ロイテンの戦い – Wikipedia

崩れた城壁から乗り込むプロイセン軍の兵士たち

ロイテンの戦い(ロイテンのたたかい、Schlacht von Leuthen)は、七年戦争中の会戦。フリードリヒ大王指揮のプロイセン軍がオーストリア(ハプスブルク君主国)軍を撃破した。先のロスバッハの戦いとあわせて軍事史上注目される戦い。

1757年11月5日のロスバッハの戦いにおいて西方からの脅威を減じさせたプロイセン軍は、オーストリア軍を撃破するため間髪いれずシュレージエンに移動した。そのころシュレージェンでは、ダウンの後見の下に皇弟カール公子率いるオーストリア軍が、ブレスラウの戦いに勝利してシュレージエン防衛を任されていたブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公アウグスト・ヴィルヘルム(王妃エリーザベト・クリスティーネの従兄弟)を捕虜とし、ブレスラウを制圧した。そのすぐ後にブレスラウ近郊に到着したフリードリヒ大王軍は、ベーヴェルン軍の残存部隊を収容の後、オーストリア軍に決戦を求めた。

両軍の展開[編集]

ダウンは、この戦争での彼の戦法が常にそうだったように、丘の上に陣取って相手の攻撃を待つことを主張した。しかし倍近い兵力を有しながら受け身に回ることをカール公子は拒否し、フリードリヒ大王に応じて決戦のためブレスラウ西方ロイテンに進出した。ブレスラウに向かう街道が東西に走っており、オーストリア軍はこれを分断するように南北方向に細長く布陣した。

プロイセン軍もこれに合わせるように西から戦場に進入したが、これは陽動であった。フリードリヒ大王はここで有名な斜行戦術を行使した。

プロイセン軍は、オーストリア軍の展開した歩兵の横隊に正面から攻撃すると見せかけながら、実はオーストリア軍左翼側面、すなわち南側に回り込もうとしていた。まずプロイセン騎兵隊がオーストリア軍左翼騎兵隊を後退させ、さらに後方に回り込んだ。次いで、見事に斜行を成功させた歩兵隊がオーストリア軍側面に一斉射撃を繰り返しながら前進し、さらには銃剣突撃を敢行した。ダウンは急いで自軍の戦列を回転させて南に正面を向けようとしたが、事前に訓練を受けていないオーストリア兵にそのようなことをさせるのは無理があった。今や後方となった右翼の騎兵隊を南西に動かしてプロイセン左翼側面の攻撃を図ったが、これもプロイセン左翼部隊によって阻止された。かつての戦列中央部分までがプロイセン軍に崩されるに及んで、オーストリア軍は敗走した。

オーストリア軍はブレスラウに退いた後、メーレンに退却し、プロイセン軍は北のロシア軍を気にしつつ、メーレンに進出してさらなる打撃をオーストリア軍に与えようとした。しかし、カール公子が退任して正式に指揮官となったダウンは、徹底的に決戦を忌避してフリードリヒ大王に付け入る隙を与えなかった。そのうちにロシア軍がポンメルン深く侵入してきたため、フリードリヒ大王は北転してこれの撃破に向かった。

この戦い、というよりもロスバッハの戦いから合わせた一連の機動は、後の軍人たちに高く評価されている。ナポレオンはこれを「模範的な動員と決断」と讃えた。