瞑想 – Wikipedia
「メディテーション」はこの項目へ転送されています。杏里のアルバムについては「meditation」をご覧ください。 「冥想」はこの項目へ転送されています。細川俊夫の曲については「冥想 (細川俊夫)」をご覧ください。 瞑想、冥想(めいそう、英: meditation、英: contemplation)とは、心を静めて無心になること、何も考えずリラックスすること、心を静めて神に祈ったり、何かに心を集中させること、目を閉じて深く静かに思いをめぐらすことなどとされている。各々の宗教の伝統や修行の段階、目的等により内容は様々である。本来は冥想と書くと思われる。この呼称は、単に心身の静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、絶対者(神)をありありと体感したり、究極の智慧を得るようなものまで、広い範囲に用いられる。現代では、健康の向上や心理的治療、自己成長、自己向上などの世俗的な目的をもって、様々な瞑想が行われている。 瞑想と呼ばれるものは非常に多様であり、静かに座って行うものや、一部のヨーガのように様々な体位を取るもの、集団で母音を低い声で続けて発する倍音声明(Overtone chanting)[注釈 1]のように声を用いるものもある。太極拳やスーフィーの旋回舞踊ダーヴィッシュ・ダンスのように動きながら行うものを含むという見解もあり、武道や舞踊の修行・実践や滝行に瞑想を見出す人もいる。瞑想は数えきれないほどのスタイルが存在し、集中の仕方も、特定の対象に集中するもの(ヨーガ等)、ある対象に注意を向けるが、雑念が生じれば意識をそちらに向け、また元に戻すというやり方のもの(ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネス等)、特定の対象に注意を向けないもの(禅等)と多様である。瞑想を「想像力とイメージの駆使ないしは推理能力の使用によって、特定の主題・対象について深く省察すること」(meditation)と考えれば、座禅は瞑想ではないが、瞑想がより高次の段階に進み「想像力やイメージに頼らず、対象的に省察することもしない」(contemplation)ものまで含み、むしろこちらが瞑想の本質であると考えれば、座禅も瞑想であると言える[9]。。各々の瞑想は宗教や信念、価値観、生き方と深くかかわる歴史を持ち、そうした文脈から瞑想を切り離して単体として考えることは難しく、定義は困難を伴う。瞑想を広い意味での感覚減弱(脱感作)の技法ととらえようとする研究もあるが、明白に瞑想ではない感覚減弱の技法もあり、心身への効果から瞑想を定義することは難しい。 精神科医の安藤治は、アメリカを中心とする西洋の瞑想(meditation)研究を紹介する『瞑想の精神医学』で、「伝統的により高度な意識状態あるいはより高度な健康とされる状態を引き出すため、精神的プロセスを整えることを目的とする注意の意識的訓練のことであるが、現代においてはリラクセーションを目的としたり、ある種の心理的治療を目的として行われることもある」と定義している。「通常の意識状態、通常の健康よりも優れた」という価値の設定は、現在一般に認められている世界観、考え方の枠組み、科学的世界観をはみ出しており、こういった常識や科学と対立する価値を認めることを避け、瞑想を「変性意識状態」として位置付ける見方もある。上智大学グリーフケア研究所の葛西賢太は、瞑想を「日常生活の諸問題の整理や見直し、再活性化を意図して、日常の時間の中に、一定の時間を区切って、通常とは違う意識状態に自覚的に切り替えること、また、その方法」と定義している。葛西賢太は、通常意識状態と変性意識状態の往来を「意識変容」と呼び、「意識変容を自覚しているマインドフルな状態」を瞑想の基本的な状態(瞑想的意識状態)であると考え、この定義に当てはまるすべての行為を広い意味で瞑想ととらえることを提案している。 瞑想の具体的効用として、感情の制御、集中力の向上、気分の改善等の日常的な事柄から、瞑想以外では到達不可能な深い自己洞察や対象認知、智慧の発現、さらには悟り・解脱の完成まで広く知られる。瞑想による特異な体験として、「変化しやすい強烈な感情、深いリラクセーションと高度の覚醒、知覚の明晰さの高まり、心理的プロセスや心理的移動説への感受性の向上、身体を含めた対象物の知覚に関する変化や流動性の増加(対象恒常性の減少)、精神的コントロールの困難さに対する自覚、特に集中力を失わず、空想に陥らないようにすることのむずかしさの自覚、時間の感覚の変化、変性意識、他者との一体化の体験、防御心の減少、体験への開放性」などがある。 宗教学者の鎌田東二は、狩猟・漁猟を行っていた人々が、その技術を向上させるために修練し、それが武術や武道、スポーツとなり、また宗教的な行や瞑想になっていったと考える。生きるためには食べる必要があり、人は生きるために命を殺害するが、人にとって命を食べることは、命がけの宗教的・呪術的行為であった。狩猟は命の交換の行為であり、狩猟民は、命がけで動物たちとの戦いに挑み、その中で自然への畏怖の気持ちを高め、同時に恐ろしい動物を前にしても立ち向かうことができるよう、自己をコントロールし、動物と戦うために自己と戦わなければならなかった。鎌田東二は、このような心のコントロール・制御の方法を開発する道程から、夢見法や瞑想、観想が生まれ、さらにそのような集中や制御が、止観や禅を生み、山を歩き走ることが、山岳跋渉や修験道を生んだと考える。 あるがままを観察し、受け入れるという東洋の思想は、1960年代にアメリカのヒッピーたちが注目し、彼らは精神的な成長を求め、ヒンドゥー教由来でインド人導師マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーが広めた超越瞑想や日本の禅仏教を学び、アメリカや東南アジアで修業をした。20世紀のアメリカでは、裕福な階級は精神療法(サイコ・セラピー)を精神病の治療だけでなく精神の健康にも活用していたが、1960年代後半に起こったヒューマンポテンシャル運動では、ゲシュタルト心理学などの人間性心理学と精神療法が結びついて一般に広まり、自己実現や自己成長の手段として重視された。この運動の代表的な人物である禅の研究者アラン・ワッツは、東洋の宗教における修行と西洋の精神療法とを同様のものと考えて、瞑想が精神療法の文脈の中に取り入れられた。このことが、今日の一般での瞑想の実践や研究に大きな影響を与えていると考えられており、西洋で瞑想は実利的な健康法、セラピーとして広く活用されている。1970年代には、科学者を志す若者たちが東南アジアやインドで瞑想の修行をするようになり、アメリカに戻って瞑想研究や普及活動をした。インド人導師バグワン・シュリ・ラジニーシは、同時代にアメリカで活動し現代人向けに多くの瞑想法を開発したが、瞑想の最終的な目的は絶えず観照者にとどまる事であり[19]、気づきを生の本質とすることが瞑想であると語った[19]。80年代になると、徐々に科学的研究が発表され、瞑想する環境も整い、瞑想は広まっていった。 安藤治は、瞑想はセラピーと言われることもあるが、精神的な病の治療を目指す精神療法ではなく、自己超越を促進する方法のひとつであると述べている。治療する病気や患者を適切に選べば、瞑想の副次的な効果を臨床において補助的に用いることは大いに有用である可能性がある。精神療法が大衆化し、瞑想がセラピーの場に取り入れられたことで、精神療法・瞑想の語は、元来の意味よりやや大雑把に使われるようになった。 ヒューマンポテンシャル運動を引き継いだニューエイジでは、悪を幻影と見なして障害やネガティブ性を完全に否定し、人間の脳の無限の可能性や脳と宇宙エネルギーとの関係が信じられ、ヨーガ、レイキ、太極拳、自己啓発セミナー、禅、合気道、超越瞑想などが霊的な成長をサポートするセラピーとして行われた。超能力を覚醒させることを目指すシルバメソッド等、自己啓発セミナーでも瞑想が利用されている。 西洋では、瞑想による血圧降下作用などの特殊な生理学的効果が注目され、自己コントロールやリラクセーション法として研究されるようになった。 アメリカでは、医学者のジョン・カバット・ジンが、仏教で悟りに至るための実践の一つで、今この瞬間に注意深くあり、判断せずにそれを受け入れるというマインドフルネス瞑想を医療化し、マインドフルネスストレス低減法を考案して慢性疼痛の患者の治療に活用し、その適応範囲はうつ病、不安症、摂食障害、不眠症などの精神疾患へと広がっていった。瞑想を科学的研究の対象とするために、宗教的側面を整理してそぎ落とし、定義し直したことで、瞑想研究は飛躍的に進み、2000年以降には、脳科学者の瞑想研究も増加し、瞑想熟練者でなくともマインドフルネス瞑想のトレーニングで脳の活動が変化するという科学的知見が示され大きな衝撃を与え、2000年代にはネットを通じてマインドフルネスという言葉が広まっていった。教育や福祉、職場のメンタルヘルスの向上のためにも用いられるようになり、アメリカでは2010年以降、ビジネスパーソン向けのマインドフルネスのワークショップが企業内外で開催され、Google や Facebook で導入されたことでも注目を集めた。感情のコントロールや職場の満足感の向上への効果が示され、2014年には『TIME』誌で特集も組まれた。世俗的なマインドフルネスは、仏教的マインドフルネスにあった真理との関係を切り離して調整されており、都合よく切り詰められたマインドフルネスの「去勢」がもたらす問題を指摘する声もある。
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