ウィリアム・フォーテスキュー (初代クラーモント伯爵) – Wikipedia

初代クラーモント伯爵

初代クラーモント伯爵ウィリアム・ヘンリー・フォーテスキュー(英語: William Fortescue, 1st Earl of Clermont KP PC (Ire)、1722年8月5日 – 1806年9月30日)はアイルランド王国出身の政治家、貴族。1745年から1770年までアイルランド庶民院議員を務めた[1]

トマス・フォーテスキュー英語版(1769年2月没)とエリザベス・ハミルトン(Elizabeth Hamilton、ジェームズ・ハミルトンの娘)の息子として、1722年8月5日に生まれた[2]

1746年にラウス県長官英語版を務め[2]、1745年から1760年までラウス選挙区英語版の、1761年から1770年までモナハン・バラ選挙区英語版の代表としてアイルランド庶民院議員を務めた[1]。1761年の選挙ではラウス選挙区でも、1768年の選挙ではダンドーク選挙区英語版でも当選したが、2回ともにモナハン・バラ選挙区の代表として議員を務めることを選択した[1]

1754年にダブリン大学よりLL.D.の名誉学位を授与され、1755年5月5日にアイルランド枢密院英語版の枢密顧問官に任命された[2]。1764年から1784年までアイルランド郵政副長官(Deputy Postmaster-General of Ireland[3])を、1775年から1806年に死去するまでモナハン県総督英語版を、1775年から1805年までモナハン首席治安判事英語版を務めた[2]

1770年5月26日にアイルランド貴族であるラウス県におけるクラーモントのクラーモント男爵に叙され、1773年11月23日にアイルランド貴族院議員に就任した[2]。それまでのアイルランドに「クラーモント」という地名が存在せず、フォーテスキューが自領だったラウス県ランダルズタウン(Randalstown)を「クラーモント・パーク」(Clermont Park)に改名したという[2]。1776年7月23日、同じくアイルランド貴族であるラウス県におけるクラーモント男爵およびクラーモント子爵に叙されたが、この爵位は初代子爵の男系男子が断絶した場合、初代子爵の弟ジェームズ・フォーテスキュー英語版に継承権を与える特別残余権(special remainder)が規定された[2]。それからわずか半年後の1777年2月10日に同じくアイルランド貴族であるラウス県におけるクラーモント伯爵に叙されたが、こちらは特別残余権が規定されていない[2]

1795年3月30日、聖パトリック勲章を授与された[2]

1806年9月30日にブライトンのオールド・スティーン英語版で死去、10月10日にノーフォークのリトル・クレッシンガム英語版で埋葬された[2]。クラーモント伯爵位とクラーモント男爵位(第1期、1770年創設)は廃絶、クラーモント子爵位は弟ジェームズの息子ウィリアム・チャールズ英語版が継承した[2]

1752年2月29日、フランシス・ケアンズ・マレー(Frances Cairnes Murray、1733年頃 – 1820年12月3日、ジョン・マレーの娘)と結婚[2]、1女をもうけた[4]

  • ルイーザ – 1778年9月21日、ハリントン氏(Harrington)と結婚
  1. ^ a b c “Biographies of Members of the Irish Parliament 1692-1800”. Ulster Historical Foundation (英語). 2020年10月21日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i j k l Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 276–277.
  3. ^ Joyce, Herbert. The History of the Post Office from its Establishment down to 1836 (英語). London: Richard Bentley & Son. p. 194.
  4. ^ “Clermont, Earl of (I, 1777 – 1806)”. Cracroft’s Peerage (英語). 21 October 2004. 2020年10月21日閲覧

外部リンク[編集]