Month: June 2020

皖贛線 – Wikipedia

皖贛線(かんかんせん)は安徽省蕪湖市から江西省鷹潭市を結ぶ中国国鉄の鉄道路線である。 皖は安徽省、贛は江西省の簡称であり、皖贛鉄路は安徽と江西とを結ぶ路線である事を意味する。蕪湖南(元火龍崗)~貴渓間の全長は539.92km[1]で全線が未電化で、蕪湖~宣城間は複線、宣城~貴渓間は単線である[2]。起点から342.5km(倒湖駅と方家塢駅の間)までは上海鉄路局の管轄でそれ以南が南昌鉄路局の管轄である[3][4]。蕪湖~蕪湖南間は寧銅線(中国語版)と、貴渓~鷹潭間は滬昆線と共用である。(寧蕪線(中国語版)と併せて)南京から江西方面への近道であり、他の路線経由より400km近い[5]。また、滬寧線、滬昆線と併せて環状路線を形成して輸送上の調整作用を行える[5]。 着工後の沿革[編集] 1905年に蕪湖で安徽省私営鉄路公司が成立、蕪湖から景徳鎮までの鉄道建設を計画し、まず蕪湖から広徳までを着工する事になり、1911年4月に蕪湖~湾沚間の路盤や橋台が完成したが1914年3月に北京政府に計って公司は解散した[6]。その後私営の未成路線を国有化して工事を続けようとしたが、第一次世界大戦の勃発により停止して放置された[6]。1926年に宣城で商営蕪宣広長途汽車公司が成立し、路盤上でバス路線の営業を開始した[6]。1934年に中華民国鉄道部が鉄道建設の為に路盤を回収してバス路線は廃止された[6]。1932年6月17日に江南鉄路有限公司が成立して蕪湖~宣城間を建設する事となり、1933年2月に鉄道部より蕪湖~湾沚間を譲り受けた[6]。1933年3月に工事を開始して、1934年11月25日に宣城~孫家埠間が開通した[6]。1936年5月に京贛鉄路工程局が成立し、全線の測量・設計を開始した[6]。南京~孫家埠間は江南鉄路公司の建設物を利用し、孫家埠~貴渓間は新規に建設した[6]。安徽と江西の双方に分けてそれぞれ1936年9月と1937年2月に建設を開始し、1937年7月と10月に線路を敷設した[6]。1937年11月に南京攻略戦が起こり南京と宣城が陥落し、工事は停止した[6]。その時点では全線の路盤と橋台は完成し、両端には線路が敷設されていた[6]。1938年夏に日本軍が中原に迫ると国民党政府は現地の軍隊に路盤や橋、トンネルを破壊し、軌道を取り除く様に命令した[6]。蕪湖陥落後に日本軍の輸送の為に破壊された湾沚大橋に木橋を架けて宣城~孫家埠間に一年程列車が運行されたが、再度不通となった[6]。日中戦争終了後に中国国民党は江南の鉄道を復活させ南京~蕪湖間は線路を敷設したが、蕪湖~宣城間は復活させずに国共内戦での東北部の解放区での線路敷設作戦用に枕木を外してしまった[6]。 中華人民共和国成立後[編集] 中華人民共和国成立後に数度の調査を経て、1969年8月に皖贛鉄路建設指揮部を成立させた[6]。1970年11月に全線を正式に建設開始して、1973年6月30日に火龍崗(蕪湖南)~寧国間104.2kmの基礎が完成し、7月1日に交通部は火龍崗~景徳鎮南間を鉄路四局に建設させる事に決めた[1]。1974年2月に寧国まで線路が敷かれて、4月1日から仮開業した[1]。寧国~景徳鎮南間は1974年下半期から全面的に工事を行ったが、1975年の第2四半期から後に建設資材である鋼材、セメント、木材の不足により工事は数年停止した[1]。1976年10月1日景徳鎮~南昌間に旅客列車を運行した[6]。1978年には投資が増えて資材も入って工事を再開した[1]。1981年12月4日に祁門駅での線路敷設により全線の線路が敷かれた[1]。1982年10月1日に全線で仮開業を開始して幹線の貨物列車の一部を受け持って運行した[1]。1984年5月末に国家験收委員会の検査を経て、火龍崗~景徳鎮南間が上海鉄路局と南昌鉄路局による臨時運営を開始し、1985年6月1日に全線正式運営を開始した[1]。 開通後[編集] 1989年にレールを1mあたり43kgから50kgのレールに交換して重軌条化し、同時に分岐器43組も交換した[7]。1992年11月から1995年12月にかけて火龍崗~宣城間の拡張改造工事を行い、1999年には蕪湖長江大橋(中国語版)にも投資し、2001年9月27日に蕪湖~宣城間が複線化された[7]。2002年時点での旅客列車の運行速度は時速100km、貨物列車は時速75kmである[7]。安徽省内の複線電化工事が計画されている[8][9]。 経由する主な都市と距離[編集] 主要都市以外に歴史に登場する駅も記載した。 接続路線[編集] 外部リンク[編集]

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國場翼 – Wikipedia

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 國場 翼(こくば つばさ、1993年12月5日 – )は、沖縄県具志川市(現・うるま市)出身[1]の元プロ野球選手(投手)。右投左打。 「國」の字は旧字体であるため、メディアではしばしば「国場 翼」と表記される。 プロ入り前[編集] 小学生時代は学童野球チーム・天願フェニックスに所属していた[2]。 沖縄県立具志川高等学校では甲子園出場はなかった[3]。 第一工業大学では1年生時からリーグ戦に出場[4]。3年生時、第92回九州地区大学野球選手権大会・鹿児島地区の最優秀投手賞を受賞し、ベストナイン(投手)に選ばれた[5]。 2015年10月12日に行われたプロ野球ドラフト会議で埼玉西武ライオンズから8巡目で指名を受け[6]、契約金1500万円、年俸600万円(金額は推定)で仮契約を結んだ[7]。背番号は「57」に決まった[8]。 西武時代[編集] 2016年8月14日に初めて出場選手登録され[9][10]、8月21日の対千葉ロッテマリーンズ戦において4点ビハインドの8回表に4番手でプロ初登板し、2回を投げ被安打1、奪三振2、与四球3、無失点の成績だった[11][12]。この年は2試合に登板し、3回2安打無失点だった。二軍では22試合に登板し、3勝4敗2セーブ、防御率4.15だった[13]。 2017年、一軍公式戦の出場機会はなく、二軍公式戦において19試合に登板し、1勝2敗、防御率3.80の成績を残す[14]。11月25日から台湾で開催される2017アジアウインターベースボールリーグにおいて、NPBウエスタン選抜に選出される[15]。 2018年、2年連続で一軍での登板はなかった。 2019年、9月14日の対ロッテ戦で延長10回を無失点に抑え、その裏にエルネスト・メヒアがサヨナラ打を放ったことでプロ初勝利を手にしたため、[16]お立ち台に上がった[17]。中継ぎで15試合に登板し、防御率3.68だった。 2020年、9月25日に一軍登録され[18]、中継ぎとして7試合に登板したが防御率7.36と戦力になれなかった。シーズン後、みやざきフェニックス・リーグの参加メンバーだったが[19]、開催3日目に離脱させられ[20]、11月13日に球団から戦力外通告を受けた[21]。11月20日任意引退選手として公示され、打撃投手兼スコアラーに転身した[22]。 引退後[編集]

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リーマン曲率テンソル – Wikipedia

リーマン幾何学においてリーマン曲率テンソル(リーマンきょくりつテンソル、英: Riemann curvature tensor)あるいはリーマン-クリストッフェルのテンソル(英: Riemann–Christoffel tensor)とは、リーマン多様体の曲率を表す4階のテンソルを言う。名称は、ベルンハルト・リーマンおよびエルウィン・ブルーノ・クリストッフェルに因む。 リーマン-クリストッフェルのテンソル(リーマン曲率テンソル)は重力の現代的理論である一般相対性理論における数学的な道具の中心となるものである。 リーマン多様体を M とする。すなわち、M 上の各点に基本計量テンソル gij が与えられており、接続の記号 Γjki{displaystyle Gamma _{jk}^{i}} はクリストッフェル記号 {ijk}{displaystyle left{{{i} atop

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パリンコ学園No.1 – Wikipedia

『パリン子学園No.1』(パリンコがくえんナンバーワン)は、TBS系列局の一部で放送されていたTBS製作の歌謡バラエティ番組である。全25回。TBSでは1982年10月7日から1983年3月31日まで、毎週木曜 19:00 – 19:30 (日本標準時)に放送。 「パリン子学園」という架空の学園を舞台に繰り広げられるショートコント、前番組『ピンキーパンチ大逆転』にもあったアイドルの歌のコーナー、レギュラー陣が洋楽に日本語の詞による歌とダンスによるコーナーの3部構成。 放送当時、木曜19時台前半[1]と火曜22時台はTBS系列全局でローカルセールス枠であったことから、系列局であっても、毎日放送 (MBS) (土曜 7:00 – 7:30 に放送)のように遅れネットで放送する系列局やこの番組を放送しなかった系列局やが多数存在した。 松本・少年隊・山田は、前番組『ピンキーパンチ大逆転』にもレギュラー出演していた。小泉と堀は、同番組にゲスト出演したことがある。 スタッフ[編集] (技術) 技術:日野治隆 映像:佐々木章 カラー調整:松浦卓雄 音声:渡辺秀樹

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オーエイギャザリング – Wikipedia

株式会社オーエイギャザリング(英語表記:OEI Gyazaring、略称:OEIG)は、テレビ番組・映画の撮影技術を行う制作プロダクションである。 東映や国際放映制作のテレビドラマ作品が多数手がけている。 目次 1 会社概要 1.1 所在地 1.2 設立年月日 1.3 代表者 2 主な作品 2.1 テレビ 2.1.1 ドラマ 2.1.2 特撮

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ダヌィーロ・ロマーノヴィチ – Wikipedia

ダヌィーロ・ロマーノヴィチДанило Романовичъ 第2代ハールィチ・ヴォルィーニ大公ルーシの王 在位 ハールィチ・ヴォルィーニ大公:1238年 – 1264年ルーシの王:1253年 – 1264年 出生 1201年 死去 1264年 配偶者 アンナ・ムスチスラヴナ   タウトヴィラスの姉妹 子女 一覧参照 家名

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下田海上保安部 – Wikipedia

第三管区海上保安本部 > 下田海上保安部 下田海上保安部(しもだかいじょうほあんぶ、Shimoda Coast Guard Office )とは、千葉県、静岡県、東京都の沖合東西192海里、南北175海里を担任水域とする、海上保安庁の海上保安部の一つである。 目次 1 特徴 2 沿革 3 所在地 4 組織 5 巡視船艇・灯台 5.1 巡視船

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リビアヤマネコ – Wikipedia

リビアヤマネコは、食肉目ネコ科ネコ属に分類される動物。愛玩用として世界で広く飼育されているイエネコの起源であると考えられる。アフリカヤマネコとも呼ぶが、本項目では特に断らない限り赤道以北のアフリカ・中近東に生息する野生種について述べる。 イエネコと比べて足が長く、座った姿勢や歩き方に特徴がある。ヨーロッパヤマネコと比べると毛は短めで明るい褐色であり、縞模様は不明瞭、尾は長く先が細い。体長45-80cm、体重3-8kg、尾長は30cmほどである[2]。 沙漠、サバナ、潅木帯から、混交林まで幅広い植生に生息しているが、熱帯雨林にはいない。基本的には夜行性だが、朝夕にも活動する薄明薄暮性でもある。行動圏は広めで、アラブ首長国連邦では50平方キロメートルを超えた例もある。木登りは上手であるが、狩は地上で獲物を付け狙い急襲する。齧歯類のほか、モグラ、ウサギ、鳥類、昆虫、カエル、トカゲ、魚、イタチなども捕食する。若いアンテロープや、小型の家畜を襲うこともある[2]。 正確な分布は明らかでないが、赤道以北のアフリカと、アラビア半島からカスピ海にかけて生息している[2]。赤道以南には遺伝学的に異なる集団が分布しており、亜種または別種としている。 イエネコと近縁なヤマネコ類には、遺伝学的に異なる5つの集団(右図)が存在していることが知られている[3]。このうちどれを独立種としどれを亜種とするか、また家畜化されたイエネコを独立の種または亜種とみなすかどうかは見解が一致していない[4]。これらを全てヨーロッパヤマネコの亜種とする場合もあり[3]、逆に全てを独立種とする見解もある[1]。あるいはsilvestrisは長期にわたって分布域が分断され生態や形態からも明確に区別ができることから別種とし、またbietiはornataと同所的であるにも関わらず明瞭に区別できることからやはり別種とする見解もある[5]。 以下の分類はIUCN SSC Cat Specialist Group (2017)[1]にしたがっており、lybica、cafra、ornataの3集団で1種としている。 残り2集団については以下の各記事を参照のこと。 イエネコの起源[編集] 本種が家畜化され、イエネコになったと考えられている。2007年に発表されたネコ属から採取した979組織のミトコンドリアDNAとマイクロサテライト遺伝子の分子系統解析では、共にリビアヤマネコとイエネコが同じ系統に含まれるという解析結果が得られたためリビアヤマネコを起源とする説を支持している[3]。ミトコンドリアDNAの解析からイエネコがリビアヤマネコと分岐したのは131,000年前という解析結果が得られ、他のデータも含めると155,000 – 107,000年前に分岐したことが示唆されている[3]。このミトコンドリアDNAの解析では、解析に用いられたイエネコの母系をさかのぼると少なくとも5つのミトコンドリアDNAハプロタイプに起源があることが示唆されている[3]。この解析では9,000年以上前に肥沃な三日月地帯で初期の農耕の成立に伴い家畜化されたと推定している[3]。紀元前3,000年頃の古代エジプトの遺構から大量に出土するようになったことから、この時期に家畜化されたとする説もある[6]。古代エジプト起源説では、小麦や大麦などの栽培が盛んであったため、貯蔵している穀物を食害するネズミを食べることが家畜化のきっかけとなったとされる[6]。頭がネコ・首から下が女性の愛の女神バステトへの信仰や、彫像やレリーフなどの出土品が見られる[6]。ギザの墳墓からミイラとなったネコが約190匹発見された例があり、一部は大型なためジャングルキャットのものとされるが大半はリビアヤマネコもしくはイエネコのものと推定されている[6]。ヘロドトスなどによる古代エジプトについての記録では、ネコが死ぬと飼っていた家族が弔いのために眉を剃る、ネコを誤って殺した外国人が民衆によってリンチに遭うなどといった記録がある[6]。 これより古くは紀元前6,000年頃のアナトリアで作られたと思われる女性とネコの偶像、紀元前4,000 – 5,000年頃のヨルダン河岸のイェリコの遺構から出土したという報告例もあるが起源について主流な説とはならなかった[6]。後者についてはイエネコかどうか不明で、毛皮目的で殺された個体である可能性もある。本種が分布しないキプロスの9,500年前の遺跡から人間とリビアヤマネコ(大きさや額の傾斜・頬歯の長さから)と推定される骨が約40センチメートル離れて同じ向きで出土した例があり、これをもって最古の飼育例とする説もある[7]。 日本でのネコの最古の記録は平安時代初期で、日本霊異記や宇多天皇御記で記述がみられる[6]。

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ナチン – Wikipedia

ナチン・キュレゲン(モンゴル語: Način Küregen、生没年不詳)は、13世紀初頭にモンゴル帝国に仕えたコンギラト部出身の万人隊長(トゥメン)。ジャライル部のバアトル・ノヤンとともにクビライの即位と内戦の勝利に大きく貢献したことで知られる。 『元史』などの漢文史料では納陳(nàchén)、『集史』などのペルシア語史料では ناچین كوركان(Nāchīn kūrkān)と記される。 ナチンは建国の功臣にしてチンギス・カンの正后ボルテの兄のアルチ・ノヤンの息子として生まれ、兄弟にはチグゥ、オキ・フジン、チャブイ、オチンらがいた。長兄のチグゥが西寧州(現在の青海省西寧市一帯)に移住して独自のウルスを形成したことで当初はオチンがアルチの後継者になったが、そのオチンも早世したため、弟のナチンが地位を継承して1257年(丁巳年)に万人隊長(トゥメン)となった[1][2]。 ナチンは父兄同様にチンギス・カン家の女性セチェゲンを娶って「キュレゲン(駙馬/婿)」を称したが、セチェゲンは「チンギス・カンの孫娘」としか記録されず父親の名前は分かっていない[3]。ナチンとセチェゲンの息子のマンジタイは没年からの逆算によって1255年-1256年頃に生まれたことが分かるので、ナチンは兄の地位を継承する数年前からセチェゲンと既に結婚していたようである[4]。本来は「アルチの子のオチンとトルイの娘のイェス・ブカの婚姻」と「トルイの子のクビライとアルチの娘のチャブイの婚姻」が対となって、オチン家とクビライ家の姻戚関係が築かれるはずであったが、オチンの早世によってクビライ家との姻戚関係はナチン家に引き継がれることになる。また、ナチンのもう一人の妹のテムルンはジャライル部のバアトルに嫁いでおり、互いに義兄弟の関係となるバアトルとナチンはクビライの最も信頼おける部下であった[5]。 ナチンが万人隊長となったのはモンケ・カアンによる南宋侵攻が本格化する時期であり、『集史』「モンケ・カアン紀」によるとナチンはジャライル部の国王クルムシ、イキレス部のデレケイ・キュレゲン、ウルウト部のブジル、マングト部のチャガン・ノヤンらとともにタガチャル国王の指揮する南宋遠征左翼軍に属していたという[6]。なお、ジャライル・コンギラト・イキレス・ウルウト・マングトの5部族はチンギス・カンの時代から一体性の強いひとまとまりの集団と認識されており、漢文史料上では「五投下」と総称されている[7]。しかし、史料上には明記されないものの「五投下」軍団は途中でタガチャル軍からモンケ軍に移動になったようで、『元史』「憲宗本紀」にはナチンはモンケの釣魚山攻めに加わったと記されている[2]。 1259年(己未年)、釣魚山攻めの最中にモンケ・カアンが病死するという大事件が起こった。モンケ配下のモンゴル将軍の多くが去就を決めかねる中、ナチンは義兄弟たるクビライを奉じる事を決め、いち早くクビライの下に参じた[2]。クビライがバアトル・ノヤンの助言に従ってウリヤンカダイ軍を救出するための鄂州出兵を行うとナチンもこれに従い、大清口を降して軍船100艘余りを鹵獲する功績を挙げ、その後も山東地方の済州・兗州・単州の平定に従事した[2]。一方、モンゴル全軍が動揺する中での「ウリヤンカダイ軍の救出」によって支持を集めたクビライの下には続々と支持者が集まり、頃合いを見てナチンを含むクビライ軍は本拠地のドロン・ノールに帰還した。モンゴル帝国の首都のカラコルムではモンケによって末弟のアリクブケが留守役に任じられており、旧モンケ政権の重臣はアリクブケを次期皇帝(カアン)として擁立しようとしていたが、クビライはこれを無視して1260年3月にドロン・ノールで支持者のみを集めてクリルタイを開き一方的に即位を宣言した。『集史』「クビライ・カアン紀」によるとナチンもクルムシ国王、デレケイ駙馬とともにクリルタイに出席し、クビライのカアン即位を支持したという[8]。 当然ながらカラコルムのアリクブケ一派はクビライ一派の行動に反発し、カラコルムでも独自にクリルタイが開かれアリクブケがカアンに推戴された。こうして、モンゴル帝国では2人のカアンによる建国以来最初の大規模な内戦(モンゴル帝国帝位継承戦争)が繰り広げられることになった。クビライ軍は「五投下」を初めとする実戦経験豊富な軍団を擁することでアリクブケ軍を圧倒し、1261年に早くもアリクブケの本拠地たるモンゴル高原にまで侵攻した。『元史』によるとこのモンゴル高原侵攻にナチンも息子のガハイ・トゴン・オロチンらを連れて従軍していたという[2]。追い詰められたアリクブケは投降するふりをしてクビライ軍を油断させ、主力軍を率いてクビライ軍を急襲するという乾坤一擲の策に出た[9]。帝位継承戦争中最大の激戦となったこのシムルトゥ・ノールの戦いでもクビライ側の主力となったのはナチンら「五投下」の軍団で、バルス・ブカらオイラト軍と相対したナチンは1万にも及ぶ首級を挙げたという[2]。 乾坤一擲の策に敗れたアリクブケはもはや劣勢を挽回できず、1264年に投降して帝位継承戦争はクビライの勝利に終わった。しかし、シムルトゥ・ノールの戦い後のナチンの活動についてはほとんど記録がなく、僅かに『通制條格』に記される1265年(至元2年)付けクビライのジャルリク(聖旨)に言及されるのみである[10]。 コンギラト部デイ・セチェン家[編集] ^ 宇野1999,37頁 ^ a b c

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ヘルスケア (Apple) – Wikipedia

ヘルスケアは、Appleが提供するアプリ。 2014年6月2日のWWDCで発表されたものである。このアプリは、iOS 8以降を搭載したiPhoneやiPod Touchに搭載されている。 アプリでは、血圧測定や血糖値などの健康データを保存する機能だけではなく、歩数などのトラッキングデータも保存できる[1]。 ヘルスケアはiPhoneとApple Watchに搭載されており、アプリのアイコンは白いアイコンに赤いハートが描かれている。[1] アプリ内には、アクティビティ、マインドフルネス、睡眠、栄養の4つの主なカテゴリーがあり、[2] 健康データ、トラッキングデータ、臨床医療記録を保存することができ、緊急の際のための「メディカルID」と呼ばれるプロファイル作成が可能で、様々なハードウェアデバイスやサードパーティのアプリと接続することができる。 当初、ヘルスケアアプリは、互換性のあるサードパーティアプリケーションがないこと(2014年9月17日、iOS 8とともにリリースされた時点)、グルコースのトラッキング、ヘルスデータの説明、アプリのパフォーマンスの低さなどが批判されていた。[3]そのため、Appleは2015年にソフトウェアアップデートで問題を修正した。 [4] 「メディカルID」 はヘルスケアアプリ内に保存されており、アレルギー、薬、血液型、臓器提供者のステータスを共有できる。[1] 2016年7月時点では、米国のiOS 10以降のユーザーは、ヘルスケアアプリで臓器、目、組織のドナーに登録することができる。 [5] 2018年、Apple Watch series

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