Month: February 2021

住軽アルミニウム工業 – Wikipedia

住軽アルミニウム工業は、かつて東京都千代田区に本社、山形県酒田市に工場を置いていた企業。住友軽金属工業(住軽金)の子会社として、アルミニウム製錬と圧延を一貫して手掛けることを目的に設立されたが、オイルショックなどの影響で工場操業開始からわずか5年で会社解散に追い込まれた。 昭和30年代中盤まで山形県庄内地方は国内有数の穀倉地帯である庄内平野を抱えることや、戦前から操業していた鉄興社(現:東北東ソー化学)や日本有機酒田工場(現:花王酒田工場)などが立地する大浜臨海工業地帯(酒田港)の発展もあり[1]、県内4地方(村山、置賜、最上、庄内)において住民一人当たりの所得水準は県平均を20%近く上回るなど最も富裕な地域であった[2]。 だが、その後の内陸部農業における畜産や果樹の導入、さらに土地改良事業の進展に加えて、昭和30年代後半から活発になった企業誘致はいずれも村山、置賜地方に集中したため[注 1]、次第に庄内地方の優位性は崩れ、経済成長は鈍化を余儀なくされた[3]。この状況を憂いた山形県は酒田新港の開発(北港開発)を骨子とする「庄内地区新都市建設計画」構想を策定し、それをたたき台として国の新産業都市選定に名乗りを上げるが、選には漏れてしまう[注 2]。しかしながら、酒田北港建設と臨海工業地帯の造成は国の港湾整備計画に沿って整備される方針が固まり、1966年3月の中央港湾審議会において正式決定された。そして港湾規模も当初予定を上回る5万tに格上げして整備を進めることとなり、1970年8月には起工となった[4]。 北港建設が緒に就いた時点で、県は後背工業地の整備促進と造成地に対する企業誘致活動を開始し、1971年9月には当時の安孫子藤吉知事のコネクションを下に交渉を重ねていた住軽金が酒田への進出を表明した[注 3]。同社は酒田進出を端緒にアルミニウム製錬事業に参入し、アルミニウム圧延と精錬を一貫して手掛けていく方針を定めたもので[4][5]、同年10月には県と住軽金との間で進出協定が締結された。 しかし住軽金のアルミニウム製錬への参入は住友グループの1業種1社の原則に反することになり、世に酒田戦争と言われるまでグループ内の対立が激化した。「住銀の法皇」と称された堀田庄三が周旋に乗り出すも交渉は暗礁に乗り上げ、最終的には田中角栄通産相に仲裁で和解に至った[6]。和解によって住軽金は住友化学(住化)からアルミニウム製錬への参入を認められたものの、その代わりに新会社には住化のほか住友グループ各社が出資する方途が執られた[7]。 1973年2月21日、精錬事業を手掛ける新会社として住軽アルミニウム工業(住軽アルミ)が設立され、同4月にはアルミニウム製錬に当たって必要となる莫大な電力を安価に住軽アルミへ供給することを目的に、東北電力と住軽アルミの折半出資によって酒田共同火力発電が設立された[8]。 1977年1月、酒田市大字宮海の酒田北港臨海工業地域に竣工した住軽アルミ酒田工場は第1期分、年産9万tの操業を開始した。しかしそれに先立つ1973年に勃発した第四次中東戦争や、1979年のイラン革命などにより2度にわたって生じたオイルショックの影響で、石油火力発電から供給される電力を大量に使用するアルミニウム製錬は大幅なコスト増に見舞われていた。加えて通産省による「1976年から1977年にかけて国内のアルミ地金は供給不足となる」という想定は大幅な見込み違いとなり、通産大臣の諮問機関である産業構造審議会アルミニウム部会が国内の製錬能力を縮小すべきとの答申を出すなど[9]、アルミニウム製錬を取り巻く環境は激変し構造不況業種に転落してしまった。 1980年11月、創業以来赤字が続く住軽アルミは存続を懸け精錬コストの削減を図るため、自社内に発電設備を整備する計画を打ち出した。この計画は協議の結果、酒田共同火力が段階的に石炭火力への転換を行い、1985年中に全面転換を完了するとの合意をみた。しかし石炭火力への移行を試みたとしても依然としてアルミ地金は海外相場より割高であったため、住軽アルミの赤字からの脱却は成就されることなく、結局大幅な減産を経つつ全電解炉操業停止に至り、1982年5月31日に会社を解散した[10]。解散に当たって350人の従業員は解雇されず、約100人は酒田工場の鋳造部門を改編して設立された住軽アルミ鋳造に引き継がれた。残りの人員は住軽金が引き取り、名古屋、千葉などの工場に配置転換されることになったが、80人ほどは会社を去った[11]。 注釈[編集] ^ 代表的な進出企業として山形日本電気が挙げられる。 ^ 日本海側では富山・高岡、新潟、秋田が指定される。そして富山新港(伏木富山港)、新潟東港が開港する。 ^ 昭和電工なども進出候補にのぼる。 出典[編集] ^

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前田宏 – Wikipedia

この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。他の出典の追加も行い、記事の正確性・中立性・信頼性の向上にご協力ください。出典検索?: “前田宏” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年4月) 前田宏 検事総長 任期1988年3月24日 – 1990年5月10日 任命者 竹下内閣 前任者 伊藤栄樹 後任者 筧栄一 個人情報

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スポーツクラブNAS – Wikipedia

スポーツクラブNAS株式会社 (Sports Club NAS) は、東京都千代田区に本社を置く「スポーツクラブNAS」等のスポーツクラブを運営する大和ハウス工業グループの企業。 日本の大手スポーツクラブのひとつで、日本全国で約70施設が営業している。なお、施設名および企業名に付与されている「NAS」は、運営会社のかつての社名である「日本体育施設運営」の英語名 (Nippon Athletic Service) の頭文字(アクロニム)から採られたものである。 前述のスポーツクラブのほか、各種のスクール(水泳・テニス・ゴルフなど)を同ブランドで運営している。 運営企業[編集] 運営会社のスポーツクラブNAS株式会社は、2005年4月に大和ハウス工業の連結子会社となり、ダイワグループに名を連ねている。なお、同年以降に新設された店舗は、主にダイワグループの保有する土地や建物に設置されている。 運営企業は、1972年に「日本体育施設運営株式会社」として設立された。なお、当時の本社事業所は東京都千代田区大手町に所在していた。 日本の業界では、セントラルスポーツ、コナミスポーツに並ぶ老舗であり、1998年まで3大スポーツクラブの一角を占めていた。しかし、その後は他社の新規参入により相対的な市場占有率が低下し、2017年には業界第6位となった[2]。 ベンチャーキャピタルによる買収ののち大和ハウス傘下へ[編集] 1999年にベンチャーキャピタル2社(シュローダー・ベンチャーズ、東京海上キャピタル)により運営企業が買収されたのち、2001年にはササダ・ファンドに買収された。2005年、ササダ・ファンドが保有していた株式(86.9%)を大和ハウス工業がすべて取得し、同社の連結子会社となった。なお、譲渡時の発行済株式総数は2,976,000株であった[3]。 沿革[編集] 1972年9月 –

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フランスの港 – Wikipedia

『フランスの港』(フランスのみなと、フランス語: Vues des ports de France)は、フランス王国の画家クロード・ジョセフ・ヴェルネが描いた一連の絵画の総称。作者の代表作である。 1753年3月、およそ20年のローマ留学を終えて祖国フランスに帰国したクロード・ジョセフ・ヴェルネは、同年9月に注文を受けて連作『フランスの港』に取りかかった。この連作は当時の国王ルイ15世治世下において最大規模の注文であった。注文者はルイ15世であるが、実際にヴェルネに絵を描かせようと考えたのは、1751年に「王室建造物局総監」という要職に就いたばかりのマリニー侯爵アベル=フランソワ・ポワソン・ド・ヴァンディエールであった。 注文は当初「フランスのすべての港を描くこと」を掲げていたが、実際にまとまった計画では、地中海沿岸の8港と大西洋沿岸の12港と決定された。この『フランスの港』は、フランスの産業や軍事を示す教育的な内容を持つものであり、地勢の正確な表現とあわせて、産業・交易・風俗などのそれぞれの土地を特徴づける多くの要素を盛り込むことが要求された。原則として注文側が作成した計画案に従って制作しなければならないとする条件が付けられ、描くべき港、港ごとの作品数、どの地点からどの方面を眺めるか、盛り込むべきモチーフなど、諸々の細かい指示が出されていた。報酬は必要経費込みで1点につき6000フランと定められた。 絵画制作のための旅行が、ヴェルネにとって精神的にも経済的にも大きな負担となっており、パリに戻って制作を中断してしまった時期もある。当初の計画ではフランスの主要な20の港を描くことになっていたが、ヴェルネは10年の歳月をかけて10の港を15点のタブローに仕上げて終了することにした。 ヴェルネの旅路[編集] 1753年9月に注文を受けたヴェルネは、翌10月には家族とともにマルセイユに到着した。1754年9月まで1年間にわたってヴェルネはマルセイユに滞在し、マルセイユの2点を描いた。1954年9月にトゥーロンに移り、『バンドル湾の眺め、マグロ漁』と『トゥーロン新港の眺め』を描いた。以上の4点は1755年のサロンに出展された。 トゥーロンでは、この他にも『トゥーロンの街と停泊地の眺め』と『食糧倉庫側から見たトゥーロン旧港の眺め』を制作した。アンティーブを訪れた後、1756年10月にセットに到着し、描きかけの『アンティーブ港』を完成させた。セットでは、1757年5月までに『セット港の眺め』を描き終えた。以上の4点は1757年のサロンに出展された。 地中海の主要な5つの港を8枚のカンバスに描き終えたヴェルネは、1757年5月に大西洋沿岸のボルドーに移り、2点を描いた。南下して1759年7月にバイヨンヌに到着して2年間この地に滞在し、予定を変えてバイヨンヌの絵画を2点描いた。1761年7月にラ・ロシェルに赴いてほぼ1年間滞在した後、ロシュフォールに移った。『ロシュフォール港の眺め』を描き終えたヴェルネは、1762年にパリに戻って、いったん筆を置いた。 地中海と大西洋を終えて、次はイギリス海峡沿岸を進んでカレー港が終着点となるはずだった。しかしヴェルネはこれをディエップ港に変更することを提案し、1765年に『ディエップ港の眺め』が制作された。イギリス海峡沿岸がこれ以上描かれることはなく、『ディエップ港の眺め』がこの連作の最後の作品となった。 作品一覧[編集] 地名 タイトル 原題 制作年 サイズ

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ジョン・ピルガー – Wikipedia

ジョン・リチャード・ピルガー (英語: John Richard Pilger、1939年10月9日-)はオーストラリアのジャーナリスト、作家、ドキュメンタリー映画監督である[1]。 1962年以降、ロンドンを活動拠点とし[2][3][4]、ニューヨーク州のコーネル大学の客員教授も務めている[5]。 ピルガーのカンボジア大虐殺に関する最初のレポートはデイリー・ミラーの特別号に掲載された[6][7][8][9]。 彼が手掛けたドキュメンタリー映画にはベトナム戦争期のベトナムを題材にしたThe Quiet Mutiny (1970)やカンボジアのポル・ポト独裁の余波を題材にしたYear Zero(英語版) (1979)、インドネシアによる東ティモール占領期(英語版)における西側諸国の関与を題材にしたDeath of a Nation: The Timor Conspiracy(英語版) (1993)などがある。さらにオーストラリア先住民を題材にしたThe

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空気銃 – Wikipedia

この項目では、実銃としてのエアガンについて説明しています。遊戯銃としてのエアガンについては「エアソフトガン」をご覧ください。 空気銃(くうきじゅう)とは、空気または不燃性ガスを用いて弾丸を発射する形式の銃の総称。子供向けの玩具から、射撃、狩猟に用いるものまで、そのバリエーションは幅広い。日本では一般に「空気銃」と呼ぶ場合、公安委員会の所持許可が必要な、いわゆる「実銃」をさすことが多い。この項ではこの実銃としての空気銃を扱う。 英語圏では、一般に空気銃をairgun(エアガン)と称するが、日本で「エアガン」と呼ぶ場合は「エアソフトガン(遊戯銃)」をさすことが多い。 基本的な構造[編集] 空気銃の基本的な構造は、空気または不燃性のガスの圧力を用いて弾丸を発射する点においては玩具から実銃まで共通であるが、その圧力を得るための構造において以下のような方式に分類される。 ポンプ式[編集] ポンプ式は、銃本体に装備されたポンプを用いて蓄気を行い、その圧縮空気を用いて弾丸を発射する構造である。ポンピング(英語版)は本体に装備されたレバーを用いて行う。その装着位置により、主にアンダーレバー、サイドレバーに分類され、一般にサイドレバーは競技用に、アンダーレバーは狩猟用に用いられる。競技用では主に一回のストロークで蓄気を行い、空気圧はレギュレータで一定に制御され、安定した初速を得る構造が一般的である。狩猟用では特にレギュレータは持たず、ポンピング回数を増減することで、使用ペレット(弾丸)の種類や猟場、獲物に応じた初速/威力を選択でき、これをマルチポンプと称する。 一般にポンプ銃は、撃発時に大きな可動部を持たないことから、反動も少なく高い命中精度を持つ。反面、発射ごとにポンピングという大きな動作を要するため速射性に劣る。また狩猟用ポンプ銃では、必要とされる空気圧、空気量ともに大きく、ポンピングには相応の筋力を要求される。日本ではかつて、シャープ(後にシャープ・チバ)製の狩猟用マルチポンプ銃が多く普及した経緯があり、プリチャージ全盛の現在でも愛用者が多い。 プリチャージが主流となったことで、この方式の空気充填に伴うボンベ、ハンドポンプ等の補器類が不要であったり、構造的に壊れにくく丈夫であるというメリットが再評価されることとなり、競技用、狩猟用ともに一定の人気と需要がある。 またこの方式特有のポンピング操作とは別に、撃発のためのハンマー/ストライカーのコッキング操作が必要なもの、ポンピングに連動して行われるもの、コッキング自体不要なものがある。国産のシャープ製エースシリーズおよびイノバはハンマー/ストライカーを持たず、蓄気の圧力で開こうとする排気バルブを直接シアで押さえるという独特の構造を持ち、コッキングは不要である[1]。 スプリング式[編集] アンダーレバー型のスプリング式狩猟用エアライフル、Weihrauch(バイラーク) HW97K スプリング式は、空気銃全体ではもっとも代表的かつ普及した方式であり、シリンダー内に組み込まれたピストンを圧縮したスプリングの反力で前進させ、シリンダー内の空気を圧縮して弾丸を発射する構造である。同様の仕組みを持つ玩具に比べ格段に強いスプリングを使用するため、その圧縮(コッキング)にはテコの原理を応用する。このテコの方式によって、銃身そのものをコッキングレバーとして用いる中折式(ブレークバレル)、独立したコッキングレバーによる方式(サイドレバー/アンダーレバー)に分類される。構造がシンプルで丈夫であり、比較的安価なことから、海外ではプリンキング(気軽な射撃)から狩猟まで広く普及している方式だが、構造上反動や振動が大きく、他の方式と比べると射撃精度の面では劣るとされる。さらに日本ではプリンキングが法制上不可能なこと、優れた国産ポンプ銃が存在したことなどにより、現在はあまり普及していない。 中折スプリング式狩猟用エアライフル、Weihrauch(バイラーク) HW50S 競技用としてもかつては主流の方式であった。撃発時にバレルドアクション全体を後退させることで反動を減殺する構造を持ったファインベルクバウ150/300(ドイツ語版)が競技用エアライフルの世界を席巻したが、ポンプ式競技銃(ファインベルクバウ600)の登場で射撃精度は大幅に向上し、競技におけるスプリング銃の時代は終焉を迎えた。 中折スプリング式エアライフルのコッキング。写真の銃はガスラム方式のベンジャミン トレイルNP/XL。 なお、近年では従来の中折れスプリング方式をベースに、内部にガス圧力で駆動するショックアブソーバー(ガスラム)を内蔵し、スプリングの圧力とガスラムの反発力を併用する事で、音速を超える銃口初速を実現したものも登場しているが、発射の際のピストン作動に伴う衝撃の大きさは変わらないため[2]、ほかの形式とは異なる特性を射手が正しく理解した上で運用しなければ良好な命中精度を得ることは難しいとされる[3]。

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太鼓ユニット我龍 – Wikipedia

この項目では、太鼓ユニットの『我龍』について説明しています。プロレスラーの我龍真吾については「我龍真吾」をご覧ください。 太鼓ユニット我龍(タイコユニットガリュウ)は、広島県府中市・福山市で結成されたプロの和太鼓とドラムを中心としたユニット[2]。2005年に結成された[3]。 ドラムと和太鼓を中心に様々なアーティストと融合することにより、様々な表現を行っている。地元の伝統芸能や伝説を題材として作曲された曲もあり[3]、地域に根ざした活動を行っている。一方で、海外公演も行うなど、日本の太鼓文化の発信と普及にも力を入れている。太鼓は直径30cmから最大160cmの太鼓が使用され[3]年間70公演(2013年実績)をこなす[3]。地元の自然と文化から着想した曲を、ドラムと和太鼓を融合させて表現する曲が主と演奏される[3]。 結成まで[編集] 代表は竹内孝志[3]。竹内は高校3年生のときに友人から勧められるままに、福山市の社会人グループに加わり和太鼓を始めた[4]。広島市内の大学に進学後も団体を変えて活動は継続した[4]。20代の頃には島根県浜田市匹見町を拠点とする今福座のもとに3年間ほど毎週通い太鼓の技術を高めた[3]。 我龍の結成[編集] 2005年2月、和太鼓打ちとしてソロ活動を行っていた竹内孝志[4]とドラマーの香本俊介が、尾道市内のライブハウスで偶然出会う。お互いの演奏スタイルに共鳴し一度の練習で演曲『躍進-yakushin-』を完成させ太鼓ユニット我龍-garyu-を結成した。『我龍』という名称は、自分たち流という意味と、龍のように昇る勢いを、という思いを込めて名付けられた[5]。広島県府中市諸毛町に事務所を構える[6]。 その後の活動[編集] 2005年の高知よさこい祭りに参加し[4]金賞を受賞した。2006年の高知よさこい祭りでも優秀賞を受賞した。 2007年、孝志の弟で和太鼓打ちの竹内裕樹をメンバーに加えた[7][6]。同年ファーストアルバム『GARYU』を発売、その音源はラスベガス展示会でも使用された。この年広島で行われる中国地方最大規模の野外イベント「SETSTOCK’07」にも出演した[8]。 2008年、全国ライブツアーを開始[4]。また4月21日の山陽自動車道福山サービスエリアのリニューアルオープンイベントにも出演している[9]。 2009年、府中市文化センター大ホールで「我龍Concert2009」を開催[10]。9月18日には広島市のアステールプラザでもコンサートを開いた[7]。 2010年、DVD『我龍Concert2009』を発売、上海万博アジアステージ、さいたまスーパーアリーナすわんどライブにおける公演や、くまがやドーム和太鼓日本一決定戦にゲスト出演した。 2011年9月18日には広島アステールプラザ大ホールで「我龍Concert2011」を行った[7]。 2012年3月3日RCC中国放送主催の東北復興イベント「RCC絆プロジェクト 太鼓deこまち ~響け!東北再生太鼓~」へ、津軽三味線と和太鼓「閃雷」の和太鼓奏者4人による、宮城のアンサンブルカルテット「族―Yakara―」とともに出演した[11]。 4月22日には2NDアルバム【我リュウイズム】を発売[12]。広島みなと公園で10月に開催された和太鼓フェスティバルでは竹内が実行委員長を任せられた[4]。 2012年4月から2013年6月まで、全国32カ所のライブハウスなどを回った「我リュウイズムツアー」を実施[6]。 2013年

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石原萠記 – Wikipedia

石原 萠記(いしはら ほうき、1924年11月5日 -2017年2月24日[1])は、日本の社会主義運動家。社会党右派のイデオローグ。ソ連(ロシア)、中華人民共和国、韓国との文化交流、友好親善に努めている。出版社の自由社社長。日本対外文化協会副会長。日本出版協会理事長。STV-Japan取締役。「萠」は俗字で、人名漢字を使用して「石原萌記」と表記されることも多い。 山梨県甲府市百石町の染物店の二男として生まれる。1944年、早稲田大学在学中に陸軍に応召。1945年、中国・漢口の第6方面軍司令部参謀部で終戦を迎える。 1946年、上海から博多に復員。その後、東洋大学史学科で考古学を学ぶ。日本共産党員だった渡辺恒雄や河合武(河合栄治郎の長男)らと学生運動を行う。日本共産党の影響下にあった「民主主義科学者協会」(民科)の歴史部会に出入りし、石母田正、藤間生大、松本新八郎ら共産党系歴史学者の研究に傾倒していた時期もあった。1951年卒業。 学生時代から右派社会党の衆議院議員、三輪寿壮の下で革新運動を行い、卒業後は郷里の山梨県に入り、県議や古い党員を次々と除名して右派社会党山梨県連を再建。衆院選出馬を準備していた。河上丈太郎(元社会党委員長)とは、河上の長男・民雄が留学から帰国する際に書籍の整理を依頼されるほどの仲だった。 1956年、「日本文化フォーラム」の設立に参画(当初は事務局長、後に専務理事)。1959年、自由社を設立し、月刊誌「自由」を創刊。 東海大学総長や社会党衆議院議員を務めた親ソ連の代表的人物、松前重義と親しく、「現代の巨星」と絶賛。1966年、ソ連政府の提案によるソ連・東欧との交流組織「日本対外文化協会」(対文協)を松前とともに設立した(現在副会長)。日本対外文化協会、日ソ友好議員連盟、日ソ親善協会、日ソ交流協会、日ソ貿易協会の対ソ関係5団体とソ連の官製対日友好組織が主催して1979年から1988年まで開催された「日ソ円卓会議」では政治部会の座長を務めるなど中心的役割を担った。日ソ円卓会議の内容は「自由」誌上に掲載された。松前は自由社の取締役を務めた。 1972年、新しい社会主義を検討するため「変貌する社会と社会主義 国際セミナー」を社会主義インターナショナルなどと共催。このセミナーを機に江田三郎と親しくなり、江田から社会党離党の相談を受けるなど政治的盟友となった。 社会主義の中でも非共産党の社会民主主義の信念を持ち、社民・中道勢力による自民党政権打倒を目指した。1972年、江田三郎、矢野絢也(公明党書記長)、佐々木良作(民社党書記長)を、西ドイツで大連立を成功させた首相(ドイツ社会民主党党首)、ヴィリー・ブラントと会談させることを企て、8月28日にミュンヘン郊外で実施する準備を進めたが、マスコミに察知され中止となった。1990年には、松前重義とともに、土井たか子(社会党委員長)、永末英一(民社党委員長)、江田五月(社民連代表)や山岸章(連合会長)らに対し、西欧型の社会民主主義政権の樹立を目指す「社会民主主義研究会」の設立を呼び掛けた。 「自由」2008年2月号の座談会で「『自由』の役割は、60年安保、70年安保を闘い、それ以降の70年半ばには、江田三郎さんたちと社会主義インターを日本へもってこようとして、いろいろとご協力し合ってきた。そして、それが社公民という形で一つの運動になった」「『自由』の歴史は1959年発刊以来、一貫して民社主義(民主的社会主義)を理想としつつ、現実をいかに改革するかを、理論・政策と実践の両面から努力してきた」などと発言している[2]。 歴史認識[編集] 政治思想は反共主義を表明し、右派言論人に分類されることも多いが、前述した通り民主社会主義者でもあり、中国や韓国との相互理解を強調し、日中戦争や太平洋戦争の戦争責任は昭和天皇にあると繰り返し表明しており、日韓基本条約や日中国交正常化[3]を推進する一方で反共的で右派的だった民社党と同じ典型的な民主社会主義者である。また、沖縄戦における集団自決についても軍の命令だったとの立場をとっている。これは、自由社が刊行している『新しい歴史教科書』が依拠する自由主義史観と矛盾する点も少なくなく、新しい歴史教科書をつくる会が教科書の新たな発行元に自由社を選んだことに疑問の声が出ている。 東京電力との関係[編集] 東京電力社長だった木川田一隆と親交があり、その紹介で平岩外四(後の社長、会長)と知り合う。石原および自由社は「自由」への広告出稿など東京電力から財政援助を受けていた。週刊文春の取材に対し「昭和の時代には、カネに窮して年も越せない時、東電の副社長は100万円用意してくれたなぁ」と語っている。東京電力がマスコミ関係者を連れて中国を訪問する日中友好ツアー「愛華訪中団」を主催。東日本大震災による福島第1原発事故が起きた2011年3月11日もツアー中で、東京電力会長の勝俣恒久らとともに中国の要人に面会に行くバスの中で地震を知ったという[4]。 東京電力幹部と民主党関係者をつなぐ懇親会「十人十色の会」を主宰。メンバーには江田五月や海江田万里らがいる[5]。 家族構成[編集] 妻、石原信子は自由社監査役。長男、石原寿記は横浜地方裁判所判事。長女、石原圭子は東海大学教授。寿記の名付け親は三輪寿壮で、「寿」の文字を与えた。圭子は松前重義の縁故で東海大学平和戦略国際研究所の助手として採用され、その後、講師、助教授、准教授となった。また、石原の妹は三輪の秘書を務め、三輪の死後は松前の秘書となった。このように石原と社会党関係者の交際は家族ぐるみだった。

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ザールラント州 – Wikipedia

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