Month: March 2022

深圳市 – Wikipedia

「深圳」はこの項目へ転送されています。軍艦については「深圳 (駆逐艦)」をご覧ください。 日本北海道にある「深川市」とは異なります。 この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 地図 深圳市(シェンチェン-し、しんせん-し[2]、中国語: 深圳市、拼音: Shēnzhèn、英語: Shenzhen)は、中華人民共和国の広東省に位置する副省級市。日本では「深セン」と表記されることもある。 深圳市は香港の新界と接し、経済特区に指定されている。北京市、上海市、広州市と共に、中国本土の4大都市と称される「北上広深」の一つであり、「一線都市」に分類されている[3]。中国屈指の世界都市であり、金融センターとしても重要な機能を果たしている。2010年の近郊を含む都市的地域の人口は1,447万人であり、世界第15位である[4]。アメリカのシンクタンクが2020年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界75位の都市と評価された[5]。中国本土では北京市、上海市、広州市に次ぐ4位である。 住民構成の特徴としては移民都市であることがあげられる。元来は宝安県として一集落に過ぎなかったものが、改革開放経済の過程で外部より労働人口が流入して都市が形成され、広東省でありながら広東語が使われる比率が極めて低い地域となっている。元来の地元民はおもに農業・漁業に従事する。地元民は香港の新界地域と同じく、大きく客家語を話す客家と広東語を話す囲頭人の2つのグループに分ける。客家は主に北東部の竜崗区と宝安区の東部、福田区の北部、南山区の北部などの丘陵区域に分布し、囲頭人は主に羅湖区、福田区の中南部、南山区の中南部、宝安区の中西部などの平原地域に居住する[6][7]。 現代の深圳市は中国屈指の近代都市として存在感を高めている。深圳市には超高層ビルが343棟あり、アジアでも香港・上海・東京といった他の大都市に次ぐ数となっている[8]。深圳地下鉄も急速に拡張し、1日の利用者数が512万に達する[9]世界有数の交通網になっているほか、富裕層も多く、2020年時点で世界で8番目にビリオネアの多い都市とされている[10]。また近年は観光業にも力を入れており、2019年版の旅行雑誌ロンリープラネット(lonely planet)では世界TOP10に入り、ランク二位の都市となっている。 位置[編集] 広東省の省都広州市から南東部に位置し、珠江デルタ地域に含まれる。九龍半島の西側付根部分に位置し、塩田港など巨大なコンテナ港湾を有する。北は広東省東莞市と恵州市、南は特別行政区の香港と接する。 気候[編集] 中国の気候区分では、亜熱帯海洋性気候に属する。年間平均気温は摂氏22.3度、過去最高気温は38.7度で、過去最低気温は0.2度であった。年間平均降水量は 1,924.7 ミリメートル。年を通じて主に南東の風向きである。 深圳

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平針 – Wikipedia

この項目では、名古屋市天白区の地名について説明しています。平針と通称される運転免許試験場については「愛知県運転免許試験場」を、宮城県遠田郡美里町の地名については「平針 (美里町)」をご覧ください。 平針(ひらばり)は、愛知県名古屋市天白区の地名。現行行政地名は天白町大字平針および平針一丁目から平針五丁目がある[WEB 5]。住居表示未実施[WEB 5]。 平針一〜五丁目は名古屋市天白区東部に位置する。西は原一丁目、南は天白町大字平針、北東は日進市に接する。 山[編集] 池沼[編集] 小字[編集] 荒池下(あらいけした) 上原(うえはら) 大堤下(おおつつみした) 大根ケ越(おおねがこし) 黒石(くろいし) 奴女里川(ぬめりがわ) 向之山(むかいのやま) 愛知郡平針村を前身とする。 1965年、当時の天白町大字平針字黒石に、県内5か所の運転免許試験場を統合した愛知県運転免許試験場(現平針南三丁目所在)が新設され、以来「平針」は運転免許試験場の所在地の地名ならびに通称として愛知県内では広く知られている。 町名の由来[編集] 比較的平らな土地を開墾したことを意味する「平墾」(ひらはり)が転じたものであるとする。

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太田川大橋 – Wikipedia

この項目では、広島南道路の橋について説明しています。その他の太田川の橋については「太田川橋」をご覧ください。 太田川大橋(おおたがわおおはし)は、広島県広島市の太田川本流(太田川放水路)に架かる広島市道広島南道路の道路橋。2014年度土木学会田中賞作品部門受賞[2]。 2014年(平成26年)3月23日開通[3]。太田川放水路最下流に架かる橋である[4]。広島南道路のうち広島市が事業整備した区間、つまり通行料無料である観音出入口-商工センター出入口間に架けられた橋である[3]。そのまま東へ進むと有料道路区間である広島高速3号線へ入る。広島南道路において唯一のアーチ橋(宇品大橋は桁橋に分類される)。将来的にはこの橋の両外側に国道橋が併設され、この橋自体は自動車専用橋梁となる予定である。 太田川放水路を渡河する計画は、広島西飛行場の存続に県側と市側の意見相違が絡んで橋梁案と沈埋トンネル案の2案でもめ決定が長引いたことから、広島南道路整備が他の広島高速道路に比べ着工が遅れる原因となった。 橋種選定にあたり国際的なデザインコンペティションが行われている。結果、車道は鋼・コンクリート複合アーチ橋、歩道は別の橋としてそのアーチ橋に添架する[6]、珍しい橋が完成した。歩道の途中にはベンチが置かれ、夜間はライトアップされている[4]。 立地[編集] 1945年アメリカ軍作成の広島市地図。左下の河川河口部が現地にあたり、右岸側はこの時点では海だとわかる。左岸側が薄く着色されているのは原爆で部分被害があったことを示している。また、太田川放水路も完成していないこともわかる。 この両岸は、昭和初期から始まった埋立事業により形成されたものである。 1930年代に計画された”広島工業港修築計画”により左岸側観音・右岸側庚午および草津の埋め立てが決定したが太平洋戦争の影響で予算削減され、まず1940年代に左岸側観音地区が埋め立てられた[7]。右岸側庚午・草津地区は1970年代に行われた”西部開発事業”により埋め立て整備されている[8]。 また、交差する太田川放水路が計画されたのも1930年代であり、戦争をはさみ1967年(昭和42年)に完成した[9]。現在太田川放水路にかかる橋のほとんどはこの時期に架橋したものである。 左岸側には1961年(昭和36年)広島空港(のち広島西飛行場、現広島ヘリポート)が開港している[10]。 1973年(昭和48年)、広島沿岸部に東西軸の幹線道路、つまり広島南道路構想が提案された。1970年代から80年代にかけてこの上流側に庚午橋が整備されたが、西から宮島街道-西広島バイパス-商工センターと慢性的に渋滞に悩され太田川放水路の渡河がその最大の問題点であることから、広島南道路の早期開通が望まれていた[13]。 揺れた渡河案[編集] 1981年[14]。写真上部の円弧状の溝と上地図左側の円弧状の海岸が同一のもの。滑走路の北端に向かって道路が整備されている。滑走路の右下にカキ筏が見える。 そもそもここを渡河する計画は1967年(昭和42年)、”都市計画道路観音井口線”整備が決定したことから始まる。この中で渡河案は「橋梁」と決められた。1974年(昭和49年)、西部開発事業が具体化したことを機に観音井口線の車線数を8としすべて「沈埋トンネル」にて渡河すると決められた[15]。 1997年(平成9年)、広島南道路の都市計画決定[16]、同年に県と市の共同出資により広島高速道路公社設立[17]、以降国・市そして公社が主体となって広島南道路建設計画は進んだ[3]。 観音井口線8車線のうち、4車線が広島南道路として事業計画され、当初は沈埋トンネル案としていた[15]。ただ経済性・施工性の問題から橋梁案も平行して考えられており、1999年(平成11年)、公社に出資している県は総合交通計画にて経済性の優位を示し、以降橋梁案を第一として主張した[15][18]。 これに、広島南道路のすぐそばにある飛行場の存在が影響した。広島空港建設が決定して以降、旧広島空港(広島西飛行場)の今後について論議が交わされ、1993年(平成5年)から県が管理するコミューター飛行場として存続が決定したが、広島南道路を橋梁とした場合今後も飛行場として活用するには滑走路を南側つまり広島湾へ”沖出す”必要があった[19]。空港を管理する県は水質環境や漁場であることなどを勘案し沖出しに消極的だったため、飛行場を今後も活用していく方針だった市は機能維持を理由に反発し、沈埋トンネル案を主張した[18]。以降両者の主張は覆らず平行線のままだった[18]。 2004年(平成16年)、県側が主張してきた橋梁案を市が受け入れ正式決定し、2013年(平成25年)完成を目指した[18]。この橋梁案に決定した後に都市計画変更、以降市道として整備することになった[22]。 合わせて、2004年に滑走路沖出しを市の事業として進められることが決められたが[18]、のち廃港が決まったため計画自体なくなり、飛行場は現在広島ヘリポートとして存続している。またこの件を含めた県と市の対立は当時の藤田雄山県知事と秋葉忠利市長の関係悪化に繋がり[23]、後の広島・長崎オリンピック構想などの諸問題でも意見相違が相次いだ。

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劉予 – Wikipedia

劉 豫(りゅう よ、拼音:Liú Yù、元豊元年(1078年) – 皇統3年(1143年))は、中国北宋末の官僚、金の傀儡国家である劉斉(中国語版)の皇帝。字は彦遊。 景州阜城県の農民出身。元符3年(1100年)に進士(科挙)に合格、宋朝に官僚として仕えた。1126年、靖康の変により北宋は女真族の金軍によって都の開封を制圧され、滅亡する。劉豫は済南府知府に任命され、済南府を守備したが、1128年に金軍の侵入に対し、降伏する。 当時、金は山東・河南方面に広く軍事行動を展開していたが、旧北宋支配下の漢族を直接統治する自信がなく、1127年に北宋の政治家であった張邦昌を皇帝として、金の傀儡国家としての「大楚」を建て、旧北宋の支配地域の間接統治にあたらせようとした。しかし、張邦昌は帝位につくとすぐに、北宋最後の皇帝欽宗の弟の趙構(高宗)を皇帝として宋(南宋)を再興することに協力し、自らは帝位を放棄して南宋に逃亡した。 そこで金は1129年3月、劉豫を東平府へ移し、京東西淮南等路安撫使に任じて大名府・開州・徳州・濮州・浜州・博州・棣州・滄州などを支配させた。さらに1130年7月、粘没喝(完顔宗翰)の画策により、劉豫を皇帝として傀儡国家を建てることとなり、国号を「斉」、都を大名府とした。劉豫は旧暦9月9日(10月12日)に皇帝として即位したが、年号は金朝の正朔を奉じ、天会8年とした。百官を定めた後に東平府に移り、生母の翟氏を皇太后、側室の銭氏[1]を皇后となした。1131年には阜昌元年と改元し、子の劉麟を尚書左丞諸路兵馬大総管とする。1132年にはさらに陝西も封土に加えられ、都を汴京(開封)に移す。尚書省や六部を設け、徴兵を行い、十分の一税を施行、法律を定め銭の鋳造や交鈔の発行、各地に横行する匪賊の類いを丸ごと抱えこむ、科挙以外の官吏登用ルートを創設するなど意欲的な政策を行ったため、南宋から斉に赴き仕えたという例も出た。 金の元帥府使蕭慶が汴京に赴き、劉豫と南宋攻略の相談をした際には、劉豫は宋軍の内情を詳らかに報告したり、宋軍の将軍の内応を図るなどの工作を行うが、劉豫・劉麟父子は実戦面では全く活躍できず、かえって人心を失い、次第に金・宋戦争は膠着状態に陥ったため、金は劉豫の存在価値を低くみるようになっていった。そこへ1137年に劉豫の後ろ盾であった粘没喝が失脚したことで、斉不要論が圧倒した。同年、斉はわずか8年で廃止されることとなった。 劉豫は蜀王に格下げされ、後に臨潢府(現在の内モンゴル自治区バイリン左旗)に移される。皇統3年(1143年)、曹王に封ぜられ、その年に没した。なお、斉の領土は、いったん金の支配下に入り、1139年には南宋に返還されたが、1142年の紹興の和議で再び正式に金領に組み入れられた。 ^ 趙金奴(宋の栄徳帝姫、欽宗の妹で高宗の姉)の侍女。礼法に習熟していた。靖康の変後、劉豫に与えられた。 参考文献[編集] 伝記史料[編集] 『宋史』巻475 列伝第二百三十四 叛臣上 劉豫伝 『金史』巻77

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大井玄洞 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年7月) 東京都文京区江戸川公園内にある大井玄洞の胸像 大井 玄洞(おおい げんどう、安政2年2月15日(1855年4月1日) – 昭和5年(1930年)8月15日)は、日本の薬学者、政治家、陸軍軍人(薬剤官)。加賀藩出身。「生薬学」という用語を創出した。 加賀藩の儒医の子として生まれる。藩の明倫堂で学び、更に藩の道成館で英語を習得した後、明治2年(1869年)、大学南校(現東京大学の前身)に入学しドイツ語を学ぶ。明治6年(1873年)の卒業とともに文部省上等出仕となって大学区医学校(現東京大学医学部の前身)にドイツ語通訳として勤務する。 東京医学校製薬学科の別課通学生教場にて日本人教師が日本語で講義する必要性が生じたため、明治13年(1880年)2月、当時助教であった玄洞は、J.W.Albert Wingandの『Lehrbuch der Pharmakognosie』を参考に教科書を作るにあたって、ドイツ語の「Pharmakognosie」(これはギリシャ語のpharmakon(薬物)とgnosis(知識)からの造語)に「生薬学」の訳をあてた。 同年4月、玄洞は自ら東京医学校を辞任して故郷の金沢医学校製薬学科(現金沢大学薬学類の前身)に赴任し、同校の教諭と石川県立金沢病院(現金沢大学医学類附属病院の前身)の薬局長および内務省主管の金沢医術開業試験委員も兼務した。明治18年(1885年)12月、これらの職を辞して翌年ドイツに遊学する。 帰国直後の明治19年(1886年)10月、陸軍二等薬剤官となり陸軍病院薬剤課長心得に任命され、明治20年(1887年)には陸軍軍医学校教官兼務となっている。また、明治19年9月に東京薬学校(現東京薬科大学の前身)の創設者藤田正方が急逝したため、一時期(明治21年(1888年)まで)山田薫、熊沢善庵らと交替で同校の校長を務めた。明治23年(1894年)3月、一等薬剤官となり第1師団軍医部に配属され、明治26年(1897年)6月に日清戦争に出征している。凱旋後の明治30年(1897年)4月に陸軍薬局方(第1版)の編纂委員に任命される。同年8月、第2師団軍医部に配属され、明治32年(1899年)に予備役となる。翌年の義和団の乱に伴い召集され、事変が終わるとともに召集解除となった。 薬剤官としての生活を終えてからの玄洞は、東京市小石川区に居をかまえ、ガーゼや脱脂綿などの衛生材料を商う傍ら区会議員となり、明治40年(1907年)府会議員となる(昭和3年(1928年)まで)。玄洞は、当時、たびたび洪水をおこしていた江戸川(現 神田川)を何とかしようと、治水に尽力する。大正2年(1913年)に護岸工事に着手、大正8年(1919年)に完成させる。この治水事業の功績を称え、昭和3年(1928年)神田川沿いの江戸川公園に玄洞の銅像が建てられる。 昭和5年(1930年)逝去し、世田谷区千歳烏山の万福寺に葬られる。 位階 勲章等 大井玄洞著『毒物学』回春堂、1879年

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イングリッド (カプコン) – Wikipedia

イングリッド プロフィール 初出作品:CAPCOM FIGHTING Jam 誕生日:不明[1] 出身地:不明[2] 身長:152cm[2] 体重:39kg[2] スリーサイズ:B78 W54 H80[2] 血液型:不明[2] 好きなもの:フルーツパフェ[1] 嫌いなもの:退屈、電磁波[1] キャッチコピー:  「永遠の陽光(エターナルレイ)」(『CFAS』) 「“紋章”の力を秘めた少女」(『PXZ2』) イングリッド(Ingrid)は、カプコンが開発・販売している対戦型格闘ゲーム『CAPCOM FIGHTING

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オタマトラザメ – Wikipedia

オタマトラザメ Cephalurus cephalus はヘラザメ科に属する深海性のサメの一種。底生で、カリフォルニア近海の深度155-937mから得られている。全長24cm程度で、頭部が大きくオタマジャクシのような外見となることが特徴である。鰓も巨大で、溶存酸素の少ない環境に適応していると考えられる。餌は甲殻類や魚類。無胎盤性の胎生で、雌は2個の卵を体内で孵化させる。漁業価値はなく、IUCNは保全状況を軽度懸念としている。 1892年、Proceedings of the United States National Museum 14巻において、アメリカの魚類学者Charles Henry Gilbertによって Catulus cephalus の名で記載された。記載はレビジャヒヘド諸島、クラリオン島沖の841mの深度で採集された24cmの成体雄に基づいている[3]。1941年、Henry F. BigelowとWilliam C.

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豊橋市立下条小学校 – Wikipedia

豊橋市立下条小学校(とよはししりつ げじょうしょうがっこう)は、愛知県豊橋市下条東町にある公立小学校。 1872年(明治5年) – 八名郡藤ヶ池村に郷学校として藤ヶ池郷学校が開校。金西寺[注釈 1]を仮校舎とする。 1873年(明治6年)10月 – 第9中学区第41番小学下条学校となる。五井村、八反ヶ谷村、竹之内村、天王村、堀之内村、藤ヶ池村、白石新田の児童が通学する。 1875年(明治8年) – 天王村に移転。天王村の江楽寺[注釈 2]を仮校舎とする。 1878年(明治11年) – 五井村、暮川村、天王村、八反ヶ谷村が合併し、西下条村となる。 藤ヶ池村、堀之内村、竹之内村、白石新田が合併し、東下条村となる。 1882年(明治15年) – 西下条村字暮川が校区に加わる。

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稲田又左衛門 – Wikipedia

稲田 又左衛門(稻田 又左衞門、いなだ またざえもん、1834年3月1日(天保5年1月21日[1][2])- 1910年(明治43年)3月3日[1][2][3][4])は、幕末の大村藩家老、明治期の政治家・銀行家。衆議院議員、長崎区長。諱・凞孚[1]。通称・才八郎、東馬、又左衛門[1]。 肥前国彼杵郡大村[1][4](現長崎県大村市)で、大村藩士の家に生まれ[2]、19歳で同藩士・稲田中衛の養子となる[2]。藩校五教館で学んだ[1][2]。1854年(安政元年)中小姓に任じられた[2]。以後、諸稽頭取、近習番頭、御用人、長崎御用懸、家老兼烈山隊参謀、吾往隊大隊長、大村藩権大参事などを歴任[1][2][3][4]。藩主大村純熈を補佐した[1]。 廃藩置県後、西彼杵郡大串村に転居した[2]。第二中学大区取締、第十一大区区長、兼第十三大区区長を歴任[2]。1878年(明治11年)10月、郡制実施に伴い西彼杵郡長に就任[1][2][4]。1879年(明治12年)1月、長崎区長となり1880年(明治13年)8月まで在任[1][2][4]。1884年(明治17年)8月、判事補に任官し長崎治安裁判所詰となり、1890年(明治23年)11月、裁判所構成法の施行により廃官となった[1][2]。また玖島銀行頭取に就任した[3][4]。 1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙(長崎県第1区、旧鶴)では次点で落選したが[5]、1892年(明治25年)2月の第2回総選挙(長崎県第1区、中央交渉会)で当選し[1][5]、その後、議員倶楽部に所属し衆議院議員に1期在任した[3][4]。 1898年(明治31年)2月、家督を養子英二郎に譲り隠退した[1][2]。1910年3月、病のため大串村で死去した[2]。 出典[編集] ^ a b c d e f g h i

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人生の阿呆 – Wikipedia

『人生の阿呆』(じんせいのあほう)は、木々高太郎の長編推理小説。『新青年』1936年(昭和11年)1月号(第16巻第1号)から5月号(第6号)にかけて連載され、同年、版画社より刊行された。著者の処女長篇にして代表作の1つ。志賀博士シリーズの一篇で、第4回(1936年下半期)直木賞受賞作品。 単行本として刊行された際に、著者の提唱する探偵小説芸術論が巻頭に掲げられている。 木々高太郎の最初の長篇で、処女作『網膜脈視症』の発表から1年ほどで着手されたものである。単行本に収められた著者の探偵小説芸術論によると そして、自分で作家として歩み始めてから、この一隻眼を以って眺めると、彼には可なり不思議と思はれる、現象がみられるのである。 それは、彼が既に読者であった間に、幾度か疑問を起し、幾度かその疑問に答へてゐた、探偵小説の本質に関する問題であった。日本の探偵小説壇には、まだまだ、探偵小説非芸術論の盛んであることであった。尤も、斯く言へば、欧米の探偵小説壇においても、亦同じである。探偵小説は文学でも、芸術でもないと言ふ、探偵実話や、犯罪実話からの出現を、まだ忘れることの出来ない、それを、まだ克服することの出来ない、説が、威を振ってゐることであった。 (中略) 此のやうな思想は、最もナイーヴには、探偵小説は、一度読まれて、そして直ちに捨てられるものであったはならぬ、と言ふテーゼとして言ひ表される。月々の雑誌で読み捨てられ、読んでゐるうちは面白いが、二度と読む気がしない、探偵実話や探偵記事と、同じものであってはならぬ、と言ふ思想から来てゐる。探偵小説も、正に、純文学の小説、酌みて尽きざる、芸術でなくてはならぬ、と言ふ思想から来てゐる。斯く言へば人は、その思想を追ひつめてゆけば、探偵小説は無くなって、純文學へ帰して了ひはせぬか、と言ふであらう。否、断じて否。探偵小説は、一定の条件(形式)をそなへた文学である。詩歌が一定の条件を持ち、戯曲が、一定の条件を持つのと、同じである。而も、詩歌や戯曲は、その条件が、完全に美しく、充されれば充たさるる程、文学としてすぐれて来るのであって、決して、遂にこれが同じ一つの形式に、帰一して了ひはせぬのである。同じやうに、探偵小説は、その条件が充されれば充たさるる程、すぐれた文学となるのであって、斯くして、益々芸術となるのである。 (中略) 我等は欧米の風のみを、至上の風とする必要はない。探偵小説の至上の形式は、探偵小説芸術論の思想より出でて、我等の手によって、却って欧米に教えることになるにしても恐るるに及ばぬではないか[1] 以上のような抱負の実践として描かれたのが、『人生の阿呆』である。そして、その描写について、主人公の良吉青年の純粋の体験描写を用いたと述べている。 由来、探偵小説は、凡ての人物を現実描写(客観描写)で描かねばならぬと言ふのが、従来の形式であり、若し、体験描写を許すならば、それは、単なるワトソンとして描かなければならぬと言ふのが、ドイル=ヴァン・ダインの法則である[1] この金科玉条に反逆の一矢を放ったものだとも述べている。 あらすじ[編集] 実業家、比良良三は息子の良吉の非行を嘆いていた。それは彼が父親の借金返済のため仕事に忙しく、子育てを良吉の祖母である母親に任せっきりにしてしまったことが原因と思っており、女中の敏やが良吉の子を宿してしまったと思いこんでしまった。そこで、良吉を二三年外国へ留学させようということになり、シベリア行きの列車でヨーロッパへ行かされることになった。良吉は11月10日に東京を出発し、13日にはウラジオストックからソビエト連邦へ行こうと決めていた。 ところが、11月1日に、本郷に住んでいるある会社員の娘がストリキニーネで毒殺されたというニュースがあり、その娘が父の会社で扱っている比良カシウの小函を握っていたということを知った。もしもこのことが比良家に関係があるのなら、良吉の留学も無期延期になると思い、良吉は11月3日に出発することに変更した。 翌日、祖母は脳貧血の発作で倒れたが、そのどさくさに紛れて、祖母の愛蔵していた祖父の形見のピストルが盗まれた。良吉が持っていったのではないか、と皆が疑う中、11月5日に前述の毒殺事件と同様の老婆変死事件が起こり、警察は法医学者の小山田博士の判断を仰ぐことになった。さらに翌朝、代々木の比良邸を訪ねた一行は、そこで、無産党の弁護士、高岡日出夫の射殺死体を発見した。捜査の中で、高岡が比良家に怨みを持っていることが判明し、良吉の名前が最有力な容疑者として挙げられた。 その頃、良吉はモスクワで、かつての恋人で、高岡の姪にあたる既婚者の加賀美達子と再会していた。 登場人物[編集] 比良良吉(ひら りょうきち)

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