徳川家光 – Wikipedia

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の3代征夷大将軍(在職:1623年 – 1651年)。乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。

15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。

誕生から将軍就任まで[編集]

慶長9年(1604年)7月17日、徳川秀忠の次男として江戸城西の丸に生まれる。母は豊臣秀吉の養女(浅井長政の三女)・於江与。徳川家の世継であった父・秀忠には慶長6年(1601年)に誕生した長男・長丸がいたが、既に早世していたため世子として扱われ、祖父・家康と同じ幼名竹千代を与えられた。誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、後の春日局)が乳母となり、稲葉正勝・松平信綱・岡部永綱・水野光綱・永井直貞らの小姓が付けられる。

慶長10年(1605年)、家康は秀忠に将軍職を譲位して大御所となる。幼少時の家光は病弱で吃音があり、容姿も美麗とは言えなかったと言われる。慶長11年(1606年)に弟・国松(後の忠長)が誕生する。竹千代と国松の間には世継ぎ争いがあったとも言われ、『武野燭談』に拠れば、秀忠らは忠長を寵愛しており、竹千代廃嫡の危機を感じた福は駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父・家康が長幼の序を明確にし、竹千代の世継決定が確定したと言われる。これらは家光死後に成立した巷説であるが、同時代史料の検討から、家光の世継決定は元和年間であると考えられている。

元和2年(1616年)5月には、竹千代の守役として酒井忠利・内藤清次・青山忠俊の3人が家光付けの年寄となり、9月には60数名の少年が小姓として任命され、家光の年寄衆・家臣団となる。元和3年(1617年)には西の丸へ移り、元和4年(1618年)には朝廷の勅使を迎えており、公式の場への出席が見られる。元和2年(1616年)の家康の死去で延期されていた元服は元和6年(1620年)に済ませ、竹千代から家光に改め、従三位権大納言に任官する。「家光」の諱は金地院崇伝が選定した。崇伝の記した『本光国師日記』には、当初は「家忠」を勘案したが、平安時代の公卿の左大臣藤原家忠の諱と同じとなることから、改めて「家光」を選定したとある。「家」は明らかに家康の「家」で、以後の徳川将軍家ではこの「家」が嫡男の諱に使用する通字となった。元和8年(1622年)、鎧着初(具足始め)が行われ、具足親は加藤嘉明が務めた。

元和9年(1623年)には死去した内藤清次の後任として酒井忠世・酒井忠勝が年寄として付けられた。同年3月5日には、将軍家世子として朝廷より右近衛大将に任じられる。同年6月には父・秀忠とともに上洛し、7月27日に伏見城で将軍宣下[注 1] を受け、正二位内大臣となる。後水尾天皇や入内した妹・和子とも対面している。江戸へ戻ると、秀忠は江戸城西の丸に隠居し、家光は本丸へ移る。家光の結婚相手としては黒田長政の娘との噂もあったが、元和9年(1623年)8月には摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下り、同年12月には正式に輿入れする。

治世[編集]

秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権等の政治的実権は掌握し続け、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治のもとに置かれた。寛永3年(1626年)7月には後水尾天皇の二条城行幸のために再び上洛するが、将軍・家光に対して大御所・秀忠は伊達政宗・佐竹義宣ら多くの大名、旗本らを従えての上洛であった。家光は二条城において後水尾天皇に拝謁し、秀忠の太政大臣に対し家光は左大臣および左近衛大将に昇格した。

寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると二元政治は解消され、将軍から公方として親政を始める。また、旗本を中心とする直轄軍の再編に着手した。同年5月には外様大名を招集し、藩内の内訌などを理由に、肥後熊本藩主・加藤忠広の改易を命じている。寛永10年(1633年)福岡藩における栗山大膳事件(黒田騒動)では自ら裁定を下し黒田忠之の藩側の主張を認めている。幕政における改革では、老中・若年寄・奉行・大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。同年9月には外祖父の浅井長政に権中納言を贈官した。[1] 寛永12年(1635年)の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加える。

対外的には長崎貿易の利益独占目的と国際紛争の回避、キリシタンの排除を目的として、対外貿易の管理と統制を強化していった。親政が始まった後、長崎奉行の竹中重義に改易と切腹を命じ、新しい長崎奉行を旗本2人から任命して、同時に寛永10年(1633年)から寛永13年(1636年)にかけて、長崎奉行に東南アジア方面との貿易の管理と統制を目的とした職務規定(鎖国令)を発布した。寛永12年(1635年)の長崎奉行への職務規定(第三次鎖国令)では、日本人の東南アジア方面との往来が禁止されることになり、宣教師の密航の手段であり国際紛争の火種となっていた朱印船貿易は終焉を迎えた。同時に、朱印船の役割は外国人(オランダ人・ポルトガル人・中国人)が代行することになり、また、寛永12年(1635年)に九州各地の中国人は長崎のみに集住させられ、ポルトガル人は寛永13年(1636年)長崎の出島に隔離された。寛永14年(1637年)に起きた島原の乱を鎮圧した後、ポルトガルとの断交を決意し、寛永16年(1639年)に、オランダ商館長のフランソワ・カロンを通して、台湾経由でも中国産の生糸を確保できることを確認、そして、長崎奉行や九州地方の諸大名に対してポルトガル人の追放を命じた命令(第五次鎖国令)を発布した。寛永18年(1641年)にはオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させた(ただし、「鎖国」という概念や言葉が生まれるのは19世紀になってからである)。

これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。前述のように長崎奉行(竹中重義)に切腹を命じたのも、島原の乱の責任を問うとして大名(松倉勝家)を切腹ではなく斬首に処したのも江戸時代で唯一の処置であり、改易でも50万石以上の大名(徳川忠長・加藤忠広)を改易に処した将軍は家光が最後であった。

寛永18年(1641年)には嫡男の竹千代(後の4代将軍・家綱)が生まれた。寛永11年(1634年)に家光は30万の大軍を率いて3度目の上洛を行い、後水尾上皇による院政を認めて紫衣事件以来冷え込んでいた朝幕関係を再建することで、国内政治の安定を図った[2]

ところが幕府の基盤が安定したと思われた寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受ける。更に正保元年(1644年)には中国大陸で明が滅亡して満州族の清が進出するなど、内外の深刻な問題の前に家光は体制の立て直しを迫られた。正保元年(1644年)には全国の大名に郷帳・国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させ、農民統制では田畑永代売買禁止令を発布した[注 2]

慶安3年(1650年)には病気となり、諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月20日に江戸城内で死去する。享年48。

家光の死に際しては、堀田正盛や阿部重次、内田正信らが殉死している。遺骸は遺言により東叡山寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られた。同年5月には正一位・太政大臣が追贈され、法名は「功崇院」の案もあったが、大猷院に定められた。翌承応元年(1653年)には大猷院廟が造営される。

※日付=旧暦

後水尾天皇の中宮として同母妹の和子(東福門院)が皇室に嫁したため、和子の子で甥の高仁親王の立太子および即位を望んだが、親王はわずか3歳で夭折してしまう。そこで、姪の女一宮興子内親王が明正天皇として即位した。このことにより徳川家は天皇家の外戚となり宮中にも強い影響力を持つようになった。また、摂関家の九条道房、一条教輔に養女を嫁がせるなどして朝廷内における権力の基盤も固めた。なお二条康道、九条道房兄弟は家光の甥にあたる。

政治体制[編集]

秀忠の死後、前代からの年寄(老中)である土井利勝、酒井忠勝、酒井忠世が引き続き年寄となったが、家光はそれまで年寄一人ができたことも、年寄3人での合議がなければ将軍への披露を認めないことにした。そのため政務は渋滞を来たし、諸大名が幕府にちょっとした進物を出すこともままならなくなった。寛永16年(1634年)には制度を改め、年寄3人の担当を月番制とし、六人衆(若年寄の前身)をその補佐として置いた。当初はこの制度は円滑に動いていたが、後に年寄達が案件を翌月に先送りするようになり、さらに渋滞を招いた。

その後、六人衆から松平信綱や阿部忠秋らが老中となり、土井利勝や酒井忠勝は重要な事項のみ扱う大老となった。また、目付と大目付を設置し、年寄達を通さずに直接将軍が情報を掌握できるようにするなど、幕府の諸役職は家光の時期に定まっている。

  • 将軍になって以降も、遠乗りや諸大名の邸への御成などで外出することを好んだ。
  • 武芸を好み、たびたび御前試合(寛永御前試合や慶安御前試合など)や武芸上覧などを催している。特に剣術を好み、自身も柳生宗矩に師事し、柳生新陰流の免許を受けている。
  • 家康や秀忠同様に能を好んだが、風流踊を主体とした催しをしたり、役者ではない諸大名や家臣に演じさせたりと、やや「屈折」した愛好の仕方であった。柳生宗矩にも、秘曲として名高い難曲「関寺小町」を舞わせている。玄人の中では当時の代表的な役者である北七大夫を父同様に贔屓した[3]

二世権現[編集]

  • 春日局筆と伝わる「東照大権現祝詞」(日光山輪王寺所蔵)には、病弱で3歳時に大病した家光が家康の調薬によって快復した、以後も病に臥せるたびに家康の霊夢によって快復したとする話や、家光を粗略に扱う秀忠夫妻に激怒し、家光を駿府に引き取って家康の養子にしてから3代将軍に就けると叱責した話が記されている[4]。これらに加え、家康の命日と家光の生誕日が17日と一致していることなどが、父・秀忠よりも祖父・家康の恩を意識していたと考えられている。
  • 寛永13年(1636年)に東照宮を造営すると、日光社参を生涯のうちに10回行っている[注 3]
  • 晩年、家光はたびたび家康の姿を夢に見て、狩野探幽にその肖像を何度も描かせている。これらは「(家光)霊夢(の画)像」と総称され、現在16点程確認されている[5]
  • 身につけていた守袋に「二世ごんげん(権現)、二世将軍」や「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」等と書いた紙を入れており、これも家康とのつながりの意識の強さとその尊崇ぶりを著すものと見られている[6]

健康状態[編集]

家光は病気になると布団を5、6枚かぶり、厚着をして寝るという養生法を行なっていたため、かえって病気が悪化することもあった。医師たちが意見をすると激しく怒り、処罰する寸前に至ることもあった。山本博文は精神の重圧が招いた不安神経症ではないかと推測している[7]

慶安4年(1651年)4月19日、家光は献上品の茶碗を見ていたところ、突然震えが止まらなくなり、そのまま倒れた。そして意識が戻ることがないまま、翌4月20日にそのまま薨去した。死の直前より歩行障害も生じていたと言われることから、死因は脳卒中だったと考えられている[8]

その他[編集]

  • 『立斎旧聞記』によれば立花宗茂について家光は、「この日本の諸大名歴々たりといえども、御前にて頭巾をかぶり、殿中にて杖をつく人は宗茂の他は一人もないとのことである。今すでに、将軍の寵遇、他に超えたり」と、他者ならば不敬扱いされるような特別扱いを許していたとされている。また、家光が能、狂言、茶席など宴を催した際や、上洛、大坂行き、日光社参など、何処に行っても宗茂を相伴し、『徳川実紀』にも「当代御咄衆の第一にて御待遇並々ならず」とある。
  • 2012年、徳川記念財団所蔵が所蔵している歴代将軍の肖像画の紙形(下絵)が公開された[9]。白描淡彩本の家光像も含まれていた。
  • 2018年、家光が使ったとされる駕籠が福井県小浜市の発心寺で発見された。側近の小浜藩主(福井県)、酒井忠勝に送ったもので、明治時代の廃藩時に商人が買い付け、寺に寄贈したという[10]
  • 墨絵を嗜んでいたことで知られ、家臣に与えた絵などが10数点確認されている[11]。特に木菟や鶺鴒など、鳥を描いた作品が多い。腕前は決して上手いとは言い難いが、絵には素人ならではの素朴さや愛嬌が感じられヘタウマとも言えなくはない。昔の人も家光の絵に思うところがあったらしく、江戸絵画の基本文献の一つ『古画備考』には家光と息子家綱が取り上げられている。更に古筆了仲『扶桑画人伝』(明治22年(1889年))では、家光は狩野探幽に絵を学び探幽には及ばないが、「筆力盛ンニシテ」「奇画」と評している[12]。2019年3月、府中市美術館で開かれる展覧会では、家光が書いた兎図など3点が出品される[13]
  • 同時代では、大久保忠教は『三河物語』において、「少年時代の家光は内気であるが、家康の祖父松平清康(家光の高祖父)に通じる」との好意的評価をしているものの、それはあくまでも将軍家に忠義を誓う徳川家臣の評価であって、もし家光が他家の一門ならば、そこまで評価を受けたかは疑問である。後の小説家海音寺潮五郎は「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった」と完全に酷評している。

財政[編集]

  • 日光東照宮の大規模改築に56万8,000両と銀100貫を投じた。そして数万のお供を従えるため巨大な費用がかかる参詣を3度行っている。
  • 大軍を従えた上洛を3回おこない、京では天皇や諸公卿に献金し町衆に祝儀をばらまき江戸でもした。上洛で100万両以上、費やした。
  • 1632年に向井将監に命じて新造した、軍船形式の御座船 安宅丸に豪華な装飾を施したと言われ、その船の維持費用は巨額であったとされる。このため幕府の財政建て直しが求められていた5代将軍の徳川綱吉の在任期である天和2年(1682年)に解体された。現在東京湾に運航している「御座船 安宅丸」は同船をテーマとした遊覧船である。
  • 家光1代で500万両以上使ったが次代の家綱に600万両残し、各方面に52万両を遺産分けをした。
  • 家光が死んだ頃には、金銀の産出量が減りはじめたこともあり家康以来の蓄財を浪費し、幕府財政窮乏の端緒を作ったとも言われる。

鎖国と国際関係[編集]

  • 鎖国政策に関しては、宣教師を工作員とした欧州各国の内政干渉と植民地化を予防し、日本の独立主権を保持することが本来の目的であるという、政策面から国の将来を考えて行なったとする肯定的な評価もある。宣教師を通じた文化的侵略に対抗する意味では、それなりの効果はあったと考えられる。
  • 家光が単に外国嫌いだったとする説もあるが、前述の通り政策については重臣の意向も色濃く反映されており、家光の個人的志向に還元するには少々難がある。
  • キリシタンに対しては非常に苛烈な弾圧政策を推進した。家光自ら率先して迫害を展開し、全国規模での大虐殺が行なわれた。一例としては寛永元年4月27日に男5人女7人のキリシタンが火刑に処され、12月1日には子供を含む13人が水磔で処刑。また家臣の中川某は一旦棄教したが、信仰を再開したため鋸挽きにされた。寛永13年、城門の修理工事を視察した家光は城外にいた93人の乞食を発見し、彼らがキリシタンであることを知るとただちに捕らえ、密室に追い込んで餓死させた(なお、彼らがキリシタンである根拠は明示されておらず、単に城の近くにいた乞食を汚い生き物とみなして害虫を駆除するような感覚で虐殺したのではないかと見る向きもある)。天正遣欧少年使節の中浦ジュリアンも寛永10年、穴釣りの刑により処刑されている。

小説家八切止夫は、乳母の春日局が家光の生母ではないかという説を立てた。紅葉山文庫にあった「松のさかえ」という史料が、明治44年に国書刊行会により活字本として刊行された[14]。そのうちの「神君家康公御遺文」(慶長十九年二月二十五日付)に、「秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也、左大臣」と記されていることを根拠としている。

この説を発展させ、家康が実父ではないかという説もある。家康への尊崇ぶりと「二世権現、二世将軍」と書いた紙が家康の子であるという根拠とされることもある[注 4]。その上で、冷徹な春日局が、自分とは不仲な女の産んだ家光に過剰なまでの優しさを向けていたことにも不審の目を向ける人も多く、家光の本当の生みの母を春日局と見なすものもいる[独自研究?]

成人した3人の男子のうち、長男・家綱が次の4代将軍となり、三男・綱重は甲府藩主、四男・綱吉は館林藩主にそれぞれ封じられてこれを御両典(ごりょうてん)といった。御両典はともに25万石を領し、正三位参議で、甲府宰相・館林宰相と呼ばれて御三家に次ぐ高い家格を持ったが、藩主は江戸定府で、綱重は桜田御殿に、綱吉は神田御殿に、また綱重の子・綱豊は御浜御殿に居住した。御両典を定府としたのは、家綱に対する控えの存在としての意味合いを含むものだったと考えられるが、実際その家綱が子をなさずに死ぬと、綱重は早世していたので、5代将軍となったのは綱吉だった。そしてその綱吉も男子なく死ぬと、6代将軍となったのは綱重の子である綱豊(徳川家宣)だった。

  • 御台所:鷹司孝子(本理院) – 鷹司信房娘
  • 側室:振(自証院) – 岡吉右衛門娘
  • 側室:楽(宝樹院) – 青木利長娘
  • 側室:まさ(成瀬氏)
  • 側室:夏(順性院) – 藤枝重家娘
  • 側室:玉(桂昌院) – 本庄宗正養女, 本庄宗道娘?
  • 側室:里佐(定光院) – 青木直辰娘
  • 側室:万(永光院) – 六条有純娘
  • 側室:琴(芳心院)
  • 養女
  • 猶子

偏諱を与えた人物[編集]

(*[ ]内は初名または別名。)

※寛永15年(1638年)・家光体制成立時

関連作品[編集]

小説
漫画
テレビドラマ
映画
  • 『柳生一族の陰謀』(1978年1月21日、演:松方弘樹) – 醜い顔痣と聞き苦しい吃音に生まれたと脚色され、三男忠長との三代将軍争いでは、形勢不利な家光擁護派に策謀の要として指南役の柳生但馬が暗躍し、将軍を継承するも、首を落とされる内容となっている。
  • 大奥〜百花繚乱〜(2008年11月、演:鈴木裕樹)

注釈[編集]

  1. ^ 征夷大将軍の辞令(宣旨)「孝亮宿禰日記」
    權大納言源朝臣家光
    右中將藤原朝臣季俊傳宣權大納言藤原朝臣實條宣
    奉 勅件人宜爲征夷大將軍者
    元和九年七月廿七日
    左大史小槻宿禰孝亮奉
    (訓読文)権大納言源朝臣家光(徳川家光) 右中将藤原朝臣季俊(正親町季俊)伝へ宣(の)り、権大納言藤原朝臣実条(三条西実条)宣る、勅(みこのとり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)
    元和9年(1623年)7月27日 左大史小槻宿禰孝亮(壬生孝亮)奉(うけたまは)る
  2. ^ 家光期に発令された農民統制策であると考えられている慶安御触書も家光期の治績であるとされてきたが、現在ではこれは慶安期の幕令ではなく、元禄期に甲斐国甲府藩の農民教諭書が流布される過程で幕令であったとする伝承が付加されたものであると考えられている。
  3. ^ 家光の死後、日光に参詣した将軍は4人だけであり、2度参詣した家綱以外は1度のみである。また、家綱の最初の参詣は家光在世中である。
  4. ^ 日光山輪王寺所蔵の重要文化財にされている守袋である。しかし、「真事 家康様 三世御因縁 三世の契り」と書いた紙も入っており、家光が家康の子であると認識していた可能性は低い。

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]