アンドルス・アンシプ – Wikipedia

アンドルス・アンシプ(エストニア語: Andrus Ansipエストニア語発音: [ˈɑndrus ˈɑnʲˑsʲip]、1956年10月1日 – )は、エストニアの政治家。欧州委員会副委員長兼デジタル単一市場担当委員。エストニアの首相やエストニア改革党党首を務めた。

化学者として研鑽を積んだ後、銀行などのビジネスを手掛けた。2004年に国政に進出してまもなく経済相に抜てきされ、2005年には首相となった。2014年11月1日に欧州委員会委員に任命された。

生い立ち[編集]

タルトゥに生まれる。1979年、化学の学位を得てタルトゥ大学を卒業。同年から1983年まで、2年間の兵役をはさんで同大学に技師として勤務した。1986年から1988年まで、エストニア共産党タルトゥ地区委員会組織局長兼産業局教官[1]。銀行や投資事業に何件か関与し、タルトゥ人民銀行の役員やリヴォニア民営化IF委員長、投資ファンド・ブローカー・リミテッドのCEOなどを歴任した。ラジオ・タルトゥの代表取締役でもある。

タルトゥ市長[編集]

1998年、中道右派のエストニア改革党からタルトゥ市長選挙に立候補し、当選した。2004年までの在任中、世論調査におけるアンシプの支持率は非常に高かった。後任のタルトゥ市長には、同党のライネ・ヤネスが就いた。

改革党党首・経済相[編集]

2004年11月21日、アンシプはエストニア改革党の党首となった。これは同党の創設者で、それまで党首でもあったシーム・カラス元首相が欧州委員に選出され、ブリュッセルに移ったためである。これによって、アンシプもタリンに移った。また、同年9月には辞任したメーリス・アトネン経済通信相の後任となったが、在職期間が短かったため、アンシプの経済通信相としての実績を評価することは難しい。

首相[編集]

2005年3月24日のユハン・パルツ首相の辞任を受けて、アンシプは3月31日にアルノルド・リューテル大統領から組閣を命じられた。中央党およびエストニア人民同盟との連立合意によって、アンシプ内閣は4月12日に国会(リーギコグ)の承認を受けた。国会議員101名のうちアンシプ内閣に賛成したのは53名で、40名は反対した。アンシプと閣僚らは4月13日に就任した。

2007年3月4日の総選挙で、アンシプの改革党は27%の票を獲得し、国会における議席数を19から31に増やした。アンシプ個人は2万2500票以上を集めた。トーマス・イルヴェス大統領から組閣を命じられたアンシプは、今度は祖国共和連合と社会民主党と連立を形成した。アンシプの2期目の首相職は2007年4月5日にはじまった。しかし、2009年5月に社会民主党が連立を離脱し、改革党と祖国共和連合の少数与党政権に転落した。

ロンドンで開かれたイギリス・北欧バルトサミットにて(2011年1月20日)

2011年3月の総選挙で、改革党は33議席を獲得し、第一党を維持した。アンシプはイルヴェス大統領から再び組閣を命じられ、改革党と祖国共和連合の連立政権が続くこととなった。アンシプの3期目の首相職は2011年4月6日にはじまった。

2014年3月4日、アンシプは後継者に翌年の総選挙を率いてもらいたいとして、辞任を表明した。2013年12月4日から辞任する2014年3月26日までの期間、アンシプは欧州連合 (EU) 諸国で最も在職期間の長い首相であった[2]

欧州委員会副委員長[編集]

2014年9月10日、欧州委員会委員長に内定したジャン=クロード・ユンケルは、副委員長兼デジタル単一市場担当委員にアンシプを推薦した。その後、アンシプは欧州議会の合意を経て、欧州理事会からユンケル委員会の副委員長に任命された。

婦人科医のアヌ・アンシプ(1956年生)と結婚しており[3]、口腔医のレート(1977年生)、ジャーナリストのティーナ(1981年生)、リーサ(1997年生)の3人の娘がいる[4]

2009年11月10日、エストニアの志願制民兵組織であるカイツェリート(エストニア防衛連盟)に加入した[5]

世界の主要なクロスカントリー10大会を完走した称号を持つ強者で、2010年2月14日には札幌国際スキーマラソンの男子50キロに出場し、3時間27分44秒で完走した[6]

外部リンク[編集]