Month: December 2021

ブレックファストニュース – Wikipedia

『ブレックファストニュース(Breakfast News)』は、1989年10月2日にイギリス・英国放送協会(BBC)のBBC1で最初に放映された朝の情報番組・ニュース番組[2]。前番組は『ブレックファスト・タイム(英語版)』と呼ばれていた。1989年9月18日に開始する予定だったが[3]、新スタジオの技術的な問題により延期された[4]。 番組は、3つの主要な視覚的変更を経た。最初のセットは1993年4月8日まで続いた。1993年4月13日のリニューアルでは、13:00、18:00、21:00のニュース番組と同じセットから放送された[5]。1997年6月2日、「BBC」のタイトルが削除され、画面上では単に「Breakfast News」として知られるようになり、さらに最終的なリニューアルが行われた。この末期にソファセットが戻り、特集が増え、担当チーム間の交流が増えて、トーンが変わり始めた。 『ブレックファストニュース』最終回は2000年9月15日に放送され[1]、同年10月2日に『BBCブレックファスト』として開始された。 商業テレビネットワークのITV向けに制作・放送していたTV-am(英語版)以降の『GMTV』は週7日放送されていたのに対して、『ブレックファストニュース』は平日のみ放送され、週末版は無かった。しかし、1991年9月、BBCは週末に5分間の朝のニュースのサマリーを放送した。土曜日のスケジュールを開始するために、土曜日版は7:25に放送された[6]。ニュース放送は『ブレックファストニュース』のセットからではなく、ニュースルームにあるメインのBBCニュースのセットから放送された[7]。 土曜日朝のニュース放送は1999年秋に予定から外され、最後の土曜日朝のニュース放送は1999年9月11日に放送された。BBC Twoは、BBCニュース24初期から、土曜日8:00〜9:00まで、『ウェークエンド24(Weekend 24)』というブランドのBBCニュース24から1時間のニュースを放送していたため、BBC Oneに関する短い土曜日朝のニュースのサマリーは冗長になり始めた。日曜日朝の短いニュース放送は9:10に放送され、後に1993年1月に開始された『ブレックファスト・ウィズ・フロスト(Breakfast with Frost)』に組み込まれる[8][9]。 ビジネス・ブレックファスト[編集] 『ビジネス・ブレックファスト(Business Breakfast)』は、1993年1月4日から2000年までの『ブレックファストニュース』直前に、6:00〜7:00の間に毎日放送されたニュース番組だった。当初、番組は6:34〜6:55までの『ブレックファストニュース』の一部として放映された。2000年1月4日から同年9月15日まで、「ビジネス・ブレックファスト」は『BBCブレックファストニュース』に内包され、『ブレックファストニュース』は平日6:00に始まった。「ビジネス・ブレックファスト」は、個別の番組ではなく特集として残っていたが、番組最初の1時間はビジネスニュースが重要な特徴だった。この設定は、2000年10月から『BBCブレックファスト』の開始に伴い変更された。 ブレックファストニュース・エクストラ[編集] 「ブレックファストニュース・エクストラ(Breakfast News Extra)」は、GMTVでロレイン・ケリー(英語版)と競争する試みとして1996年初頭に開始された。『ブレックファストニュース』オフィスから青いソファから伝え、ジュリエット・モリス(英語版)がプレゼンターを務めた。しかし、当番組は短命であり、1997年夏に挫折した。この段階までに、メインの『BBCブレックファストニュース』は、メインのプレゼンテーションデスクの横にソファを含む新しいスタジオセットで劇的な視覚的リニューアルを受けた。 著名なプレゼンター[編集]

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バジル・リングローズ – Wikipedia

バジル・リングローズ(Basil Ringrose、1653年~1686年没?)は、英国のバッカニア。学者でもあり、航海の様子を詳細に記録した。この記録はアレクサンドル・エスケメリング(英語版)の「アメリカのバッカニア(The buccaneer of America)」1684年版として出版された[1][2]。 初期の人生[編集] リングローズはロンドンにてリチャードおよびメアリ・リングローズの元に生まれ、1653年1月28日に聖マーティン・イン・ザ・ミルズ教会で洗礼を受けた[3]。ほかの詳しい生い立ちは不明だが、フランス語やラテン語、スペイン語を習得していた[3]。 最初の航海[編集] リングローズがなぜバッカニアの一味に加わったのかは不明だが、1679年3月から海賊行為についての記録をつけ始め、プエルト・ベリョを掠奪したのちにダリエン地峡を横断し、パナマの町を襲撃した[4][5]。一味にはバーソロミュー・シャープ、ジョン・コクソン(英語版)、リチャード・ソーキンズ(英語版)、ジョン・クック (海賊)(英語版)、ライオネル・ウェーファー(英語版)、ウィリアム・ダンピアらがいた[6]。語学に精通していたリングローズは一味の中で通訳として重宝され、尊重されていた[3]。また、ダンピアは彼のことを「私の聡明な友人リングローズ氏」と記していることから、親しくしていたと思われる[4]。 1681年4月17日、当時トリニティ号の船長の座にあったシャープに対して不信任の投票が行われた[7]。一味は分裂し、ダンピア、クック、ウェーファーらはシャープに反旗を翻して船を去り、リングローズはシャープを支持して船に残った[8]。およそ50人が離反したのち、一味はトリニティ号を改修していくつかの船を拿捕・掠奪した[9]。エクアドルのプラタ島に寄港したさい、リングローズは舵手のジェームズ・チャッペルと決闘したが、どのような結果になったのかは不明である[10][3]。一味はホーン岬を回航して翌年の1月にアンティグアに到着した[11]。当地で一味は解散することになり、リングローズはロバート・ポーティーン船長のリスボン・マーチャント号に乗ってイギリスに帰国した。ダートマスに到着したのは3月26日のことであった[12][13]。 二度目の航海[編集] 帰国したリングローズだったがわずか1年半で再び航海に出かけ、1683年10月、スウォン船長のシグネット号で南海に向かった[14]。数か月後に同じくスウォンの部下となったダンピアは「彼はこの航海に気がなかったが、食うに困ってやむなく引き受けた」と記している[15]。 スウォンの一味はバッカニアたちと同盟を結んでスペイン人の町を襲撃し、メキシコ沿岸のサンタ・ペカケという小さな町を占領した[16]。この掠奪の最中、武装したスペイン人たちが近くまで迫っていると聞いたスウォンは部下たちの半分に掠奪品を持って停泊地に戻らせたが、彼らはスペイン人の待ち伏せにあって殺されてしまった[17]。この中にリングローズも含まれていたのである[18]。彼は32か3の若さで生涯を終えた[18]。 ^ コーディングリ P109 ^ エスケメリング P11

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五重塔 (小説) – Wikipedia

『五重塔』(ごじゅうのとう)は、幸田露伴の1892年(明治25年)の小説。最初は新聞『国会』に連載された。 あらすじ[編集] 腕はあるが愚鈍な性格から世間から軽んじられる「のっそり」こと大工の十兵衛。しかし谷中感応寺に五重塔が建立されることを聞いたときから、一生に一度あるかないかの、その仕事をやり遂げたいという熱望に苦しめられ、朗円上人に聞いてもらいたい一心で会いに行く。 本来ならば、感応寺の御用を務める川越の源太が請け負うという話である。世間から名人よ、器量者よと褒められる源太はその通りの男であり、さらに十兵衛は日頃から源太の世話になっていた。十兵衛の女房お浪は心中で苦しめられ、源太の女房お吉は利口な女だが、のっそりの横着ぶりに怒りを覚える。 上人は十兵衛の熱意を知り、模型を見てその技術と反面の不遇に同情する。十兵衛と源太を寺に呼んだ上人は、技術においても情熱においても比べられない二人だからこそどちらが仕事をするか二人で話し合って決めるように諭す。 人を容れる難しさと、それゆえの尊さを伝える上人の思いやりに応えようと源太は十兵衛の家を訪ね、職人の欲も不義理への怒りも捨て一緒に作ろうと提案する。お浪は涙を流して源太に感謝するが、十兵衛は無愛想にその提案を断る。寺からの帰りにすべてを諦めた十兵衛だが、それでも自分が作るか、作らないか、どちらかしかないのであった。 情とことわりを尽くした源太の言葉にも嫌でござりますとしか返事をかえさない十兵衛に源太は虚しさを感じ、五重塔は己で建てると帰っていく。家には弟分の清吉が待っていた。誠実で優しい兄貴に尽くすことを生き甲斐とする清吉は十兵衛への怒りを隠さないが、源太は酔いつぶれた清吉を見ながら先ほどの己を振り返る。 葛藤の果てに源太は上人のもとへ向かい先日の顛末を語り、十兵衛に任せても自分に任せても一切のわだかまりを持たないため上人に決めてほしいと願いでる。上人は十兵衛も全く同じ話をしていったと源太に伝え、満面に笑みをたたえながら建てる以上の立派なことだと褒められた源太は「兄として可愛がってやれ」と言われて涙を流す。 源太は五重塔を建てることになった十兵衛を宴に招き、全てを水に流そうと申し出る。更に己が描いた五重塔の下絵や寸法書を役立てて欲しいと渡すが、十兵衛は見ることもなく断る。十兵衛が五重塔の仕事がやれるのは、源太より優れているからでもなく、正直さが上人から好かれた訳でもない。 ただ源太が上人の言葉により全てを胸に納め席を譲ったことによる。それが事実である。しかし十兵衛は他人の心を汲むよりも職人としての構想、技術を満たそうとするdemonic possession が優先した。もはや源太も怒りを抑えることは出来なかった。下卑た足の引っ張りはしないが、いつか失敗することを待っていると口にして席を立った。弟子や馴染みの娘を集めて賑やかな宴をひらくが、誇り高い男だけに周りに愚痴や怒りは毛筋ほども見せなかった。 仕事に取り組む十兵衛は誠を尽くし、全てに心を入れて己を捧げる。しかし情の鈍い「のっそり」だけに、源太への応接も忘れていき純粋に仕事の悦びに浸る。お吉は十兵衛の仕打ちを周りから知らされ、清吉に毒づいてしまう。清吉は十兵衛を殺そうとして重傷を負わせるが源太の兄貴分である火の玉鋭次に抑えつけられ散々に殴られる。 清吉を預かった鋭次は源太の家を訪ねると、主人は不在で代わりにお吉が応対に出た。鋭次は源太が十兵衛のもとに頭をさげに向かっていたと知り、人を殺そうとした清吉も浅はかだが、十兵衛にも非があったため源太が上人様にお詫びをした上では話もつく、心配のしすぎはするなとお吉に労りの言葉を残して去る。 源太は十兵衛のもとを訪れて頭を下げるが、先日よりの怒りは深く硬く、気分は晴れない。世話をかけた鋭次のもとに向かうつもりで家に戻ると清吉の母が訪ねてくる。愚かなまでに子を思う親の心の深さに源太は感じるものがある。一方、お吉は金を工面するために家をでると鋭次のもとに向かい、源太の怒りがとけるまで上方へ清吉を向かわせるため身銭をきり路銀を工面してきたと事情を説明する。清吉の母の面倒もみるつもりである。 片耳を切り落とされる重傷を負った十兵衛は休むことなく仕事場に向かう。十兵衛は職人たちが自分を軽んじていることを承知しており、働いて貰うには身体を労ることも無用だった。塔は完成する。 落成式を前にして江戸を暴風雨が襲う。百万の人が顔色無く恐怖に襲われるなか、感応寺の世話役は倒壊の恐怖から十兵衛を呼び出すが、使者の寺男へ十兵衛は倒れるはずは無く騒ぐに及ばずと断る。しかし世話役からの再びの呼び出しは上人からの呼び出しと偽りのものだった。上人様は自分を信用してくれないのか、恥を知らず生きる男と思われたなら生きる甲斐なしと嘆きながらも嵐の中を谷中に向かう。塔に登り嵐に向かう十兵衛。その頃、塔の周りを徘徊する源太の姿があった。果たして塔が壊れれば恥を知らず生きる職人として十兵衛を許さざる腹だったのか、叙述はない。 人の為せぬ嵐が去った後、人が為した塔は一寸一分の歪みが無かった。落成式の後、上人は源太を呼び、十兵衛とともに塔を登り「江都の住人十兵衛これを作り、川越の源太これをなす」と記し満面の笑みを湛える。かつて幼い兄弟が2人だけで大河を渡る寓話を十兵衛と源太に語った上人は、いま職人たちが言葉に尽くせぬ苦悩や葛藤の果に向こう岸にたどり着いたと祝っている。十兵衛も源太も言葉なく、ただ頭を下げて上人を拝むだけだった。 できあがった五重塔を暴風雨が襲うところの描写がすぐれているという評判がある。 小森陽一は、「風流仏」とあわせてこの作品を、「芸術家小説」と位置づけ、近代国民国家の成立期に重要な役割を果たす作品の大きな軸であると指摘している(『樋口一葉、幸田露伴の代表作を読み直す』p63、かもがわ出版、2020年、ISBN

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虢叔 – Wikipedia

虢叔(かくしゅく)は、周の文王の弟で、季歴の三男。虢仲とともに文王の卿士。また、西虢[注 1]の初代君主。 周の武王が紂王の殷を討伐し滅亡させると、虢叔と虢仲は虢の国君に封じられた。その中で虢叔被が封じられた雍地は西虢、虢仲が封じられた制地(現在の河南省滎陽市)は東虢と称された。東、西の虢は王畿の左右に位置し、周王室の藩屏となった。 東虢・西虢の始君問題[編集] 東虢と西虢の封君には諸説がある。 一[編集] 第一に虢叔が西虢に、虢仲が東虢に封じられた説。こちらの説のほうが有力である。 《春秋左氏伝》僖公五年には「虢仲封東虢,制是也」。 《国語・鄭語》の注は「東虢也,虢仲之後,姫姓也」。 《水経注・渭水注》巻十八では「《太康地記》曰:虢叔之国矣,有虢宮,平王東遷,叔自雍(雍県)之上陽為南虢矣」。 《括地志》では「虢故城在岐州陳倉県東四十里,次西十餘里又有城,亦名虢城」。 《史記・秦本紀》正義では「《輿地志》云:此虢,文王母弟虢叔所封,是曰西虢」。 《史記・周本紀》集解引韋昭では「文公,虢叔之後,西虢也」。 《太平環字記》巻三十には「鳳翔府虢県,古虢国之地也,即周文王弟虢叔所封,是曰西虢」。 《元和郡県志》等の文献にも相似した記載がある。 また、近人の陳夢家もこの説に賛同している。 李学勤の《西周中期青銅器的重要標尺》の一文に「西周時期有両個虢国,始封是文王両弟虢仲、虢叔。虢仲封東虢,在今河南滎陽;虢叔封西虢,在今陝西宝鶏東」とある。 梁寧森の《虢国研究》の一文に「西虢所處戦略地位重要,承擔的任務特殊性的需要,始封君只能是一位與周王室関係密切,徳高望重,能征能戦的人物,這位人物也只能是虢叔,而非虢仲」とある。 二[編集] 第二に虢仲が西虢に、虢叔が東虢に封じられた説。

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差し水 – Wikipedia

差し水(さしみず)は、麺類をゆでる際や豆類を煮る際や玄米を炊く際に、沸騰して吹きこぼれるのを防ぎ、仕上がりを調整するために加える冷水のことである。びっくり水(びっくりみず)とも呼ぶ。 麺や豆に用いる場合は、それらの調理の際に沸騰が始まったらすぐに少量の(冷えすぎない程度の)冷水を加える。麺や豆を茹でるとゆで汁や煮汁の中に糊化したデンプンなどが溶け出して汁の粘性が上がり、特に大豆の場合は界面活性作用の強いサポニンが煮汁を強力に泡立て[1]、いずれも沸騰時にできる泡を消えにくくする。一方で鍋底からは水蒸気の泡がどんどん生成されるために鍋の水面は泡だらけになって盛り上がり、最終的には鍋の外にあふれる「吹きこぼれ」を起こす。これを防止するための方法の1つが差し水である。また差し水により煮汁の温度が下がり食材の外部と内部の温度差を下げることができる。さし水は、麺の場合は微妙に締められることでコシを出すために、豆の場合は芯まで火を通すために重要とされる。 玄米を炊くときに差し水をする方法は、東北地方ではびっくり炊き(びっくり水を加えることに由来する)と呼ばれていた。玄米を焼き米に近い状態まで煮詰めて水分を飛ばし、パチパチと玄米が膨化する音が聞こえ始めてから、冷水を加えてかき混ぜて煮たてることで、引き締められて殻がはじけて吸水率があがった玄米を、二度炊きする形になる。圧力鍋を用いて炊いた場合と比較して、炊き上がりの体積が1.5倍程度まで膨らみ、白米のような白っぽい外観と柔らかい食感が得られる。圧力釜が一般に普及していなかった第二次世界大戦中までは、婦人雑誌などで紹介されて一般に知られていた(『日本婦人』昭和十八年四月號掲載) かつて調理にはかまど(竈)などを用いていたため、火力の調整が難しかった。差し水はその時代の名残で、火力の調整が容易なガスコンロや電磁調理器の場合、吹きこぼれる前に火を弱めればよい。ただしとっさの場合に差し水の方が火力を弱めるよりも吹きこぼれに対し即効性はある。 また温度差解消に関しても豆類の場合は有用性が認められるものの、細長い麺類の調理の際に差し水にコシを出す効果が果たしてあるかどうか、それどころか逆にコシを無くすこととなるのではないかという点について疑問が出されている。少なくともパスタ類をゆでる際には差し水はしないことが推奨されている[2]。効果の有無に関して雑誌やWeb上で検証が行われたこともあるが、有意な差は認められなかった[3]。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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原富太郎 – Wikipedia

原 富太郎(はら とみたろう、慶応4年8月23日(1868年10月8日) – 昭和14年(1939年)8月16日)は、日本の実業家、美術品収集家[1]、茶人。号は三溪。美濃国厚見郡佐波村(現・岐阜県岐阜市柳津町佐波)出身。 青木久衛の長男として生まれる。小学校卒業後、儒学者の野村藤陰や草場船山に学ぶ。その後上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務める。1892年、横浜の豪商・原善三郎の孫であり、跡見女学校での教え子であった原屋寿(はら やす)と結婚して原家に入り、家業を発展させた[2]。神奈川県横浜市を本拠地とし、絹の貿易により富を築いた。 また富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られていた。 1915年に帝国蚕糸の社長、1920年に横浜興信銀行(現在の横浜銀行)の頭取となる。 美術品の収集家や茶人として知られた。25歳頃から集め始めたコレクションは5000点を超え、没後に美術館や他の個人収集家に分散した[2]。日本や中国の古美術品(書画や茶道具)を集めるとともに、同時代の画家(小林古径、前田青邨、横山大観、下村観山、今村紫紅、速水御舟、安田靫彦ら)の作品を購入したり、生活費を支給したりして援助したパトロンでもあった[1]。没後、収集品は各地の美術館や個人に分散したが、2019年に開催された「横浜美術館開館30周年記念 生誕150年・没後80年記念 原三溪の美術 伝説の大コレクション」で展示された[3]。 美術愛好家の実業家として、三井財閥の益田孝(鈍翁)ら政財界の要人と交流があった。仏画『孔雀明王像』(国宝)は明治末期、所有者の井上馨に懇望し、「1万円で譲る」と言われて、コレクションの一部を手放して購入した(当時の1万円は現在の3000万~5000万円に相当)[2]。 横浜本牧に三溪園を作り、京都や鎌倉の古建築の建物を移築した[2]。三渓園には1906年(明治39年)の開園時に「遊覧御随意」という直筆の門札を掲げ、援助した画家たちを招いて美術について語り合った。彼らの師である岡倉天心やインドの詩人ラビンドラナート・タゴール、子息の原善一郎と親交があった和辻哲郎や和辻に連れられた夏目漱石も来訪した[1]。 1923年の関東大震災後には、横浜市復興会、横浜貿易復興会の会長を務め、私財を投じ復興に尽くした。自らの収集品を解説した『三渓帖』の版下が震災で焼けて、刊行を中止する憂き目にも遭っている[1]。 三溪園は第二次世界大戦前より一部公開されていたが、戦後、原家より横浜市に譲られ、現在は公益財団法人三溪園保勝会により保存され、一般公開されている。 子に原善一郎のほか、原良三郎らがいる。原範行は孫の夫[4][5]。 参考文献[編集] 竹田道太郎『近代日本画を育てた豪商 原三溪』有隣堂・有隣新書、1981年

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ローワン・ブランチャード – Wikipedia

ローワン・ブランチャード(Rowan Blanchard、2001年10月14日 – )[2]は、アメリカ合衆国の女優。ディズニー・チャンネル放送コメディドラマ『ガール・ミーツ・ワールド』のライリー・マシューズ役で知られる。 生い立ち[編集] アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身[2]。ヨガのインストラクターをしている父マーク・ブランチャード[3][4]、母エリザベス・ブランチャードの長女として生まれた。母方の祖父は(レバノン、モロッコ、アルメニア、シリア)の血を引く中東移民である。また、父方の祖母の先祖は(スウェーデン、デンマーク、イングランド)の血を引く北ヨーロッパ出身である。母方の曾祖父からはドイツの血を、母方の曾祖母からはポルトガルの血を引いている[5][6]。妹のカルメン(Carmen)と弟のシェイン(Shane)がいる[1]。 キャリア[編集] 5歳の時に演技を始めた[1]。2010年、ジェニファー・ロペス主演のロマンティック・コメディ映画『カレには言えない私のケイカク』のミカエラ・ワトキンス演じるモナの娘役でデビューする。2011年、スパイアクション映画『スパイキッズ』シリーズの第4作である『スパイキッズ4D:ワールドタイム・ミッション』 に出演、スパイキッズのレベッカ・ウィルソン役を演じている[7]。 アメリカABCで1993年から2000年まで放送された『ボーイ・ミーツ・ワールド』の派生ドラマである『ガール・ミーツ・ワールド』で主人公ライリー・マシューズ役に2013年1月にキャスティングされたことが発表される[8][9]。オーディションは約12回に及んだという[10]。米国で2014年6月27日放送開始され、日本では2015年1月からディズニー・チャンネルで放送。第3シーズンが放送中。[11]。同番組の主題歌「Take On The World」[12]は親友役のマヤ・ハートを演じるサブリナ・カーペンターとデュエットで歌っている。2015年秋、『いつだってベストフレンド』に同役で出演[13][14]。2013年公開のアニメーション映画『アナと雪の女王』からの曲名「雪だるまつくろう」(原題: 「Do You Want to Build a Snowman?」)をディズニー・チャンネルのドラマ出演者たちによるカバー曲として発表されている[15]。

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