ウンターアイゼスハイム – Wikipedia

ウンターアイゼスハイム (ドイツ語: Untereisesheim) は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州ハイルブロン郡に属す町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)。 ウンターアイゼスハイム付近を流れるネッカー川 ウンターアイゼスハイムはハイルブロンの北、ネッカー川の畔に位置する。 隣接する市町村[編集] ウンターアイゼスハイムに隣接する3つの市は、南から時計回りに、ネッカーズルム、バート・ヴィンプフェン、バート・フリードリヒスハルであり、いずれもハイルブロン郡に属す。ウンターアイゼスハイムは、ネッカーズルムおよびエアレンバッハとともに行政共同体を形成する。 ウンターアイゼスハイムは、767年のロルシュ文書に “Eisesheim” として初めて言及されている。1243年にアイゼスハイム家がヴァインスベルク家のレーエン領主としてこの地に入った。現在の町の紋章は、これに由来する。1461年にローマースハイム家がウンターアイゼスハイムを購入した。1529年に領主は、全領民に宗教改革をもたらした。 三十年戦争の時代、1622年5月6日、(バート・)ヴィンプフェンからウンターアイゼスハイム付近で、数千人の死者が出たヴィンプフェンの戦いがあった。カトリックのティリー伯が勝利を収め、バーデン=ドゥルラハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒらプロテスタント同盟軍は敗北、ヴュルテンベルク公ヨハン・フリードリヒの弟マグヌスまでがなくなった。1655年にこの村はヴュルテンベルク公に売却された。 1925年には、この村の人口は、わずか600人程度であった。1960年頃から大規模な工業用地が整備され、人口は飛躍的に増加していった。1959年に1,000人、1973年に2,000人、1985年に3,000人、そして2005年には4,000人に達した。1970年代の自治体再編時にもウンターアイゼスハイムは、独立した自治体を維持した。 宗教[編集] ウンターアイゼスハイムは宗教改革以来、伝統的にプロテスタントの町である。この町には独自の教会組織がある。カトリック教徒は、ネッカーズルムの聖ディオニシウス教会に属していた。1992年にこの町にもカトリックの教会堂ができた。 プロテスタントのクニベルト教会: 1738年創設。現在の建物は1945年以後に修復されたものである。 ケルター広場のカトリックの聖フランツィスクス教会: 1992年建造。 町役場近くの1893年に造られた村の泉

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東洋造船鉄工 – Wikipedia

東洋造船鉄工株式会社(とうようぞうせんてっこう)は、福岡県北九州市若松区に本社・造船所を置く造船・船舶修繕事業者である。 1919年(大正8年)に、創業者が当時の戸畑市で開業した造船所に起源を有する[1]。当初は若松港で使用される木造石炭艀の建造を手掛け、後に鋼製漁船主体となり、1990年代頃からは各種作業船の建造を行うようになった[1]。 現有施設は、1995年(平成7年)に拡張工事を完了し、一貫生産体制を整えた[2]。作業船・特殊作業船を中心とした700総トン以下の各種小型鋼船の建造及び、750総トン以下の内航船・漁船・官公庁船等の各種船舶の修繕を行っている[3][4][5]。北九州市営若戸渡船の旅客船くき丸の建造実績もある[3]。 海外では、中国大連市に現地法人を設立しており、船殻建造等を行っている[1][6]。 主要設備[編集] 新造船台:長さ90m×幅25m 建造能力700GT[7] 上架船台[7] 船台番号1:上架能力500GT 船台番号2:上架能力700GT 船台番号3:上架能力750GT 船台番号4:上架能力500GT クレーン[7] ジブクレーン:40-5t 4基 橋型クレーン:15t 2基 鋼製浮桟橋[7] 長さ25m×幅8m×水深5m 係留能力699GT

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分液漏斗 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “分液漏斗” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年10月) 使用例。上層と分離した下層の溶液を取り出すことができる。 分液漏斗の図。ただし、図では上層に有機層(oil)があるが、クロロホルムなどのように使用する溶媒の比重によっては下に来ることもある。 分液漏斗 (ぶんえきろうと、separating funnel)とは、上部投入口に栓を持ち、漏斗の足の付け根に二方コックを持った漏斗で、主としてガラスで作られた実験器具である。分液漏斗は互いに交じり合わない液体を分離するのに使用され、特に有機化学実験では反応操作の後処理において液液抽出操作することが多いので頻繁に使用される。分析化学でも微量元素の分析に溶媒抽出法を用いることがあるので、そちらでもよく使用される 抽出操作によって物質は分配係数にしたがって上層液あるいは下層液に一定の比率で分布するので、目的の物質を抽出尽くすには、その物質の分配係数が大きい液で繰り返し濯ぎ出す必要がある。すなわち水層に含まれる有機物を抽出する際には、同じ水層を新しい有機層を使って何度も分液操作することで目的の有機物を回収しつくす。この様に連続して分液操作を繰り返す必要がある為、工業的には分液漏斗の替わりに向流抽出装置などが使用されている 材質・形状[編集] 液を流去する際に液面が見える必要があるので、分液漏斗は透明な素材で作られることが多く、ガラスで作成されることが多い。栓は本体と同じ素材で作成されていることが多いが、コックについてはガラス製のものもあるしテフロン製の場合もある。上部の栓は液体を投入しやすいように広口の栓になっている場合も多く、大抵の場合は回転により開閉可能な空気穴がついている。分液漏斗の胴体は球形に近いものと円錐状に下に長い物とがある。円錐状のものはスキーブ式分液漏斗とも呼ばれる。球形に近いものの方が振盪させた際に効率よく液を振り混ぜることで出来る。一方、スキーブ式は液を流去する際に残存する下層液の容量が小さいので、小型の分液漏斗に良く見られる形状である。分液漏斗を静置する際は、切り欠けのあるリングに分液漏斗の胴体を引っ掛けて置かれるのが普通である。 操作方法[編集] 物質の分配は2つの液の界面においてのみ交換されるので、分液操作は分液漏斗を激しく振盪させて液同士を良く接触させる必要がある。振盪する際は、上部の栓と下部のコックは閉じておくが振盪による温度上昇などで分液漏斗内の圧力が変化するので、振盪中は上部の栓は掌で強く抑えて内圧により液が吹き出ないようにする必要があるし、一定時間振盪したあとは、液漏斗を倒置させ下部のコックを上に向けて開放することで分液漏斗内の圧力を戻す。 その後、分液漏斗を静置して2つの液が分離するのを待ってから、下層の液を二方コックを開いて漏斗の足の方から流去し、上層液は上部の栓の口から取り出すのが原則である。したがって上部の栓には回転により閉じることができる空気抜きの穴があけられているのが普通である。

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ブラゼイン – Wikipedia

ブラゼイン(Brazzein)は、アフリカ西部原産のアブラナ目の樹木ニシアフリカイチゴ(Pentadiplandra brazzeana、モノタイプ)の果実に含まれる甘味成分のタンパク質である。1994年にウィスコンシン大学マディソン校で酵素として初めて単離された[2]。 ブラゼインは、種子の周りのパルプ状組織の細胞外領域で見られる。 1989年に発見されたペンタジンに次いで、ブラゼインは、このアフリカの果実から発見された2つめの甘味タンパク質となった[3]。 モネリンやソーマチンのような他の天然の甘味タンパク質と同様に、非常に甘い(スクロースの500倍から2000倍)[4]。 果実はヒト、サル、ボノボにとっては甘く感じるが、ゴリラは甘味受容体に変異が生じているためブラゼインを甘く感じることはなく、果実を食用にすることも知られていない[5][6]。 伝統的な利用[編集] この植物はガボンやカメルーンに生育し、類人猿や現地の人間に長い間消費されてきた。果実は非常に甘く、幼児が母乳を忘れてしまうような味であるため、現地の人は、現地の言葉で”Oubli”(フランス語で「忘れた」の意味)と呼ぶ[7]。一度その実を食べると、母親に会うために村に帰るのを忘れてしまうと言われる[8]。 タンパク質の構造[編集] 54アミノ酸残基から構成されるモノマータンパク質は、甘味タンパク質の中で最小の、分子量6.5 kDaである[2]。Swiss-Protによるブラゼインのアミノ酸配列は、以下の通りである。 QDKCKKVYEN YPVSKCQLAN QCNYDCKLDK HARSGECFYD EKRNLQCICD YCEY[9] ブラゼインの構造は、pH 5.2、22℃の条件下で、核磁気共鳴で決定された。ブラゼインは、等間隔に配置された4つのジスルフィド結合を持ち、スルフヒドリル基は持たない。 ブラゼインの立体構造解析では、1つのαヘリックスと3つの逆平行βシートでできていることが示された。一見したところモネリンともソーマチンとの類似性はみられないが[10]、最近の研究により、これら3つのタンパク質は甘味を生じさせると考えられる類似した構造(”sweet

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ハネムーン・キラーズ – Wikipedia

『ハネムーン・キラーズ』(The Honeymoon Killers) は、1970年に製作されたレナード・カッスル監督・脚本のカルト映画である。 1940年代に実際に起こった連続殺人事件をベースに、ドキュメンタリー調のフィルム・ノワールに仕上がっている本作[1] 。オペラ作曲家という異色の経歴を持つレナード・カッスルが初監督を務めている。製作当初は、当時まだ若手映画監督だったマーティン・スコセッシが企画をすすめていた。1970年にアメリカ合衆国で公開され、徐々に人気が広まっていき30年経った2000年に日本でもようやく日の目を浴びた。2001年にはDVDとして発売もされ、数多くの映画ファンたちから賞賛を得ている。現在ではカルト映画として紹介されることが多いが、フランソワ・トリュフォーが『最も愛するアメリカ映画』とまで評した。『ディア・ハンター』のシャーリー・ストーラーと、『フレンチ・コネクション』のトニー・ロビアンコが実在したカップルのマーサとレイを演じている。今作以降、監督のレナード・カッスルは映画を撮っていない。 あらすじ[編集] 看護婦長であるマーサ・ベック(シャーリー・ストーラー)は恋人もおらず、母親と二人で質素に暮らしていた。そんなある日、マーサに見かねた友人は彼女に文通クラブへの入会を勧める。はじめは乗り気でなかったマーサだが、そんな彼女の元へ一通の手紙が届く。それはニューヨークに住むスペイン系移民のレイ・フェルナンデス(トニー・ロビアンコ)だった。自分にラブ・レターを送った相手に恋心を抱いたマーサはいざニューヨークへ。ようやくレイと対面するマーサだったが、そんなマーサにレイは自分が結婚詐欺師であることを告白する。そのことに多少のショックを覚えるマーサだったが、そんなレイについていくことを決意。母親との生活を捨て、マーサは“共犯者”としてレイの結婚詐欺に手を染めていき、やがてそれはエスカレートして殺人まで犯していく…。 スタッフ・キャスト[編集] キャスト[編集] スタッフ[編集] ^ “Seek More Victims of ‘Lonely Hearts’ Killers,” The

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上月城の戦い – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “上月城の戦い” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年2月) 上月城の戦い(こうづきじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)4月18日から同年7月3日まで播磨国上月城で毛利輝元と尼子勝久との間で行われた合戦である。 上月城は小城ながら播磨・美作・備前の三国の国境に位置する堅牢な山城で、毛利氏に属していた赤松政範および宇喜多直家が播州方面の軍事拠点としてこれを押さえ、毛利勢力圏の東方における事実上の最前線となっていた。しかし1577年(天正5年)、織田氏が中国攻略に着手し播州に入ると、羽柴秀吉の攻撃を受け陥落(第一次上月城の戦い)。尼子勝久を担ぐ山中幸盛(鹿介)ら、織田家に属していた尼子氏再興軍がこの上月城の防衛を任された。その後一時は宇喜多氏が反攻によって奪還するも、再度織田軍の手に落ちている。 しかし羽柴秀吉は上月城の奪取後も、表向きは織田氏に臣従しながらも、立場を明確にしない別所長治、小寺政職ら播州諸勢力の懐柔に手を焼いた。1578年(天正6年)2月もしくは3月、別所氏が毛利氏側へ離反すると、東播磨の諸豪族の大半がこれに同調し、別所氏の本拠・三木城の7500を中心に籠城戦の構えを取る(三木合戦)。一方、羽柴軍の進出によって大きく揺らぎ始めていた東方の勢力地盤を固め直すため、毛利氏も早急に大軍を派遣して別所氏を援護する必要に迫られていた。また、同時期に上洛行動を再開する予定であった同盟者の上杉謙信に呼応するという意図もあったと考えられる。 いずれにしても、この時点で織田氏・毛利氏の戦線における最重要拠点は三木城へと移り、両軍にとって上月城の戦略的価値は半ば失われたと言っても良い。 本来ならば毛利氏は即座に播磨に進入し、羽柴秀吉の本軍を背後から脅かすことで直接的に別所氏を支援するべきであったが、しかし当地における毛利軍の活動拠点を提供することになる宇喜多直家の要請を無視することができず(或いは播州での戦況が滞った際の退路を確保するため)、吉川元春・小早川隆景の毛利首脳は直家が求める上月城の再奪還に応じることで、間接的に羽柴軍を牽制するという形を取った。 同月、総大将の毛利輝元は吉田郡山城を出陣、山陽方面を担当する小早川隆景が三原城を出陣、山陰方面を担当する吉川元春も日野山城を出陣し、上月城攻略に向かった。備前の宇喜多直家は自らは出陣せず、弟の忠家を派遣。他に毛利・村上水軍が播磨灘に展開し、海上の封鎖も完了した。総動員兵力は3万以上とされ、播州・姫路城に駐留していた羽柴軍を遥かに凌ぐ規模であった。 合戦の経過[編集] 別所長治の離反、及び毛利本軍の出陣を受け、羽柴秀吉は直ちに織田信長へ援軍を要請。まず播州に近い摂津の荒木村重の軍が合流するが、毛利軍がどこに現れるかは不明なままであった。この間に秀吉はしきりに毛利軍の動向を探る傍ら、三木城の攻略を開始し支城の野口城を陥落させている。一方の毛利軍は輝元軍が戦線から遠い備中高松城に本陣を置き、吉川元春・小早川隆景ら主力が上月城へ進軍。4月18日に包囲を開始する(第二次上月城の戦い)。上月城を守るのは尼子勝久を総大将とする山中幸盛・尼子氏久・尼子通久・神西元通らの手勢2300〜3000にすぎなかった。 毛利軍が上月城に向かったとの報を受けた羽柴秀吉は、三木城の攻撃を継続させつつ、自らの手勢を率いて尼子軍支援のために高倉山に進出した。対して、圧倒的大軍で上月城を包囲した毛利軍だが、積極的に攻撃に出ようとはせず、陣城を構築し、深い空堀や塹壕を掘り、塀を巡らして柵や逆茂木で防備を固めるという徹底ぶりで、完璧なまでの防御線を敷く。さらに連日法螺貝や太鼓を鳴らし威嚇行動を行い、兵糧攻めで城兵の戦意を喪失させる方針を取った。 織田軍にはさらに織田信忠を総大将として滝川一益、佐久間信盛、明智光秀、丹羽長秀、細川藤孝といった顔ぶれの援軍が到着したが、信長の意図は三木城の攻略と毛利軍の足止めであり、神吉城・志方城・高砂城といった三木城の支城攻略に力を注いだ。このため秀吉も上月城に手を出すことはできず、後詰めの見込みがない尼子軍は絶望的な状況に立たされる。 これを見かねた秀吉は6月16日に京都へ向かい織田信長に指示を仰いだ。しかしあくまで播州平定を優先する信長の方針は変わらず、上月城の尼子軍は事実上の捨て駒として扱われた。やむを得ず高倉山の陣を引き払うことになった秀吉は尼子軍に上月城の放棄・脱出を促す書状を出したが、尼子主従はこれを黙殺し、徹底抗戦を選んだとされる。

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広学会 – Wikipedia

広学会(The Society for the Diffusion of Christian and General Knowledge Among the Chinese)はアメリカ・イギリスのキリスト教宣教師が中国に設立した出版機構。 1884年に成立した同文書会が前身で、1887年に上海で設立された。設立の発起人はロンドン宣教会の宣教師アレキサンダー・ウィリアムソンであり、ヤング・ジョン・アレン(林楽知)、ウィリアム・ミュアーヘッド(慕維廉)らが関わった。海関総税務司のロバート・ハート(赫徳)が初代会長となり、ウィリアムソンは総幹事として日常業務の責任者となった。1890年にウィリアムソンが死去すると翌年にティモシー・リチャード(李提摩太)が後任となり、1916年まで25年にわたって主宰した。主なメンバーにはジョゼフ・エドキンス(艾約瑟)、ウィリアム・アレキサンダー・パーソンズ・マーティン(丁韙良)などがいた。 広学会の主要な出版物にはアレン主編の『万国公報』(1874~1907)、『中西教会報』(1891~1917、1912年『教会公報』と改称)、『大同報』(1904~1917)などがある。中でも『万国公報』は西洋の学問を数多く紹介し、最も影響の大きかった刊行物の一つである。 他にはウィリアムソンの『格物探原』、リチャードの『七国新学備要』、ロバート・マッケンジーの『泰西新史攬要』、アレンの『中東戦記本末』などの書籍を出版している。『泰西新史攬要』はリチャードと蔡爾康が翻訳し、1895年に出版された。内容は19世紀の欧米諸国が改革を行って強大化した歴史を描いたものである。ベストセラーとなり、3万部出版された。『中東戦記本末』は1896年に出版された。内容は日清戦争の資料や評論を集めたものである。中でもアレンらの時事評論は康有為・梁啓超・譚嗣同らに大きな影響を与えた。 広学会の書籍は変法運動や光緒新政に多大な影響をもたらし、1890年から1911年までに400種類が出版され、合計で百万部を印刷した。戊戌の変法で光緒帝は西洋の学問を理解し西洋法を参考にしたが、光緒帝の閲覧した129冊の本のうち89冊が広学会の出版したものだった。 中華民国期には『共産主義の研究』『キリスト教と共産主義』などを出版し、共産主義に反対した。 広学会の出版物は美華書館と申報館が取り扱っていたが、後に申昌書画室と格致書室に代わった。北京・南京・鎮江・重慶・福州などの大都市や朝鮮など35ヶ所に取扱所があった。 日中戦争が激化した1941年に成都に拠点を移し、戦後に上海に戻った。1949年に中華人民共和国が成立すると、広学会の外国人は中国を離れた。1956年、他のキリスト教の出版機構と合併し、中国キリスト教連合書局となった。

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ナシード – Wikipedia

ナシード(アラビア語:単数形 نشيد nashīd 複数形 أناشيد anāshīd 欧文表記:Nasheed マレーシアやインドネシアでは”nasyid”と呼ばれる)とは、イスラム教の声楽曲(宗教音楽、宗教歌謡)である。「ナシッド」あるいは「ナシード・ディーニー」とも呼ばれ、「ナシード」は「歌」、「ディーニー」は「神の」または「宗教的な」という意味である[1]。なお、「ナシード」という語は元々「詩の朗誦」を意味する”ansyada”という言葉から来ている[2]。 ナシードは、アラブ・イスラム世界において人気があり[3]、通常、ナシードの素材と歌詞は、アッラーの讃美をはじめとする[4]イスラムの信仰、歴史、ならびに現代の出来事に基づいている[5]。無伴奏、あるいはダフという太鼓の伴奏により歌われるチャントである。 一般的にナシードにカリンバ、弦楽器、木管楽器、金管楽器などは含まれないが、デジタルリマスタリングを行い、いずれかの打楽器を模倣する、あるいは倍音を生成することは許されている。これは、多くのイスラム法学者が、イスラム教はいくつかの基本的な打楽器を除いて楽器の使用を禁じている、と述べているためである。 イスラム教の教義に直結する歌詞の内容や、原則として楽器を用いないということから、本来、音楽を教義に反するとして排斥して来たイスラム教において、ナシードは教義に反しないものとされている[6]。 現代のナシード[編集] 20世紀の後半より、政治的な内容、人権問題、環境問題などを扱った、非伝統的な内容のナシードが作られるようになっている[7]。また、歌詞の内容が広がりを見せるのと同時に、楽器の使用を許容する動きもあり、ヴァイオリンを使用した演奏や、ナシード歌手の中で最も人気のあるサミー・ユースフのように、エレキ楽器を含む多数の楽器を用いた楽曲を発表する例もある[8]。ナシードに楽器を使用する事については、イスラム教の戒律から逸脱しているという非難がある一方で、モスクでの礼拝を司るイマームの中にも、表向きは器楽を非難するものの、プライベートな場所では楽器を使用したナシードを聴いて楽しむ者もいる[9]。 現在では、アラブ人ではないナシード創作家が数多くおり、英語やトルコ語などアラビア語とは異なる言語で歌っている。こういった、いわゆる「ナシード・バンド」にはネイティヴ・ディーン、アウトランディッシュ(英語版)などがある。他に、よく知られたアーティストとしてかつてキャット・スティーヴンスとして知られたユスフ・イスラムなどがいる。 こうしたアーティストによる、イード・アル=アドハー、イスラム志向のフェスティバル、会議、ショーにおけるパフォーマンスは、ISNAを含むイスラム教徒の大衆に支持されている。一方、他のアーティスト達や”Nasheed Bay[10]“などの組織は、楽器の使用を増やす現在の傾向とは異なる、楽器を伴わないナシードを推進している。 マレーシアにおいては、ナシードは独特の発展を遂げており、イスラム復興運動の過程で学校や大学でもナシードが歌われ、大会も開催されるようになった[11]。1990年代に入ると、マハティール首相の、マレーシアの近代化についての提言に基づき、「ナシッド・エラ・バル(新時代のナシッド)」運動が首相府により推進された[12]。「ナシッド・エラ・バル」運動をきっかけに、マレーシアではレコード会社がアッラー讃美などの伝統的な歌詞の内容を維持しつつ、ソロ、コーラスによるアカペラや、楽器を伴う形の「ポップ・ナシッド」をリリースするようになった[13]。マレーシアの「ポップ・ナシッド」の代表例としてライハンが挙げられる。 ハディースにおける禁制[編集] スンニ派のサヒーフ・アル=ブハーリーによれば、ムハンマドは、音楽は罪深いものとしている。 ムハンマドの仲間であったアブ・アミールまたはアブ・マリク・アル=アシャーリが語ったところによれば、ムハンマドは「私の信奉者の中から不法な性行為や絹の着用、飲酒、楽器の使用を合法的とみなす人々が出てくるであろう」と述べている[14]。しかし、このハディースの伝承者(イスナード)には、信頼できないとされるヒシャム・イブン・アマルが含まれている[15]。

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ジョセフ・ウィリアムズ – Wikipedia

ジョセフ・ウィリアムズ[1](Joseph Williams、1960年9月1日 – )は、アメリカ合衆国出身のミュージシャン、シンガーソングライター、鍵盤奏者。 主にロックバンド「TOTO」のメンバーとして知られる。実父は映画音楽の作曲家、ジョン・ウィリアムズ。ボーカリストの仕事以外にも、父と同じ作曲家としての一面を持つ[2]。 ロックバンド、TOTOのメンバーである。また、TOTO加入以前からシンガーとしてだけでなくロック/ポップ・ミュージック全般、映画音楽の分野で活躍する作曲家でもある。TOTO在籍期の後半では素行不良により喉を壊し、その影響でTOTOを実質解雇された(表向きはあくまで自主的な脱退)。 だが、TOTOの主要メンバーとは元々地元の仲間であり、脱退後も友好的な関係を維持している。脱退後のTOTOの作品にも楽曲提供や共作、ゲスト・ボーカルとして頻繁に参加し、ステージにもスペシャル・ゲストとして登場することも多かった。TOTO脱退の頃には不調であった喉も、「年を重ねてコンディションの保ち方も学習した」と述べており、安定している。2010年のTOTO再結成よりメインボーカリストとして復帰。 TOTO以外では映画音楽や他アーティストへの楽曲提供といった作曲家としての活動、またアーティストのバック・ボーカルやBGM用楽曲のハーモニー歌唱、映画音楽での歌唱などを主な生業としており、TOTO脱退以降2010年の復帰までは基本的にこちらの活動が本業であったが、時間が許せばソロ・アルバムをリリースしたり日本や地元のクラブでライブをするなどのソロ歌手活動もマイペースに行っている。また「ヴァーティゴ (Vertigo)」というジョセフをメインに置いたプロジェクトでもシンガーとして参加していた。なお、ヴァーティゴはジョセフ自身が企画したプロジェクトではなく、ジョセフをメインにフィーチャーした他者のプロジェクトであるため、楽曲や演奏、プロデュースはほとんどが外部から提供されたものである。シンガーとしての活動に関しては、TOTO復帰まではヴァーティゴは主にヨーロッパ圏、ソロ作品は日本でのリリースに留まっていた。 TOTO参加のきっかけは当時のシンガー、ファーギー・フレデリクセンの脱退を受け新しいシンガーを探していたジェフ・ポーカロからオーディションに誘われたことによる。ジェフは元々ジョセフのことは頭になかったが、知人であるシカゴのジェイソン・シェフに相談したところ「ジョセフはどうか」という意見をもらい、「そうか、あいつがいた」と思い立ったとしている。なお、前任のファーギーが決定した際のオーディション、ジョセフ決定時のオーディションともに、後にMR. BIGを結成するエリック・マーティンが参加し、最終選考に残っていた。 ジョセフ本人は「エリックはロックシンガーとして素晴らしいし、ロックな面で言えば僕よりも断然彼の方がっていうのは思うよ。それでも僕が採用されたのは気心知れてる幼馴染だというのもあるだろうけど、僕は作曲家としても活動しているから作曲やアレンジ面でもTOTOに貢献出来るんだ。それに僕は加入前からTOTOの音楽性に非常に近かったしリンクする点が多かった。結局僕が採用になったのはそういう点が大きいんじゃないかな」と語っている。ジェフ自身は「エリックは精神年齢がまだ幼いから(採用しなかった)」と語っていた。 また、スティーヴ・ルカサーは「(歴代シンガーが多数いる中で)TOTOのボーカリストとして本当にふさわしかったのはボビー以外ではジョセフだけだよ」と語っている。 ディスコグラフィ[編集] ソロ[編集] アルバム[編集] 『ジョセフ・ウィリアムス』 – Joseph Williams

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トーマス・ジェファーソン・ハウエル – Wikipedia

トーマス・ジェファーソン・ハウエル トーマス・ジェファーソン・ハウエル(Thomas Jefferson Howell、1842年10月8日 – 1912年12月3日)は、アメリカ合衆国のアマチュア植物学者である[1][2]。暖帯多雨林地域であるアメリカ太平洋岸北西部の植物の研究をした植物学者として、サクスドルフ(Wilhelm Nikolaus Suksdorf)やキュジック(William Conklin Cusick)とともに知られている[3]。 ミズーリ州のクーパー郡に生まれた[4]。アメリカ西部への移住を進める法律(Donation Land Claim Act)のもとで、両親と四人の兄弟と1850年に西部に移住し、1854年にオレゴン州のコロンビア川の中洲のソービ島に移った[2]。トーマスは6ヶ月学校に行っただけで後は独学で学んだ[5]。父親は医者でラテン語と科学を教えたが、家族がソービ島からクラッカマス川の河畔に農園を開く間も自宅で学んだ。何年かポートランドで食料品店を経営し、1873年からソービ島で最初の郵便局長になった。その後オーク・グローブの郵便局長も務めた。 オレゴン州に移ってすぐ、トーマスと弟のジョセフは植物学に興味を持ち、彼らが見つけた水草をハーバード大学のエイサ・グレイに送り、グレイはこれにHowellia aquatilisの名をつけて記載した。1877年から標本館を作り、2152種の標本を集めた[5]。ハウエルの標本は多くのアメリカの標本館やヨーロッパに送られた。1881年に地域の植物の一覧を発表した。1897年から1903年にかけて『北西アメリカの植物』(”A Flora of Northwest America:

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