ブラックヘレン – Wikipedia

ブラックヘレンBlack Helen, 1932年 – 1957年)は、アメリカ合衆国の競走馬、繁殖牝馬。競走馬としては1935年のコーチングクラブアメリカンオークスに優勝したほか、牡馬に混じってアメリカンダービーなどにも優勝、後の1991年にアメリカ競馬殿堂入りを果たした。また繁殖牝馬としても母ラトロワンヌの系図を広げていった。

  • 特記がない限り、競走はすべてダートコース。また、当時はグレード制未導入。

出自[編集]

20世紀初頭の有力オーナーブリーダーであったエドワード・ライリー・ブラッドリーの持つ、ケンタッキー州にあるアイドルアワーストック牧場で生産されたサラブレッドの牝馬である[1][2]。ブラックヘレンは母ラトロワンヌの第2仔で、のちに生まれるバイムレックの全姉にあたる馬であった。ブラックヘレンは体つきが小さく、最も大きくなった時期でも体重900ポンド、体高15ハンド程度であった[3]。また身体的な不具合から処分も検討されたほどであったが、いざウィリアム・ハーリー調教師に預けられて調教が行われると、その隠れていた才能を発揮するようになった[3]

2歳時(1934年)[編集]

ブラックヘレンは2歳となった1934年7月にシカゴ地域の競馬場でデビューした[4]。ブラックヘレンが最初に周囲の耳目を大きく集めたのは6月18日のワシントンパーク競馬場で行われたウェストプルマンパースという競走においてで、5ハロン戦のこの競走でブラックヘレンは4馬身差の勝利、その時の勝ちタイム0分59秒60はレコードタイムにあとコンマ20秒まで迫るタイムであった[5]。また7月3日にはアーリントンパーク競馬場で行われた5ハロン戦で6馬身差の勝利、さらに0分58秒40のトラックレコードを記録した。『New York Times』紙はこの勝利に「今季最高の2歳牝馬」とブラックヘレンを評している[6]

その後喉の病気のために一時休養に入り、10月16日のローレルパーク競馬場で行われたアンアランデールパースという競走で復帰、1番人気に支持されたブラックヘレンは半マイル過ぎから先頭に立ってそのままゴール、1馬身半差で連勝記録を5に伸ばした[4][7]

10月23日のローレルパーク競馬場で行われたエリコットパースではスタートからゴールまで先頭をひた走り、最後の直線で騎手が手綱を緩めたにもかかわらず2馬身差で勝利した。この競走でのブラックヘレンの単勝オッズは1.1倍と、このローレルパークでの秋開催での最低オッズを記録していた[4]。さらに10月30日にはピムリコ競馬場でパイクスヴィルパース(8ハロン70ヤード)に出走、今まで短距離戦ばかりであったブラックヘレンにとって初のマイル戦であったが、それでも単勝1.25倍と1番人気に支持された。そしてレースではきれいなスタートを切るとそのまま競りかけられることもなく疾走、3馬身差で勝利し、連勝を7に伸ばした[8]

しかし、ブラックヘレンはその後の2戦、ウォルデンハンデキャップとピムリコハンデキャップで1番人気ながらも敗れ、その敗戦をもってこのシーズンを終えた[9]。ブラックヘレンはこの年大きなステークス競走には出走していなかったが、1934年の『ブラッド・ホース』誌の選考では最優秀2歳牝馬部門においてメイトロンステークスなどに勝ったネリーフラッグ英語版に次ぐ第2位の馬と位置づけられていた[2]

3歳時(1935年)[編集]

1935年に迎えた3歳シーズンの始動は2月27日のハイアリアパーク競馬場で行われた一般戦で、スタートからゴールまで先を行ったまま競馬で2馬身差で勝利を収めた[10]。次走は3月9日のフロリダダービー[注 1]で、ブラックヘレンにとっては初となる牡馬相手の競走であった。この競走で先頭に立ったのはブラノンという馬で、ブラックヘレンはその後ろにつけて追走、全体のペースを上げていった。最終コーナーでブラックヘレンが先頭に立つと、今度はマンターニャという馬に競りかけられるが、最後の直線で突き放して4馬身差の勝利を手にした[11]

当初、馬主のブラッドリーはブラックヘレンをプリークネスステークスに登録して、ケンタッキーダービー優勝馬のオマハと対決させようと考えていたが、直前になって登録は取り消された[12]。その代わりに出走した5月25日のワシントンパークで行われたドレクセルパースという競走でブラックヘレンは勝利を挙げた[13][14]

その後、ブラックヘレンは6月1日のコーチングクラブアメリカンオークスに出走、13頭立てで行われたこの競走で、同厩舎のブラッドルート・バードフラワーとともに1番人気に支持された[注 2]。また、ブラックヘレンはブラッドルートらよりも10ポンド重い121ポンドが課せられていた。発走時刻から7分遅れでスタートが切られたこの競走で、スタートから飛び出したのはエイコーンステークス優勝馬のグッドギャンブルで、ブラックヘレンは同馬に外からぶつかられる形で競走が始まった。この2頭が先手を取ろうと押し上げるなか、ブラッドルートとヴィカレスの2頭が外から競りかかっていった。1マイル過ぎでヴィカレスが失速するなか、ブラッドルートが1馬身半ほど間を空けて先頭に立ち、2番手にグッドギャンブル、その後ろにブラックヘレンという展開が続いていった。そして最後の直線、ブラックヘレンは内ラチ沿いに進路を変更、どんどん差を詰めていいって、ブラッドルートの騎手が手綱を緩めた瞬間にハナ差追い越してゴールした[15][注 3]。それから2週間後の6月15日に出走したワシントンパーク競馬場のプロスペクトパースでは逆にブラッドルートが勝ち、一方でブラックヘレンは2着に敗れている[16]

6月22日にブラックヘレンは再び牡牝混合の競走であるアメリカンダービーに出走した。この競走では2歳時に猛威を振るったネリーフラッグや、その他3歳の有力牡馬らが出走していたが、ブラックヘレンはそれらを相手に最初から最後まで先頭を譲らず独走し、半馬身差で牝馬初のアメリカンダービー優勝を達成した[17]。7月13日にはアーリントンパークでのブラックストーンパースという9ハロンの競走に出走して勝利を挙げている[18]

7月21日にブラッドルートとともにアーリントンクラシックステークスに出走、ここで三冠馬となったオマハと対決になった。レースではオマハを2頭で追走していたが、疲れて失速し、オマハがトラックレコード勝利する一方で4着(ブラッドルートは3着)に敗れた[19]

この年の夏のブラックヘレンは取りこぼしが多かった。ポトマックハンデキャップではグッドギャンブル相手に7着と大敗[20]、ハバディグレイス競馬場で行われたローズランドパースでは3着に敗れている[21]。10月15日のローレルパークで行われた一般戦において久々に勝利を挙げると[22]、その後メリーランドハンデキャップでもブラッドルートを2着に破って勝利した[23]

繁殖入り後[編集]

繁殖牝馬としてのブラックヘレンはあまり優秀ではなく、産駒12頭のうち1頭もステークス競走勝ち馬を出すことができなかった[1]。ただ、牝馬の産駒にはのちに繁殖入りしてステークス勝ち馬を出す仔が出ており、また牝系子孫がその先に連なっている。以下は主な産駒[2]

ブラッドリーの没後、ブラックヘレンはオグデン・フィップスに売却されてクレイボーンファームに移動、そこで1957年に死亡した[2]

  • 1941年にハイアリアパーク競馬場に「ブラックヘレンハンデキャップ」が創設されている。同競走は2001年の競走廃止時点でG2に格付けされていた[2]
  • 1991年にアメリカ競馬名誉の殿堂博物館がその競走成績を称え、同馬の殿堂入りを発表している[1]

注釈[編集]

  1. ^ 現在のフロリダダービーとは別競走で、のちに「フラミンゴステークス」に改称された。
  2. ^ 同馬主の出走馬は「カップリング制度」によりすべて同一の馬券として扱われている。
  3. ^ この当時は勝ち馬申告制度(declare)がまだ存在していた。これは同馬主による競走馬が2頭以上同じ競走に出走した場合、馬主は競走前に勝たせたい馬がどれであるかを申告しておく必要があった。ブラッドルートの騎手が手綱を緩めたのもこれが関係していると考えられる。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j Black Helen (KY)”. National Museum of Racing and Hall of Fame. 2021年10月23日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l Avalyn Hunter. “Black Helen (horse)”. American Classic Pedigrees. 2021年10月23日閲覧。
  3. ^ a b c d e f Liz Martiniak. “La Troienne”. Thoroughbred Heritage. 2021年10月23日閲覧。
  4. ^ a b c BLACK HELEN WINS SIXTH RACE IN ROW; Bradley Filly Beats Legume by Two Lengths in Ellicott Purse at Laurel. KUMMEL, 57 TO 1, FIRST Talbott’s 4-Year-Old Defeats Blackcock by a Length in 2-Mile Steeplechase.” (英語). The New York Times (1934年10月23日). 2017年7月12日閲覧。
  5. ^ BLACK HELEN FIRST IN CHICAGO SPRINT; Bradley Filly Takes Feature at Washington Park, With Hasty Glance Second.”. The New York Times (1934年6月19日). 2017年7月12日閲覧。
  6. ^ BLACK HELEN WINS AT ARLINGTON PARK; Bradley’s Filly Clips Trace Mark for 5 Furlongs by Scoring in 0:58 2-5. BYE LO TAKES THE PLACE Victor, Which Gains Fourth in a Row, Is First Across by Six-Length Margin.”. The New York Times (1934年7月4日). 2017年7月12日閲覧。
  7. ^ BLACK HELEN WINS SPRINT AT LAUREL; Bradley’s Filly Captures Ann Arundel Purse for Fifth Triumph in a Row.”. The New York Times (1934年10月16日). 2017年7月12日閲覧。
  8. ^ BLACK HELEN WINS EASILY AT PIMLICO; Bradley Filly Gains Seventh Triumph in Row, Beating Gillie Three Lengths”. The New York Times (1934年11月1日). 2017年7月12日閲覧。
  9. ^ Jockey Gilbert Gets Home First With Go Quick in Feature Race at Pimlico; GO QUICK ANNEXES PIMLICO HANDICAP G.D. Widener’s Filly Wins by Half Length Before 8,000 in Stake at Baltimore. POLAR FLIGHT IS SECOND Defeats Advantage for Place, With Black Helen Fourth — Bushranger Takes Chase.”. The New York Times (1934年11月13日). 2017年7月12日閲覧。
  10. ^ Bradley’s Colors Borne to Decisive Victory by Black Helen at Miami Track; BLACK HELEN WINS EASILY AT HIALEAH”. The New York Times (1935年2月28日). 2017年7月12日閲覧。
  11. ^ BLACK HELEN WINS THE FLORIDA DERBY AS 15,000 LOOK ON; Bradley Filly Takes $20,350 Stake by Four Lengths as Hialeah Park Meet Ends.”. The New York Times (1935年3月10日). 2017年7月12日閲覧。
  12. ^ Black Helen and Jockey Meade Out of Rich Preakness Classic.” (英語). The New York Times (Times Machine – subscription required). 2017年7月12日閲覧。
  13. ^ Biff, 14-1 Shot, Annexes Handicap As Washington Park Season Opens; Bradley Entry Runs One, Two in the Drexel Purse.”. The New York Times (1935年5月26日). 2017年7月12日閲覧。
  14. ^ 14 Named for the Coaching Club Oaks; BRADLEY TRIO TOPS FIELD IN RICH RACE”. The New York Times (1935年6月1日). 2017年7月12日閲覧。
  15. ^ Black Helen Takes Oaks By Nose From Bloodroot; Bradley Entry Runs One, Two in Coaching Club Classic, With Good Gamble Third, Before 15,000 at Belmont Park.”. The New York Times (1935年6月2日). 2017年7月12日閲覧。
  16. ^ DNIEPER TRIUMPHS IN JUVENILE DASH”. The New York Times (1935年6月16日). 2017年7月12日閲覧。
  17. ^ BLACK HELEN FIRST IN AMERICAN DERBY; Bradley Filly Beats Count Arthur by Half Length in $25,000 Added Event.”. The New York Times (1935年6月23日). 2017年7月12日閲覧。
  18. ^ LASSIE STAKES WON BY FOREVER YOURS”. The New York Times (1935年7月14日). 2017年7月12日閲覧。
  19. ^ OMAHA, 2-5, BREAKS TRACK MARK TO WIN ARLINGTON CLASSIC.”. The New York Times (1935年7月21日). 2017年7月12日閲覧。
  20. ^ GOOD GAMBLE WINS POTOMAC HANDICAP”. The New York Times (1935年9月22日). 2017年7月12日閲覧。
  21. ^ GOLD FOAM VICTOR AT HAVRE DE GRACE; Holds on Gamely to Triumph Over Boston Brook by Nose in Roseland Purse.”. The New York Times (1935年9月27日). 2017年7月12日閲覧。
  22. ^ BLACK HELEN FIRST IN LAUREL FEATURE; Bradley Filly Leads Alberta to Wire by Margin of Length and a Quarter.”. The New York Times (1935年10月17日). 2017年7月12日閲覧。
  23. ^ Split Second Wins Selima Stakes — Bradley’s Black Helen and Bloodroot Run One, Two in the Maryland Handicap.”. The New York Times (1935年10月20日). 2017年7月12日閲覧。
  24. ^ a b c 血統情報:5代血統表|Black Helen(USA)”. JBISサーチ. 2020年10月15日閲覧。
  25. ^ a b c d Black Helenの血統表”. netkeiba.com. 2020年10月15日閲覧。

外部リンク[編集]