Month: December 2020

三浦佳世 (心理学者) – Wikipedia

三浦 佳世(みうら かよ、1952年 – )は、日本の心理学者。専門は、感性認知学、知覚心理学。九州大学名誉教授。人間の知覚・認知特性をベースに、感性あるいは感性表現、芸術に関し、実験心理学の立場から研究。 京都生まれ。1974年大阪大学文学部卒業、1979年大阪大学大学院文学研究科心理学専攻博士課満期退学。1988年「視覚情報処理の基礎過程 機構と特性への心理物理学的接近」で大阪大学より学術博士。 1991年樟蔭女子短期大学人間関係科助教授、1996年神戸芸術工科大学芸術工学部助教授を経て、1998年より九州大学大学院人間環境学研究科教授、2000年九州大学大学院人間環境学研究院教授。2016年定年退任、名誉教授となる。2019年より福岡女子大学客員教授、2020年より京都造形芸術大学文明哲学研究所客員教授。 日本心理学会理事、日本基礎心理学会常務理事、日本認知心理学会理事、日本人間工学会評議員、日本学術会議21期、22期、25期連携会員、日本学術振興会学術システム研究センター専門研究員、福岡市都市景観審議会委員、BPW福岡クラブ会長、などを歴任。 2016年度までの詳細はhttp://www.psycho.hes.kyushu-u.ac.jp/~lab_miura/lab/Miura_Laboratory_Kyushu_University.html 『美しさと魅力の心理』(共編著、ミネルヴァ書店、2019) 『視覚心理学が明かす名画の秘密』(岩波書店、2018) 『美感-感と知の融合』(共著、勁草書房、2018年) 『感性認知学-アイステーシスの心理学』(編著、北大路書房、2016年) 『知覚と感性の心理学』(岩波書店、2007年) 『知覚と感性』(編著、北大路書房、2010年) 『基礎心理学実験法ハンドブック』(編著、朝倉書店、2018年) そのほか分担執筆として、『美しさと共感を生む脳-神経美学からみた芸術』,『脳とアート-感覚と表現の脳科学』,『感性の科学-心理と技術の融合』,『知性と感性の心理学』,『美と感性の心理学』,『循環建築・都市デザイン-人間の感性と豊かさのデザイン』,『共視論-母子像の心理学』,『感覚・知覚・認知の基礎』,『美と造形の心理学』,ほか 翻訳 リチャード・L.グレゴリー『脳と視覚

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許筠 – Wikipedia

許 筠(きょ いん、ホ・ギュン、허균、1569年 – 1618年)は、李氏朝鮮時代の文人・政治家・思想家・小説家。本貫は陽川許氏。字は端甫。号は蛟山(こうさん、キョサン、교산)、惺所(せいしょ、ソンソ、성소)、白月居士(はくげつこじ、ペグォルゴサ、백월거사)。ハングルで書かれた最古の小説『洪吉童伝』の作者。 陽川許氏は高麗の開国功労者の許宣文の子孫であり、高麗末期の宰相の許珙を始め、当時の朝鮮にも多くの人材を輩出していた名門であった。同時代の同家出身の人物では医学者の許浚がいる。父の許曄(きょ よう、ホ・ヨプ、허엽、1517年 – 1580年)は碩学として名高く、29歳で文科挙に合格し副提学として朝鮮王の側近になった。また東人派(改革派官僚)の領袖として人望を集めた。しかし讒言から罷免され、後に復職したものの慶尚北道の尚州で客死した。 許筬(きょ せい、ホ・ソン、허성)・許篈(きょ ふう、ホ・ボン、허봉)の二人の兄も現代でいえば大臣クラスの官僚として活躍し、許筬は来日したこともある。また姉の許蘭雪軒(きょ らんせつけん、ホ・ナンソロン、허난설헌)は、わずか9歳で詩作を始めたという天才で、儒教道徳に厳しく、女性蔑視の風潮のあった李氏朝鮮時代には珍しい女流詩人である。 許曄の三男として生まれる。1594年、25歳で科挙に状元及第(首席合格)し官吏となる。春秋館(王朝の歴史を編纂する部署。時の王権も及ばないとされた)の記注官などを歴任し、政治に深く関与した。しかし父を早くに亡くした許筠は母に慈しまれて育ち、才子にありがちな傲岸不遜と軽はずみな言動があったといわれている。そのためか前後6回も罷免と復職を繰り返しているが、その原因の多くが思想問題である。許筠は儒教一辺倒の朝鮮の思想に行き詰まりを感じていた。形骸化しつつあった朱子学を批判し陽明学の「知行合一」を賞賛した。 詩作の師匠である李達は、「三唐詩人」といわれ、李白に匹敵する詩人とまで言われながら庶子出身ゆえに遇されず志を得なかった。また許筠の母親は正妻ではあったが父の継妻であり、兄姉とは母親が異なった。このため李達に深く影響を受け、庶子に対する差別をなくすべきだと公然と主張し、両班の庶子で組織された「庶孽党」と交際した。西学と呼ばれた西洋の思想に関心を持ち、1610年ごろ明に使臣として在任中洗礼を受け、朝鮮人で最初のキリスト教徒となったといわれている。そのときに家産を投じて4000巻あまりの書籍を購入したが、その中には文芸書のほかに当時禁書のはずの天主教関係の書籍も含まれていた。 光海君の信任を得て政治に深く関与していた許筠だったが、党争(官僚同士の派閥抗争)に巻き込まれる。腹心の部下が関わった不穏文書事件に連座したのである。この時期許筠の名は『朝鮮王朝実録』に185回も登場する。そしてついに1618年10月、無名の儒者の讒言によって叛乱計画の首謀者に問われた。南大門に光海君を誹謗する文書が貼り出され、それを許筠の仕業とされたのである。そして拘束されて3日後には充分な取調べもないまま凌遅刑に処せられた。当時の死刑は毒を賜って自ら仰ぐ「賜薬」とこの凌遅刑があるが、賜薬が日本の「切腹」に相応するのに対し、凌遅刑は非常な不名誉とされた。単なる斬首ではなく五体をバラバラにし、分断された体は全国の各所に曝された。斬るときは鈍刀で手足から切ったという。 光海君は燕山君と並んで朝鮮史上最悪の暴君として知られ、密告によって功労者や有能な人材が多く流罪や死罪になった。1622年光海君は王位を追われる。許筠が死んで4年後であった。 許筠は当時一流の知識人でありながら、両班中心の社会であった朝鮮のシステムに改革を試みた人物であった。正室ではない母を持つ庶子たちは官職への途を閉ざされ、いくら能力があってもその力量を発揮することが出来なかった。庶子として冷遇された李達の門人であり、ジャンル問わずに様々な学問を吸収し、時代を超えた識見を持っていた許筠は、社会から疎外されていた庶子や賤民・女性たちも社会の一員として認定する、万民平等の新しい社会を提唱した。だが、性理学中心の身分社会であった当時の朝鮮にそんな思想が受容れられることは無かった。 許筠は自身の著作である「惺所覆瓿稿」の「遺才論」にて、『人の才能というのは身分性別を問わず、すべての人間に公平に与えられていて、その才能を十分活用して国を運営するためには人材の登用において何の差別もあってはいけない』と主張している。また同書に収録されている「豪民論」では、『世を動かせる原動力は民にあり、その中でも自分の意思で世を直そうとする豪民こそが社会で尊重されるべきである』と語っている。 彼の思想は、粛宗時代は剣契として、純祖以後は「平安道農民戦争」として生き続ける。

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年紀法 – Wikipedia

年紀法(ねんきほう/ねんきのほう)とは、中世武家法の元で発達した時効法理。年預法(ねんよほう)とも呼ばれている。一定の年紀を過ぎると、その間の土地の所有・占有の事実をもって真実の権利関係の如何を問わず、当該行為を行っていた者を正当な権利保持者として確認されること。御成敗式目以後、20年間の知行(所有・占有の権限行使)を成立要件とする「廿箇年知行」原則が導入されたことから、「二十箇年年紀法」とも呼ばれる。 「年紀」の発生[編集] 年紀・年預とは、本来は「年数」などと同義語であったが、後においては一定の年数を経過した後に発生した法律効果のことも指すようになったと考えられている。律令法には権利取得及び時効に関する規定は存在せず、また平安貴族は生産の場である農村社会と遊離して生活していたため、年紀を含めて権利取得に関する法制が成立しなかった。これは律令法及び明法家学説の集積である『法曹至要抄』に年紀に関する規定が無いことからも分かる。ただし、院政期には公家社会における土地を巡る訴訟においては基本的な判断材料とされた証文の有無とともに「多年領掌」「経年序」の考え方も合わせて存在しており、公家法に年紀についての考えが全く存在しなかったのか、実務上においては年紀が考慮されていたのかについては定かではない。 御成敗式目[編集] 年紀法を明文化した最初の条文として知られているのは、『御成敗式目』第8条(「雖帯御下文不令知行、経年序所領事」)にある「当知行之後、過二十箇年者、任右大将家之例、不論理非、不能改替。而申知行之由、掠給御下文之輩、雖帯彼状不及叙用(当知行の後、二十箇年を過ぐれば、右大将家の例に任せて理非を論せずに改替にあたわず。しかるに知行の由を申して御下文を掠め給わるの輩、かの状を帯ぶるといえども叙用に及ばず)」というものである。これは、鎌倉幕府から新恩あるいは本領安堵の御下文(安堵状)を得ている所領であっても、現実に知行しないまま年数を経たものについては、20年経過した場合には右大将家の例(源頼朝の家中の先例)に従って権利の正当性についての理非を問わずに現状を変更しない。ただし、知行をしていると偽って御下文を得たものがそれを根拠として権利を主張したとしても、その訴えは取り上げないという趣旨である。 ところが、この条文を巡ってはいくつか問題がある。土地の取得時効を定めた条文とする解釈が通説であるが、知行の権限を行使しなかった行為――いわゆる「不知行」による消滅時効を定めた条文とする異説もある。更にこの条文が実際に源頼朝の時代に行われていた法理を根拠とするものなのか、はたまた頼朝以前からの慣習法が頼朝の時代以後も行われたものなのか、更には頼朝以後に成立した又は御成敗式目で初めて採用した法理を頼朝によって定められた法理として仮託させたものなのかについては意見が分かれている。『御成敗式目』第8条は単なる「多年領掌」「経年序」という漠然とした法理から「廿箇年知行」という一定の年紀(20年)を導入したという点で画期的であり、特に承久の乱後に急増するようになった御家人間の紛争に対する有効な手段であったと考えられている。ただし、この規定は鎌倉幕府が管轄する武家領における訴訟では有効であったが、寺社領や公家領に関する訴訟では直ちに適用されなかった。これについては、公家領や寺社領に関する訴訟を扱ってきた公家社会が年紀法自体に否定的な姿勢を示していたとする考え方もあるものの、御成敗式目第8条自体が単に武家社会における年紀法に関する考え方を示したに過ぎず、当時の公家社会において年紀法が採用されていたかどうかとは別次元の問題である。 なお、武家社会においても地頭の所務に関しては年紀法は適用されないものとされていた。これは地頭が長期に渡って荘園領主への年貢の納入を怠って最終的に年紀を理由に自己のものとする押領行為を防ぐ措置で、宝治元年(1247年)に追加されたものであった。 年紀法の定着と消滅[編集] その後、「20年」の年紀法は鎌倉時代末期には公家社会などを含めて広く行われるようになり、更に証文自体に関する有効期限(「文書年紀」)や訴権の有効期限(「訴訟年紀」)にも応用されるようになるなど中世における普遍的法理として定着した。室町幕府の法令や戦国大名の分国法でも20年を限度とする年紀法が採用されたが、近世に入ると公儀による土地支配体制が築かれ、武士の所領は全て恩給地となり、農民の耕地は全て検地帳に登録・管理されるようになったために、年紀法が成立する余地が無くなっていった。 人身に関する年紀法[編集] 一方、以上の土地に対する年紀法とは別に『御成敗式目』第41条には奴婢雑人については10年放置すれば無効になることが定められている。後世の注釈によれば、捨子を拾って育てた場合や譜第の下人の逃亡などを念頭に置いたものとされる。この原則は江戸幕府にも継承され、人身の永代売買を禁じるとともに『御成敗式目』第41条を根拠に譜代下人の年紀は最大10年とされた。 参考文献[編集] 森田悌「年紀」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年) ISBN 978-4-04-031700-7) 石井紫郎「年紀法」(『日本史大事典 5』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13105-5) 牧英正「年紀法」(『国史大辞典

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担保物権 – Wikipedia

この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 担保物権(たんぽぶっけん)とは、大陸法系の私法において、担保(債務の履行の確保)のための物権である。用益物権と並んで制限物権の一種である。 民法上の担保物権には、留置権・先取特権・質権・抵当権の四種があり、通有性として付従性・随伴性・不可分性・物上代位性を持つ[1]。 民法について以下では、条数のみ記載する。 担保物権の種類[編集] 民法上の担保物権(典型担保)[編集] 民法典の定める物的担保は典型担保と呼ばれる(なお、特別法の定める質権、抵当権、留置権及び先取特権も、典型担保として扱われる)。 民法上の担保物権には、留置権・先取特権・質権・抵当権の四種がある。このうち、法律に定められた要件を満たせば当事者の契約を待たずに生ずる留置権・先取特権は法定担保物権、当事者の契約によって生ずる質権、抵当権は約定担保物権(やくじょうたんぽぶっけん)と呼ばれる。 非典型担保[編集] 典型担保の反対概念として非典型担保(変則担保ともいう)があり、民法典に定められていない担保である[2]。非典型担保は、もともと権利移転に関する法原則に信用事由などの条件などを付すことで実質的に担保としての機能を果たすように設計されたものである。一部はその後、根拠法を有するに至っている。 非典型担保が発生した理由としては、次のような要因がある。 民法が質権に代理占有を禁じたため(345条)。 典型担保の設定・実行には手間がかかるため。 動産には、抵当権における登記のような公示方法がないため。ただし、今日では動産譲渡登記によって可能になっている。 後に仮登記担保法として結実する代物弁済予約について、清算義務が判例法上認められるまでは、例えば、300万円の貸金の担保として、3,000万円の自宅を譲渡担保に供するなど、債務者の困窮につけ込み、債権者が被担保債権より高額な担保を、所有権移転の方式により取得するといううまみがあったため。 非典型担保には以下のようなものがある。このうち、譲渡担保については一種の担保物権として理解する学説も有力であるが、判例上は(担保を目的として移転されたために一定の制約に服する)所有権であるとされている。 債権者が債権を担保するため第三債務者に対して債権者から債権の受領を委任してもらい第三債務者から直接に弁済を受領し、弁済にあてること。 担保物権の通有性[編集] すべての担保物権に必ず認められる性質というわけではないものの、担保物権に一般的に認められる性質(担保物権の通有性)には次のような性質があげられる。 担保物権は、被担保債権があってはじめて存在し、被担保債権の成立・内容・消滅等において運命を共にすること。

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マンハッタン・ジャズ・クインテット – Wikipedia

マンハッタン・ジャズ・クインテット(Manhattan Jazz Quintet)は、アメリカ合衆国のジャズ・バンド。デヴィッド・マシューズ(ピアノ)を中心に結成され、1984年にデビュー。元々は『スイングジャーナル』誌とキングレコードの発案によるプロジェクトで、その後も日本向けの活動を中心としている。 1984年、デビュー作『マンハッタン・ジャズ・クインテット』発表。日本で大ヒットし、現在までに累計20万枚を売り上げた。当時のメンバーはデヴィッド・マシューズ(ピアノ)、ルー・ソロフ(トランペット)、ジョージ・ヤング(テナー・サックス)、チャーネット・モフェット(ベース)、スティーヴ・ガッド(ドラム)。 3作目『マイ・ファニー・バレンタイン』(1986年)より、ベーシストがエディ・ゴメス(元ビル・エヴァンス・トリオ)に交替。この頃、日本映画『ベッドタイムアイズ』の音楽を担当した。 1988年にはエディとスティーヴが脱退し、チック・コリアのリズム隊を務めていたジョン・パティトゥッチ(ベース)とデイヴ・ウェックル(ドラム)が加入。しかし、翌年にはジョンとデイヴがチック・コリアとの活動で多忙になったため脱退し、初代ベーシストのチャーネット・モフェットが復帰。ドラマーの方はスティーヴ・ガッドの復帰、ピーター・アースキンの一時的な参加を経てビクター・ルイスが加入。1980年代末期にはキングレコードを離れる。 1998年には、日野皓正との共演盤『ラウンド・ミッドナイト』を発表。 2003年、テナー・サックス奏者がジョージ・ヤングからアンディ・スニッツァーに交替。 日本向けに結成されただけに、何度も来日しており、『ライブ・アット・ピット・イン』『マイ・フェイバリット・シングス』は東京公演を、『テイク・ファイヴ』は大阪公演を収録したライブ・アルバム。 なおバンドの略称はモダン・ジャズ・カルテットと同じMJQで、マンハッタン・ジャズ・クインテットの人気が高い日本では混乱を招いたこともある(他国ではMJQといえばモダン・ジャズ・カルテットを指すことがほとんど)。 ディスコグラフィ[編集] 1980年代 マンハッタン・ジャズ・クインテット – Manhattan Jazz Quintet(1984年) 枯葉 – Autumn

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ザ・マーベルズ – Wikipedia

アベンジャーズ アニメ映画 アルティメット・アベンジャーズ – アルティメット・アベンジャーズ2: ブラック・パンサー ライジング(英語版) – ネクスト・アベンジャーズ: 未来のヒーローたち キャプテン・アメリカ 実写映画 Captain America (連続活劇) – キャプテン・アメリカ 卍帝国の野望 テレビ映画 爆走ライダー!

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車輪配置 0-3-0 – Wikipedia

ホワイト式車輪配置における車輪配置0-3-0(しゃりんはいち0-3-0)は、モノレール式蒸気機関車向けの車輪配置の形式である。ロシア式の表記法における車輪配置0-3-0は、ホワイト式の0-6-0と同一のものとなる。 リストーウェル・アンド・バリーバニオン鉄道(1900年) この最も珍しい車輪配置は、モノレール専門として唯一使用された。 リストーウェル・アンド・バリーバニオン鉄道[編集] グレートブリテン及びアイルランド連合王国(現・アイルランド共和国)のリストーウェル・アンド・バリーバニオン鉄道(英語版) (Listowel and Ballybunion Railway) で使用されていたラルティーグ・モノレール(英語版)機関車は車輪配置0-3-0であったが、これらもまた非荷重軸受案内輪を必要としていた。 これらの機関車は、1888年にイングランド・リーズのハンスレット・エンジン社(英語版)によって製造された[1]。 パティヤーラー・ステート・モノレール・トレインウェイズ[編集] インド国立鉄道博物館のパティヤーラー・モノレール機関車 イギリス領インド帝国パティヤーラー州(英語版)(現・インドパンジャーブ州パティヤーラー県(英語版)パティヤーラー)にあったモノレール路線である、パティヤーラー・ステート・モノレール・トレインウェイズ(英語版) (Patiala State Monorail Trainways) 向けとして、1907年に車輪配置0-3-0の機関車4両が製造された。 これらは、二重フランジの駆動輪を有しており、機関車には地面を走行するアウトリガー車輪を備えていた。

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サルタヒコ – Wikipedia

猿田毘古大神(19世紀後期画) サルタヒコを祀る猿田彦神社(三重県・伊勢市) サルタビコノカミ、またはサルタヒコノカミは、日本神話に登場する神。 『古事記』では猿田毘古神、猿田毘古大神、猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記される。 『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神。 伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したとされ、中世には、庚申信仰や道祖神と結びついた。 神話での記述[編集] 邇邇芸命が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた。道がいくつもに分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。『日本書紀』では、その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿であった。そこで天照大御神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田毘古神で、邇邇芸命らの先導をしようと迎えに来た。 邇邇芸命らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸命は天宇受売命に、その名を明らかにしたのだから、猿田毘古神を送り届けて、その名前をつけて仕えるようにと言った。そこで天宇受売命は「猿女君」と呼ばれるようになったという。なお、『日本書紀』では、猿田彦が天鈿女命(あめのうずめ)に自分を送り届けるように頼んだとなっている。猿田毘古神は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。 猿田毘古神は伊勢の阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村、現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れる。この際、海に沈んでいる時に「底度久御魂」(そこどくみたま)、猿田毘古神が吐いた息の泡が昇る時に「都夫多都御魂」(つぶたつみたま)、泡が水面で弾ける時に「阿和佐久御魂」(あわさくみたま)という三柱の神が生まれた。この時に海中で溺れた際に生じた泡の三柱の神は阿射加神社(三重県松阪市大阿坂と小阿坂に2社存在する)に現在は鎮座されている。  『倭姫命世記』(神道五部書の一つ)によれば、倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。しかし、大田命を猿田彦の子孫と主張し始めたのは鎌倉時代に成立した『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』や『倭姫命世記』であり、延暦期成立と見られる『皇太神宮儀式帳』や後三条朝までの編年記事が見える『大神宮諸雑事記』では、宇治土公は単に大田命の子孫であるとだけ主張しており、大田命の遠祖に猿田彦を架上したものと指摘される[1]。「児島系図」では久斯比賀多命三世孫の久斯気主命を祖とし、石部公や狛人部と同族であるとされており[2]、これに従えば三輪氏族となる。 椿大神社(三重県鈴鹿市)の社伝によると伊勢の阿邪訶にて溺れた際に命を落とし、後に同神社の高山土公神御陵に葬られたとされており、これが猿田彦命の御陵とされている。 また、二見興玉神社(三重県伊勢市二見町)の由緒書によれば同神社の境内の海中に位置する興玉神石は天孫降臨の際に猿田彦が降り立たれた神跡であると伝えられている。 『日本書紀』には、天宇受売神は胸乳を露わにし裳帯(もひも)を臍の下に垂らしたとあるので、性的な所作をもって相対したことになる。神話では二神が結婚したと伝えられている。 「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とする説がある。「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神だったとする説もある。 その異形な風貌から赤鼻の天狗とされるが、仏教、特に密教系の烏天狗と混同されやすい。 三重県鈴鹿市の椿大神社、三重県伊勢市宇治浦田の猿田彦神社がサルタヒコを祀る神社として名高い。また、祭礼の神輿渡御の際、天狗面を被った猿田彦役の者が先導をすることがある。 他にも滋賀県高島市の白鬚神社の祭神とされたことから白鬚明神の名でも全国各地に祀られている。また子孫である大田命、内宮の興玉神とも同一視される。さらに江戸時代に入って「サル」の音から庚申講と結び付けられたほか、垂加神道では「導きの神」として神道の「教祖」とされる。他にも合気道の開祖・植芝盛平の建てた合氣神社では盛平の守護神とされる祭神である。様々な神格を持つ。 こうしたことから近年は、謎の神として鎌田東二などの学者にクローズアップされている。鎌田は、サルタヒコとアメノウズメの協働を国津神であるサルタヒコの裏切りではなく、新しい日本の体制を開くための和睦と解釈し、サルタヒコを日本的霊性の現像ととらえている[3]。 常陸国の住人に猿田氏があり、猿田彦の末裔であるとされる。前述の椿大神社と猿田彦神社の宮司もともに鎌倉時代以降、猿田彦の神孫と称する。

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瀬戸記念橋駅 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “瀬戸記念橋駅” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年2月) 瀬戸記念橋駅(せときねんばしえき)はかつて愛知県瀬戸市末広町にあったジェイアール東海バス(JR東海バス)の自動車駅である。 在りし日の瀬戸記念橋駅 1930年(昭和5年)、日本初の省営バス路線として開業した岡多線の駅として、設置された。大正天皇の行幸を記念して瀬戸川に架けられた記念橋に隣接して設置されたことから、その名が付けられた。 2005年(平成17年)、周辺の再開発に伴い駅施設が廃止された。 1921年(大正11年)の鉄道敷設法改正により掲げられた「愛知縣岡崎ヨリ挙母ヲ經テ岐阜縣多治見ニ至ル鐡道」の建設予定に対し、鉄道線の先行という使命のもとに、1930年(昭和5年)に鉄道省により省営自動車岡多線の運行が開始された。当初の路線は、岡崎駅 – 多治見駅間及び当駅 – 高蔵寺駅であり、当駅は立地的にみても豊田方面からの道と高蔵寺方面からの道、多治見方面からの道と三方からの交点にあたり、両路線の結節点となっていた。 その後、路線は拡大し、瀬戸南線(挙母、岡崎方面)、瀬戸北線(品野、多治見方面)、瀬戸西線(名古屋方面)が運行された。また、瀬戸市内に国鉄の鉄道駅がないため、みどりの窓口がある当駅は、瀬戸市民が国鉄の特急券や指定券を購入する際に重宝されていた。 国鉄分割民営化に伴い、路線を次第に縮小し、瀬戸西線は2001年(平成13年)のゆとりーとライン開業とともに瀬戸みずの坂までに短縮され、当駅を経由する部分は廃止となり、瀬戸南線は一般路線バスとしては全廃となった。

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旧愛知郡役所 – Wikipedia

旧愛知郡役所の外観。西洋風の建築である。 旧愛知郡役所(きゅうえちぐんやくしょ)は、滋賀県愛知郡愛荘町にある、旧郡役所が置かれていた木造建築物。保存再利用による町営施設としては2018年より「ゆめまちテラスえち」の名称が付けられている。 1922年(大正11年)5月に竣工し、4年にわたって郡区町村編制法に基づく郡役所として利用されたが、1926年(大正15年)7月に郡役所は廃止され、愛知郡教育会へ移管された。その後、滋賀県へ移管され、1937年(昭和12年)に愛知郡農会へ無償譲渡された。 戦後には地元の農業協同組合が敷地を共有していた。その後、JA東びわこ、湖東農業協同組合、西小椋農業協同組合の3農協が所有し、建物は愛荘町の管理となった[1]が、後述の通り、2016年に愛荘町が土地建物を取得し、同年4月に町文化財に指定した[2]。 背景・特色[編集] 幕末から明治初期の滋賀県では、早くから近代的発展を遂げた彦根市や、近江八幡市と周辺地域に多くの近代建築を建てたウィリアム・メレル・ヴォーリズの影響による近代的な建物群が存在したが、現在の愛荘町域は地理的にやや離れていることもあり、それらの影響は大きなものではなく依然日本の伝統的な建築が続けられていた。例としては当時教会堂の建築が一つもなかったことがその裏付けともいえる。そういった環境下にあって旧愛知郡役所は地域の近代化のシンボルであり、日本の洋風建築の代表的手法である木造下見板張りによる公共建築物である[3]。 郡役所に引き続き、滋賀県立愛知高等女学校(現・滋賀県立愛知高等学校)の校舎が共通した意匠をもって建築されている。 木造2階建寄棟造桟瓦葺の建物で、桁行30m、梁間11.8m、棟は箱棟、外壁は下見板張となっている。正面は北向きで、全体に左右対称の形状をしているが、窓の形状等には若干の非対称が見られる。竣工後、まもなく郡役所は廃止され建物の役割は転々としたが、竣工当時の姿は変わることなく、今に伝えられている。全国でも希少な郡役所の遺構である[4](滋賀県内では唯一[5])。 保存と再利用[編集] 前記の通り、長らく建物はJAの所有であったが、2003年に当時の愛知川町がJA東びわこと建物賃貸借契約を結び、保存活用に乗り出した[4]。しかし、2010年末で契約が満了し、保存を求める住民団体に対し、所有者のJA側は「愛荘町(2006年に合併で発足)の保存決定が(残す)前提」という立場を取り、町側はその時点では取得費用等の事情で明確な結論を示さなかった[6]。その後愛荘町が取得に動き出したところ、高額な費用に難色を示す別の住民グループが保存活用の是非を問う住民投票条例の制定を求めたが、2015年2月の町議会で否決された[4][5]。2016年2月、愛荘町がJAから土地建物を入手する契約(土地を5725万円で取得し、建物については無償譲渡)を結んだことが明らかになった[5]。町は「愛荘町ふれあい交流館」(仮称)として整備し、滋賀県立愛知高等養護学校生の利用や伝統工芸品の紹介に役立てる方針と報じられた[5]。2016年度は耐震補強工事などを実施し、2017年度末までに改修工事を完了する予定とされた[2]。 2017年4月には耐震化の一環として基礎補強工事をおこなうため、一時的に位置を移動させる「曳家」がおこなわれた[7]。11月には愛荘町は交流施設としての名称を一般より公募した[8]。11月17日に町は集まった名称案から「ゆめまちテラスえち」とすることを決定した[9]。2018年6月の時点では、改修工事は2018年9月に完成する予定と報じられた[10]。 愛荘町長の有村国知は、2018年6月の町議会で、旧郡役所の建物の利用法について10月の内覧後に再検討することを表明し、従来の案を事実上撤回したとも報じられた[10]。 2018年10月に保存工事が完成した[11]。前年12月に成立した「愛荘町ゆめまちテラスえち条例」は10月20日より施行された[12]。 2019年1月18日より「ゆめまちテラスえち」としてオープンした[13]。2020年4月に近江上布のPRショップが設置され、日用雑貨や洋服などの販売が行われている[14]。 参考文献[編集] 愛知川町史編集委員会『近江 愛知川町の歴史』第4巻ビジュアル資料編 分冊二、愛荘町、1999年 外部リンク[編集] 座標: 北緯35度10分13.4秒

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