Month: January 2020

カナダ空軍 – Wikipedia

カナダ空軍(カナダくうぐん 英語:Royal Canadian Air Force,RCAF 仏語:Aviation royale canadienne,ARC)は、カナダ軍における航空兵力部門(空軍)。1975年に統合軍であるカナダ軍が設立され、これまで独立した空軍組織だったものが統合軍として統合された。 王立カナダ軍において、各種航空機を運用している組織であり戦闘機(F/A-18)、輸送機、対潜哨戒機、ヘリコプターなどを運用している。任務として北アメリカ航空宇宙防衛司令部(NORAD)と協力しての本土防空や輸送支援、洋上哨戒、捜索救難などを行なっている。イギリス軍と同じく固定翼哨戒機の運用は海軍ではなく空軍が担当する。 カナダにおいて航空兵力が運用され始めたのは1909年のことである。1924年に独立軍種の王立カナダ空軍(RCAF)に発展している。第二次世界大戦時には、連合国軍の部隊として、欧州及び太平洋戦域に投入されている。東西冷戦期には旧西ドイツ等に兵力を派遣しており、朝鮮戦争にも参加している。 1968年にカナダ三軍を統合し、統合軍であるカナダ軍が編成され、その中で防空軍団や航空輸送軍団、洋上航空群、訓練軍団などが航空兵力の部隊であった。1975年に、航空兵力を一元的に統括する部門が再改編により設置され、カナダ軍の航空兵力部門(Canadian Forces Air Command)となった。 カナダ空軍は13個航空団にて兵力が編成されている。作戦指揮上、実戦部隊は第1カナダ航空師団(1 Canadian Air Division)にまとめられ[1]、司令官はNORADのカナダ管区司令官も兼務している。また、教育部隊は主に、2009年に設立された第2カナダ航空師団(2 Canadian Air

Continue reading

カニバル (2013年の映画) – Wikipedia

この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。免責事項もお読みください。 『カニバル』(スペイン語: Caníbal)は、2013年のスペイン=ルーマニア合作映画(スリラー)。監督はマヌエル・マルティン・クエンカ(スペイン語版)。主演はアントニオ・デ・ラ・トーレ。ルーマニア人女優のオリンピア・メリンテ(英語版)が一人二役を演じている。 2013年9月のトロント国際映画祭で初上映された[1]。2013年11月11日にはスペインで劇場公開された。2014年5月24日には日本で劇場公開され、ヒューマントラストシネマ有楽町、シネリーブル梅田、KBCシネマ、ディノスシネマズ札幌劇場、伏見ミリオン座などで上映された。 プロット[編集] 無口なカルロスはグラナダの旧市街で仕立て屋を営んでいるが、連続殺人鬼としての側面も持っている。彼は獲物に慎重に忍びより、ワゴンでシエラネバダ山脈にある人気のない山小屋に運んでから解体。その肉を自宅の冷蔵庫に持ち帰ってディナーにしている。ルーマニアからやってきたという、騒がしいが美しいアレクサンドラと関わるまで、カルロスは何事もなく暮らしていた。 ある日、アパートの隣人であるアレクサンドラが行方不明となる。カルロスの元にはアレクサンドラの双子の姉ニーナが訪ねてくるが、儚げなニーナは物静かでアレクサンドラとは対照的である。ニーナはアレクサンドラが両親の金を盗んで逃げたと信じており、カルロスはニーナを手助けすることを約束する。物語が進むにつれてカルロスはニーナに惹かれていき、ニーナを山小屋に連れていく。カルロスはニーナに睡眠薬を飲ませて殺害するはずだったが、愛情から殺すことができない。翌朝、ニーナが目覚めた時には、自身が裸であることに気づく。カルロスはニーナに、自身が連続殺人鬼であること、アレクサンドラを殺したことを告白するが、ニーナはカルロスを信じない。ふたりはカルロスが運転するワゴンで山を降りるが、突然ニーナがハンドルを切り、ワゴンは横転する。 キャスト[編集] 主演のアントニオ・デ・ラ・トーレ Rotten Tomatoesは10人の批評に基づいて新鮮度を50%としており、この作品の評価は賛否が混在している[2]。バラエティ誌はこの作品に肯定的な評価を与え、「長回しを用いて丹精込めて撮られた贅沢な作品である。(主題である)肉処理の場面はスクリーンから外し、歩調は冷やかに、扇情感を抑えて撮られている。間違いなくニッチな主題であるし、高尚な作品でもあるが、洗練された芸術志向の観客はそれを『食べる』かもしれない」と書いた[3]。 サン・セバスティアン国際映画祭では撮影賞を受賞した。2014年1月の第1回フェロス賞ではドラマ作品賞、監督賞など5部門にノミネートされ、アントニオ・デ・ラ・トーレが主演男優賞を受賞した。2014年2月の第28回ゴヤ賞では作品賞や監督賞など7部門にノミネートされ、撮影賞を受賞した。2014年9月のストラスブール・ヨーロッパ・ファンタスティック映画祭(英語版)では最優秀ヨーロッパ・ファンタスティック映画に選出された[4]。 受賞とノミネート[編集] サン・セバスティアン国際映画祭 部門 対象者 結果 撮影賞 パウ・エステベ・ビルバ 受賞

Continue reading

さよならの向う側 – Wikipedia

「さよならの向う側」(さよならのむこうがわ)は、1980年8月にリリースされた山口百恵の31枚目のシングルである。10月15日のホリプロ20周年記念式典を最後に山口百恵は芸能界から引退した。 ジャケットの題字は、百恵本人の自筆による。 三浦友和との結婚式の当日である11月19日には「一恵」がリリースされているが、この曲が事実上のラストソングであり、百恵からファンへのメッセージソングとなっている。 6分を超える長いスロー・バラード曲(EPレコードながらA面が長時間録音により些細な傷でも音飛びが出やすいため、その種の注意書きがジャケット裏面に表記されている。摩耗した針での再生も避けたほうが望ましい)。また、「収録分数が長いため幾分レベルが低くなっています。お聴きになる時、ボリュームを上げてお聴き下さい。」と記載されている。 TBS『ザ・ベストテン』には、10位ランク時の9月25日に一度だけスタジオ出演しフルコーラスを歌ったが、これが百恵にとって同番組最後の登場となった。 10月5日に日本武道館で行われたファイナル・コンサートでは最後に歌われ、涙を流しながらの歌唱となった。その後百恵は、マイクをステージに置いたまま舞台裏へと去っていった。 その翌日、10月6日放映のフジテレビ『夜のヒットスタジオ』サヨナラ特番や、10月13日の日本テレビ『山口百恵スペシャル ザ・ラスト・ソング』(『NTV紅白歌のベストテン』特番、また現役歌手として最後のTV生出演)でも、共に番組の最後で同曲を披露した。 1994年には宇崎竜童がセルフカバー・アルバム『しなやかにしたたかに〜女たちへ〜』に収録。このアルバムが同年末の『第36回日本レコード大賞』アルバム企画賞を受賞した際、監修の井上堯之と共に当曲を披露した。 それから23年後の2017年、百恵の子息にあたる三浦祐太朗が、実母のカバー・アルバム『I’m HOME』をリリース。当アルバムも同年末の『第59回日本レコード大賞』企画賞を獲得、百恵の引退から37年後に長男が当日のステージでこの曲を歌唱した。 歌詞で星の寿命について言及しているが、光年は時間の単位では無く、距離の単位である。 関連作品[編集] さよならの向う側 (ライブ音源) さよならの向う側 (ニューアレンジ&ボーカル別テイク) カバーした歌手[編集] 関連項目[編集]

Continue reading

掛下町 – Wikipedia

掛下町(かけしたちょう)は、愛知県瀬戸市山口連区の町名。現行行政地名は掛下町1丁目と2丁目。 河川[編集] 矢田川(山口川)[7] : 町の北端、池田町・柳ケ坪町・田中町との町境付近を西流している。 薬師川(矢田川支流) : 町の南東部から北部に向かって流れ、町の北端部で矢田川に注ぎ込んでいる。 神明川(矢田川支流) : 町の西部を北流し、町の北西部で矢田川に注ぎ込んでいる。 矢田川(掛下町・柳ケ坪町境) 薬師川(掛下町内) 神明川(掛下町内) 学区[編集] 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[8]。また、公立高等学校普通科に通う場合の学区は以下の通りとなる[9]。 町名の由来[編集] 天和の村水害(1680年代)、天明の大洪水(1780年代)等でこの地の山が削り取られ、崖の下すなわち掛下、また山が欠けたために欠下と言われていたが、町名設定の際に掛下町と名付けられた[10]。 沿革[編集] 世帯数と人口[編集]

Continue reading

大千瀬川 – Wikipedia

大千瀬川(おおちせがわ)は、愛知県北設楽郡東栄町と静岡県浜松市天竜区を流れる河川。流路延長は20.7キロメートル[1]。流域面積は272キロ平方メートル[1]。天竜川の支流である[1]。上流部は振草川(ふりくさがわ)とも呼ばれる[2]。大千瀬川の支流には大入川などがある。 愛知県北設楽郡東栄町大字振草に端を発し、東栄町と設楽町の境界である大鈴山の東麓を東に向かって流れる。字下粟代では下粟代川を、字桜平では鴨山川を集める。国道151号に沿って流れ、国道151号と国道473号が合流する地点付近で御殿川を集める。東栄町の中心集落である本郷市街地を横断し、本郷市街地の東端には落差約10mの蔦の渕がある。その後は国道473号に沿って振草渓谷と呼ばれる区間に入り、愛知県指定天然記念物の煮え渕ポットホールや預り渕ポットホールなどの甌穴群がある。 愛知県と静岡県の県境付近で最大支流の大入川を集め、すぐ近くでは豊川用水の導水路が上を通過する。三遠南信自動車道やJR飯田線をくぐり、佐久間町浦川市街地付近で相川を集める。南東から北東に90度向きを変え、諏訪湖から南下している中央構造線の上を流れる[3]。佐久間町中部(なかべ)で天竜川に合流する[3]。静岡県内の流路延長は5.8キロメートルである[3]。 流域変更[編集] 大千瀬川は天竜川水系の河川であるが、上流部は豊川用水事業によって豊川水系に流域変更されている。 1969年(昭和44年)には2170ヘクタールの地域が振草渓谷県立自然公園に指定された[4]。振草渓谷の川床は領家変成帯の花崗岩であり、煮え渕ポットホールや預り渕ポットホールなどの甌穴(ポットホール)がある[5]。1988年(昭和63年)には煮え渕ポットホールと預り渕ポットホールが愛知県指定天然記念物に指定された[5]。 本郷市街地の東側には「奥三河のナイアガラ」とも呼ばれる蔦の渕(蔦の淵)がある[6]。滝頭は硬い安山岩、滝壺は軟らかい泥岩からなり、差別侵食が生じて滝となった[6]。2003年(平成15年)にはとうえい温泉花まつりの湯と蔦の渕をつなぐ遊歩道や、蔦の渕を眺めることができる展望台が完成した[7]。 アユ釣り[編集] 振草川(大千瀬川)ではアユ釣りが盛んであり、解禁日は愛知県でもトップクラスの早さである[8]。2019年(令和元年)は5月18日が解禁日であり、東三河地方では最も早かった[9]。振草川(大千瀬川)の川底は岩盤質であり、良質な藻が育つことからアユの味が良いとされる[9]。 2017年(平成29年)9月15日に高知市で開催された第20回清流めぐり利き鮎会では、振草川(大千瀬川)のアユがグランプリを獲得した[2][9]。2011年(平成23年)と2013年(平成25年)の清流めぐり利き鮎会では準グランプリに選ばれている[2]。 参考文献[編集] ウィキメディア・コモンズには、大千瀬川に関連するカテゴリがあります。 『愛知百科事典』中日新聞本社、1976年

Continue reading

ライセンス監査 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ライセンス監査” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年10月) ライセンス監査(ライセンスかんさ)は、ライセンス権利者(ソフトウェア著作物の保有者、著作権者、権利者から正式に許諾された者)が提供しているライセンス(使用許諾条件や契約)について、利用者がその契約条件通りに適切に使用しているかを確認すること[1][2]。 大手ソフトウェアベンダーのライセンス使用に関する契約書に監査権の設定があり、また日本においても日常的に大手ベンダーによるライセンス監査が行われている。 また商用ソフトウェアに対しては、ソフトウェアベンダーやソフトウェアベンダーを代理するBSAやACCS等の著作権保護団体によって広く実施されている[3]。ライセンス権利者は使用許諾契約の条件に従って、ライセンス利用者に対しての監査要求を行うが、事前通告は行われることは少なく、ある日突然監査要求に関する通知が組織の代表者宛に届くことが一般的である。 ライセンス監査の対象者となった場合、該当ベンダー製ソフトウェアの利用状況(インストール状況とアクセス状況)に対して、必要かつ適切なライセンス(使用許諾権)を保有しているかどうかについての監査が行われる[2]。ただし様々なベンダーのライセンスモデルや、製品ごとのライセンスの違い、購入プログラムの違いによって利用できる権利が異なることから、ライセンス監査の対象となった場合、何らかの不適合が確認され、損害賠償請求や間違った使い方の指摘等による追加のライセンス購入となることも多い。 近年では、仮想化技術、クラウドサービス、マルチデバイス等の急速な進展により、対応する利用権の設定(ライセンス)も更に複雑化しており、適切なライセンス設計と導入が実施されていない場合に、ライセンスコストが割高になるだけではなく、ライセンス違反によって追加コストやサービス提供へのリスクが高まっている。 ライセンス監査によって、使用許諾契約に対して正しい利用がされていないケースやライセンスの不足が発覚した場合、その不足や不適切分のライセンス料金の請求、損害賠償請求、証拠保全、訴訟等が発生することがある[4]。BSAの発表によると、日本における損害賠償請求における和解金額の最高額は4億4000万となっている[5][6]。BSAは、ライセンス違反を行っている企業を告発した者に報酬を与える制度を実施している[5]。

Continue reading

王虎 (サムライスピリッツ) – Wikipedia

王虎 (サムライスピリッツ) プロフィール 初出作品:SAMURAI SPIRITS 年齢:  35歳(初代) 36歳(真) 38歳(閃) 生年月日:清89年(1753年[1])1月2日 身長:6尺6寸(約200cm) 体重:30貫目(約113kg) 血ノ型:O型 剣の道について:絶対的な力をもって敵を倒すもの 武器銘:  斬肉大包丁(初代、閃) 撲肉大石柱(真) 爆肉大鉄球(天下一剣客伝) 盤龍柱(2019) 流派:少林寺流抜刀術

Continue reading

佐伯惟教 – Wikipedia

佐伯 惟教(さえき これのり[1])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後佐伯氏第12代当主。豊後国海部郡栂牟礼城主。 惟教の父は、豊後佐伯氏第11代当主・佐伯惟常、あるいは惟常の子・惟益とされているが、この時期の佐伯氏の系譜には諸説有り、系図が確定していない(10代惟治-11代惟常-12代惟教)。 『大友興廃記』によれば、天文19年(1550年)の二階崩れの変の際に大友義鎮(宗麟)を奉じて府内を制圧し、以来宗麟の重臣として信任されたという[2]。また『肥後国史』『大友興廃記』によれば同年、菊池義武や義武に味方する肥後国の領主との戦いで先陣を務め、鎮圧に活躍した。 大友氏の家臣団は、大友氏の同族である同紋衆とそれ以外の家系である他紋衆とに二分されていた。他紋衆の中心的存在であった佐伯氏は集権化を図る大友氏との対立を深め、惟教の祖父・惟治が謀反の疑い有りとして大友義鑑に自害に追い込まれるなど、両者の関係は緊張状態にあった。こうした中、弘治2年(1556年)5月に他紋衆・小原鑑元が中村長直らと共に叛旗を翻した(姓氏対立事件)。惟教は挙兵には参加しなかったが鑑元らと連絡をとっていたとされる。しかし、宗麟はこれを機に惟教の追討を決定し討伐軍が差し向けるが、惟教は抗戦せず一族を伴って伊予国の西園寺実充の下に身を寄せ、その後10年余り居住した。 その後、永禄年間に入ると大友氏は毛利元就と北九州をめぐる争いに突入した。毛利方の水軍に対抗するためには惟教率いる水軍の存在が不可欠であったため、宗麟は惟教に帰参を持ちかけ、永禄12年(1569年)に惟教は臼杵鑑速らのとりなしによって帰参した。翌元亀元年(1570年)には栂牟礼城を還付され、戸次鑑連が筑前国の立花氏を継ぐため豊後国を離れて加判衆から退くと、その後任として加判衆に列した。元亀3年(1572年)に一条兼定が西園寺氏と争うと、宗麟の命により兼定救援のため伊予国に出陣し、飯森城などを攻略して西園寺公広を降した。天正5年(1577年)、剃髪して麟与軒宗天と号した。この頃までには嫡男・惟真に家督を譲っていたと考えられる。 同年12月、日向国の伊東義祐が島津氏に敗れ大友氏の下へ逃れると、島津氏の勢力が日向北部にまで及ぶようになり、それまで大友方に属していた同地の諸勢力の間に動揺が見られるようになった。こうした状況下で、翌天正6年(1578年)1月、松尾城主・土持親成(惟教の妹婿)が離反して島津氏に属したとの情報が伝わると、惟教は直ちに親成に対し弁明を促し自身もとりなしに努めたが許されず、宗麟は惟教に土持氏討伐を命じた。このため、4月10日に惟教は松尾城を攻略し、親成を降伏させた。この時、惟教は親成の助命を嘆願したが許されず、親成は自害させられた。 同年9月、キリスト教に傾倒していた宗麟は、日向にキリスト王国を建設するためとして、重臣一同の反対をことごとく無視して島津攻めに自ら出陣することを決定する。10月には、松尾城攻略後も日向に駐留していた惟教もまた山田有信の籠もる高城攻めへの参加を命じられた。惟教は高城救援に向っていた島津家久の軍と遭遇しこれを撃破したが、田原親賢率いる大友勢は士気の低い武将が多く、各部隊の連携が十分にとれない有様であったために、家久隊に追い討ちをかけられず高城への入城を許してしまった。11月11日、さらに島津義久率いる本隊が北上中との報がもたらされると軍議が開かれ、惟教は包囲を継続して志賀親守・朽網鑑康・一萬田鑑実らの軍勢が肥後から到着するのを待つべきと主張し、親賢もこの意見に同意したが、これに対し即時交戦を強く主張していた田北鎮周は、意見が斥けられると、潔く突撃して死んでみせると言い残して退席した。 翌12日未明、鎮周が予告通り島津勢に突撃し、これに引きずられるようにして大友勢は無秩序に戦闘に突入していった(耳川の戦い)。惟教はやむを得ず全軍を前進させ、兵力の優位を活かしての中央突破を図ったが、高城から出撃した島津家久らの急襲を受けた親賢が全軍に後退命令を下したため大友勢は大混乱に陥り、これに乗じた島津勢の猛攻を浴びて潰滅。乱戦の中、惟教は子の惟真・鎮忠らと共に討死した。家督は本国に残留していた惟真の子・惟定が継いだ。 参考文献[編集] 『佐伯市史』(大分県佐伯市、1974年) ^ 豊後佐伯氏の仮名表記については、『国史大辞典』第6巻(吉川弘文館、1985)236頁「佐伯氏」の項および『日本人名大事典』第3巻(平凡社、1979)37頁「佐伯惟治」の項などに見える通り、他の佐伯氏同様本来の「さえき」と表記するのが通例だが、一部には大分県佐伯市の現行地名表記(大正5年(1916年)7月制定)と同様に「さいき」と表記する例も見られる(『大分歴史事典』(大分放送、1990)354頁「佐伯惟教」の項)。 ^ 『大分歴史事典』では、この一件について、他の史料による裏付けが取れないとしている(同書354頁「佐伯惟教」の項)。

Continue reading

桐野夏生 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “桐野夏生” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年8月) 桐野 夏生(きりの なつお、1951年10月7日 -)は、日本の小説家。石川県金沢市生まれ。別のペンネーム野原 野枝実(のばら のえみ)や桐野 夏子の名でロマンス小説、ジュニア小説のほか、森園みるくのレディースコミック原作も手がけていた。 妊娠中に友人に誘われ、ロマンス小説を書いて応募し佳作当選。以後、小説を書くのが面白くなって書き続けたという。ミステリー小説第一作として応募した『顔に降りかかる雨』で第39回江戸川乱歩賞を受賞。ハードボイルドを得意とし、新宿歌舞伎町を舞台にした女性探偵、村野ミロのシリーズで独自の境地を開く。また、『OUT』では平凡なパート主婦の仲間が犯罪にのめりこんでいくプロセスを克明に描いて評判を呼び、日本での出版7年後に米国エドガー賞にノミネートされ、国際的にも評価が高い。代表作に『顔に降りかかる雨』(1993年)、『OUT』(1997年)、『柔らかな頬』(1999年)、『グロテスク』(2003年)、『東京島』(2008年)など。2015年に紫綬褒章を受章[1][2]。2021年5月25日より日本ペンクラブ第18代会長に選出され、女性初の会長となった[3][4]。 プロフィール[編集] 1951年、金沢市に生まれる。建設会社でエンジニアをしていた父をもち、両親と兄、弟のリベラルな家庭に育つ。父の転勤が多く、3歳で金沢を離れ、仙台、札幌、さらに中学校2年生で東京都武蔵野市へと引っ越しを重ねた。武蔵野市立第四中学校、桐朋女子高等学校(東京都調布市)から、成蹊大学法学部へと進学。卒業後はオイルショックの時代で就職先があまりなく、映画館に勤め、のち広告代理店で医者向け雑誌の編集に従事。いずれも1、2年で退社して24歳で結婚。 仕事は結婚後も続けていたが、しばらく仕事をやめたこともあった。脚本家の向田邦子のファンだったこともあって、経済的自立を求め、シナリオ学校(日本脚本家連盟ライターズスクール)に通ったりアルバイトをしたりするようになる。子どもが生まれたため、家でできる仕事として、マニュアルの文章を書くフリーライターとして活動する。1984年、30歳代の始めに第2回サンリオロマンス賞に応募した『愛のゆくえ』が佳作入選し、小説家としてデビュー。ロマンス文学やジュニア小説、森園みるくのマンガの原作などを手がけるようになった。

Continue reading

航空母艦 – Wikipedia

航空母艦(こうくうぼかん、英: aircraft carrier)は、航空機を多数搭載し、海上での航空基地の役割を果たす軍艦。略称は空母(くうぼ)。 当初は航空機の性能が低かったこともあって補助艦艇として扱われていたが、後に航空機の性能が向上して航空主兵論が台頭するとともに、機動部隊の中核となる主力艦としての地位を確立していった。 1921年のワシントン軍縮会議では、「水上艦船であって専ら航空機を搭載する目的を以って計画され、航空機はその艦上から出発し、又その艦上に降着し得るように整備され、基本排水量が1万トンを超えるものを航空母艦という」と空母を定義している。1930年のロンドン海軍軍縮条約で基本排水量1万トン未満も空母に含まれることになった。 設計による分類[編集] アメリカ海軍では、当初、航空母艦(Aircraft carrier)には一括してCVの船体分類記号が付与されていた。その後、第二次世界大戦に伴う需要激増に対応し、特に船団護衛に投入するため、1941年には商船の船体を利用した小型・低速の空母として航空機護衛艦(Aircraft escort vessel)が登場し、AVGの船体分類記号が付与された。1942年8月20日には補助航空母艦(Auxiliary aircraft carrier)と改称し、船体分類記号もACVに変更された。 その後、1943年7月15日に整理が図られた。従来の航空母艦(CV)のうち、満載排水量5万トン以上の艦(ミッドウェイ級)は大型航空母艦(Large aircraft carrier)に類別変更され、CVBの船体分類記号が付与された。一方、巡洋艦の設計を流用して満載排水量2万トン以下の艦(インディペンデンス級・サイパン級)は軽空母(Light aircraft carrier)に類別変更され、CVLの船体分類記号が付与された。またACVについても、他の空母になぞらえて、護衛空母(Escort carrier)と改称し、船体分類記号もCVEに変更された。 1952年には、正規空母(CV・CVB)について、下記のように役割による分類が導入された。また1956年5月29日には、核動力を導入した「エンタープライズ」が就役し、原子力攻撃空母(Nuclear-powered attack

Continue reading