Month: March 2020

荒木純道 – Wikipedia

荒木 純道(あらき きよみち、1949年 – )は日本の工学者。東京工業大学大学院理工学研究科教授。専門は、電子工学、通信工学。 1971年、埼玉大学理工学部電気工学科卒業。1978年、東京工業大学大学院理工学研究科博士後期課程修了。工学博士(東京工業大学)。同年に東京工業大学助手、1985年に埼玉大学助教授を経て、1995年より東京工業大学教授。2008年、電子情報通信学会東京支部長[1]。2012年、電子情報通信学会エレクトロニクスソサイエティ会長[2]。電子情報通信学会フェロー会員、日本電気学会会員、情報処理学会会員、IEEE Life Member。 学歴・職歴[編集] 1971年 埼玉大学 理工学部 電気機工学科卒業 1973年 東京工業大学 大学院 理工学研究科 電子物理工学 修士課程修了 1973年-1975年

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越智太兵衛 – Wikipedia

越智 太兵衛(太兵衞、おち たへえ、1882年(明治15年)11月26日[1][2] – 1961年(昭和36年)10月20日[1][2][3])は、明治末から昭和前期の産業組合運動家、政治家。衆議院議員。 奈良県[3]添上郡発志院村(治道村[1][2][4]、生駒郡郡山町を経て現大和郡山市発志院町[1][2])で、越智太郎の長男として生まれた[5]。1902年(明治35年)奈良県立郡山中学校(現奈良県立郡山高等学校)を卒業した[1][2][3][4][5]。農業に従事[2]。 1911年(明治44年)2月、発志院信用組合を設立し組合長に就任[1][2][4][5]。以後、同組合の規模を拡大し、産業組合の普及と実践に尽力した[1]。1917年(大正6年)奈良県信用組合連合会が設立され監事に就任し、理事、常務理事を歴任[1]。1930年(昭和5年)奈良県購買販売組合連合会が設立されると理事に就任し、1931年(昭和6年)県信用組合連合会、県購買販売組合連合会の各会長となり、1935年(昭和10年)両組合が合併して奈良県信用購買連合会が設立すると同会長に就任[1]。さらに、全国購買組合連合会(全購連)理事、全購連大阪支所長も務めた[1]。1938年(昭和13年)産業組合中央金庫(産組中金、農林中央金庫)理事に就任し、他の役職を辞して産組中金業務部長を務めた[1]。1941年(昭和16年)全国購買販売組合連合会初代会長に就任[1]。その他、産業組合中央会理事、中央食糧営団理事、満州化学工業取締役、有機肥料配給監査役なども務めた[4][5]。 1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け奈良県全県区から出馬して当選し[1][2][3][4][5]、衆議院議員に1期在任した[3]。この間、大政翼賛会中央協力会議員、翼政会評議員、同政調農林委員などを務めた[4]。戦後、日本進歩党に所属し[3]、その後、公職追放となった[6]。また農業会が解体されたことを受けて産業組合運動を引退した[1]。 息子 越智楢治(奈良県経済農業協同組合連合会長、全国購買農業協同組合連合会理事)[1] ^ a b c d e f g h i

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平山勝雄 – Wikipedia

平山 勝雄(ひらやま かつお、1978年10月4日 – )は、ルートインBCリーグ福井ワイルドラプターズ球団GM(ゼネラルマネージャー)、株式会社ケイコンテンツ代表取締役CEOである。元読売テレビ東京制作部の演出、プロデューサー。大阪府大阪市東成区出身。 大阪府立高津高等学校から神戸大学経済学部に進学。卒業後は2003年読売テレビ大阪本社に入社。日本テレビ系列の多数の番組を手がける。現在は演出やプロデューサー業に従事している。 2005年から東京支社の制作部に勤務。どっちの料理ショーを担当し、その後にニッポン旅×旅ショーでディレクターデビュー。秘密のケンミンSHOWのディレクター(2019年7月からプロデューサー)として活躍。同番組の人気コーナー「ヒミツのOSAKA」を立ち上げから手がけた。 2011年にダウンタウンDXのディレクターに就任。2015年2月からはチーフディレクターを担当、2018年11月から2019年8月まではプロデューサーも兼務していた。平山は雑誌の取材に対し、当時のことを「僕はこれまで『どっちの料理ショー』『秘密のケンミンSHOW』など、放送の尺に対して圧倒的に長く喋ってもらう番組をやっていて、『DX』は全然違う世界に飛び込んできた感じでした。もちろんどちらが正解という話ではないですけど、目の前のライブで面白くすると、それが相乗効果でさらに面白くなるんだな、と感じました」[1]と答えている。 2013年からはワケあり!レッドゾーンのプロデューサー兼演出を務めた。番組にはライセンスを起用し、「初めての収録を終えて、フリートークの力に本当に驚いた。ワケあり素人のイジりも冴えていましたし、何より本人たちが楽しくやってくれていた[2]」と評価している。苦労する点として同番組は毎回オンエアできないくらいのギリギリトークになる傾向が強い点を挙げている[3]。 2016年に自身が在籍している草野球チーム「天晴[4]」のメンバーである徳田正憲と大塚卓に声を掛け、野球YouTubeチャンネル『トクサンTV』を立ち上げ、2人に番組制作のノウハウを徹底的に叩き込み、野球YouTuberとしての地位を確立させた[5]。 2020年3月、読売テレビを退社し、『トクサンTV』を始めとしたYouTubeチャンネル運営や映像制作を手掛ける株式会社ケイコンテンツを設立[6]。BCリーグ福井ワイルドラプターズゼネラルマネージャーに就任。 趣味は野球。右投げ右打ち。神戸大学時代は硬式野球部に所属し、エース投手として活躍。在学時はMAX147キロを記録するなどプロ注目の右腕であった。 現在も草野球チームに所属し、2013年にはGBN全国草野球大会関東大会を制覇[7]。武器は140キロのストレートとツーシームとフォークボール。理論的な投球スタイルとは裏腹に、打撃スタイルは理論派ではなく感覚派で常にフルスイング。ニックネームはアニキ。大学野球部の後輩に元東京ヤクルトスワローズの塚本浩二がいる[8]。 YouTubeを始めようと思ったきっかけは、動画で問題提起して、みんなで野球について考え、それぞれのチームで共有して欲しいと考えたからである。また、テレビ番組を意識した質の高さを追求し、動画内ではライパチの名前で活動している大塚卓は、「冒頭30秒のあいさつだけで作り直させられた」とその厳しさを語っている[5]。また取材の際には勝手に撮影をせず、許可を得られない動画は絶対に使わないというテレビマンとしてのプロ意識を持って撮影を行っている[5]。 担当した番組[編集] 外部リンク[編集]

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成田勝四郎 – Wikipedia

成田 勝四郎(なりた かつしろう、1904年(明治37年)10月5日 – 1982年(昭和57年)10月26日[1])は、日本の外交官。在ドイツ日本大使や終戦連絡中央事務局第一部長、国連政府代表団代表などを歴任。 目次 1 来歴・人物 2 栄典 3 著書 4 脚注 5 関連項目 来歴・人物[編集] 東京府東京市生まれ。麹町小学校、府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)、第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学法学部を卒業。在学中の1927年高等文官試験外交科に合格し、卒業と同時に外務省に入省。同期入省組には、東大法科でも同期だった与謝野秀がいる[2]。 入省後、書記生としてイギリスへ配属されたのを皮切りに、戦前はドイツなどに在勤。帰国後、人事課長などを務めた後、終戦に伴い終戦連絡中央事務局第一部長に就任し[3]、同局長官岡崎勝男の側近としてポツダム宣言受諾に関わった[4][5]。 1953年に在チリ日本公使を務めた後、パキスタン、オーストラリア、西ドイツで在日本大使を歴任。また、日本が国連加盟を果たして初めて総会初頭より参加した1957年第12回国際連合総会(代表首席・藤山愛一郎外務大臣)に国連政府代表団代表として参加し、日本の国際連合安全保障理事会非常任理事国初当選に貢献した[6]。その他、北方領土問題対策協会副会長などを歴任し[7]、戦後日本外交の重要な課題に取り組んだ。

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キューピッドによって結ばれるマルスとヴィーナス – Wikipedia

現在の展示と額縁。 『キューピッドによって結ばれるマルスとヴィーナス』(キューピッドによってむすばれるマルスとヴィーナス、伊: Marte e Venere uniti dall’amore, 英: Mars and Venus United by Love)は、イタリアルネサンス期の画家パオロ・ヴェロネーゼが1570年ごろに制作した絵画である。油彩。主題はギリシア神話の女神アプロディテとアレス(ローマ神話のヴィーナスとマルス)の結婚を描いた神話画、ないし戦争に対する愛の勝利を描いた寓意画である[1][2]。ヴェロネーゼを代表するヴィーナスの絵画であり、1570年代に制作した絵画の中で最大の作品の1つである[3]。神聖ローマ皇帝ルドルフ2世、スウェーデン女王クリスティーナ、オルレアン・コレクションを経て、現在はニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されている。 制作背景[編集] ヴェロネーゼが本作品を制作した経緯は不明である。1621年までにルドルフ2世が所有したことが知られており、おそらくルドルフ2世か、あるいはその父マクシミリアン2世によって委託されたと考えられている[3]。かつては『知恵と強さの寓意』(Wisdom and Strength)および『美徳と悪徳の間の選択』(The Choice Between

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アランツァス聖堂 – Wikipedia

崖上に据えられた聖堂 スペインにおける位置 アランツァスの聖母 アランツァス聖堂(バスク語: Santuario de Nuestra Señora de Aránzazu, 英語: Sanctuary of Arantzazu, [aˈɾants̻as̻u])またはアランサス聖堂(スペイン語: Santuario de Nuestra Señora de

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エリーローズ – Wikipedia

エリーローズ(ELLI-ROSE[2]、1986年9月25日[3] – )は、日本の女性ファッションモデル、タレント、女優。 レプロエンタテインメント所属。旧芸名は川村エリ[1]、エリローズ。女性ファッション雑誌『ViVi』への登場から特に著名[4]。 父親が日本人はプロの写真家・荒川弘之[5]で母親がイギリス人のスタイリスト・マキシーン・ヴァンクリフ・荒川[6]。 12歳の時、ローティーン向けファッション雑誌「ニコラ」)のモデル(ニコモ)としてデビュー[7][8]。以後、女性ファッション雑誌「ViVi」やランジェリーブランド「Ravijour」等でモデルとして活動。ViViでは2005年から2015年まで、10年間出演した[7][9]。 『JELLY』の姉妹誌にあたる『Gina』が2011年に創刊すると、大屋夏南、シャウラ、秋元梢、高橋真依子、星あやほか4名のモデルらとともにその創刊号に登場し、以来、同誌のメインモデルのひとりとして出演[10]。 2007年よりDJとしても活動をはじめ、モデルのディエゴとDJユニット「Van Cliffe.D」でクラブDJとしても活動をスタート。ユニット名の由来は、相方の名前「Diego」の「D」と彼女のイギリスでの名字「Van Cliffe」をかけ合わせたものである。その後一人で「Van Cliffe」としてハイブランドのパーティーから地方のフェスまで幅広く活動。2015年春からDJネームを「ELLI ARAKAWA」に改名。 同じ事務所で、ViViでも一緒だったマリエは高校の後輩に当たる[11]。また、同事務所の木下ココとも仲が良く、木下が出演するイベントでDJを務めたこともある[12]。同じ事務所の紗羅マリーとは芸能活動を始めた当初からの仲で、大の親友であり、雑誌でもたびたび「エリサラ」コンビで登場する[7]。 雑誌[編集] ショー[編集] 写真集[編集] 『ELLIROSE エリローズ』(新潮社、1998年)撮影:篠山紀信 解説:柳美里 『MEDIA GIRLS

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エイヴイ – Wikipedia

株式会社エイヴイave Corporation 種類 株式会社 市場情報 非上場 本社所在地 日本神奈川県横須賀市平成町1-5-1 設立 1983年10月12日 業種 小売業 法人番号 1021001040016 事業内容 スーパーマーケット 代表者 代表取締役 木村忠昭 資本金

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関門急行線 – Wikipedia

関門急行線(かんもんきゅうこうせん)は、かつて日本国有鉄道(国鉄バス)・西日本鉄道(西鉄)・山陽電気軌道(山陽電軌・後のサンデン交通)・関門急行バスが運行していた自動車路線である。 運行の経緯[編集] 1957年7月、国鉄バスでは「国鉄自動車の基本方針」として、従来の「国鉄自動車の4原則」に加え、都市間の幹線にバスを運行することで鉄道輸送の補完を図るという方針が示された[1][2][3]。これを受ける形で、関門トンネルが1958年3月に開通することを踏まえ、国鉄バスは鉄道の直通していない北九州と山口・宇部地区に自動車路線を開設し、鉄道輸送を補完する計画を立案した[2]。 ところが、この計画路線の沿線は防長交通・山陽電軌・西鉄などのバス事業者が営業エリアとしている地区であった。これらの沿線事業者が関門国道トンネル経由のバス路線を計画した[2] ほか、関門海峡を運航していた船舶事業者もバス事業に参入の上バス路線を計画した[2] 結果、国鉄バスを含めて7社の競願となった。7社は全てが互いに対立していたわけではなく、国鉄バスの長距離路線進出に反対する民間事業者と、鉄道の補完を主張する国鉄バスとの争いとなった[2]。この争いに終止符を打つべく、広島陸運局で2日間にわたる公聴会が1957年12月に行なわれたほか、各社間協議も数回にわたり行なわれた。 この結果、民間事業者は合弁会社を設立の上、国鉄バスとの相互乗り入れ路線として運行することで合意となった[2]。この協議の中で、国鉄バスが山口県西部に営業エリアを拡大するのと引き換えに、秋芳洞から山口へは山陽電軌が、山口から萩へは防長交通が乗り入れることになった[4]。 これを受けて1958年2月に国鉄バス・西鉄・山陽電気軌道の3社に対して路線が免許された。西鉄・山陽電軌に対する認可は、新会社設立までの暫定的なものであった[2]。 運行開始から[編集] こうして、関門国道トンネル開通の翌日である1958年3月10日より、山口と博多の間165kmを5時間15分で結ぶ関門急行線の運行が開始された。この区間では国鉄バスが6往復、西鉄が5往復を担当した。このほか、宇部と八幡を結ぶ路線も西鉄と山陽電軌により運行された[2]。同年8月、新会社「関門急行バス」が、西鉄・山陽電軌・防長交通・山陽急行バス(当時)・関門海峡汽船(当時)の5社の出資により設立され、関門急行線は同社と国鉄バスの相互乗り入れに変更された[4]。 なお、国鉄バスが方針として示した「鉄道線の補完」については、1962年に国鉄自動車問題調査会の答申により確定されることとなった。これを受け、国鉄バスでは岡山から九州までを国鉄バスで一貫輸送するという構想を立案し[5]、関門急行線と接続する形で広島と山口を結ぶ区間を「瀬戸内西線」、岡山と福山を結ぶ区間(両備線)については「瀬戸内東線」と改称されている[6]。 しかし、この構想は途中の事業者との調整が難航し[5]、実現しなかった。さらに、山陽本線の電化と引き換えに、利用者数は減少の一途をたどり[7]、かつて瀬戸内東線・瀬戸内西線の構想により運行された長距離路線も、通し運行の中止や運休となっていった[8]。 1972年には国鉄中国地方自動車部(山口自動車営業所)が運行から撤退した[8] 後も、減便の上関門急行バスと国鉄九州地方自動車部(直方自動車営業所)のみで運行が継続されたが、1977年に路線は休止となり、1978年10月に正式に廃止された[9]。存在意義のなくなった関門急行バスは会社解散となった。 1958年3月10日 関門急行線、山口・博多間開業。 1959年7月11日 小野田公園通・門司大阪町間に小月町停車場新設。これに伴い小月駅前停車場廃止。 1959年8月1日 小郡駅前、小倉駅前通の各停車場廃止。小郡駅、小倉駅にそれぞれ乗り入れる。

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やまぐち総合教育支援センター – Wikipedia

やまぐち総合教育支援センター(やまぐちそうごうきょういくしえんセンター、英称:Yamaguchi Education Support Center)は、山口県が設置する教育に関する研究及び教育関係職員の研修を行う機関である。 やまぐち総合教育支援センターは山口県における教育に関する研修、研究、情報の収集及び提供、相談等を行い、もって学校、家庭等における教育を支援するために設置され、2008年前身の山口県教育研修所を改称して現在の名称となる。[1] 公益財団法人山口県ひとづくり財団と共同で、セミナーパークの施設設備を管理する。セミナーパークでは自治体職員や一般県民を対象とした研修が行われるが、セミナーパーク内の「情報・教科研修棟」および「技術研修棟」は専ら総合教育支援センターが実施する研修で使われ、セミナーパーク内にある「子どもと親のサポートセンター」や「ふれあい教育センター」は当センターの管理となる。施設内には、ビデオダビング装置、マークシートリーダーなどの設備がある。 「21世紀の松下村塾」をキーワードに、主に教育関係者(教員、教育事務職員)を対象とした研修や教育相談などの教育事業を実施する。 事業内容は下記の通りである。[1] 教育関係職員及び社会教育指導者の研修に関すること 教育に関する専門的、技術的事項の研究に関すること 教育に関する情報の収集及び提供に関すること 教育相談に関すること 前項に掲げるもののほか、学校、家庭等における教育を支援するために必要な業務に関すること。 教育事業の詳細として、経験年数に応じた法定研修である「基本研修」のほか、教職員の自発的な参加による「希望研修」、更に出前研修プラン(サテライト研修)や平日に行わない土曜日プラン(スキルアップ研修)などの「支援研修」を行っている。この際、サテライト研修は一部を教職員に開放する開放講義、スキルアップ研修は県民すべてに参加する権利がある県民公開講座となっている。 他に教育情報提供事業「EIPoS」と「TeTraS」を実施。小学生の児童から一般教職員に向けた教育情報提供システムや、インターネットを用いて研修・学習ができる遠隔教育システムをはじめとするサービスを提供している。 2008年4月より、それまでの教育研修所を再編、子どもや親への支援機能を強化した組織・施設となり、臨床心理士らの専門家が常駐するようになった。 1950年(昭和25年)9月 山口県教育研究所が山口県教育庁指導課内に設置される 1961年(昭和36年)7月 山口県理科教育センターの設置

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