ビルヘン・ブランカ広場 – Wikipedia

ビルヘン・ブランカ広場(スペイン語: Plaza de la Virgen Blanca, 英語: Virgen Blanca Square)は、スペイン・バスク自治州・アラバ県・ビトリア=ガステイスの中心部にある広場である。バスク語ではアンドレ・マリア・スリアレン広場(バスク語: Andre Maria Zuriaren Plaza)。建設年代が新しいスペイン広場(新広場)と対比して旧広場とも呼ばれる。 中世からこの広場はビトリア=ガステイスの中心地であり、闘牛が行われたり、食料品市場があった。スペイン独立戦争中の1813年6月21日に行われたビトリアの戦いの勝利を記念し、ビルヘン・ブランカ広場の中央部にはビトリアの戦いのモニュメントが飾られている。18世紀末にはビトリア=ガステイス出身の建築家フスト・アントニオ・デ・オラギベルによって、隣接した場所にスペイン広場が建設された。ビルヘン・ブランカ広場は旧広場、スペイン広場は新広場とも呼ばれ、スペイン広場の完成後もビルヘン・ブランカ広場は待ち合わせ場所として使用されている。2007年には中央部にあった花壇が除去されて噴水が設置された。ビルヘン・ブランカ広場は旧市街の入口にあたり、中世からの旧市街と19世紀末に拡大した新市街とをつないでいる。旧市街にはサンタ・マリア大聖堂(英語版)、サン・ミゲル・デ・アルカンヘル教会、ドーニャ・オチャンダの塔(スペイン語版)などの歴史的建造物が残されている。2014年8月には広場で世界最大のトルティージャを作るイベントが開催された。精巧なコンピューター計算で熱さや焼き具合などを制御し、1,600kgのジャガイモ、16,000個の卵、150リットルのオリーブオイル、26kgのタマネギ、15kgの塩を使って作られたトルティージャは、直径520cm、厚さ7cm、重さ1.5トン(厚さのみは平均的なトルティージャと同じ)にもなった[1]。 ビルヘン・ブランカ祭[編集] 1884年にはビトリア=ガステイスの守護聖人であるビルヘン・ブランカを称えるビルヘン・ブランカ祭(英語版)がビルヘン・ブランカ広場を中心として初開催された。ビルヘン・ブランカ祭は毎年8月4日から8月9日に行われ、最終日がビルヘン・ブランカの日である。ハイ・アライ(バスク・ペロータ)などバスクの伝統的スポーツ、市外からもアーティストを招いたコンサート、スペイン広場から闘牛場までのパレードなどが行われる。 外部リンク[編集] 座標: 北緯42度50分48秒

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ケルン中央駅 – Wikipedia

ケルン中央駅(ケルンちゅうおうえき、ドイツ語: Köln Hauptbahnhof)はドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州ケルン行政管区ケルンにあるドイツ鉄道の主要鉄道駅である。主要都市と結ばれ、フランクフルト・アム・マインとはケルン南部から始まるケルン-ライン=マイン高速線を介し、ICEが高頻度で運行されている。 ライン川右岸からの列車は、3複線のホーエンツォレルン橋を渡り、続く急カーブを曲がりながら進入する。 プラットフォームから見た大聖堂 ケルン中央駅は1859年にライン川にかかるドーム橋の開通と同時に開業する。当時、ケルンには5社の鉄道会社があった。ケルンにどのように駅を造るかなどがいろいろと議論の対象となっていた。駅の容量が一杯になり、拡張が決定すると1894年にジョージ・フレンツェン設計のゴシック様式の新駅舎が誕生する。プラットフォームの数も増え、規模も拡大し中央駅としての体裁を整えた。 ケルン中央駅の発展とともにドーム橋では不十分となり、1911年、同じ位置にホーエンツォレルン橋が架けられた。 第二次世界大戦中の1944年に爆撃の被害に遭い見るも無残な姿になってしまったが、戦後大規模な改築工事が5年間の期間でなされ、1957年に現駅舎が誕生する。ケルン中央駅のホームはドイツ一美しいと言われる場合もあり、ライン川に向かって狭まっていくのを解決するため、左右対称の曲線ではなく、幾何学的なデザインが採用されている。また、ケルン大聖堂との調和を計るために様々な考慮がなされた。フランクフルト・アム・マインへの高速新線開業に向け駅の改修工事も進められた。 略史[編集] 通過式構造で11線の線路が敷かれており、規模の割りにコンパクトにまとまっている。 利用状況[編集] 一日当たりの利用客数は25万人でハノーファー中央駅やデュッセルドルフ中央駅などと同規模の旅客数でドイツでも有数の旅客駅であり、21あるカテゴリー1の駅のうちの一つでもある。 列車系統[編集] 長距離列車[編集] ICE-Line 41 (オーバーハウゼン -)(ドルトムント – エッセン

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カーバー郡 (ミネソタ州) – Wikipedia

カーバー郡(英: Carver County)は、アメリカ合衆国ミネソタ州の中央部南に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は91,042人であり、2000年の70,205人から29.7%増加した[1]。郡庁所在地はチャスカ市(人口23,770人[2])であり、同郡で人口最大の都市でもある。カーバー郡は探検家ジョナサン・カーバーに因んで名付けられた。ミネアポリス・セントポール市大都市圏に属している。 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は376.15平方マイル (974.2 km2)であり、このうち陸地357.04平方マイル (924.7 km2)、水域は19.11平方マイル (49.5 km2)で水域率は5.08%である[3]。 湖[編集] カーバー郡には52の湖がある。 主要高規格道路[編集] 隣接する郡[編集] 国立保護地域[編集] ミネソタバレー国立野生生物保護区(部分) 人口動態[編集] 人口推移 年 人口

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ドリフトシティ – Wikipedia

ドリフトシティ(Drift City)(旧称及び韓国名 Skid Rush(スキッドラッシュ:스키드러쉬))は、韓国NPLUTO社開発(2016年5月現在、著作権表示はMasang Softとなっている)、アラリオ社の運営によりサービスされている多人数プレイ型アクションゲーム。種類としてはMMORPGに属する。日本では2008年より開始し、2021年4月30日をもってサービス終了した[1]。 日本仕様は2009年7月30日のアップグレードで『ドリフトシティ・ブースト』[2]とタイトル名の変更が行われたが、2011年11月24日のアップデートを以て『ドリフトシティ・エボリューション』[3]へと更なるタイトル変更が行われた。 なお、アメリカ・ドイツ、台湾、タイにおいても展開されており、2011年4月6日にサービス終了した韓国仕様の名称は「スキッドラッシュ[4]」、台湾名は「極速快車手」である。タイ名は「DriftSTREET」である。 あらすじ[編集] 人類最後のエネルギー資源、ミトロンが太平洋の真ん中にある無人島で発見された。この通称“ミトロン島”(正式名:エマリオン島)[5]には都市やO.M.D.(Organization for Mittron Development)という国境を越えた政府組織が作られ、島は急速な発展を遂げた。 しかし、謎の無人車両”HUV(エイチ・ユー・ヴイ…High-tech Unmanned Vehicle)“が出現。島のあらゆる場所を暴走し、ミトロン採掘を脅かした。ミトロン島では武器の使用が条約により禁じられているため、銃火器を使っての検挙が出来ない。一計を案じた政府のジェイソン局長は、世界中から腕に覚えのあるドライバーを集め、自車を衝突させてHUVを検挙するOMDドライバー(=プレイヤー)に任命し、HUVの制圧を狙う。 かくして多くのドライバー達が金と名誉を求めミトロン島に集結した。 あらすじ(NEO)[編集] ヤコブ総帥が何者かに暗殺され、さらに世界連合がOMD政府に対して挑発をしてきた。 これを重く見たジェイソン総裁代理はNEO OMD政府を樹立した。

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ドラムブレーキ – Wikipedia

オートバイ用のドラムブレーキを分解したところ. 自動車用のドラムブレーキの内部(リーディング・トレーリング式) ドラムブレーキ(英: drum brake)は、軸とともに回転する円筒形状の部材(ドラム)に制輪子(ブレーキシュー)を押し付けて、制動力や拘束力を得るブレーキの一種である。 ドラムブレーキ内部の図。左右にシューがあり、下端がピボットに固定されているので上側がトーとなる。ドラム(上図には描かれていない)が反時計回りの場合、左のシューがリーディングシューとなる。 ドラムブレーキの方式は大きく分けると、ドラムの外側にシューを押しつける外接式と内側に押しつける内接式、ならびに外側と内側の両方に押しつける内外接式の3種類がある。外接式は船舶の舫い綱や漁網を巻き上げるウインチに利用例があり、内接式は自動車やオートバイの車輪に利用例がある。ブレーキシューは一端が揺動軸として回転可能に保持され、他端に油圧やカム、リンク機構を介して荷重を与え、ドラムに押し付けられる。シューの揺動軸に固定された側はヒール(英: heel)、油圧などで荷重を与えられる側はトー (英: toe) と呼ぶ。ドラムの摺動面がトーからヒールへ向かう方向に回転するとき、シューにかかる摩擦力がシューを押しつける方向に作用する偶力として働く。これによりブレーキを作動させる荷重以上の垂直抗力が加わり、より高い摩擦力が発生する。これを自己倍力作用と呼ぶ。一方、逆方向に回転すると、シューを離す方向に作用する偶力が生じ、摩擦力は弱くなる。自己倍力作用により、円板を側面から挟むディスクブレーキや車輪を側面から挟む方式のブレーキと比較すると、低い作動力で高い制動力、拘束力を生むことができる。 車両での利用[編集] 内接式ドラムブレーキは自動車やオートバイなど陸上を走行する輸送機械の車輪を制動するブレーキに広く用いられる方式の1つで、一部の鉄道車両や路面電車にも採用例がある。自動車用としては他にディスクブレーキが普及しているが、ディスクブレーキよりも小型、軽量で、製造コストが低いほか、自己倍力作用を持ち、拘束力が高い利点がある[1][2]。一方で、ブレーキドラムの内部に水分が入った場合に制動力が低下し、乾燥するまでの回復が遅いことや、ディスクブレーキよりも放熱性が悪く、コントロール性が低い欠点がある[1][3]。ドラムブレーキの放熱性(耐フェード性)を向上するために、ドラムを軽量なアルミ製にしたり、それに加えて放熱フィンを設けたアルフィンドラム(英: alfin brake drum)などが採用される例があった[4]。アルミ鋳造によるドラムの内側摺動面に鋼製の円筒を鋳込んで耐摩耗性(寿命)、強度、剛性を確保した構造が採られ、日本車では1960年代までのスポーツカーや高級車に採用された[4]。 古くは乗用車や小型貨物車でも4輪(総輪)にドラムブレーキを採用した車種が一般的であったが、動力性能の向上やユーザーニーズの高度化に伴ってディスクブレーキに置き換えられ、前輪は多くの車種でディスクブレーキが採用されるようになった。日本車において大型車を除く4輪(総輪)にドラムブレーキを採用した最後の車種は普通車では1979年11月から1993年6月まで生産された日産・ブルーバード(910型系の営業車シリーズのみ)、軽自動車では1996年3月から2001年3月まで生産されたダイハツ・ミゼットIIであった。低廉な乗用車や小型貨物車では後輪ブレーキがパーキングブレーキを兼ねていることから、拘束力の高いドラムブレーキが一般的である。また、車両総重量の大きな大型のトラックやバスではドラムブレーキの利点が重視されて、2020年現在では除雪車等のごく一部の特殊車両を除くほとんどの車両に総輪(ベンチレーテッド)ディスクブレーキを標準で採用する2代目UD・クオンを除くすべての車輪で採用されている。4輪にディスクブレーキを採用する乗用車のうち、比較的車重が大きな車種では、ディスクブレーキによるパーキングブレーキでは拘束力が不足することから、後輪ディスクブレーキの内側にパーキングブレーキ専用の機械式ドラムブレーキを内蔵する、ドラム・イン・ディスク式あるいはインナードラム式と呼ばれる方式が採用される例もある。かつての中型・大型トラックやクロスカントリータイプの四輪駆動車では、プロペラシャフトにドラムブレーキを配置してパーキングブレーキとしていた。 オートバイも乗用車と同様に、1970年代までは前後輪共に機械式ドラムブレーキを採用することが一般的だったが、前輪は多くの車種で油圧式ディスクブレーキに置き換わり、高い動力性能を持つ車種では後輪にもディスクブレーキが採用されるようになった。ドラムブレーキは機械式のまま据え置かれ、低廉で小型の車種では現在でも前後輪にドラムブレーキが採用されているものが多い。 路面電車では1950年代後半から1960年代にかけて、弾性車輪を装備して製作された高性能車両に採用例がある。弾性車輪は防音や防振のために車輪の輪心部とタイヤ部との間にゴムの緩衝材を組み込んだものであったが、高い動力性能を持った車両を制動するために踏面ブレーキを連続的に使用すると、発熱して緩衝材を締結するボルトが緩む問題が生じた。高加速性能に見合った高いブレーキ性能を確保するため、踏面ブレーキに代わって車輪に熱を伝えないドラムブレーキが採用された。 動作機構にはカムでシューの一端を押し広げる場合と、油圧や空圧を利用したシリンダで押し広げる場合とがある。カムを利用した動作機構は、カムの軸を回転させるレバーの端をコントロールケーブルで引いてブレーキを動作させる。自動車のパーキングブレーキや、オートバイのブレーキで広く用いられている。シリンダを利用した動作機構ではこのシリンダをホイールシリンダと呼び、ピストンの軸力を直接シューの一端に与えて動作させる。ホイールシリンダはドラムブレーキの基部であるバックプレートに固定される場合と、一方のシューに浮動支持される場合とがある。自動車のフットブレーキで用いられる場合が多い。

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源伴存 – Wikipedia

源 伴存(みなもと ともあり、寛政4年(1792年)3月 – 安政6年6月18日(1859年7月17日))は、江戸時代後期紀州藩の本草学者・博物学者・藩医。翠山、翠嶽、紫藤園などと号し、通称十兵衛。畔田 伴存(くろだ ともあり)、畔田 翠山(くろだ すいざん)、畔田 十兵衛などとも。『和州吉野郡群山記』『古名録』をはじめとする博物学の著作を遺した。 源伴存は寛政4年(1792年)、現在の和歌山市に下級藩士の畔田十兵衛の子として生まれた。若いときから学問に長じ、本居大平に国学と歌学、藩の本草家で小野蘭山の高弟であった小原桃洞に本草学を学んだ。父と同様、家禄20石の身分であったが、時の藩主・徳川治宝に学識を認められ、藩医や、紀の川河畔にあった藩の薬草園管理の任をつとめた。 薬草園管理の任にあることで研究のための余暇を得たとはいえ、20石のわずかな禄では書物の購入や研究旅行も意のままにはならない。こうした伴存の境遇を経済面で支援したのが、和歌山の商人の雑賀屋長兵衛であった。長兵衛は、歌人としては安田長穂として知られる人物で、学者のパトロンをたびたびつとめた篤志家であった[1]。 また、伴存自身は地方の一学者でしかなかったが、蘭山没後の京都における本草家のひとりとして名声のあった山本沈三郎との交流があった。沈三郎は、京都の本草名家である山本亡羊の子で、山本家には本草学の膨大な蔵書があった。沈三郎は、弘化2年(1845年)に伴存の存命中に唯一刊行された著書『紫藤園攷証』甲集にふれて感銘を受け、それ以来、伴存との交流があった[2]。この交流を通じて、伴存は本草学の広範な文献に接することができた。 このように、理解ある藩主に恵まれたことや良きパトロンを得られたこと、さらに識見ある先達との交流を得られたことは、伴存の学問の大成に大きく影響した[3]。 伴存は、自らのフィールドワークと古今の文献渉猟を駆使して、25部以上・約290巻にも及ぶ多数の著作を著した[4]が、その業績の本質は本草学と言うよりも博物学である[5]。文政5年(1822年)に加賀国白山に赴き、その足で北越をめぐり、立山にも登って採集・調査を行った。山口藤次郎による評伝では、その他にも「東は甲信から西は防長」まで足を伸ばしたと述べられているが、その裏付けは確かではなく[6]、伴存の足跡として確かなのは白山や立山を含む北越、自身の藩国である紀伊国の他は、大和国、河内国、和泉国といった畿内諸国のみである[7]。 その後の伴存は、自藩領を中心として紀伊半島での採集・調査を続け、多くの成果を挙げた。代表的著作である『和州吉野郡群山記』も、その中のひとつである。安政6年(1859年)、伴存は熊野地方での調査中に倒れて客死し、同地の本宮(田辺市本宮町)にて葬られた[8]。 伴存の著作の特徴となるのは、ある地域を限定し、その地域の地誌を明らかにしようとした点にある。その成果として『白山草木志』、『北越卉牒』、『紀南六郡志』、『熊野物産初志』『野山草木通志』(高野山)、そして伴存の代表的著作『和州吉野郡群山記』がある。特に紀伊国では広範囲に及ぶ調査を行い、その中には、日本で最初と見られる水産動物誌『水族志』、貝類図鑑『三千介図』がある[9]。代表的著作である『熊野物産初誌』『和州吉野郡群山記』もそうした成果のひとつである。『和州吉野郡群山記』は、大峯山、大台ヶ原山、十津川や北山川流域の地理や民俗、自然を詳細に記述したもので、内容は正確かつ精密である[4]。その他にも、本草学では『綱目注疏』、『綱目外異名疏』、名物学では全85巻からなる『古名録』や『紫藤園攷証』があり、伴存の学識を知ることが出来る[9]。 前述のように、伴存は生涯にわたってフィールドワークを好んだだけでなく、広範な文献を渉猟した。ことに古今和漢の文献の駆使とそれにもとづく考証においては、蘭山はもとより、他の本草学者の比にならないほどの質量と専門性を示すことは特筆に価する[10]。また、伴存の博物学的業績を特徴付けるのは、調査地域での記録として写生図だけでなく標本を作成した分類学的手法[11]である。その標本は、伴存の門人で大阪の堀田龍之介の手に渡り、後に堀田の子孫から大阪市立自然史博物館に寄贈された。これらの標本を現代の分類学から再検討することは行われていないが、紀伊山地の植物誌研究にとって重要な資料となりうるものである[11]。 伴存は以上のように大きな業績を残したが、生前に公刊した著作はわずか1冊のみであった。また、実子は父の志を継ぐことなく廃藩置県後に零落、1905年(明治38年)に不慮の死を遂げ、家系は途絶えた。伴存は堀田龍之介と栗山修太郎という2人の門人を持ったが、栗山の事跡は今日にはほとんど何も知られていない[12]。堀田は、伴存と山本沈三郎との交流の仲立ちに功があった[2]が、本草学者・博物学者としてはあくまでアマチュアの好事家の域にとどまった[12]。こうしたこともあって、伴存は江戸末期から明治初期にかけて忘れさられただけでなく、第二次大戦後に至っても本名と号とでそれぞれ別人であるかのように扱われることさえあった[13]。 伴存が再発見されたのは全くの偶然で、1877年(明治10年)、東京の愛書家・宍戸昌が古書店で『水族志』稿を入手したことに始まる。著者名は「紀藩源伴存」とあるだけで、何者とも知れなかったが、翌年に大阪で宍戸が堀田に見せたところ、その来歴が判明したのであった[14]。後に田中芳男がこのことを知り、宍戸に勧めて、1884年(明治17年)に『水族志』が刊行された。田中はまた、『古名録』の出版にもつとめ、1885年(明治18年)から1890年(明治23年)に刊行した。『古名録』の刊行にあたっては、白井光太郎が和歌を寄せたほか、南方熊楠も伴存の学識を賞賛する一文を寄せている[15]。

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至福の教え – Wikipedia

至福の教え(しふくのおしえ、英語: The Beatitudes)はイエス・キリストが「山上の教え」の冒頭で、真の幸福とは何かを語ったもの。 「至福の教え」は彼とその弟子たちの教えを記録した『新約聖書』の中の「マタイによる福音書」の「山上の垂訓」の冒頭(5章)にある。 5章1節 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。 3 こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。 6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。 7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。 8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。 9

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項羽と劉邦/その愛と興亡 – Wikipedia

『項羽と劉邦/その愛と興亡』(こううとりゅうほう そのあいとこうぼう、原題:西楚覇王、楚漢争覇(2部構成))は、1994年製作、中国・香港合作の映画。監督は冼杞然(スティーヴン・シン)。総監修は張芸謀(チャン・イーモウ)。主演は鞏俐(コン・リー)、張豊毅(チャン・フォンイー)、呂良偉(レイ・ロイ)、關之琳(ロザムンド・クワン)。 古代中国の歴史上における悲劇の武将・項羽と、漢王室を開き初代皇帝となった劉邦という二人の英雄の姿を、呂雉をはじめとする女性たちの視点で描いた大河的作品。このドラマを書き上げたのは、張芸謀(チャン・イーモウ)監督作品『菊豆』の原作・脚本や『秋菊の物語』の脚本を手がけた劉恒(リウ・ホン)である。主人公の呂雉役を演じた鞏俐(コン・リー)は、エンドクレジットでは主題歌も担当し歌声を披露した。 中国本土での公開に際してはノー・カット版185分の超大作を上巻『西楚覇王』、下巻『楚漢争覇』の2部構成で公開。1996年にはこれを138分に編集した国際編集版が日本上陸し劇場公開され、のちビデオ化もされた。1997年には中国公開版が完全版として日本公開された。日本版DVDは182分のバージョン。 あらすじ[編集] 時は紀元前3世紀、秦王朝時代末期。陳勝・呉広の乱後、朝廷は弱体化の一途を辿り、圧政につぐ圧政で天下は疲弊していた。そうしたなか、父に愛されて育ち賢明な娘として評判の呂雉は、一介の亭長である劉邦に身を捧げ、劉邦は妻の支えを得て秦王朝打倒を掲げ挙兵を決意した。同じ頃、将軍・項梁は、武勇に優れた甥の項羽を従え懐王をおしたてて楚の地で蜂起し、秦兵と抗戦を続けた。そして鉅鹿の戦いの直前、呂雉たちは秦の軍勢に包囲され項羽の陣営に逃げ込み、そこで項羽に仕える純真な心の持ち主である虞美人という女性と出会うのである。自分には無い無垢な美しい姿の彼女に親しみを覚えた呂雉は虞美人と姉妹の契りを結ぶ。 決戦の日、項羽は秦軍の主力軍と応戦するが、秦軍もまた楚の都・彭城を襲撃し呂雉と虞美人はやむなく落ち延びて逃避行を続ける。やっとの思いで呂雉は夫の劉邦に救い出されるが虞美人は秦軍に捕えられ阿房宮へ軟禁されてしまう。項羽は死力を尽くして朝廷軍を討ち破り秦を滅ぼすが、その間に、劉邦は都を制圧してしまった……。 これにより劉邦に疑心をおぼえた項羽は鴻門で宴を開くが、劉邦は危険を察知し項羽をとりなして難局を切り抜ける。一度は義兄弟の契りを結んだ両者は一転して対立を深めてゆく。劉邦謀殺を一度断念した項羽は虞美人を救出するため阿房宮へ走るが、囚われた後に死んだと勘違いをした項羽は逆上のあまり宮殿に火をかけた。しかし、地下の牢獄につながれている真実を知るや、制止をふりきり業火の中へ飛び込み命がけで彼女を連れて戻った。その姿を目の当たりにした呂雉の胸の中にこみ上げたもの。それは愛する者に対して限りない情愛を傾ける項羽への危険な恋であった……。 外部リンク[編集]

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千里丘 – Wikipedia

千里丘(せんりおか)は、大阪府の摂津市北西部から吹田市東部にかけての地域名である。千里丘陵の南東端およびその麓に当たる。狭義の千里丘は麓側にある摂津市の町丁で、西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線(JR京都線)以北をおおよその範囲とする。摂津市千里丘一丁目には、同線の千里丘駅が所在する。 摂津市で「千里丘」の付く町丁には、千里丘、千里丘新町、千里丘東、南千里丘がある。 2021年9月末現在の各町丁の世帯数と人口は以下の通りである[1]。 町丁 世帯数 人口 千里丘 一丁目 573 973 二丁目 864 1,574 三丁目 439 862 四丁目 633 1,260 五丁目

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鹿児島県立甲南高等学校 – Wikipedia

この項目では、鹿児島県の高等学校について説明しています。その他の甲南高等学校については「甲南高等学校」をご覧ください。 正面玄関と本館(2007年夏撮影) 正面玄関と本館(旧塗装、1995年4月撮影) 鹿児島県立甲南高等学校(かごしまけんりつこうなんこうとうがっこう 英語: Kagoshima Prefectural Konan High School)は、鹿児島県鹿児島市上之園町にある県立高等学校である。旧制学校時代の鹿児島県立第二鹿児島中学校と鹿児島県立第二高等女学校はそれぞれ「二中(鹿児島二中)」「二高女」と通称された。 校訓 「剛・明・直」 「気高く・優しく・健やかに」 それぞれ、二中と二高女の校訓を受け継いでいる。 校章 甲南高校の校章は、二中の「鹿の角」と二高女の「撫子」を組み合わせて図案化したもので、当時校章制定委員会の長を務めていた美術部員が考案した[1]。 二中校章(鹿の角) 二高女校章(撫子) 新制鹿児島高等学校校章(両翼の羽) 甲南高校章(鹿の角に撫子)

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