スグンチャク – Wikipedia

スグンチャク(モンゴル語: Süγunčaq,? – ?)とは、13世紀前半にモンゴル帝国に仕えたジャライル部出身の領侯(ノヤン)。主に第2代皇帝オゴデイの治世末期から3代皇帝グユクの治世に仕え、衰退傾向にあったムカリ国王家の地位を一時的に復活させた。

『元史』などの漢文史料では速渾察(sùhúnchá)と表記される。

スグンチャクの祖父は「四駿四狗」と讃えられた建国の功臣ムカリで、父親はムカリの息子でその地位を継承したボオルであった。1230年より皇帝オゴデイ自ら軍を率いての金朝侵攻が始まると、スグンチャクも兄で当時ムカリ家の当主であったタシュとともに従軍し、鳳翔府の攻略に功績を挙げた。その後は潼関での戦いにも従軍し、金朝の平定に大きく貢献した。金朝の平定後はオゴデイの息子のクチュを総司令とする南宋侵攻にも加わり、棗陽攻めに参加した[1]

1239年(己亥)に兄のタシュが早世すると、その息子のシドルクがまた幼かったため、スグンチャクがムカリ家当主の地位に就いた[2]。スグンチャクは後の上都路の西アルチャトという地に陣営を置いて華北方面のモンゴル・漢軍を総括し[3]、中都一帯の事は必ずまずスグンチャクに報告しその可否を決めた後で皇帝に上奏するよう定められたという[4]

スグンチャクは厳格な人柄で、信賞必罰を厳しくしたため、スグンチャクの配下で軍律を破る者は少なかったとされる。ある時、スグンチャクの陣営を訪れたオゴデイの使者が帰還して軍士の綱紀が行き届いている様を報告したところ、オゴデイは「まことにムカリの家の者である」と評したという[5]。また、他国の使者がスグンチャクの下を訪れると、あまりの威厳に言葉を発することもできず、モンゴル側が慰撫することでやっと発言を始めるほどであった。スグンチャクの側近達は「[スグンチャク様は]既に諸王・百官を越える地位を得ていますのに、ことさらに威を示す必要があるでしょうか」と諫めたが、スグンチャクは「寛容な対応は各々が適宜行えば良い。天下(旧金朝領)がモンゴルに服属して間もなく、民心は未だ定まっていないのに、万一態度を緩めたことで離反を引き起こし、その時になって悔やんでも遅いのだ」と語り態度を改めなかったという[6]。このようなスグンチャクの強力な権限・強大な威厳は、「権皇帝(皇帝の代理人)」と称されたムカリの地位を復活させたものであった[7]

しかし、スグンチャクもまた兄のタシュに続いて早世してしまった。スグンチャクにはクルムシ、ナヤン、センウ、サルバンという息子がいたが、時の皇帝モンケはクルムシが「柔弱」であるとしてナヤンに跡を継がせようとしたが、ナヤンが固く固辞したため、結局はクルムシが跡を継いで国王となった[8]。スグンチャク時代の強大な権勢はクルムシ時代に再び凋落したが、スグンチャクの弟のバアトルが仕えたクビライが帝位を得たことでムカリ国王家は再び浮上し、センウは大元ウルスにおいて高い地位を得ることになった。

ジャライル部スグンチャク系国王ムカリ家[編集]

  1. ^ 『元史』巻119列伝6速渾察伝,「速渾察、性厳厲、賞罰明信、人莫敢犯。与兄塔思従太宗攻鳳翔有功。将兵抵潼関、与金人戦屡捷。既滅金、皇子闊出攻宋棗陽、入郢、速渾察皆与焉」
  2. ^ 『元史』巻119列伝6塔思伝,「子碩篤児幼、弟速渾察襲。碩篤児既長、詔別賜民三千戸為食邑、得建国王旗幟、降五品印一・七品印二、付其家臣、置官属如列侯故事。碩篤児薨、子忽都華襲。忽都華薨、子忽都帖木児襲。忽都帖木児薨、子宝哥襲。宝哥薨、子道童襲」
  3. ^ 杉山2004,137-138頁
  4. ^ 『元史』巻119列伝6速渾察伝,「歳己亥、塔思薨、速渾察襲爵、即上京之西阿児査禿置営、総中都行省蒙古・漢軍。凡他行省監鎮事、必先白之、定其可否、而後上聞」
  5. ^ 『元史』巻119列伝6速渾察伝,「帝嘗遣使至、見其威容凛然、倜儻有奇気、所部軍士紀綱整粛、還朝以告。帝曰『真木華黎家児也』」
  6. ^ 『元史』巻119列伝6速渾察伝,「他国使有至者、毎見皆倉皇失次、不能措辞、必慰撫良久、始得尽其所欲言。左右或諫曰『諸王百司既莫敢越、而復示之以威、使人怖畏、盍少加寛恕以待之』。速渾察曰『爾言誠是也、然時有不同、寛猛各有所宜施。天下初附、民心未安、万一守者自縦、事変忽起、悔之晩矣』。尋薨。延祐三年、贈宣忠同徳翊運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国、追封為東平郡王、諡忠宣」
  7. ^ 堤2000,199頁
  8. ^ 『元史』巻119列伝6速渾察伝,「[速渾察]子四人曰忽林池、襲王爵。曰乃燕。曰相威。曰撒蛮。相威自有伝」

参考文献[編集]

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 堤一昭「大元ウルス江南統治首脳の二家系」『大阪外国語大学論集』第22号、2000年
  • 藤野彪・牧野修二『元朝史論集』汲戸書院、2012年