川 末廣(いしかわ すえひろ、1979年9月27日 – )は、三重県鈴鹿市出身の日本の陸上競技・元選手、現コーチ(指導者)。専門は長距離走・マラソン。2016年リオデジャネイロオリンピック・男子マラソン日本代表。 鈴鹿市立合川小学校→鈴鹿市立天栄中学校→三重県立稲生高等学校を経て東洋大学経済学部経済学科へ進学[1]。 東洋大学では陸上競技部長距離部門へ入部。大学時代は1年次、2年次に東京箱根間往復大学駅伝競走(第75回及び第76回)に出場しており[2]、1年ではエース区間となる2区を走ったものの区間14位に終わる。この時は復路の走者が健闘し、10区で逆転し2年ぶりのシード権を獲得したものの、2年では1区から大幅に遅れ自身も復路のエース区間である9区を走ったものの、終盤に脱水症状を起こし、区間最下位(15位)に終わる。鶴見中継所ではよろめいて蛇行しながらリレーゾーンに入ってきたため、危うく大会車両にぶつかりそうなほどであった。東洋大学は前区間からの出遅れも響き、10区の走者が繰り上げスタートとなってしまった。3年次、4年次は予選会で敗退し、本大会出場は叶わなかった。 東洋大学卒業後はHondaへ入社し、陸上競技部に所属している。 2009年2月、世界クロスカントリー選手権大会・本代表選考会を兼ねた、第44回千葉国際クロスカントリー大会に出場し、5位(日本人3位・35分20秒)に入る。同年3月開催の、第37回世界クロスカントリー選手権ヨルダン大会に日本代表として選出・出場したが、総合47位(日本人首位・37分11秒)だった[3]。 初マラソンは2012年3月のびわ湖毎日マラソンで、2時間11分台の13位でゴール。これは当時32歳での初マラソンで日本男子の最高記録である。翌2013年3月のびわ湖毎日マラソンでは、総合7位ながら自身33歳で初のサブテン(2時間10分未満)及びマラソン自己記録を更新した。 2016年8月開催のリオデジャネイロオリンピック・男子マラソン国内最終選考会である、2016年3月のびわ湖毎日マラソンへ国内招待選手として出場。30Km地点を過ぎた後、北島寿典(安川電機)らと激しい日本人首位争いを展開した。ゴール地点の皇子山陸上競技場手前で惜しくも北島に追い越されるが、自己記録に15秒差の2時間9分台をマークし日本男子2番手の総合4位でフィニッシュ。同年3月17日に日本陸連の理事会においてリオ五輪男子マラソン日本代表へ正式に初選出された。尚、リオ五輪男子マラソン本番当日は36歳10か月となるが、これは谷口浩美(旭化成)が1996年8月のアトランタオリンピック男子マラソン出場の当時36歳3か月を上回る最高齢記録となる。 そのリオ五輪男子マラソン本番では、レース中盤迄先頭集団に食らいついたが、24Km付近で先頭集団から脱落、その後も徐々に順位を落とし、結果日本人2番手の36位に終わった[4][5]。 2017年8月開催の世界陸上ロンドン大会選考レースの、2017年3月・びわ湖毎日マラソンへ国内招待選手として2年連続4回目の大会出場に。中間点地点辺り迄ハイペースの先頭集団についていったが、その後優勝争いから脱落。30Km地点以降は5Kmラップタイムが16分台にペースダウン、結局2時間11分台で日本人3着の総合6位に留まった[6]。 2019年9月開催のマラソングランドチャンピオンシップ(MGC・2020年東京オリンピック男子マラソン)選考レースとなる、2019年3月10日のびわ湖毎日マラソンへ2年振り5回目の出走に。しかし10Km地点を過ぎて途中棄権に終わり、このレースが結果的に石川のラストランと成った[7] 。 それから10日後の2019年3月20日に現役引退と、及び同年4月からはHonda・陸上部のコーチ就任を表明した[8][9]。 自己記録[編集] 5000m:13分42秒64 10000m:28分07秒04 ハーフマラソン:1時間02分23秒

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