Month: February 2022

田假 – Wikipedia

田 假(でん か、? – 紀元前205年)は、秦末期及び楚漢戦争時代の斉の国王。戦国時代の斉最後の王である田建の弟。『史記』「田儋列伝」に記述がある。斉王に擁立された後に田栄に追放され、田栄の死後、再び斉王となったが田横に敗れた[1][2]。 二世2年(紀元前208年)6月、斉の地を制圧して斉王を名乗っていた田儋は魏の援軍に赴いたが、秦の章邯に大敗して臨済において戦死した。田儋の従弟の田栄は田儋の残兵を集めて、東阿に逃走する。 同年7年、斉の人々は斉王の田儋が死んだと聞き、戦国時代の斉における最後の王となった田建の弟である田假を斉王に擁立する。また、田角が斉の相となり、田閒(田角の弟)が斉の将軍になり、諸侯に抵抗した。田閒は趙に援軍を求めて、趙に使者となって赴く。東阿において田栄が章邯に包囲されたが、楚を率いる項梁が援軍を派遣して、章邯の軍を破ったため、田栄は救出された。田栄は斉において田假が王に擁立されたと聞いて怒り、兵を率いて戻って、田假を攻撃して追放した。田假は楚に逃げ、田角は田閒のいる趙に逃走した。田閒はこのことを聞き、斉に戻らず、趙に留まった。 同年8月、田栄は田儋の子の田巿を擁立して王とし、斉の地を平定した。 同年9月、項梁は章邯と戦うにあたって、趙と斉に援軍を求めた。しかし、田栄は楚が田假を殺し、趙が田角と田閒を殺すことが援軍を出す条件であると告げる。楚の懐王(後の義帝)は、「田假は親しかった国の王である。窮して私のもとに来たのだ。殺すのは不義である」と答える。項梁もまた同じ意思であり、田假を殺すのは忍び難いと答えて[3]、(田栄の出した条件を)断わる。趙でも田角と田閒は殺されなかった。斉からは重ねて実行を求められたが、楚と趙はまた断った。そのため、斉から項梁への援軍は行われることはなく、項梁は章邯と戦い戦死する。 高祖元年(紀元前206年)12月、項羽が秦を滅ぼす。項羽は斉を3つの国に分けた上で3人の王(田巿・田都・田安)を封じ、叔父の項梁に援軍を送らなかった田栄は王に封じられず、田假もまた王に封じられなかった。 同年5月、田栄は決起して、斉王に封じられた田都を討つ。6月、田栄は膠東王に封じられた田巿を殺した。さらに、7月には、田栄は済北王に封じられた田安を攻撃して殺してしまう。8月には、田栄は、三つに分かれた三斉の地[4] を統一し、斉王を名乗る。 高祖二年(紀元前205年)10月、項羽は楚の義帝を殺害する。 同年12月、項羽は斉を討伐し、田栄は平原に逃れて、そこで殺される。 同年2月、田假は項羽によって斉王に立てられる。 同年3月、項羽が斉の城を焼き払い、通過した土地を破壊したため、斉では強い抵抗が起き、田栄の弟である田横が兵を集めていた。田假と楚の軍は、城陽において田横に敗北し、田假は楚に逃走した。田假は楚において、殺害された。 同年4月、劉邦が、項羽の都である彭城を攻め落としたため、項羽は引き返して劉邦を戦うことになった。田横は斉の城を取り戻し、田栄の子である田広を擁立した。 田閒は、後に田広に仕えた。高祖三年(紀元前204年)頃には、20万の兵を率いて、歴城において駐屯していると言われていた[5][6]。 ^ 以下、特に注釈がない部分は、『史記』秦楚之際月表第四・田儋列伝による。

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三角山 (鳥取県) – Wikipedia

三角山(三隅山[2]、みすみやま[1])(別名「頭巾山[3]・襟巾山[2](ときんやま[4]、とっきんざん[1])」)は、鳥取県鳥取市(旧用瀬町)にある山で、中国百名山の一つ。標高516メートルの山頂には三角山神社があり、その本殿は鳥取市の指定文化財になっている[5]。 地理・地誌[編集] 三角山は旧用瀬町の中心部の背後に聳える山で、南の洗足山と峰続きになっている。周辺では珍しい花崗岩の山で、侵食によって山頂付近は三角形に鋭く尖っていて、アカマツが林立し、巨岩巨石がある[1][2][6]。 山の東麓を鳥取県を代表する千代川の本流が流れており、支流の佐治川との合流点付近の平野に用瀬町の中心市街がある。一方、西麓には千代川の支流の赤波川が北流しており、三角山の裾野を回るように西から北へ流れ、千代川に合流する。この合流地点付近の平野部は用瀬市街地より広く、鷹狩地区(旧鷹狩村)の集落がある[1][3][4]。 三角山の北麓は鷹狩地区へ向かって下っているが、途中に標高325メートルの頂があり、戦国時代に景石城があったことからお城山と呼ばれている[4][1]。 山名の由来[編集] 山頂にある三角山神社の社伝に拠ると、天孫降臨のときに道案内を務めた猿田彦命が、この山に住んでいたことから「御栖山(みすみやま)」と呼ばれていた[7][1]。これが「三角山」に転訛したとしている[7][1]。 一方『因幡志』では、「頭布山」の起源として、当山がもともと山伏の三角形の頭巾の形状に似ていることから「襟巾山」と称したと伝えている[7][3][1][2][8]。 三角山神社[編集] 三角山は、古くは「滝社峰錫(ほうしゃく)権現(峰錫坊権現、峯先錫坊権現)」といい、山岳信仰・修験道の修行地で、江戸時代には鳥取藩の祈願所が置かれていた[1][7][4][5]。山域は太平洋戦争前までは女人禁制で、麓には垢離場や女人堂が残されている[1][7][4][5][8][9]。このため用瀬では山や神社を「峰錫さん」とも呼ぶ[10]。享保年間から8月24日 (旧暦)を祭礼日とし、「用瀬の滝祭り」と称していたが、新暦となった現在では7月23日が祭礼日となっていて、名物の「あめ湯」の販売や松明行列などを行う用瀬の夏祭りになっている[8][2][11][7][3][4]。 明治時代に神社体系の整備が行われると、「三角山神社」となり、山麓の東井村にあった妙見社(東井神社に改称)の摂社の扱いとなった[4][10][1]。この時から修験道の聖地としての性格は失った[注 1]が、戦後まで女人禁制のしきたりは残っており、参道入口にある女人堂(山下本宮)までしか立ち入ることができなかった[9][12][1]。 山頂にある本殿は天正期の戦乱で焼失し、1626年(寛永3年)に再建された記録がある[1]。現在の本殿は1845年(弘化2年)のもので、明治期に方角を直されている[5]。この本殿は1976年(昭和51年)に旧用瀬町の指定文化財となった。のちに用瀬町が鳥取市と合併したため、2014年現在は鳥取市の指定文化財となっている[5]。祭神は猿田彦大神である[12]。 景石城とお城山[編集] 三角山から北へ尾根伝いにゆくと標高325mのピークがあり、戦国時代に景石城があった[4]。このためこの山を「お城山」と呼んでいる[4]。景石城の言及は古くは太平記にみえ、地元の用瀬氏、播磨の赤松氏、山陰の山名氏が争ったと伝わる[4]。 景石城は豊臣秀吉勢による中国攻略の折にも戦場となり、秀吉配下の磯部康氏が守将となったため「磯部城」とも呼ばれる[4]。磯部氏は山名氏の傍系で、同族で毛利方の山名豊国が景石城を攻めると、戦わずに退却した。落城に際して、鎮魂のために用瀬の盆踊り唄が生じたという伝承もある[13]。磯部氏は翌年の鳥取城攻めで功をあげ、景石城と智頭郡の半分に相当する3000石を与えられて約20年間治めた[4][3]。のちの用瀬宿の発展はこの治世によって育まれたとされている[4][13]。磯部氏は、関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に所領を失った[4][14]。 城は江戸時代に一国一城令によって破棄されたが、城跡は鳥取市(用瀬町)の史跡となっている[3][14]。石垣は現存しており、好天時には一の丸跡の石垣から日本海を望む[3]。 登山ルート[編集] 三角神社の参道が登山道に相当し、近年はハイキングコースとして用瀬から三角山・景石城跡へのルートが整備されている[15][16]。用瀬駅から20分ほどで女人堂がある参道の入り口に至り、そこから山頂までは約40分[6][注

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栗原将輝 – Wikipedia

栗原 将輝(くりはら まさき、1984年5月21日 – )は、日本の音楽プロデューサー、作曲家、作詞家、編曲家、ギタリスト。東京都出身。MKsoul Promotion(エムケイソウル プロモーション)の代表を務める[1]。 東京都出身[2]。小学生の頃からピアノに親しむ。中学生の頃にJ-ROCKやPOPSのバンドサウンドに影響を受け、高校生になると本格的にギターを始め、同時にバンド活動を開始。演奏だけでなく創ることが好きで研鑽を積む[3]。 ソロアーティスト、アイドル、VTuber、ボーカルグループ、バンドなど、多くのアーティストの音楽プロデュースや楽曲提供を手掛ける。アーティストの個性や特徴を踏まえながら、アーティストの魅力を最大限に引き出すことに焦点を当て、多様な音楽ジャンルにおいて、各々のアーティストのための作品制作を目指している。懐かしくもキャッチーな音使いにこだわったメロディーに、人間の繊細な心情変化を描くような歌詞が特徴[4]。 代表を務めるMKsoul Promotionはストリーミングサービス「SHOWROOM」でオーガナイザーとして登録されているが[5]、栗原自身も時折配信を行っている[6]。また、SHOWROOMがきっかけとなって繋がったアーティストに対し、制作・プロデュースした作品も数多く存在する。 主なプロデュース作品[編集] 五十音順(J-WID(JASRAC作品データベース検索サービス)[7]で確認済み) 葵乃まみ 「未来への約束[8]」(作曲/作詞) 「絶景未来[9]」(作曲/作詞) うにこ 「彩りの青春[10]」(作曲/作詞) 「君のことが大好きなの[11]」(作曲/作詞) 「Let’s

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大鷹正人 – Wikipedia

大鷹 正人(おおたか まさと、1961年 – )は、日本の外交官。国連担当大使、サイバー政策担当大使、外務報道官などを経て、駐ハンガリー特命全権大使。 経歴・人物[編集] 東京都出身。父は大鷹正元駐オランダ特命全権大使。大鷹正次郎元駐ラトビア特命全権公使は祖父。大鷹弘元駐ビルマ特命全権大使は伯父[1]。1986年東京大学経済学部経済学科卒業、外務省入省。外務省経済局国際経済第二課、外務省条約局国際協定課、国際連合日本政府代表部一等書記官などを経て、2002年外務省大臣官房兼内閣官房内閣総務官室総理大臣官邸事務所。2005年外務省国際法局国際法課法律顧問官。同年外務省経済局政策課企画官兼経済連携課南東アジア経済連携協定交渉室長。2007年外務省経済局経済連携課長。同年外務省アジア大洋州局南部アジア部南西アジア課長。2009年在タイ日本国大使館参事官。2010年在タイ日本国大使館公使。2012年在アメリカ合衆国日本国大使館公使。2016年外務省大臣官房参事官(報道・広報・文化交流担当)(外務副報道官)。同年外務省大臣官房参事官(報道・広報・文化交流担当)(外務副報道官) 兼アジア大洋州局。2017年外務省大臣官房参事官兼総合外交政策局、領事局、国連担当大使、サイバー政策担当大使[2][3]。同年外務省大臣官房審議官兼総合外交政策局、領事局、国連担当大使、サイバー政策担当大使。2019年から外務報道官を務め[4][5][6]、2020年には日本の新型コロナウイルス感染症の流行への対応は無能であると断じた中野晃一上智大学教授に対し、ニューヨーク・タイムズに反論を寄稿した[7]。2020年駐ハンガリー特命全権大使[8]。 石川浩司(20年官房長・19年南部アジア部長) 岩間公典(20年デュッセルドルフ総領事) 牛尾滋(19年ポルトガル大使・18年アフリカ部長) 宇山智哉(21年WTO事務局長上級補佐官) 河原節子(18年フランクフルト総領事) 木村徹也(17年ミュンヘン総領事) 四方敬之(21年内閣広報官・20年外務省経済局長) 進藤雄介(15年軍縮会議公使) 鈴木量博(20年トルコ大使・18年北米局長) 淵上隆(14年ドミニカ共和国大使) 三上正裕(19年カンボジア大使・17年国際法局長) 道井緑一郎(19年出入国管理庁審議官)

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アップ!! (RBCiラジオ) – Wikipedia

この項目では、琉球放送(RBCiラジオ)のラジオ番組について説明しています。名古屋テレビ放送(メ〜テレ)の報道番組については「アップ!」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “アップ!!” RBCiラジオ – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年8月) アップ!!は、琉球放送(RBCiラジオ)で月曜・水曜 7:00 – 9:50 / 火曜・木曜 7:00 – 9:53 /

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ヒロシエリ – Wikipedia

ヒロ シエリ(1996年12月19日 – )は、日本の女優である。現在はフリー。本名及び旧芸名:廣瀬詩映莉(ひろせ しえり)。 北海道札幌市出身。中学受験をして中高一貫の北星学園女子中学高等学校に入学した[1]。中学で演劇部に入部し、2012年、高校1年生のときに納谷真大のワークショップを受けたのをきっかけに劇団「ELEVEN NINE」に入団、全公演に参加し若手女優として活動を始める[2][3]。光塩学園女子短期大学の保育科に入学したが、1年で中退し俳優業に専念した。劇団員のかたわら北海道テレビ放送の深夜バラエティ番組にレギュラー出演するなど、ローカルタレントととしても活動していた。 2021年9月15日の「出番を待つふたり」にて8月31日付で株式会社For Youを退所し、現在はフリーとして活動していることを発表。 PARCOプロデュース「転校生」のオーディションに応募総数2,128名の中から選ばれ出演を果たす[4]。 2018年に「ELEVEN NINE」を退団し、2019年に上京して東京に拠点を移す。2020年に「ビューティフルドリーマー」に出演した際に、本広克行監督から、本名の漢字が難しく読み書きしづらいことと、「女版ムロツヨシになれ」との思いから勧められ現在の芸名に改名した。 人物・エピソード[編集] ペットは犬のもちべえ。 好物はうどん。 昭和アイドルが好きで、高校生の時に聖子ちゃんカットにしていたことがある。[5] ドラマ「チャンネルはそのまま!」で放送された番組内のニュース番組の影響で、googleで”廣瀬詩映莉”と検索すると”無銭飲食”がサジェストされていたが、実際に無銭飲食で逮捕されたことはない[6]。[5] 藤谷理子とは「転校生」で共演したときからの親友で、共同でRadiotalkをしている。 トーク中に時折り話す北海道弁が、なまらめんこいんだわ。 自転車に乗れない(小学生の頃オレンジ色の自転車を買ってもらったが、オレンジ色が好きでなかったためテンションが上がらず、母親と一緒に1.5回ほど練習したが乗れなかったため諦めた)。[7]

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トキエア – Wikipedia

トキエア株式会社は、新潟市中央区万代島5-1万代島ビルに本社を置く、日本の格安航空会社(LCC)の設立準備会社[1]。路線開設が実現すれば、新潟空港に拠点を置く初のLCCとなる。 2020年(令和2年)7月29日、東京都千代田区霞が関において会社設立。翌年2月18日に本社を千代田区から、拠点地である新潟市中央区万代島に移転した[2][3]。 運航に向け35億円と試算する設立資金の調達を目指している。早ければ2022年度に新潟空港を拠点としたLCCを運航する予定である。路線は同空港を拠点に、佐渡・札幌丘珠・仙台・東京地区・愛知地区・関西地区の国内6地区を結ぶ計画を詰めている。 また、同社は自社で運航を予定するばかりではなく、同業他社や地方自治体との連携を図り、 LCC地域ネットワーク航空の設立、運営サポート 航空人材の派遣及び紹介 航空関連マニュアル等の提供 空港を中心とした地域活性化の推進 地域間の連携を促進 国土交通省、防衛省、地方自治体との協力 を組み合わせて、運営を滑らかにすることを明らかにした上で運航に向けた資金調達を図ることになっている。2021年8月時点では準備を進めながら社員の採用も開始している[4][5][6]。 なお、佐渡空港への路線開設の実現は、2014年に新日本航空が同路線から撤退して以来となる。 2021年12月1日、公式サイトを公開。 運航予定機材[編集] ATR 42-600S(48人乗り) : 導入予定4機(リース仮契約済) ATR 42-600型機の短距離離着陸(STOL)性能を高めた派生型。通常のATR42-600は800メートルの滑走路で離着陸する際には定員48名を22名まで減らす必要があるが、ATR42-600Sは満員の状態で離着陸可能である[7]。2021年11月16日、ドバイ航空ショーで発注意向書 (Letter of

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メキシコブナ – Wikipedia

メキシコブナ メキシコブナの林(イダルゴ州にて) 分類(APG III) 学名 Fagus mexicana 和名 メキシコブナ 英名 Mexican Beech メキシコブナ(学名:Fagus mexicana)は、ブナ科の落葉性広葉樹の一種。高さ25~40mになる落葉高木で、メキシコのイダルゴ州・プエブラ州・タマウリパス州南西部にまたがるシエラマドレ山脈の高高度の雲霧林にのみ分布する。[1][2]近縁種のアメリカブナの亜種とされることもある。[3][4][5][6] ^ Oswaldo Téllez-Valdés, Patricia Dávila-Aranda, Rafael

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荒川規矩男 – Wikipedia

荒川 規矩男(あらかわ きくお[1][2]、1929年7月[1]-)は、日本の医学者、内科学者。ヒト・アンジオテンシンの単離および構造同定、キニン・テンシン系の発見、高血圧の運動療法の研究などの功績がある[2]。医学博士、福岡大学名誉教授、国際高血圧学会第12代理事長(the 12th President of the International Society of Hypertension)[3]、日本高血圧学会名誉会員、日本高血圧協会元理事長。 鹿児島県曽於市[1]の旧末吉町出身[2][4]。末吉小学校(国民学校)を経て[5]、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)に入学[1][4][5]。戦時のため海軍鹿屋航空隊などに勤労動員され、四年生のときに終戦[1]。旧制第二鹿児島中学校を四年で終え[1]、第七高等学校 (旧制)入学[1][2][4][5]。旧制中学・高校の同窓生に赤崎勇[5]、村田洋次郎[6]らがいる。旧制七高から旧制九州大学医学部へ[1][2][4][5]1949年に進学し[5]、1953年3月に卒業[1]。大学を出たら鹿児島市で開業するつもりだったが[4]、学んでみると研究に非常に興味を感じるようになる[1]。内科と外科で迷った後[1]、順天堂医院でのインターン[4]を終え九大外科に入局するが、直後に扁桃腺炎から急性腎炎になり体力的な不安から内科への転向を決意[1]。回復するまで基礎(医化学)の大学院生となる[1]。ペプチド研究の中でもレニンインヒビター作りを志す[1]。 1957年3月九州大学大学院医学研究科(医化学)を修了[1]。同年から九州大学病院第三内科副手[1]。論文「On the oxidation of non-hydroxyamino acids

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